みなさん!知ってますCAR?

2011年4 月15日 (金曜日)

TOP NEWS

アウディe-tronという電気自動車の未来

アウディeーtron   日本の街中にもぼちぼちEV時代の到来の姿が見え始めている。タクシーのなかにもリーフがいたり、横に停まったクルマが三菱のアイ・ミーブだったり、あるいは三菱や日産のディーラーの看板に大きく電気コンセントのアイコンを掲げているところもある。
  でも、正直いえばこの2台には、21世紀の乗り物EVのワクワク感がまるでない。なぜだろう?  リーフでさえ100kmあたりで電池残量が気になる。つまりあまりの航続距離の短さもあるが、エクステリアデザインがまるで、フツーだからだと思う。アイ・ミーブは、軽自動車と共通なので、致し方ないが、リーフはせっかくのEV専用車にもかかわらず、なんだか縮こまったカタチをした電気自動車だ。≪流行はカタチから入る!≫であれば、もっと斬新性が求められる。
  その点、4月初頭に開かれたソウル・モーターショーのアウディe-tron(イートロン)は、強い感動を与えてくれた。このクルマ、一昨年のフランクフルト国際モーターショーでベールを脱いだコンセプトカーなのだが、2シーターのおしゃれなスポーツEV。4つの電気モーターを備え4輪を駆動するだけでなく、各車輪を制御することで、目の覚めるような走行性能と、比類なく俊敏性を実現したという(あくまでも広報資料だが・・)。最高出力は313PS、最大トルク450Nm。最高速度が200km/h(リミッター付き)で0→100km/hを4.8秒で駆け抜けるという。肝心の航続距離は248kmだ。これなら、東京から箱根往復ができそうだ。面白いのは、暖房がヒートポンプといってビル暖房などで使われる効率のよいシステムを組み込んでいる点。ドア、サイドウォール、ルーフなどの外装部品は強化プラスチック製だという。全長が4260ミリ、全幅1900ミリ、全高1230ミリ、ホイールベース2600ミリで、車両重量は1600kg。
  とにかく、このクルマ、ワクワク感が120%だ。欧州車にはときどき度肝を抜かれる思いをすることがあるが、e-tronもその1台だ。

カーライフ大助かり知恵袋1

矢野倖一とアロー号 もうひとつの日本車ルーツヒストリー 第2回

アロー号   村上の自宅には、日露戦争(1904~1905年)の戦利品だった一人乗りのド・ディオン・ブートン車(パナール・ルヴァッソールと並ぶフランスの最古のメーカー)があった。若き矢野は、これをまず2人乗りに改造することに村上翁から頼まれた。この仕事を通じて矢野は自動車作りに没頭していったという。このことがキッカケで、矢野は自らの手で4人乗りの自動車を設計した。九州の資産家・村上義太郎からの「日本の国情にあった自動車を作ってみないか」という勧めがあったからだ。村上邸に住み込み、自動車の研究・開発に没頭した。このクルマが「アロー号」である。矢野の苗字「矢」かにちなんでつけた車名である。アロー号を作るうえで、想像を絶する労苦を重ねるが、さまざまな人物の協力も得る。いまから見れば、矢野の仕事はまるで奇跡を見るようなものだ。
  矢野は、上京の折には、東京の赤坂・溜池にあった日本自動車に立ち寄り、九州出身の技術者の指導を仰いだ。また、地元福岡では九州帝国大学・工学部・岩岡保作教授の指導を受け、内燃機関に関する基礎理論や最新の技術を学んだ。同時に、地元福岡で当時最新の工作機械を所有する斉藤鉄工所という会社から設備と職人を借り受け、部品製作を進めている。
  ところが、車両が一応完成し、エンジンを始動してみたがどうも調子が悪い。当時第一次世界大戦のアオリで、1915年9月に福岡に収容されていたドイツ軍の捕虜の中にベンツ社のエンジニア・ハルティン・ブッシュがいることを聞きつけ、この人物に車両を見せたところ「調子が出ないのはキャブレター」と指摘され、ゼニスタイプのキャブレターの購入先まで紹介され、わざわざ矢野自身が中国・上海の販売店まで出向き、これを取り付けエンジンはようやく好調に動き始めたというエピソードもある。

カーライフ大助かり知恵袋2

コンパクトカー用のDCTがヒュンダイに

DCT   韓国最大の自動車メーカーであるヒュンダイ自動車は、安価だが粗悪というイメージが拭えず、日本では振るわないが、実は、そうした風評を克服し、いつの間にか世界で5番目の巨大メーカーの道を歩んでいる。ヒュンダイブランドのクルマは、年間約360万台が生産され、186カ国の国で活躍しているのである。世界のヒュンダイのディーラーの数は5300店を超えるとされる。
  そのヒュンダイのテクノロジーもなかなかに侮れないことがソウル・モーターショーを取材して判明した。
  なかでも一番目を引いたのは、小型コンパクトカー向けのDCT(デュアル・クラッチ・トランスミッション)だ。DCTは、VWやアウディなどドイツのメーカーが先行して採用しつつある一方、ランエボⅩやGT-Rといった超ど級のスポーツカーでしか見られないハイテクというイメージ。ところが考えてみれば、このDCTは、もともとマニュアル・トランスミッションを電子制御化し、2つのクラッチで巧妙に制御することでスポーティさと燃費効率、それに高効率にしたいわば既存のメカニズムの進化バージョン。本来は、日本のモノづくりの世界でいち早く取り入れてもおかしくないメカだったが、お隣の韓国のメーカーで、普通のクルマに採用する予定だという。

愛車メンテのプラスアルファ情報

つぶれたネジ、錆びたネジを掴んで回すプライヤー

ネジザウルスXP   大阪発の工具には、オモロイものが少なくない。
  「ネジザウルスXP」というプライヤーもそのひとつ。発売元のエンジニア(http://www.engineer.jp)には、ネジザウルスシリーズというのが、4つほどあるが、これはそのひとつ。M1.7~M6の比較的大きなネジの頭(ネジ頭部でいうと10ミリ以下)が駄目になったときに、このプライヤーがあれば回せるというわけだ。アゴ部の内側には、縦溝と横溝がしつらえてあり、これでガッチリ掴むという寸法だ。ところが、このプライヤー、ただ単にアゴ部の加工だけにとどまらない工夫がある。ナゾ、といってもいいだろう。見れば見るほど、そのナゾはわからないが、普通のプライヤーを横に置くと、「えっ!」と気付くはず。
  通常のプライヤーは、右あわせ、つまり右側のグリップ部が上にくるタイプだが、これは左側が上にきている。洋服でいえば通常のプライヤーは、締めるのが目的なので、「女あわせ」なのだが、ネジザウルスXPは緩めるのが目的なので、ピンが緩め方向で伸びづらい(つまり遊びが生じにくい!)ように「男あわせ」としているわけだ。ちなみに、なぜ洋服で前合わせが2通りあるかを聞くため、銀座の老舗高級紳士服店「英国屋」に問い合わせたが、「私どもも昔から不思議には思っているのですが、分からないんです」との答えだった。

2011年4 月 1日 (金曜日)

TOP NEWS

日本に出現した最初のクルマとは?

クルマ、日本初上陸   今年は、自動車の誕生からちょうど125年にあたるそうだ。これを記念して、愛知県にあるトヨタ博物館では「自動車125年の歴史」展が開かれている(4月3日まで)。自動車の歴史は、1886年に試作車ができたベンツ・パテント・モトールヴァーゲンという3輪のガソリン自動車から始まったとされるのだが、いつ日本で自動車が走ったかは、不透明だったため、あまり正確には知られていない。
  実は、面白いことに、ベンツの発明からわずか12年後の1898年(明治31年)に、日本に始めて自動車がやってきたのだ。フランス人のセールス・エンジニアであるジャン・マリー・テブネが機械関係の事業の可能性を探りに来日したとき、1台のガソリン自動車を携えていたというのだ。自動車のような大きなものを携えてくるとは奇妙だが、なぜかクルマと一緒にやってきた。テブネは、その年の2月に築地から上野までを試運転し、当時の日本人を驚かせたという。そのときの写真がこれで、和服姿の日本人(現代人から見ると3世代前)が見える。中央でひげを蓄えた人物がテブネ。そのクルマとは、ベンツではなくフランスのパナール・ルヴァッソールで、エンジンこそベンツ製だが、FR方式で、フロントにラジエーターを持つ史上初の自動車レースで大活躍した流れを持つ車両でもあった。
  気になるのは、その後、このクルマがどうなったかだ。テブネは、日本での事業がまだ次期早々だと判断し、帰国する決意をし、ルバソールを競売にかけた。ところが、落札希望額の6000円に達しなかったので、あえなくクルマとともに帰国してしまったのだ。家賃が75銭の時代だから、6000円は、いまの貨幣価値に直すと約6億円!? スペースシャトル並み? 吹っかけすぎ!? 売れなかったはずだ。

カーライフ大助かり知恵袋1

矢野倖一とアロー号 もうひとつの日本車ルーツヒストリー 第1回

矢野倖一   日本の自動車史のなかで、「日本初の最古の国産乗用車」を作り上げたにもかかわらず、ほとんど忘れられた人物がいる。福岡の矢野倖一(やの・こういち:1892~1975年)である。矢野が作り上げた1台だけの乗用車は「アロー号」と呼ばれるのだが、そのとき矢野はわずか24歳だった。独学苦闘のすえ丸3年かけて作り上げた。当時は今のようにモノづくり工場があるわけではない。なぜ、そんな青年にクルマを作ることができたのか? そこにはさまざまな人との出会いを含め、まるで奇跡のような物語がある。
  もともと矢野は飛行機少年だった。地元福岡の新聞社主催の模型飛行機大会で最優秀賞を獲得した飛行機少年・矢野は、福岡工業学校機械科4年生だった。当時、飛行機にしか興味がなかった矢野に自動車への関心を呼び覚ませたのは、九州石油会社の社長だった村上義太郎(むらかみ・ぎたろう:1847~1922年)だった。村上は、三菱をつくった岩崎弥太郎と似た人物で、もともとは下級武士の出身。明治2年に発明された大八車に魅せられ失業中の士族の若者を集め「車力組」を結成。村上は、矢野より45歳の年上である。村上が、30歳のときに西南戦争(明治10年)が起こり、官軍に味方し博多湾から田原坂(たばるざか)への荷役を請け負った。大八車を使い物資を輸送して、官軍の勝利に大いに貢献した。莫大な恩賞と利益を得たのだ。これを元に運輸、港湾、都市事業などの幅広い事業を展開、当時「博多一代男」の異名を持つ実業家だった。この大実業家に矢野青年は見込まれたのである。矢野から見ると、今後の自動車への好奇心の大きな後ろ盾を得たということだ。もちろん、村上の胸には、来るべき自動車時代を見据えた夢があった。

カーライフ大助かり知恵袋2

プリウスはなぜブレーキパッドが減らない!?

プリウス   意外と知られていないが、プリウスのブレーキパッドは通常よりも恐ろしく減りが遅く、20~30万キロまで大丈夫とされている。なぜか? 答えは“回生ブレーキ”を採用しているから。
  プリウスの制動系は、電子制御とハイドロリックの2本立てのハイブリッド(雑種)。エネルギー効率を高めるために、回生ブレーキシステムを取り入れている。つまりブレーキをかけると、通常のクルマはブレーキパッドとローターが摩擦することで発する熱エネルギーに変換することで制動をかける。だが、プリウスの場合は、発電エネルギーに変換することで制動をかけている。つまり発電して電気にし、その電気をバッテリーに戻しているのである。通常のクルマのような、ハイドロリックで制動するシチュエーションは、時速20キロ以下のときとABSが作動するときぐらいしかない。だから、プリウスのブレーキパッドはとんでもなく長持ちするのだ。
  だが、逆に不都合もある。車検時のブレーキのエア抜きが通常の手法ではできない。通常のFF車がそうであるように、プリウスもFF車なので、リアの油圧領域の制動分担はごくごく少なく、静止状態では、フロント98対リア2とも言われる(ふつうのFFはおよそフロント7対リア3)。だからプリウスのフロントは通常にエア抜きができるが、リアはうんとブレ-キペダルを踏み込んでも油圧がごく少ないので、通常の方法ではエア抜きができないということだ。そこで、アクチュエーターに強制的に圧をかけ、エア抜きしなくてはならない。そのとき必要となるのが整備工場にあるスキャンツール(故障コード呼び出し機)の“アクティブテスト機能”というわけだ。今回はいささか難しいテーマだったが、最新知識なので、ぜひ覚えておいてほしい。

愛車メンテのプラスアルファ情報

"おかもちタイプ"のツールトレーの便利度

ツールトレー   立派なツールボックスを持っていても、あるいは見上げるほどのツールキャビネットを保有していても、実際作業をおこなうときは、そうした工具箱を現場までゴロゴロ転がすのが容易でない!そんなケースが少なくない。そこで、いきおい必要な工具をみつくろい作業着や作業ズボンのポケットに入れ、持ち運んだり、人によってはバケツやお風呂の洗面器に入れて持ち運んでいるのではなかろうか? これって、あまり美しい姿ではない。あるいは裸で持ち出すと、たまに大切な工具を紛失することにもなりかねない。
  そこで、よき“ツールトレー”を見つけてきた。325gと超軽量で、幅400ミリ、奥行き250ミリ、高さ140ミリで実に手ごろ。いわゆる≪おかもちタイプのツールトレー≫である。価格も500円と馬鹿みたいに安い。中央に黄色にカラーリングされた取っ手が付いていて、左右のへこみにたっぷり工具を入れられる。適度の深みなので、必要な工具を取り出すのに苦労することはない。取っ手の前後には、ビス、ボルトやスパークプラグといった小物を入れる部分もある。安いからといって馬鹿にできない製品だと見た。輸入元は(株)ストレート http://www.straight.co.jp/


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