鈴木修の故郷下呂温泉は、名古屋から約100キロの地。
有馬温泉や草津温泉とともに日本三大温泉の一つとして有名だ。調べてみると昭和6年、岐阜から富山を結ぶ高山本線の開通に合わせ、湯ノ島館という巨大温泉施設を2年がかりで造り上げている。筆者も一度だけ日帰り温泉で利用させてもらったことがある。いまでも、この旅館は見事なもので、総工費100億円、延べ6万人で造ったいわば巨大リゾートは中京の実業家の癒しの地として計画されたものだ。中京の軽井沢を目指したもので、人気を博したころはテニスコートも備えていたという。
この温泉施設建設プロジェクトの中心人物が、靴の有名ブランド「マドラス」などで成功した2代目岩田武七(1884~1948年)。私財を投じてのちの愛知県立旭丘高等学校の前身である名古屋市立第3高等女学校の創設に尽力した。
初代岩田武七(1847~1915年)は、明治41年に蒸気自動車を輸入し、名古屋初の乗り合いバス事業に乗り出した人物。日本初の乗合自動車を運行したとされる京都の「山羽乗合蒸気自動車」(写真)のころである。岩田武七のこのバス事業は、車両の故障が頻発し、あえなく失敗している。山羽虎夫の作った乗り合いバスもタイヤのトラブルなどで運行が上手くいかなかったようだ。こう調べてみると、見えない糸でつながっている気がしないでもない。