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2020年7 月15日 (水曜日)

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半世紀前の日本の光景に、ガツン!

半世紀前の光景  まず、この写真をじっくりご覧いただきたい。
  荷台からこぼれ落ちても不思議でないほどの荷物がてんこ盛り。涼しい顔で歩いている横の男の人の頭に、いまにも荷物が落ちてきそうな、そんな奇妙な写真だ。この写真を見て、ハハ~ン、これは東南アジアあたりの発展途上国の光景だな。そう思われたかもしれない。
  じつは、これ、れっきとした日本の原風景なのである。カメラマンの花岡弘明さんが学生時代に北海道を旅した折、ふとシャッターを押してものにした一枚だという。場所は、帯広駅の構内。時代は昭和33年、1958年ごろだという。
  品川にある「物流博物館」で見かけたものだ。博物館の担当者がこの写真の“中身”(なんの荷物なのか)を必死に探ったところ、この車両は保導車と呼ばれる荷馬車の荷台で、荷物の内容は「引っ越し荷物」だということが判明した。この写真を逐一ズームインすると、向かって右上には、行李(当時の荷物箱のことで、竹や柳の木でつくられた。これはたぶん柳行李)が見え、その下には当時の日通のアルミ製のコンテナが4個ほど見える。このコンテナ折り畳み式だったという。
  上部真ん中左には自転車の片輪が見える。その左横にはリンゴ箱を流用した荷物、左端には布団袋、さらにその下には木箱にコモ(菰)掛けした大きな荷物、そしてその下には俵状の荷物が8個ほど見える。その隣に「リズムミシン」の文字が見える。リズムミシンは中島飛行機浜松製作所が戦後、富士産業と名称を変更し、製作したミシン。1967年まで作り続け、同社はその後プリンス自動車となり、自動車部品製造に転じている。横の男は、作業員で右手に持つのは荷役のとき肩にかけるなどして活躍する前掛けだという。
  車輪に目をやると、荷馬車のタイヤである。もちろんチューブ入りタイヤ。後輪の横に、プレートが見える。“〇通(マルツウ)26”とある。このことから日本通運が管理していた荷馬車であることが判明した。当時の荷馬車には、10トンや15トンは平気で積んだというから、現代のトラックとさほど変わらない。調べると、昭和30年に日本通運は牛馬を626頭所有し、牛馬車も870台持ち、荷車は2545台もあったという。昭和41年に、トラック輸送が牛馬車輸送を上回る、そんなデータがあるので、昭和30年代は、文字通り牛馬車の力を借りたモノの輸送が、当たり前のように人々の生活を支えていたことになる。
  一枚の写真が、時空を超えて、いまの人にはとうてい理解できない、2世代前の引っ越しの光景を見せてくれたのである。写真1枚が、“すこし昔の日本の世界”をこじ開けた、ともいえる。

カーライフ大助かり知恵袋1

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第7回)

昭和8年ごろの日産の工場  1914年、第1次世界大戦がはじまるとアメリカ、ロシア、オーストリアなどから軍需品の注文が殺到し、戸畑鋳物は大いに受けに入るのである。鮎川儀介は、これを手掛かりに、さまざまな産業界に触角を伸ばしていく。鉱山業、水産業、化学工業、電波事業、保険業務、生命保険会社などなど、この中に自動車産業が入るのである。このときから日産は、複業企業、コングロマリットの様相を呈するのだ。
  昭和3年(1928年)ごろ、国内の自動車メーカーのみならずフォードとGMにも鋳物の自動車部品を供給し始めた。鮎川は、このころから、自動車産業が将来成長産業になると見通してチャンスをうかがっていた。
  自動車業界参入の機会は意外と早く来た。昭和6年6月に戸畑鋳物の定款を改定し、自動車製造を付け加え、その2か月後にはダット自動車製造の株式の大半を買収して、経営権を握った。ダット自動車は、もともと橋本増治郎(1875―1944年)が苦心の末作り上げた快進社をルーツとする日本初の自動車メーカーである。
  鮎川は、従来の日本の少量生産の自動車産業から脱皮する目標を掲げ、昭和8年2月プレスや鍛造用の機械設備や工作機械類200台ほどをアメリカから輸入し、当初ダット自動車製造から買収した大阪工場で、ダットサンとフォードとシボレーの部品生産にあてた。
  さらに、10月には横浜市神奈川区の埋め立て地に、大量生産方式の近代的な自動車工場を建設するための用地2万558坪を確保した。そして同年12月、日本産業600万円、戸畑鋳物400万円、資本金1000万円の自動車工場が完成するのである。自動車メーカー・日産の誕生である。
  昭和初期の金解禁の余波で不況下を潜り抜けた日本の経済の流れから、鮎川は自動車製造部門では年間2500万円もの赤字を5,6年は覚悟していた。ところが昭和6年の満州事変勃発頃から、徐々に好景気にシフトし、日産は予想外の順調な滑り出しをしたのである。
  日本産業は、鮎川義介が久原工業を改組して、昭和3年に資本金5000円で創立した持ち株会社。傘下には、日本鉱業、日立製作所、戸畑鋳物を擁したが、創立当初は確かに昭和恐慌の時期とぶつかり業績はいずれも振るわなかった。

カーライフ大助かり知恵袋2

トレーラーのルーツがここにあった!?

民間初のトレーラー  40フィート(約12m)の海上コンテナを運びトラクター(牽引車)の姿を幹線道路で見かけることが多くなった。つまりこれ、セミ・トレーラーである。
  運転手不足を解消し、より多くの荷物を運ぶ手段として、トレーラーの役割にはすこぶる付きといえる。生活を支えている縁の下の力持ちだ。そのトレーラーは、いつごろから日本に登場したんだろうか? その答えを求めて、品川の「物流博物館」を尋ねた。数年前「トレーラーとトラクター」という特別展示が開かれ、その時の図録を入手したのだ。わずか34ページほどの図録だが、貴重な写真が多く、目が開かれる思いがした。
  そのなかの一葉の写真を見てもらいたい。
  昭和9年、1934年の大和運輸が開発した「大和式トレーラー」という名のフル・トレーラーである。フル・トレーラーというのは荷台を持つトラックが別の荷台を運ぶスタイルのこと。
  大和運輸というのは、現在のヤマト運輸のルーツで、創業が昭和6年頃らしい。この「大和式トレーラー」は東京・横浜間を定期便輸送していたという。フル・トレーラーが民間で実用化された最初だ。
  大和運輸の創業者の小倉八三郎(のち康臣と改名)が昭和2年ドイツでトレーラーを初めて目にし、日本への導入を志したという。牽引車には「マセデスデムラー」(ダイムラー)社製の2トントラックを使い、非牽引車の方はフォードの中古車を改造したものだ。ちなみにマセデスは“メルセデス”の訛りと思われる。当時1トン車での輸送をしていたようで、このトレーラーの導入で格段に輸送量が高まったとされる。
  ちなみに肝心の連結部は、自社でデザインしたという。当時はABS装置などないので急ブレーキに備え、非牽引車にはブレーキ係りのスタッフを乗せていた。よく見ると非牽引車のフロントに人が乗るスペースがあり、テント地の日よけも見える。
  ところが、この大和式トレーラーは、2台作られたのだが、登坂力に難点があったのと、荷役作業時間が長くかかるとして運転手に敬遠されるなどして、数年で廃止されたという。トライ&エラーの時代でもあった。
  それにしてもだ。写真をよく見ると3人の男が牽引車の荷台の荷物を確認。荷物は大部分が樽。中身は醤油、日本酒はたまた味噌だったのか? 85年前の日本のロジスティックスの一風景がこの写真には滲んでいる。

愛車メンテのプラスアルファ情報

ニッパータイプの爪切りのアドバンテージ

ニッパー爪切り1

ニッパー爪切り2

  日頃よく使う、爪切り」といえば、たいていはステイプラー(というかホチキス)のようなカタチをしたシーソー型の爪切りをイメージすると思う。ところが、ネイルサロンなどでもっぱら使われるのは、「ニッパータイプ」だという。
  ニッパーと聞くと、電気工事や自動車のハーネスを細工するとき活躍するハンドツールだが、意外と爪切りとしても使われる世界があるのだ。ステイプラー型の爪切りばかりを使うのは、面白くないとふと考え、東大阪にあるフジ矢ペンチを取材した折頂戴した、ニッパータイプの爪切りを使ってみることにした。これもステイホームのおかげである。フジ矢ペンチは大正12年創業の老舗ペンチメーカーで、中学生のころから重くて動きが渋いフジ矢のペンチを使っていた経験がある。
  そこで、ニッパー型の爪切りである。
  正直言って、利き手で使うぶんにはいいが、利き手でない手で使うと難しいのでは? 下手すると指を切るのでは? と思っていたが、まったくの杞憂だった。存外スムーズにうまく切れるのである。ステイプラー型では爪の大半を覆うので様子が分かりづらいときがあるが、ニッパータイプではよく全体が見渡せるので、どのくらい残すかなどが分かりやすい。しかも爪をアール状に切ることもできるのがいい。小回りがきく感じ。言葉を変えると、ステイプラー型はかなりズボラに使えるが、ニッパータイプの爪切りは研ぎ澄まされた職人的な感覚で使える。ただ、切った爪がひょいっと遠くに飛んでしまうことがあるので、要注意だ。
  写真のニッパーは、ネットで調べたが、見当たらない。いわゆる世にいう“ノベルティグッズ”なのかもしれない。でも類似した製品は1000円ほどでカンタンに入手できる。ちなみに、写真のものは、ピボット部にFOR NAILとある。全長は110㎜の手のひらサイズ、重量は60g。コイルスプリング付きで、見方によっては愛らしい。


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