みなさん!知ってますCAR?

2021年7 月 1日 (木曜日)

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2040年までにガソリン車をなくすホンダ! 大丈夫か?

ホンダのロゴ  今年4月に発表したホンダの発表は衝撃だった。
  なにしろ『2020年以降、ホンダで販売する新車をすべてEVもしくはFCV(燃料電池車)に置き換え、ガソリン付きクルマ、HVもすべてやめる!』そのFCVも舌の根も乾かぬうちに今年8月で生産中止と、最近明らかになった、というのだから!
  ホンダの歴代の社長の9割はみな、俗にいうエンジン屋さんだ。8代目の八郷さんだけが車体設計だったかと思うが、他は深浅はあれど、エンジンの専門家だ。3代目久米さんはCVCCエンジンだし、4代目川本さんはたしかF1エンジンの開発者だ。
  とにかく、ホンダ車は、エンジンが自慢。高回転高出力型エンジンの急先鋒だった。
  そのホンダが、エンジン付きのクルマから手を引き、電気自動車、つまり電気モーターでクルマを走らせる。
  まさに、これこそ180度の宗旨替えである。「ホンダからエンジンを抜き取ったら、何が残るの?」というのは言い過ぎだが。
  そこで、ホンダに何が起きているのか? 調べると、ここ10年のあいだに、2輪車事業部は営業利益率10%台で、儲かってはいる。だが、4輪車事業は、利益率わずか1%前後の超低空飛行。6年前社長になった八郷さんは、大胆な構造改革をやりまくり、いつのまにか「リストラ社長」の異名をいただいた。
  まず軽トラック市場からの撤退があった。ミニバンのオデッセイや高級セダンのレジェントを年内でやめるに伴い、1964年から稼働をしていた埼玉の狭山工場を閉鎖。英国とトルコの工場も今年中に閉鎖、R&Dの研究所も、解体し、本社に組み込むなど不採算部門と見られた部門をどんどん切り捨てていく。デジャブ的感覚に襲われる。少し前の日産の光景を見るようだ。
  第3者だから言えるのだが、ホンダはここ10年15年、戦線を広げすぎたようだ。その代表例は、ハイテク技術を先取りとされた2足歩行ロボットのアシモではなかったか? フィットがトヨタのヤリスに敗北したことからわかる通り、ホンダのクルマづくりが、ユーザーマインドからかなりかけ離れた存在になっていたのではないか? 足元がおろそかになってはいなかったか? 魅力のあるクルマづくりの原点に立ち戻るべきではないか? 
  余計なお世話に聞こえるかもしれない。シビック、クイント、軽トラック・アクティ、CB500,TL125イーハトーブ、モンキー、TM200など数多くのホンダ車を愛用してきた、ひとりのユーザーとして、今後のホンダの行く末が気にかかるところ。

カーライフ大助かり知恵袋1

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第13回)

アメリカ時代の鮎川義介  ウイリアム・ゴーハムの次なる新天地は、当時青年実業家として飛ぶ鳥を落とす勢いの鮎川義介(1880~1967年)と知り合うことで開けることになる。
  ニューヨーク州バッファロー郊外の工場で、週5ドルの職工として働いた経験を持つ鮎川(写真)は、従業員が1000名を超す鋳鋼品や特殊鋼を手がける「戸畑鋳物」の経営者だった。すでに数年前に丸一日話し合い、肝胆相照らす仲となっていたため、ゴーハムの境遇を知った鮎川は、「戸畑鋳物」のある九州戸畑に呼び寄せ、技術者として招聘したのである。
  ここで、ゴーハムは、農業用や船舶用の石油発動機を開発したり、工場内の工作機械や治具などの改良から始まり、大阪にある木津川工場に出かけ技術指導などをおこなっている。このころの「戸畑鋳物」のドル箱は、鉄パイプの継ぎ手で「ひょうたん接手」(継ぎ手の表面が滑らかであってほしいとしてヒョウタン印とした)だった。こうした製品の品質管理などの指導を展開したのである。
  この時代ゴーハムから薫陶を受けたある技術者は、ゴーハムに「T字型の人間になれ!」とよく言われたという。T字型というのは、好奇心の翼を広げ、自分の仕事にかかわることは何でも知るようになれということで、そのなかで特に自分の専門とするところは十分深く究めよ、という意味だという。別の言い方をすれば、T字型人材というのは、ジェネラリストとスペシャリストのメリットを兼ね備えた人材で、横棒が「知識の広さ」、縦棒が「専門性の深さ」しめし、英語では「シングルメジャー」とも呼ばれる。
  特定の領域で専門性を持ちつつ、専門領域にとらわれない幅広い知見があるため、視野が広く、客観的かつ業界の慣習や常識にとらわれないアイディアを発想することができる。
  くだんの技術者は、昔を振り返り「ゴーハムさんは、いくつものT字を並べたような人物だった」と感想を述べている。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:NHK取材班編『フォードの野望を砕いた軍産体制』(角川文庫)

フォードの野望を砕いた軍産体制  よく知られているように、戦前のフォードは、大正14年(1925年)横浜の子安にノックダウン工場を作り、ここをアジアの生産&販売拠点として日本市場のみならず中国市場を視野に入れた世界戦略を展開し始めた。
  これは、関東大震災後、東京市が市電壊滅後の庶民の足としてフォードT型のシャシー800台を大量輸入したことがキッカケで、市場調査した結果日本市場の有望性を察知したという背景がある。そのごGMとクライスラーも同じように進出し、あっという間に日本にアメリカ車(とくにフォードとシボレー)が走り回った。トヨタも日産も企業としてはあったが、よちよち歩きのころだ。当時中国戦線で、侵攻を拡大する軍部にとって、フォード車の桁違いの性能の良さは脅威であり、恐れであった。
  昭和16年に太平洋戦争(日米戦争)が起き、その数年前にはアメリカ車は日本市場から完全撤退することになる。
  この本は、日米のあいだに隙間風が吹き始める昭和初年ごろから、“天下の悪法”(日米通商条約違反だけでなく、法の効力を公布の時点より9か月前倒しだったことも、悪法との一因とされた)といわれた昭和11年5月に制定・公布された『自動車製造事業法』の成立まで。いわば日本の自動車史のなかの知られざる“ブラック・ヒストリー”を克明に取材したドキュメント。放送自体は昭和61年だから、いまから35年も前だ。
  この『自動車製造事業法』という法律は、日本のメーカーの育成という名目で、アメリカ車(とくにフォード)を排除する法律。しかも、フォードは、この法律施行前に、いち早く子安のノックダウン工場とは別に鶴見川の河口に約15倍の広大な敷地を持つ本格的自動車工場をつくる計画を立てた。鋳造工場、機械加工工場、組み付け工場などを備え、鶴見川河口には1万トンクラスの貨物船を横付けできる設備を備えた壮大なものだった。
  新しい工場のデザインは、聖路加国際病院や東京女子大礼拝堂などを手がけ、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの弟子にあたるチェコ生まれのアントニン・レーモンド(1888~1976年)の起用を予定していた。
  …‥新工場を作り規定事実を積み重ねることで、計画は上手くゆくはず。そもそも、日本にこうした工場をつくることで多くの雇用を生み、先端の技術を日本に移植でき、日本とフォードがWINWINだとする思いが、当時の創業者ヘンリー・フォードはじめフォードの経営陣の頭にはあった。これを後押しする親米派の日本人グループもいた。欧米で教育を受けたゴルフの赤星四郎(1895~1971年)、三菱財閥4代目岩崎小弥太(1879~1945年)、浅野財閥御曹司・浅野良三(1889~1965年)、外交官の吉田茂(1878~1967年)などだ。
  ところが、日本の陸軍は、そうではなかった。フォードとGMに脅威を抱く一方、いち早く日本独自の自動車量産体制の確率を目指すことが、戦時体制の維持に欠かせない、そう考えたのだ。産業を保護し、優遇政策をとれば、優秀な自動車を量産できる工場は明日にでもできる、安直にも、そう考えたようだ。用地買収をめぐるすさまじい妨害、当時の憲兵隊や特高によるフォ-ドへの厳しい監視体制などサスペンスもどきの展開だ。
  ところが、日本陸軍の思惑通りに事は進まなかったことは、のちの我々はよく知るところ。戦時下での自動車工場は、後ろ鉢巻をした女子学生をかき集めての人海戦術で量産はできても、技術の向上は期待できなかった。逆に、粗製乱造で、粗悪品の山を築いた。技術の向上、高い品質の維持というのは、余裕がなければ実現できないことを、慢心していた旧日本陸軍は気づいていなかった。
  85年前の日米自動車戦争は、数年後の日本大敗北を喫する太平洋戦争の結果を予言するものだった。

愛車メンテのプラスアルファ情報

877円のベッセルの「パワーラチェットドライバー」は使えるか?

ベッセルPラチェットドライバーr  ホームセンターの工具売り場をうろついていると、商品にことさらMADE IN JAPANと明記しているモノに行き当たる。5年前、いや10年前まではそんな明記はなかった。
  食品も衣料品もそうだが、“MADE IN (発展途上国)”(台湾や中国がもはや発展途上国ではないかもしれないが)とあると、やはり躊躇したり買い控える客があるから!?
  MADE IN JAPANなら、とりあえず安心材料の一つとして顧客は見ているからだ。ありていに言えば、いまやMADE IN JAPANという文字自体が、“水戸の黄門さんの印籠”みたいなものなのかもしれない。極太文字のメッセージ!
  MADE IN JAPANなら、レイバーレイトが高いぶん、少しお高くなりますが、よろしいですね、みたいなエクスキューズがともなうこともある。
  でも、工具のドライバーに関しては、よほど付加価値(あるいはブランド力)がない限り、MADE IN JAPANであろうが低価格でないと売れない。ドライバーは数が多く出るのと競争が激しいので、1000円以下でないと売れないからだ。
  ということは逆に言えば、ユーザーサイドから見て、MADE IN JAPANのドライバーはお買い得ともいえる。
  今回取り上げる『パワーラチェットドライバーTD-81R』は、ベッセル製だ。
  ベッセルは、間違いなく老舗工具メーカーだが、KTCやKO-KENほどのブランド力は、認められてはいない。ベッセルは、なぜか、この2社のようなプレミアムブランドを出していないことが、大きいようだ。ベッセルは微妙な立ち位置なのだ。
  そこで、ホームセンターで勝負する場合は、価格を抑えざるを得ないということらしい。これ、なんと877円だ。スタビタイプで、しかもラチェット機構を組み込み、ハンドル部に装着するビット2個付きだ。ビットは、両頭タイプで、プラス1番とマイナス4㎜、それにプラス2番とマイナス6㎜(マイナスのmmは刃の長さを指す)。ギア数は、20ギアで多くはないが、本締めできる。左右に切り換えは、黒いリングを左右に動かすことで変えられる。重量100g。
  先端ビットは、1/4インチなので、手持ちのビットが使えるのも便利だ。で、結論は? 買って後悔しない商品といえる。


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