みなさん!知ってますCAR?

2021年9 月 1日 (水曜日)

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トヨタの水素エンジン自動車はもう一つの選択肢になる?!

水素カー1

水素カー2

  このチャレンジングな企画は、社長であるモリゾーさん(豊田章男)の“道楽”のような感じではじまった。「ルーキーレーシング」(ルーキーは英語のROOKYで「新人」の意味)という名称の章男氏個人のレーシングチームからの出場が、そのことを物語っている。
  「水素を燃料にしてクルマを走らせる。それも24時間耐久レースで鍛え上げる」という究極のエコカーの挑戦である。
  コンパクトカーGRヤリスの3気筒直噴1.6リッターターボエンジンを水素エンジン仕様に改造。このエンジンをエンジンルームに余裕があるカローラの車体に搭載し、レーシングカーに仕立て上げ、5月21日富士スピードウエイでおこなわれたスーパーテック24時間レースに出場したのである。
  水素を燃料にしたエンジン車といえば、テールパイプからは水蒸気しか出さない、まさに環境負荷ゼロのエコカー。EVの場合、ともすればエネルギーの電気自体を化石燃料で作り出すことがあるため、“Well to Wheel(油田からホイールを駆動するまで)”を考えるとカーボンニュートラルとは言えなくなり、“なんちゃってエコカー”のそしりを免れない。この点、化石燃料のエタノールや液化天然ガス(LNG)からのではなく、地熱や太陽光から水素を作り、これを燃料にした水素エンジン車は、正真正銘のパーフェクトエコカーだ。
  水素エンジン車といえば、1990年代のBMWハイドロジェン、2009年ごろのマツダのRX-8やプレマシーを思い浮かべるが、いずれも市販車までには届かず中折れした前歴がある。それだけにトヨタとはいえ、ついつい眉に唾を付けがち。
  今回のトヨタの水素エンジン車のレース結果そのものはともかく、“時速200キロを超える世界で24時間無事に走れ、24時間という長きにわたり走ることで次につながるデータをとること”が主目的だったという。
  注目したいのは、「インジェクターをふくむ燃料系、それにスパークプラグなどを変更するだけでエンジンの骨格であるピストンやコンロッドなどは、ガソリンエンジンを流用している」という点だ。従来のガソリンエンジン車のコストと差がない!? 水素タンクのコストがプラスされる感じ? 電子制御の燃料技術が相当に貢献しているようだ。
  ところが究極のエコカーの道筋はなめらかではないようだ。
  水素がガソリンに比べエネルギー密度が半分近いので、過給することでガソリンエンジン並みに出力とトルクを高めている。でも‥‥「水素エンジンを成立させる一番の苦労は、燃焼速度が6~7倍速いので、プレイグニッション(早期着火)を起こし異常燃焼を起こしやすい点」(開発者)という。まるでディーゼルエンジンのような圧縮着火状態に近いという。これをいかに制御するかである。
  リアシートの空間には、市販の燃料電池車「MIRAI」の水素タンクを4本(水素約7.6㎏)載せてはいるが、1周4.4㎞ほどのコ-スを12~13周すると、燃料補給のためにピットに入る。だから24時間のあいだに、なんと50回以上もピットインしたという。しかも充填時間も6分半。レーシングカーのクイックチャージなら10数秒なので、とんでもなく時間がかかる。これでは、先頭を走るのは夢のまた夢。
  それでも、レーシングスーツのモリゾーこと章男社長は「カーボンニュートラルの選択肢を増やす手段となる可能性がある。EVが主導権を握るクルマ社会になるとエンジンをめぐる職業がなくなり、約100万人の雇用が失われる。このためにも、水素エンジン車の開発は、これからも期待してもらいたい」。自動車企業の経営者の顔をのぞかせながらも、満足げだ。
  水素エンジン車が、量産車に加わるにはまだまだ多くの課題を克服する必要がある。より高圧の水素タンクを開発し車室空間の確保、水素をめぐる安全性の確保、車両のコスト低減、それに何より現在110カ所ほどしかない水素ステーションの拡充である。章男氏も認めるように、国を挙げての“水素エンジン車大応援プラン”が必須だという。

カーライフ大助かり知恵袋1

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第17回)

岸信介

  ここで少し横道にそれることにする。
  ゴーハムさんとは間接的でしか、かかわりがなかったが、日産の満州進出についてである。かつて、このサイトで「日産をつくった男 鮎川義介の謎」を連載したのを覚えておいでであろうか?
  そのなかで、満州事変から6年後の1937年(昭和12年)に、鮎川は日産つまり「日本産業」を満州にシフトするという大胆な挑戦を開始したことをお伝えした。満州国は、日本の敗戦と同時に1945年8月15日、わずか16年で地上から跡形もなく、なくなったため、いまでは遠い過去の歴史となった感がある。
  でも満州問題は、戦後長く尾を引いている。
  満州からの命からがらの引き上げ、それに残留孤児問題など、のちの日本に大きな禍根を残した。戦後の復旧・復興にそうした記憶はブレーキをかける、そんな思いがあったのか、満州国の総括は、いまだなされていない。謎の部分が多く、今に生きる日本人の大半は、忘れられた歴史の一断面として処理している。
  鮎川の日本産業が、満州重工業開発(略して「満業」)を満州で展開し始めたのは、当時の革新官僚として活躍していた岸信介(1896~1987年:写真)の強力な旗振りからである。鮎川より16歳若い満州国総務庁次長にして、のちの商工大臣であり、戦後首相にまで上り詰めた男だ。鮎川と岸信介は、実は同じ長州(山口)出身なのである。しかも遠い親戚筋にあたる。現在の長州閥の人材が政治の中枢に登ることがしばしばあるように、当時も長州人は、日本の中枢を占めるケースが少なくなかった。外務大臣で、例の国際連盟で捨て台詞を履いて退出した松岡洋祐(1880~1946年)も、実は長州人で岸の親戚筋(義理のおじさん)にあたる。
  つまり日産を作り上げた鮎川義介は、長州閥の一員として、戦前はとくに恵まれた立場で自由に動き回れる人間だったのだ。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:斉藤俊彦著『くるまたちの社会史-人力車から自動車まで』(中公新書)

くるまたちの社会史

  大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災をきっかけに、壊滅状態の市電(東京は当時東京市だった)に替わりフォードTTの家畜輸送用シャシーをつかった11人乗りの路線バス約800台が東京市民の新しい足として登場。このにわか仕立ての小型バスが日本のモータリゼーションのキッカケとされている。日本人が“自動車という乗り物を”身近にしたはじめの一歩。
  それ以降の日本の自動車をめぐるヒストリーは、このサイトでも何度もあつかっている。でも、それ以前、つまり、機械的動力による乗り物が登場する前の日本の交通事情というのは、あまり語られてはこなかった。
  この本は、総ページ280ページのうちおよそ前半分が、自動車登場以前の日本の乗り物について詳細に語る。
  著者は、昭和4年生まれの大学の先生。しかも社会学の立ち位置で、技術的好奇が向けられていない。だからか、いささか退屈な講義を思い浮かぶ筆の運びとなるが、我慢して読むと面白いところがなくもない。
  劈頭(へきとう)に提示する話題が、超ユニークだ。
  いきなり、江戸城下の侍たちの“年始回り”の実態を読者に突き付ける。ここからは著者の夢想を交えての話だが、上役が約20名いたとして、たとえば本郷から、小石川、白山、牛込、四谷、青山、麻布、白金、墨田川(大川)を越え深川、本所と足を運んだであろう。おおむね、いまの山手線の内側ではあるが30~40㎞、ときにはのべ50㎞を越える侍もいたはず。時速4㎞(1里)で日に10時間も歩く羽目になる。2日3日かかる難事業が正月早々の振る舞いとなった。日ごろエクササイズしない限り文字通り“足が棒になった侍”もいたに違いない。
  このエピソードを読んで徒歩で戦う徒士(かち)という下級武士の存在を思い出す。足軽よりは身分は上だが、武士世界のヒエラルキーの底辺。自転車もバイクも、クルマもなかった時代、ヒトはA地点からB地点に行くには、自分の足で歩く必要があった。この当たり前の大前提を著者は、まず読者の胸に刻ませる。
  だから、明治期に自転車が欧州からもたらされると、移動の選択肢が増えたおかげで、人々は少し解放感に浸ったかもしれない。そして野心あふれる日本人は、乗り合い人力車なるものを作り、事業展開しようとした。2人の車夫で4~5人の乗客を運ぶというものだ。これはリアカーでの荷台に人を乗せ運ぶのと同じで、とても長距離輸送は無理。
  そこで、今度は長距離の馬車輸送に切り替えた。これは郵便輸送を母体にしてのビジネスモデルで、たとえば横浜から小田原間、東京・八王子間、東京・高崎間、東京・宇都宮間など、数年間は続いたという。
  1人~2人乗りの腰掛式の人力車は、古い映画で出てくる、あるいは浅草や鎌倉でいまも観光用で見かける。これは、明治8年に11万台、明治29年にはピークの21万台に増加している。でも、さきの馬車による長距離輸送も、この人力車も鉄道網の発達で消し飛んでいく。
  一方明治9年ごろから、自転車の数が増え、当時の若者の心をとらえていった。丁稚、小僧といわれた店員や職人たち、それに書生(学生)たちが自転車熱に浮かされたのだ。仕事を終えたこうした青年労働者は夕食もそこそこに貸自転車屋に飛び込み、自転車のペダルを漕ぎ、移動の楽しみを味わった。ところが、当時の自転車は、ヘッドランプは付いていないし、街灯もない時代、暗闇のなかあちこちで転んだり、ぶつかったりの悲喜劇が繰り広げられた。
  17歳の薬屋の店員・熊吉は、休暇を待ちかね、秋葉原の貸自転車屋で自転車を借り、実家のある新宿にゆき、次にはるばる千住まで遠征。ここまではおよそ25㎞ぐらいか? ところが途中で、モモが腫れ上がり、ペダルをこげなくなる。当時の自転車は重量級の実用車なので、漕ぐ力も半端なかった、としても17歳の熊吉君、日ごろの運動不足が祟ったようだ。仕方がないので、人力車を雇い自転車と相乗りで秋葉原まで、返却に行った。「余計な銭を使ったうえ、次の日の仕事に差し支える」そんなトホホなエピソードを当時の新聞(明治9年)が伝えている。
  明治も40年代に入ると、欧州から自動車がもたらされる。目の玉が飛び出るほど高価なおもちゃ。皇族や富裕層が乗り回した。東京市だけで61台。外国人公司らの9台を含むので、日本人所有のクルマはわずか52台。面白いことに、そのなかに、蒸気自動車が3台、電気自動車(オーナーは東京電燈の社長佐竹作太郎)が1台あった。
  いっぽう、この新手の移動手段である自動車を使いバスに仕立て一発大儲けしようとする野心家が登場する。
  乗用車を改造し、定員7~8名のマイクロバスに仕立てるが、当時の悪路と、過重な負荷で、クルマは故障続き、しかも雇い入れた運転手は未熟なので事故も多かったという。そして修理部品は容易に手に入らず、満足に運行できず、ことごとく撤退していったという。
  いま自動車があふれる日本の道路を剥がしてみると、こうした乗り物版ジュラシックパーク状態の歴史が展開されていたのである。そこにはぼくたちのオジイチャンやヒーオジイチャンたちの生活絵巻物を見る思いだ。(1997年2月25日発売)

愛車メンテのプラスアルファ情報

スイスのPBだけど、いまのところ、これが普段使いのラチェットドライバー!

PB1

PB2

PB3

  個人的な話で恐縮だが、普段使いで、すぐ手にすることができるように、書斎の本棚の隅に2本のラチェットドライバーが置いてある。最近だと階段の手すりの取り付け、椅子の座面の張替えだとか、壁にハンガーをしつらえたりするとき活躍している。クルマやバイク以外でもっぱら使うドライバーである。
  ・・・・この2つは、これまで様々なメーカーのラチェットドライバーをテストしてきたなかで、一番と2番のお気に入りである。10数年前だったか、スナップオンのピストル型(グリップ可動式)をメインで使ってきたのだが、グランプリ出版の『作業工具のすべて』(2014年発売)を書くうえで、PBの6510R-30(写真)を手に入れた。価格はよく覚えていないが、6000円ほどだった。スナップオンの方は、スナップオン・ジャパンの前の社長ジョン・クリーチから頂いたと記憶している。いま価格を調べると1万4000円もする高価なものだ。
  PB,スナップオンともに、先端に1/4インチ(6.35㎜)のビットを取り付けることで、ドライバーとしての役目を果たすタイプ。スナップオンのほうは、グリップエンド部がねじ込み式で取り外せ、この中にビットを納める方式。PBの方は、黒のグリップ部の一部が半透明の赤色にできていて、ここを指でグイっと後方にスライドさせると、カチッとグリップエンド部が数ミリ後方に後退し、写真のようにビヨーンとビット格納部が顔を出す仕掛け。よく見ると10個のビット格納部には、プラスビット2個、ヘキサゴン3,4,5,6㎜と4個、いじり止めのトルクスビットT25,T27,T30の3個、それに差し込み角1/4インチのビット。これは1/4のソケットをつなげ、ラチェット式のソケットドライバーとして活躍できる仕組みだ。
  スナップオンに比べかなり小振りで軽い(PB208g:スナップオン289g)ので、いつの間にかPBばかり使うようになった。スナップオンは、グリップが稼働するので、いっけん斬新で使いやすいと思われるかもしれないが。ドライバーのグリップをピストル形状にする必要はあまり見当たらない。スナップオンは可動部が多いせいか、やや軸がずれた感じのフニャフニャ感がある。
  やはり、ドライバーに限らず道具というものは、剛性感を高め、使い勝手の良いデザインが好ましい。この点PBは、よくできている。価格もPBは手に入れやすい6000円台。8年近く使ってきたが、リーズナブルなドライバーだと思う。全長はPB170㎜、スナップオン210㎜だ。奥まったところのボルトなどアクセスしづらいときは、ベッセルのエクステンション(価格500円)を継ぎ足して使っている。


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