みなさん!知ってますCAR?

2017年10 月15日 (日曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第25回

ファンベルト  昭和40年に花開いた市場がある。
  業界用語でいうところのアルファベット3文字“TBA”である。タイヤ、バッテリー、アクセサリーの頭文字をとったものだ。この3つの部品・用品が飛ぶように売れたのである。当時はいまでいう大型自動車部品商はおろか、カーショップなどはほとんど存在しなかった。ユーザーにいわゆるTBAをユーザーに販売する窓口はSS(ガソリンスタンド)だった。ここ10数年レンタカーに衣替えしたり、なかにはカラオケ・ショップに変身したりの超低空飛行のガソリンスタンドであるが、幹線道路から離れていない限り、当時はあきれるほど儲かった業種だったようだ。
  このガソリンスタンドに、タイヤ・バッテリー、それにアクセサリーの3商品を置いてもらい、売り上げを伸ばしたのである。「アクセサリーの世界では、現在では想像もつかないもの、たとえばルームミラーにぶら下げる人形が大人気で、いまでいうフィギュアは誰のクルマにも付いていたものです。当時はマイカーというのは動く応接間的存在で、シートカバーも飛ぶように売れました。レース仕様、カラフルな色物など・・・とにかく自分のクルマを飾りたい、差別化したいというユーザーの要望を満たす商品でした」。
  そういえばそのころ土足厳禁とか、高級車でもないのに毛バタキを新車購入時に必ず付けるという、いまから思えば笑いを誘いそうな奇妙な“習慣”もあった。
  (写真はファンベルトの在庫。ファンベルトも当時から、よく売れた部品だ)

2017年10 月 1日 (日曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第24回

オイルフィルター   昭和30年代の日本は誰しもがビンボーで、銀幕のなかでしか豊かな暮らしを味わえなかったのだが、長安さんのような恵まれた青年もいたのである。昭和30年代といえば、まだまだ戦前に造られたフォードとシボレーが街中を走っていた時代。当時のクルマのエアフィルターは、オイルバス方式もしくはデミスターと呼ばれるタイプ。板金製の箱のなかに切り子状の鉄製繊維があり、底にはオイルが入っていて、箱の中を通過する吸入空気中のゴミをそこでキャッチするというプリミティブなタイプだった。オイルフィルターは車種にもよるが付いてはいたのだが、日本の当時の整備士あるいはユーザーには「それがどんな役割をするものなのか、カイモク理解できず」、たいていのクルマは適当に塞いでしまっていたという。
   これは筆者の想像だが、先代の長安社長のイマジネーションはこんなふうだったのではないか・・・自動車時代が到来すれば、クルマのケアは大きな関心事になる。手間隙を惜しまない日本人は補修部品をこまめに交換するはずなので、必要交換回数の多い部品を手掛ければきっと事業は成功するはず。先代の予想はみごとに的中した。堂島での創業時にはわずか4名ほどだったスタッフが、堂島が手狭になり現在の福島区鷺洲(さぎす)に移ったときには尼崎の工場を入れ全部で50名ほどの社員を抱える企業になっていたという。鷺洲に移ったのはまさにモータリゼーションのはじまったとされる昭和40年の翌年である。勢いを増した事業は、一方では競争の激化をもたらしている。ライバル企業も増え、乱売合戦が始まったのである。その意味では昭和40年は、福島地区ばかりでなく日本の自動車補修部品業界の大きな曲がり角でもあった。

2017年9 月15日 (金曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第23回

長安さん  ここから登場願うのは、いわば「起承転結」の≪承≫の時代を生々しく語ってくれた長安敏夫さん(取材当時70歳)である。オイルフィルター、エアクリーナ-のフィルター、それに最近ではエアコンのフィルター。クルマにはこの3つのフィルターという自動車部品が活躍しているのだが、この3つを一手に引き受けているパシフィック工業(ロゴはPMC)の会長である。
  パシフィック工業は、長安さんの父親が昭和28年に始めた会社である。長安さんは学生だったので、先代が何をきっかけにフィルターにのめりこんだのかはいまとなっては明確ではないが、「おそらくは東京の芝にあった東洋エレメントの創業者木村社長などからの話からエレメントの将来性を見出したのでは・・・」と語る。
  昭和30年代初め関西学院大学在学中は英語クラブであるESSの一員で、当時の大学生としては例外的に英語には自信があった。「ロード&トラック」や「カー&ドライバー」といったアメリカのクルマ雑誌、あるいは自動車部品の英文パンフレットを父親から渡され、翻訳した。父親の覚えをよくしておけば当時父親が所有していたオースチン・ケンブリッジA20のハンドルを握らしてくれるし、ときには小遣いもくれる。そんな下心があったからだ。
  それになりより、当時憧れのアメリカの文化にじかに触れることができる喜びが何物にも替えがたかった。そうしたなかでフィルターの材料はどんなものであるのかを、ぼんやりとではあるが掴んだという。

2017年9 月 1日 (金曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第22回

昭和30年代大阪  上方の用語には、関東人にはちと分かりづらい用語が登場することがある。
  この“折れて曲がる”なる言葉も、なかなか意味深長だ。文字通り解釈すると≪使うとすぐ折れたり曲がったりするほど信頼性の低い商品≫という意味であるが、それを生産し販売する側からの思いは深い!? ≪じきにダメになるけど、顧客はまた買うしかないので、つくるそばから売れて儲かる≫という意味があったようだ。いまなら詐欺に近いビジネス感覚ではあるが、市場の要求度も低く、誤解を恐れずいえばそのレベルの自動車補修部品の世界だった。しかしその後、日本人のあくなき好奇心というスパイスが加えられ、世界に冠たる信頼耐久性の高い日本製自動車部品の誕生を見た。
  上田さんは、大同自動車興業でのモノづくりの経験を活かし、昭和36年(1961年)独立し、コイルスプリング、板バネなど自動車の発条(ハツジョウと読み、バネのこと)の卸業を展開した。スプリング類も、昔は未舗装路が多くて、過載積が少なくなかったのと材料がいまほど優秀でなかったなどで、折れたり曲がったという。そこで“増しリーフ(リーフスプリングの枚数を増やすこと)”などの裏技でも上田さんのビジネスは大きくなったという。
  物語はすべからく≪起承転結≫の流れがある。大阪福島の自動車部品街も、4つの時代に区切られる。≪起≫が戦前の自動車部品勃興期、≪承≫が終戦から日本にモータリゼーション前夜まで、≪転≫が昭和40年から始まったモータリゼーションの時代、≪結≫は日本の車社会が成熟期を迎え、福島地区には卸業者の大手10社ほどと自動車部品商20軒ほどが活躍しているよほど目を凝らしてみないと見えない・・・・現在。(写真は昭和30年代の大阪市内。3輪トラックが懐かしい)

2017年8 月15日 (火曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第21回

シャックル 本命  リーフスプリングの車体側取り付けのどちらか一方に付いていて、スイングすることで路面からの荷重をやわらげる役目をするシャックル(図)。このシャックルもキングピン同様、当時の常識としては車検2年目ごとに≪交換すべき部品≫だった。時代を反映して過載積、ひどい道路を走行するなどのいまで言う“超”が付くほどの「シビアコンディション」でクルマを使ったため、シャックルも想像以上に早くクラックが入ったり、折れたりしたという。
  当時の国産部品の開発は、外車部品の現物を東大阪などに点在する町工場(協力工場)に持ち込み、作り出すというものだった。線材などの材料自体は、素材メーカーからあらかじめ購入し、それを工場に持ち込むというのが大半のスタイルだった。
  企業による形態の差異があるものの、たとえば当時の卸し商社の大同自動車興業や新生製作所などは、商品の在庫・出荷の調整機能だけでなく、商品の企画・開発段階、実際の販売までをおこなっている。そこで、「今でこそ話せるのですが、当時のこうした部品は素材もさることながら熱処理が十分でなかったり、寸法精度にやや問題があった製品がさほど珍しくなかった記憶があります。いまではすっかり死語となってはいるのですが、われわれ楽屋落ちの言葉として“折れて曲がる”という言葉がありました」(竹内会長)

2017年8 月 1日 (火曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第20回

シャックル  自動車補修部品が右から左に羽根が生えたように売れた時代。
  「よし、じゃ、注文が多くて入手が困難な部品を、自分たちでつくって、売ろうではないか」
  少しココロザシのある商売人(ビジネスマン)なら当然思い描く青写真である。上田さんの所属する大同自動車興業では、シボレーとフォードのキングピン・セットとリーフスプリングの取り付けをになう「シャックル」(写真)と呼ばれる小部品をつくることになった。荷重がかかり破損しがちな部品だった。新生製作所の竹内会長(取材当時80歳)も時を同じくして、ほぼ同じようなビジネスを展開している。
  現代の乗用車のフロントは独立懸架式だが、昔のクルマはフロントが固定式の懸架装置(リジッドサスペンション)だったため、キングピンと呼ばれる部品が組み込まれていた。
  現在のクルマにはサスペンションの動きを理解するためのバーチャルな“仮想キングピン角度”はあるが、昔のクルマのような部品をもたない。当時のフォード、シボレーは、悪路を走ることが多かったこともあるが、とにかくキングピンの摩耗が激しかった。摩耗が激しくなると、フロントホイールにガタが生じ、ハンドルの遊びが大きくなり操舵力が重くなって直進安定性が悪くなり、しかもゴトゴトという異音が発生する。インターネットで調べてみると、いまでもVWビートルのキングピン・セットが売買されていることからわかるように、1960年代中ごろの車両の大部分はこのキングピンが付いていたと言われる。

2017年7 月15日 (土曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第19回

大阪駅  大阪の福島界隈は、ロケーションも抜群によかった。環状線の内側に位置し、しかも大阪駅から当時の国電(現JR)で1つ目。地方からやってくるいわゆるバイヤーたちにも、きわめて交通の便の都合がよかったのである。遠く北陸や中国地方、あるいは九州、四国からはるばる大阪にやってくる地方の自動車部品商は、きまってバカでかいリュックサック持参でやってきた。帰りにはそのリュックに入りきれないほどの自動車部品を詰め込み地方に戻っていった。現在のような大手の自動車部品販売網も物流ネットワークもまったくなかった時代である。
  現代のモノ余り社会からは、想像できないほどモノが不足していた時代。フォード、シボレーがメインで、しばらくすると日本車もぼちぼちつくられはじめ、おかげでトヨタのKB,KC,BMというトラック、乗用車などの部品が、あればあるだけ売れた時代だった。
  舗装率が低く、道路状況がお世辞にもよくなかった時代。しかも当時のモノづくり技術や工作精度のレベルが高くないため、純正部品ですら壊れるのが早かった。走らなければクルマはただの鉄の塊だが、稼動すればお金を稼ぐトラックなどの輸送業の主役であったクルマは、壊れては修理して走り、また壊れては修理の繰り返し。現在のようなメンテナンスフリーを名乗る部品は皆無だった。大げさに言えば、「部品は壊れて当たり前の時代」だったのだ。

2017年7 月 1日 (土曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第18回

福島駅  「大阪に着いたら大阪城こそ残っていたものの一面焼け野原。でも、福島の天神様あたりは焼け残っていました。でも、大同自動車興業に戦前からの籍があったので社員として働くことになりました」
  松田さんのケースと似ていて、当時の大同には上田さんを入れて5名ほどしか社員がいなかった。まだ戦地に足止めを喰らっている社員もいただろうし、復員の途中だったり、あるいは復員したものの田舎で養生していた社員もいた。不幸にして平和な日本を見ることなく戦死した社員もいたと思う。なにしろ終戦後、中国で命を落とした日本人は約25万人を数えたといわれるのだから。
  でも、昭和23年ごろになると、福島界隈も戦前以上の活気を取り戻したという。
  自動車部品商だけでなく、自動車ガラス専門店、ガスケット屋さん、エンジンバルブ屋さん、エンジンボーリング屋さん、マフラー専門店、ピストンリングとピストン専門店、バネ専門店、ゴムホース専門店、補機ベルト専門店、ボルトナット専門店など自動車の修理に関するありとあらゆるビジネスが展開されていたという。お客さんを紹介したり、逆にお客を紹介してもらったり、一大部品センター街が完成していたのである。わかりやすく言えば、当時としては東洋では最大級の自動車部品ショッピングモール、といっていいのではないだろうか。
  (写真は当時の国鉄・福島駅)

2017年6 月15日 (木曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第17回

上田さん  松田さんは30歳のとき、二葉工業のご主人の妹さんと夫婦になり、それから5年後の35歳のときにノレン分けをしてもらい、現在の福島3丁目に店を構えた(資材当時)。
  「独立してここで商売を始めたのは1960年ごろでした。私の店から指呼の距離に6軒の自動車部品商がありました。うちはトヨタ車が中心だったのですが、他はたとえば日産車、ホンダ車、輸入車をメインとしているという具合で、いわゆる棲み分けいうんですかね、仲良くやってましたわ。お客さんにとっても、こうした形態が都合よかったみたいですね」
  一方、松田さん同様、自動車連隊の一人だった上田さん(写真)は、終戦を武漢で迎えるが、アミーバ赤痢、発疹チフス、マラリア・・・という病気のデパートのごとく病に次々に襲われ、ほうほうのていで氷川丸に乗せられ福井県舞鶴に降り立った。ちなみに、終戦後約660万人の日本人が海外に残された状態となり、うち約66万人がこの舞鶴港に引き揚げ船で到着したという歴史がある。現在これを記念して「舞鶴引揚記念館」が建っている。
  氷川丸といえば、戦前はブラジル移民の輸送で活躍し、戦時中は日本海軍に徴用され病院船となり、戦後は引き揚げ船としてはたらき、その後は客船として使われ、晩年はごく最近まで横浜港で船上ホテルになっていた歴史的な船だ。

2017年6 月 1日 (木曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第16回

昭和30年代の浄正橋筋  敗戦という、社会のみならず個人的にも爆弾が頭上に落とされたような前代未聞の一大ショックのなかでも、人間は今日を生き明日を生きていかなくてはならない。過去の経験をできるだけ生かす職場、かつて属していた組織に戻ることは手っ取り早い選択だったであろう。
  しかし当初は仕事らしい仕事がなかったという。売るものもなかったし、クルマだって終戦からまだ間がない頃ゆえ走っていなかったのである。
  ところが、そうこうするうちによくしたもので、商売の糸口らしきものが見えた。
  松田さんを知る昔の顧客から、あるいは二葉工業が仕事を始めていることを聞きつけた人達から、部品の注文が舞い込んだのである。「フォードのアクスルが欲しいのだが・・・」「シボレーのトラックのエンジン部品がなくて困っている・・・」といった類だった。
  当時福島から南西に位置する港区の大阪湾にほど近い市岡(いちおか)界隈にはセコハン屋、つまり中古部品屋さんが50軒ほど軒を並べていた。市岡は昭和25年9月3日未明に上陸したジェーン台風(当時は占領軍が故国の慣習と同様に、台風に女性の名前をつけていた)による高潮の被害を受けたところ。松田さんは、1時間近くかけて自転車あるいはリアカーを引いて市岡でセコハンの商品を仕入れ、それを顧客に販売するという商売をしたという。
  当時トラックを使った運送業が上げ潮の時代だった。戦前からのフォード、シボレーのトラックが依然として主役であり、フォードとシボレーの部品なら、仕入れれば何でも売れたという。「数日に一度、市岡に商品を仕入れにゆき、たとえば500円で手に入れた商品を2倍の1000円ぐらいでさばきましたから、それで十分食って行けました」。松田さんは遠くを見る目でそんな風に語った。(写真は、昭和30年代の浄正橋筋で、いまのなにわ筋。このころには国産車が活躍し始めていた)

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