みなさん!知ってますCAR?

2018年8 月15日 (水曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第16回)

初代アルト  社内では「せいぜい売れても年間150台ぐらい!」そんな悲観的というか、他人事めいた声があるなか、軽自動車初の本格4輪駆動車のジムニーは、1970年4月デビューした。価格は47万8000円。ルーツであるホープスターにくらべ、20万円も低価格のプライスタグが付けられての登場だった。
  ニューモデルが、売れるか、売れないかを見通すことができる、水晶の球はどこにもありはしない。ところが、このときばかりは、鈴木修は、未来を予測できる水晶の球の持ち主だったかもしれない。大方の予想を裏切り、大ヒットとなったからだ。ラダーフレームのパートタイム4WD,前後リジッドサス、こうした硬派のメカニズムが受けたのだ。2年後の1972年5月には、月産2000台を記録したのだ。
  どの大手自動車メーカーも手掛けていなかった市場に大きな需要が眠っていたのである。新しい鉱脈を掘り起こしたようなものだ。しかも1975年パキスタンでも生産されるなど、わずか30年で世界累計販売台数200万台を達成している。ジムニーはスズキの立派なブランドの一つになったのだ。2018年、8月現在グローバルで290万台に迫る勢いなのである。あまり言われないが、ジムニーのような車は、モデルチェンジを繰り返さないので、実は儲けが少なくないのである。※スズキの4輪セールスで輝かしき歴史を持つのは、アルトである。
  「さわやかアルト47万円」で1979年衝撃のデビューを果たし、女性の社会進出を後押しした初代アルト。実は、このアルト誕生にもジムニーのデビュー物語と肩を並べるほどの、大いなる秘話がある。
  排ガス規制とオイルショックでクルマが売れず、青息吐息の時代。軽自動車の規格枠拡大、小型車との価格差が小さくなり、軽自動車の存在意義が薄れつつあった。そんな時あえて……なのである。

2018年8 月 1日 (水曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第15回)

初代ジムニー  前回お話したとおり、当時、修は正真正銘の自動車メーカーの社員なのだが、4輪駆動というクルマのことがわからなかったと、恥じることなく自伝で告白している。「クルマなら車輪が4つあるのだからみな4輪駆動だと思っていた。2輪駆動というのはオートバイのことだと…」(注:2輪駆動のオートバイもありません!)
  でも、その4輪駆動車が傾斜のきつい富士山をトコトコ登る8ミリ映像を見たことで、「4輪駆動車というのはすごいものだ!」と、まるで子供のように無邪気な気持ちで感動したというのだ。
その気持ちが即座に「ビジネスチャンスだ!」ととらえるところに、修の非凡さが光る。
  「これからはレジャーブームが来る!」そんな予感が電流のようにからだを走ったかもしれない。
  だが、当時のスズキの技術陣は何やら危うさを感じ取っていたようだ。そもそも軽自動車の本格4WDは存在しなかったのだから、理詰めでモノを考える人と修の価値観が合致するわけがない。
  修は、技術陣の反対を押し切るカタチで、このクルマの製造権を買い取り、大幅な設計変更を加え、市販することにしたのだ。もちろん、製品として煮詰める段階では、修は技術陣の考えを取り入れたに違いない。
  ドライブトレインは前後が強靭さを誇るリジッドサスペンション、16インチホイール、2速タイプのトランスファーなどJEEP同様の本格的なメカニズム構成。キャリイ用の2サイクル2気筒360㏄エンジンとトランスミッションを組み合わせた。こうして軽く、走破性の高い、スタイリングも魅力的な4輪駆動を仕立て上げた。ネーミングは「ジープのミニ」ということで『ジムニー』としたのである。かつて修は、「チョイノリ」というバイクを命名したことがある。このときは成功とは言えなかったが、『ジムニー』は、成功したから、そう感じるのかもしれないが、よくできたネーミングだ。

2018年7 月15日 (日曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第14回)

初期型のジムニー  現会長の鈴木修(現在88歳)が、常務の時代アメリカ支社から日本に戻り、東京支社駐在を命じられたちょうどそのころ、人脈を深めるべく様々な人と出会っていた。本人に言わせると「不遇な時代」だったようだ。早い話、干されていたのだ。人は不遇のときどんな時間を過ごすかで、その後の運命が違ってくる。修の場合は、とにかく異業種の人たちにどんどん会いに行ったという。そのとき、たまたま面白い人物と遭遇している。
  修より9歳年上のモノづくりの工場経営者。
  聞けばおもに遊園地向けのアミューズメント・マシンを作る下町の小さな工場で、4輪駆動の面白いクルマを作っているというのだ。それがホープ自動車の開発した「ホープスターON360」だった。社長はアイディアマンの小野定良さん(1921~2001年)。修とはすぐ気が合った。
  もともと“不整地万能自動車”として開発されたこのクルマは、スズキのキャリイが29万円だった時代、他社のエンジン(三菱製2ストローク2気筒)を載せ67万円で販売していた。価格が高いこともあり、わずか15台が市場に出回っているだけの超マイナー車両。しかもエンジン供給が途絶えていることもあり、ほとんど知られざるコンパクト4輪駆動車だった。
修は、この小野さんという男に惹かれるとともに、不整地をものともせずに走ることができる小さなクルマに魅せられた。自伝でも書いているが、恥ずかしいことに、自動車メーカーに身を置きながら、2輪駆動と4輪駆動の区別がつかなかった。だからこそなのか、富士山の八合目までグイグイ登る、この小さな車に過剰に魅せられたのかもしれない。(写真は1970年にデビューした初期型ジムニー)

2018年7 月 1日 (日曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第13回)

山羽蒸気乗合自動車  鈴木修の故郷下呂温泉は、名古屋から約100キロの地。
  有馬温泉や草津温泉とともに日本三大温泉の一つとして有名だ。調べてみると昭和6年、岐阜から富山を結ぶ高山本線の開通に合わせ、湯ノ島館という巨大温泉施設を2年がかりで造り上げている。筆者も一度だけ日帰り温泉で利用させてもらったことがある。いまでも、この旅館は見事なもので、総工費100億円、延べ6万人で造ったいわば巨大リゾートは中京の実業家の癒しの地として計画されたものだ。中京の軽井沢を目指したもので、人気を博したころはテニスコートも備えていたという。
  この温泉施設建設プロジェクトの中心人物が、靴の有名ブランド「マドラス」などで成功した2代目岩田武七(1884~1948年)。私財を投じてのちの愛知県立旭丘高等学校の前身である名古屋市立第3高等女学校の創設に尽力した。
  初代岩田武七(1847~1915年)は、明治41年に蒸気自動車を輸入し、名古屋初の乗り合いバス事業に乗り出した人物。日本初の乗合自動車を運行したとされる京都の「山羽乗合蒸気自動車」(写真)のころである。岩田武七のこのバス事業は、車両の故障が頻発し、あえなく失敗している。山羽虎夫の作った乗り合いバスもタイヤのトラブルなどで運行が上手くいかなかったようだ。こう調べてみると、見えない糸でつながっている気がしないでもない。

2018年6 月15日 (金曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第12回)

スズキ 工場  愛知県豊川市にスズキ初の自動車工場建設の一つのキッカケは、じつは2年前1959年9月の死者行方不明5000名余りを出した伊勢湾台風であった。
  筆者もこの夏休み明けに起きた、未曾有の台風被害はよく覚えている。クルマで30分の海岸寄りの地域が高波と台風で、根こそぎ被害を受け、当時普及しはじめたTVのブラウン管が無残に泥をかぶっている写真が衝撃的だった。
  この台風でスズキの工場も大打撃を受け、新工場の建設が持ち上がったのである。1961年1月に「建設準備員会」が発足した。
  この委員長に任命されたのが当時30歳の鈴木修(現会長)だった。修は、下呂温泉で有名な岐阜県下呂市に生まれ中央大学法学部卒業後、銀行勤務を経て1958年、28歳のときスズキに入社。2代目社長の鈴木俊三氏の娘婿である。1978年から社長になるが、それまでの売り上げ3000億円台だったのを30年間で3兆円企業に育て上げた男である。
  若き日の修は、悩んだすえ準備員会のメンバーを平均年齢27歳の係長以下9名に決め、急ピッチで生産設備と建設工事を同時並行で進めている。スタートから8か月後の8月工場が完成し、ボディの塗装から組み立てまで一貫連続工程で生産できる当時としては最新設備を誇る工場となった。
  ちなみに1957年、道雄は娘婿である鈴木俊三(2代目社長)に社長職を譲り、相談役に就任する。

2018年6 月 1日 (金曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第11回)

スズライトTL  試作車は、途中マフラーに堆積物がつまりパワー不足に陥るも、いまでは保安基準上ありえないが、マフラーを取り外すことでなんとか東京にたどり着いた。そこで梁瀬自動車(現・ヤナセ)の柳瀬次郎社長に試乗してもらい太鼓判を押された。
  これで自信を持った経営陣は、量産の決意を固め、1955年10月、「スズライトSS」という名でデビューした。実は、このクルマ、日本初の軽4輪乗用車なのである。スズライトの頭2文字「スズ」は、スズキの略であり、「ライト」は軽いという意味のほかに、「光明」という意味をにじませたという。
  エンジンは2サイクル2気筒、359㏄15.1PSで価格は42万円だった。
  余談だが、三重県にある筆者の自宅近くの整体師のご主人が、このクルマを購入し、乗っていたのだが、いつしか駐車場に長く留め置かれた状態になっていたのを思い出す。後知恵から想像すると、ドライブシャフトか何かの不具合が起きて、動かなくなった可能性が高い。当時まだドライブシャフトのキモである等速ジョイントの技術が、未完成だったからだ。
  こうした課題を克服して、その後21PSのスズライトTL(写真),フロンテ、キャリイの成功に結びつく。
  「人も金もないときこそやって価値がある」そんな鈴木道雄初代社長の言葉ではじめた4輪車の開発がようやく実を結んだのである。1961年には、愛知県の豊川市にスズキ初の本格的な自動車量産工場を建設している。

2018年5 月15日 (火曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第10回)

スズキ箱根テスト  昭和30年ごろ、エンジンを前に置き、駆動輪をリアとするFR(フロントエンジン・リアドライブ)レイアウトが常識だったが、スズキはあえてFF(フロントエンジン・フロントドライブ)方式を採用した。
  VW,ロイトLP400、シトロエン2CVなどを購入し、事前に徹底的な分解・研究をおこない、シャシーにエンジンを載せただけのものだが、3ヵ月後には試作車を完成させている。≪2サイクル2気筒エンジン、排気量360㏄,FFレイアウト≫というコンセプト。ロイトLP400に強く影響を受けた試作車だった。
  軽自動車用の部品はもちろん、それを作る専用の工作機械もない時代。溶接や板金作業も人の手が頼り。トライ&エラーの連続で研究室はいつしかシリンダーブロックの山ができたといわれるほど。それにテスト基準も何もあるわけではなく、ただ走るかとまるか、折れるか壊れるかの繰り返し。失敗の山を積み重ねていったという。
  休日も返上して、こうしてまともに走る試作車2台が完成し、箱根登坂テストを兼ねて、東京まで試走する。いまでは想像できないが、当時のクルマは、全山砂利道の箱根の山坂を満足に走れるかどうかが大きな課題だった。(写真は、試作車の箱根登坂テスト。真ん中の黒いスーツ姿が鈴木道雄初代社長。「歴史写真集・スズキとともに」から)

2018年5 月 1日 (火曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第9回)

スズライト  念願の自動車の開発は、1954年(昭和29年)、つまり国産車トヨタ・クラウンが完成する前年。
  当時東京の街中で見かけるコンパクトカーは、ノックダウン後に国産化となるオースチン1200、ヒルマン1400、ルノー750あたりで、日本車と輸入車の技術的な格差は、目を覆うほどの開きがあった。
  とはいえ、この年に試作車の製作にこぎつけ、本格的バイクの販売も重なったこともあり、鈴木式織機という社名から「織機」の文字が消え、新たに「自動車工業」の文字が追加され、「鈴木自動車工業株式会社」となった。ここから、スズキは2輪と4輪の製造に邁進することになる。
  思えば、「パワーフリー号」(空冷2サイクル・排気量36㏄)をはじめスズキの戦後の復興は、2輪車への積極的なチャレンジだった。安定成長を求める大半の経営陣や銀行筋の反対を押し切り1954年、スズキは平均年齢わずか27歳のエンジニア6名で4輪車の開発に乗り出した。大いなる挑戦だった。

2018年4 月15日 (日曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第8回)

コレダ号  ダイヤモンドフリー号の販売好調に気をよくして、翌1954年には、本格的なオートバイ、つまり2輪の完成車を発売している。エンジンは、4サイクル単気筒90㏄で2PSを発生。このエンジンは、OHVではある。エンジンについては、戦前に購入し、研究した英国製オースチン・セブンの反映だとされる。
  7リッター入りのティアドロップ型の燃料タンクをはじめ、車体回りは当時としてはとても洗練されたデザインだった。自動進角装置の付いたフライホイール・マグネット点火方式を採用し、国産量販車としては初のスピードメーターを備えていた。車名の「コレダ号」(写真)は、「オートバイはこれだ!」といういささか人を食ったネーミングだった。(スズキはそののち短絡的というか、わかりやすいというか青山のホンダから見ると奇妙なネーミングの製品を世に送る傾向がある)
  とはいえ、コレダ号はそののちスズキの代表的バイクのブランドとなり、1961年には、「コレダ250TB」(価格は17万5000円)というスポーツタイプのダブルシート、バーハンドル、メッキフェンダー、後端を絞ったテーパーカットマフラーなどを採用し、人気を博している。エンジンは2サイクル2気筒で246㏄20PSだった。

2018年4 月 1日 (日曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第7回)

ダイヤモンドフリー  パワーフリー号は、競合車にくらべ安かったこともあり、翌年には月産4000台をかぞえ、織機ビジネスの不振を打ち払う以上の利益をもたらしたのである。
  実は翌年の1953年「ダイヤモンドフリー号」を市場に投入している。
  これは排気量をライバル車同様の60㏄として、要望に応えたのである。ダブル・スプロケット・ホイール式の駆動システムもウリだった。価格は3万8000円。当時、エンジン付きの自転車はトラックの代用品としてときには200kgもの荷物を載せて走ることがあり、それには排気量36㏄のままでは力不足だったのだ。
  このダイヤモンドフリー号は、毎日新聞社主催の第1回富士登山レースに優勝し、札幌~鹿児島間の約3000キロ、18日間におよぶ「日本縦断テスト」の成功で話題を集め、当初の販売台数の1.5倍の月産6000台に達したという。

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