みなさん!知ってますCAR?

2018年4 月15日 (日曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第8回)

コレダ号  ダイヤモンドフリー号の販売好調に気をよくして、翌1954年には、本格的なオートバイ、つまり2輪の完成車を発売している。エンジンは、4サイクル単気筒90㏄で2PSを発生。このエンジンは、OHVではある。エンジンについては、戦前に購入し、研究した英国製オースチン・セブンの反映だとされる。
  7リッター入りのティアドロップ型の燃料タンクをはじめ、車体回りは当時としてはとても洗練されたデザインだった。自動進角装置の付いたフライホイール・マグネット点火方式を採用し、国産量販車としては初のスピードメーターを備えていた。車名の「コレダ号」(写真)は、「オートバイはこれだ!」といういささか人を食ったネーミングだった。(スズキはそののち短絡的というか、わかりやすいというか青山のホンダから見ると奇妙なネーミングの製品を世に送る傾向がある)
  とはいえ、コレダ号はそののちスズキの代表的バイクのブランドとなり、1961年には、「コレダ250TB」(価格は17万5000円)というスポーツタイプのダブルシート、バーハンドル、メッキフェンダー、後端を絞ったテーパーカットマフラーなどを採用し、人気を博している。エンジンは2サイクル2気筒で246㏄20PSだった。

2018年4 月 1日 (日曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第7回)

ダイヤモンドフリー  パワーフリー号は、競合車にくらべ安かったこともあり、翌年には月産4000台をかぞえ、織機ビジネスの不振を打ち払う以上の利益をもたらしたのである。
  実は翌年の1953年「ダイヤモンドフリー号」を市場に投入している。
  これは排気量をライバル車同様の60㏄として、要望に応えたのである。ダブル・スプロケット・ホイール式の駆動システムもウリだった。価格は3万8000円。当時、エンジン付きの自転車はトラックの代用品としてときには200kgもの荷物を載せて走ることがあり、それには排気量36㏄のままでは力不足だったのだ。
  このダイヤモンドフリー号は、毎日新聞社主催の第1回富士登山レースに優勝し、札幌~鹿児島間の約3000キロ、18日間におよぶ「日本縦断テスト」の成功で話題を集め、当初の販売台数の1.5倍の月産6000台に達したという。

2018年3 月15日 (木曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第6回)

パワーフリー号  むしろ終戦後のほうが別の意味で大変だったようだ。企業存続の危機に見舞われることになったからだ。
  労働争議が勃発したこと、それに紡績業界が繊維価格の大暴落(1951年)で、不況となり、長年続いてきた鈴木式織機が売れなくなったのだ。時代が大きな曲がり角に来ていたのである。
  いよいよ全社あげての他業種への大転換が求められたのだ。いっきに4輪車づくりの挑戦は、無謀である。当時、ホンダ、ヤマハ、トーハツ(東京発動機)など浜松や東京周辺ではバイクメーカーが雨後の筍(たけのこ)のように、生まれていた。スズキはこの大きな流れの中で、「自転車に取り付ける補助エンジン」づくりに乗り出すのである。「エンジンがあると楽だな~っ、操作が簡単でだれもが乗れるエンジン付き自転車をつくろう」という考えである。
  こうして作り上げられたのが、1952年にデビューした「パワーフリー号」(写真)である。排気量36㏄の空冷式2ストローク単気筒エンジン。ペダルも楽に使えるフリー装置やダブル・スプロケット・ホイールなど独自の技術を盛り込んだエンジンで、価格も2万5000円と当時大卒の初任給が6500円の時代だ。

2018年3 月 1日 (木曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第5回)

オースティンセブン  ところが、1930年代に入ると「織機の時代の限界」を感じ始めていた。一時は海外へ輸出していた織機だが、織機に代わる次世代に通用する商品の開発を提案できないと企業の存立は危うい! そんな予測が道雄にはあった。すでにこのとき、次期主力商品は自動車、という考えが道雄の頭にはあったようだ。その背景には、同じ織機メーカーだった豊田式織機の動きがあったからだ。そのころ豊田佐吉の息子・豊田喜一郎が、自動車づくりを目指して動いていたのだ。
  道雄をリーダーとする鈴木式織機も1937年には25万台世に送り出した英国の大衆車である「オースチン・セブン」(写真は、トヨタ博物館所蔵)を手に入れ自動車の研究に着手している。このクルマは、20年代から30年代後半に英国で大成功を収めたサイドバルブの排気量800㏄足らずの小型車で、累計29万台生産し、その後の1500万台を生産し、アメリカにクルマ社会をもたらしたフォードのT型の先鞭をつけたクルマでもある。
  道雄たちは、このクルマをとことん研究し、自動車の試作にチャレンジしている。
  だが、同じ年日中戦争が起こり、軍需品の生産に向わざるをえなくなる。戦車砲や砲弾の製作だけでなく、軍用トラックのいすゞエンジンのクランクシャフトやピストンの仕事をすることになった。軍需工場化されると敵方のアメリカの爆撃を受ける運命だったが、浜松市内から少し離れたところに工場があったため、戦災の被害はほとんどなかったようだ。
  なお、道雄も、徴兵検査で身長が規定に満たなかったこともあり、戦争に駆り出されずに済み、戦後を生き抜くことになった。

2018年2 月15日 (木曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第4回)

ヒバコ上下  その工場で、道雄は、3~4日がかりで、木鉄混製(もくてつこんせい)の足踏み織機を完成させた。足踏み織機の第1号機は、母マチに贈ったといわれる。これが従来の織機に比べ10倍効率がよいとして村の評判をとることにつながり、翌年には鈴木式織機製作所の看板を掲げ、本格的な織機製作に乗り出す。
  それまでの織機は横糸の交換に手間がかかっていた。道雄はそれを自動でできないか? これができれば、格子柄を自在に織ることができるのだが…‥。4年後の1912年(大正元年)その後の織機産業に革命的な出来事となるメカニズムを具現化させる。
  それが、≪杼箱上下器(ひばこじょうげき)≫と呼ばれる機構を付け加えたものだった。
  「お客様の声に耳を傾け、実用的で本当に価値のある製品を創る」この現在のスズキに受け継がれているスピリッツをどんどん具現化していったのである。道雄は生涯こうして100以上の実用新案を取得、大正・昭和の激動の時代をモノづくりにささげたのである。
  スズキの礎(いしずえ)はこうして築かれたのである。

2018年2 月 1日 (木曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第3回)

1909年 鈴木式織機製作所  そこで、浜松市菅原町の今村幸太郎に7年間の契約で弟子入りする。父母の元を離れ、わずか14歳で実社会に船出したわけだ。
  親方の今村氏は、腕のいい職人。それだけに仕事にかけては厳しい親方でもあった。もともと勘のいい少年だった道雄は、一人前の技術を習得し、親方の片腕として活躍するのにさほど時間はかからなかったようだ。
  ところが、道雄17歳のときに彼の運命を大きく変える事件が起きた。日露戦争が勃発(1904年)したからだ。戦争が起きた余波で、建築の仕事がほとんどなくなったのだ。戦時下体制の空気のなかで新たに建築物をつくることを手控えるようになった。
  そこで、親方の今村は、当時モノづくりの世界では、一段下と見られていた足踏み式の織機の製作に転向する。道雄も当初の夢であった建築の仕事を途切れさせ、親方の仕事を手伝うことになる。
  1908年(明治41年)、徒弟契約の満了とともに親方の元を辞した道雄は、独立し織機の生産事業を起こす。日露戦争後、日本各地で足踏み式の織機が求められる機運があったからだ。叔父の世話で借り受けたのは、浜名郡天神町に蚕小屋を移築して改装したのが道雄の最初の工場だった。学歴は小学校の補習科どまり、文字通り徒手空拳の船出であった。

2018年1 月15日 (月曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第2回)

鈴木道夫  スズキの長い歴史は、1887年(明治20年)2月18日、浜名郡芳川村字鼠野にある貧しい農家(父親が治平、母親がマチ)に次男坊の男の子が生を受けたことから始まった。
  農家32戸の定型的な農村である。鈴木道雄(1887年~1982年)と名付けられた赤ん坊は、学問の神様とされ庶民からも親しまれた平安時代の「菅原道真(すがわら・みちざね:845~903年)」の名にあやかったとされる。
  この地域は昔から綿織物が盛んで、初秋のころには畑一面に綿の実が白一色になり、まるで雪が降り積もったようであったという。7~8歳になったころから両親の手伝いで綿摘みを手伝っていた道雄は、近くで機織りの音を聞きながら子供時代を送ったという。
  次男であった道雄は、14歳のとき当時の習わしとして家を出て働くことになる。父親の勧めで教師の道もなくはなかったようだが、元来創意工夫が得意だった道雄は、モノを創る道を選ぶことになる。大工の道を志し、将来はひとかどの請負師になる決意をした。請負師というのは建築を請け負う大工の棟梁のことである。

2018年1 月 1日 (月曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第1回)

スズキ博物館s  ワゴンR、アルト、ハスラー、ラパン、スペーシア、エブリワゴンにジムニーと多彩な軽自動車のほかに、スイフト、ソリオ、イグニスなど、このところ小型自動車の開発も盛んなスズキ。今回のスペーシアでもそうだが、いまや総力を傾けクルマづくりに励んでいる感じだ。
  スズキのモノづくりの歴史は創業1909年。ということは、再来年でちょうど110年を迎える。
  といってもいきなり自動車ではなく、織機メーカーとして誕生し、戦後は2輪車メーカーとなり、4輪車生産に乗り出す・・・ホップ・ステップ・ジャンプと3段飛びで、順調にモノづくりメーカーとして成長したかというと、むしろ真逆だ。
  波乱万丈の連続であった。ときには廃業寸前までに追い込まれたこともあるという。
  だが、その都度お客の立場にたった≪モノづくり≫に立ち返り、困難を乗り越えてきた。
  遠州・浜松というバックグラウンドはもともとモノづくりが盛んな土地。その背景を含めスズキの製品の秘密がひと目で理解できる博物館(写真)が浜松の本社近くに10年ほど前、できている。
  この博物館を軸に、今回からスズキのヒストリーをたどってみることにする。

2017年12 月15日 (金曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第29回(最終回)

大阪福島  オフィスビルが立ち並ぶ福島駅周辺から一歩足を踏み入れると・・・ペンキが剥げ落ちてはいるが「電装品専門店○○商事」、あるいは「ベアリングの◇◇商会」という文字が読み取れる。
  シンガポール、フランスなど海外にも店舗をかまえ、国内では600以上の店舗展開をするエンドユーザー向けオートバックスセブンは、いまでこそ本社を東京としているがそのルーツは福島にある。昭和21年に故住野敏郎氏が自動車部品の卸売りを目的に個人経営の「末廣商会」を創業、その後「富士商会」「大豊産業」をへて現社名になったのである。
  過日、オンボロのマイカーのボディについた小傷を自分で修復しようと近くにあるオートバックスに足を踏み入れた。例によって社員教育の行き届いたスタッフから、カラーナンバーの見方など初歩的知識を教えてもらった。マニュアルどおりの接客ではあるが、悪くない感じだ。
  ≪好奇心≫といえばかっこいいが、物書きとしての悲しき習性で、ふとこんな言葉を彼に投げかけてみた。「そういえば、先日お宅の店のルーツである大阪のオートバックスの前を通りかかりましたよ」。すると、その社員は何を言われたのか分からなかったようで、返事はなかった。中年男の唐突な質問に引いたのかもしれない。「大阪の・・・」ではなく「大阪福島にある・・・」と言えばなにかしらの答えが返ってきたのかも知れないと、少し悔やまれた。
  ・ インタビューに答えてくれた方々(敬称略)松田鶴義(廣見商会・代表)/長安敏夫(パシフィック工業株式会社・会長)/上田長之輔(上田興業株式会社・代表)/中島功(SPK株式会社・会長)/森山峯明(守山自動車工業株式会社・会長)
  ・ 参考文献 大同自動車興業「60年の歩み」/大阪府自動車部品販売組合「30年の歩み」/「50年目の日本陸軍入門」(文春文庫)/「日本における自動車の世紀」(グランプリ出版)/「日本自動車史年表」(グランプリ出版)/「自動車販売王・神谷正太郎伝」(自研社)/「国産車を創造った人々」(トヨタ博物館)/「ヘンリー・フォードとT型フォード」(トヨタ博物館)/「日本史年表」(岩波書店)/「近代日本総合年表」(岩波書店)
  (次回からはスズキの知られざるヒストリー「浜松スズキ物語」をお届けします)

2017年12 月 1日 (金曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第28回

大阪・福島  モータリゼーションが始まった当初売れる部品は、クラクション、ランプ類、ブレーキライニング、それにクラッチディスク、クラッチカバーである。当時は、まだ道路もさほど混雑していなかった。生まれてはじめておもちゃを手にした子供のように、好奇心たくましく、クルマをあちこち乗り回し走行キロ数が伸びるから、こうしたパーツの要望が劇的に増加したのかもしれない。
  戦前のプレ・モータリゼーションは都会など人間が多く集まり局地的な車社会であったが、昭和40年からはじまった真性モータリゼーションは地方都市のみならず地方の町や村でもクルマが活躍するようになり、大げさに言えば日本列島全体が車社会に変貌したのである。
  そこで大阪の福島界隈の余力のある自動車部品卸業者の多くは、中国地方、九州地方、あるいは山陰や北陸に営業に出かけた。なかには広島や九州に営業所を出す会社もあった。
  平成4年(1992年)にSPKと社名変更した大同自動車興業は、その後国内に15以上の営業所を展開し、海外にもビジネス・ネットワークを構築している。
  福島に戦前忽然と誕生した自動車部品のビジネス街は、戦時下、統制会社に集約されて壊滅的となったが、終戦後、灰燼となった大阪の町から再生し、モータリゼーション誕生をキッカケに急成長を遂げるも、時代に吹き飛ばされたのか、いままた何事もなかったように元の静寂さを取り戻そうとしている。

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