みなさん!知ってますCAR?

2022年10 月 1日 (土曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第21回)

カンバン方式

  トヨタのモノづくりで、イの一番に思い起こすのが「ジャストインタイム」である。
  生産過程において、各工程に必要な部品やモノを、必要なタイミングで、必要な量と数を供給することで在庫(つまり経費ともいえる)をとことん減らして生産活動を行う生産技術。別名「トヨタ生産方式」。アメリカではジャストインタイムの頭文字を取りJIT(ジット)と呼ばれている。この生産方式を支えているのが、カンバンと呼ばれる「生産指示票」であるので、「カンバン方式」(写真)ともいわれる。
  この生産方式は、戦後具体的に実を結ぶのだが、もともとは喜一郎が当初から彼の頭にあったものである。昭和13年(1938年)拳母工場完成の際に記者のインタビューに答え、こう返答している。原文は文語調なので現代語に直してみると。
  「自動車工場の場合においては、材料が非常に重要な役割を持っています。部分品の種別だけでも2000~3000種に及びますが、それらの材料や部分品(部品のこと)の準備やストックはよく考えてやらないと。いたずらに資本にものを言わせどんぶり勘定でおこなうと、完成車の数が少なくなります。私はこれを“過不足なきさま”、換言すれば所定の生産に対して余分の労力と時間の無駄を出さないようにすることを第一にしています。部分品が移動し循環していくことに対して、“待たせたりしないこと”です。“ジャストインタイム”に各部分品が、整えられることが大切だと思います」
  これは、中岡哲郎氏の『近代技術の日本的展開』という本の中に出てくるのだが、サブタイトルが「蘭癖(らんぺき)大名から豊田喜一郎まで」。蘭癖とはあまり聞きなれない言葉だが、江戸期蘭学にひどく傾注した、いわゆる西洋かぶれをした人のことを、いささか皮肉ってとくに幕末水戸藩の攘夷派あたりが使った言葉。もとは、18世紀初頭の吉宗時代の享保の改革で、洋書の輸入が緩和されたことがきっかけになっている。日本人のモノづくりへのまなざしは、およそ300年前から、いまに続いているようだ。

2022年9 月15日 (木曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第20回)

初代クラウン

  ところが、歴史の不思議さというべきか、退陣表明したわずか20日後の1950年6月25日、朝鮮動乱が起きた。自由主義陣営のアメリカと共産主義陣営の中国とロシア。この東西対立が日本の近くである朝鮮半島で、火を噴いたのだ。ここから約3年にわたって展開された朝鮮戦争である。
  経済的に疲弊していた隣国日本は、アメリカ軍のロジスチックス的役割を演じることになる。いわゆる戦争特需といわれるほど日本の経済が動き出し、それにつれて景気が良くなり、敗戦国日本の復旧につながったのである。トヨタも、この戦争特需により、トラックの増産と修理などの仕事が増加し、いっきに経営が改善された。具体的には、1950年7月から翌1951年3月のあいだに4679台のトラックの受注がきた。金額にすると約36億円で、これを期にトヨタ自動車は持続的成長軌道に乗るのである。
  もちろん、戦前戦時中のような、高度な技術を性急に求める軍の介入が、戦後には完全に消えたことが大きな成長を支えたといえる。宿痾だった“くびき”から解放された。モノづくりの成長は、人の成長と同じで、門外漢である組織(軍)があれこれ指示を出してよくなるものでは、断じてないことがよくわかる。自立した組織である企業が、英知と努力で一歩一歩積み上げていくものなのである。
  労働争議が一段落すると、喜一郎の現場復帰を要望する声も大きくなった。ところがその矢先、喜一郎は、病に倒れ、58年の波乱万丈の人生に幕を下ろしたのである。1952年3月27日のことだった。
  喜一郎がなくなって3年の月日がたった昭和30年1月1日、トヨペット・クラウンが誕生した(写真)。このクルマこそ喜一郎が宿願としていた100%メイド・イン・ジャパン、本格的国産乗用車なのである。

2022年9 月 1日 (木曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第19回)

トヨタの労働争議

  トヨペットSA型乗用車は、隈部一雄の趣味性が投影され、当時としては意欲的なハイメカだったが、はたせるかな営業的には失敗だった。わずか200数台しか売れなかった。
  そこで1948年4月4ドア版のSC型が作られたが、悪路での足回りをめぐるトラブルは解消できなかった。販売不振の背景には当時はまだ』オーナーカーが育ってはおらず、大きな市場であるタクシー業界で使われなければ量産ベースにのらない、という厳しい現実があったからだ。
  1949年10月にようやく乗用車の生産制限が解除されはしたが、悪性インフラが進み未曾有の不景気が襲いかかり、製造業を中心に倒産が相次いだ。いわゆるデトロイト銀行の取締役でGHQ財政顧問が来日し、急激なインフレ克服策を取ったため、いわゆる「ドッジ不況」が起きたのだ。
  こうしたなかで、トヨタも例外ではなく、資金繰りに苦しくなり、倒産寸前とまでいった。労働者側との交渉が難航し、2か月にもおよぶ労働争議が展開された。1949年11月から翌1950年3月にかけて、7600万円(現在の貨幣価値で約30億円)の赤字を計上。対応策として1600人の希望退職者を募集、残留者は10%の賃下げを中心とする経営合理化案を提示。
  組合は当然これを認めず、1950年4月11日の1日ストを皮切りに、4月10日から7月17日まで36回におよぶ団体交渉がおこなわれた。つまり再建策として、一部工場の閉鎖、希望退職者による人員整理と引き換えに、喜一郎も退陣せざるを得なくなった。
  全生涯をかけての自動車づくりから身を引く喜一郎のそのときの気持ちを想像するに・・・・察するに余りある。浪花節的表現だが、これって花が開く前に、身を引くつらさ。このとき副社長の隈部一雄も身を引いている。

2022年8 月15日 (月曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第18回)

SA型

  昭和20年8月15日、日中戦争から太平洋戦争、のべ15年にわたる長かった戦争がようやく終息を迎えた。
  日本は、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏をしたのだ。敗戦国日本は、マッカーサーを頂点とするGHQのもとに国を運営する隷属国となり、自動車の生産ばかりでなく工業製品の政策は、その支配下に置かれた。物資不足という現実も重くのしかかった。
  だから、日本の自動車メーカーは唯一許可されていたトラックとバスをわずかばかり生産し、文字通り汲汲としていたのである。トヨタも例外ではなかったが、喜一郎は、遠くない将来再び乗用車生産の日がやってくる、そう見通しを立て、いち早く小型乗用車の開発に乗り出していた。
  終戦後わずか半月の時点で、大学時代の友人の隈部一雄(1897~1971年)をいまでいうプロジェクト・リーダーに立て、ハイペースでの開発に着手している。これが「トヨペットSA型乗用車」(写真)である。
  2ドア・ファーストバックの意外と垢抜けしたスタイル。FR方式の駆動、日本初の鋼板バックボーンフレームを採用。フロントウイッシュボーン、リアがスイングアクスルの4輪独立懸架。
  ブレーキは前後ともドラム式だが、油圧制御。S型と呼ばれる4気筒エンジンは、水冷サイドバルブ式995㏄ 27PS。AA型がOHVだったので、サイドバルブと聞くとずいぶん後退したメカニズムの印象だが、構造がシンプルで部品点数が少なくて済み、しかも当時は道路事情が悪く、ほこりがエンジン内に侵入し、エンジンのシリンダー内のライナー交換はさほど珍しくなかった。そうした作業性でもSVは断然有利だった。
  たしかに車両重量940㎏に対して出力が低く最高速も時速87キロとダットサンなどに比べ劣った。3速マニュアル・トランスミッション。クランクシャフトを当時としては3つのポイントで支える耐久性の高いメカニズムといえる。

2022年8 月 1日 (月曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第17回)

拳母工場

  刈谷工場では、大量生産を目指すには狭すぎる。これを見越し、数年前に愛知県拳母に191万㎡(58万坪)、いまでいうと東京ドーム約40個分の広大な土地を入手していた。ここに乗用車月産500台、トラック月産1500台の工場を目標に建設がスタートした。
  鋳造、鍛造、メッキ、ボディ、プレス、機械加工、組み立てなどの各工場と、事務所、研究施設、寮、社宅、食堂、グランドなどの厚生施設を完備した、日本最初の自動車一貫製造工場である。
  1937年9月に着工し、翌年9月に完成、11月3日に竣工式が執り行われた。豊田英二の指揮で、刈谷工場からの機械移設を1か月で完了し、従業員数4848名だ。
  なかでも、組み立てラインは、全長が100mのチェーンコンベア・ライン。これが2ラインあり、流れ作業による大量生産方式だ。乗用車組み立て工程は、2階にあるボディ艤装(車室内の組み付け)ラインと1階のシャシー組み付けラインで構成されている。2階で艤装されたAA型のボディをホイスト(クレーン)で吊り下げ、エンジン、足回り、トランスミッションなどが組み付けられた1階のシャシーと合体させる。
  と言葉でいうと、すんなりいったようだが、実際には当時はボディの寸法精度がお粗末なので、ボルトの締め付け作業はスパナなどの手工具でおこない、時間とスキルが要求されたという。組み付け完了後も、調整や修理をほどこすケースが多く、ラインとは別の作業場を設け、こうした手直しや調整、塗装の補修がおこなわれた。

2022年7 月15日 (金曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第16回)

タクシーで活躍したトヨダAA

この時代、ふつうの庶民は国産初の乗用車をどう見ていたのだろうか?
  1926年、東京生まれで東京工業大の工業化学科卒の遠藤一夫氏が、「おやじの昭和」(中公文庫:1989年刊)というエッセイのなかでトヨダA1誕生の頃の東京クルマ事情を回顧している。かいつまんで記してみると……。
  「国産車を販売する東京トヨタ自動車販売会社が創設されたのは、昭和10年11月19日であった。有楽町の日劇の向かい側、トウランプ(トランプの間違いではなく、かつて存在した東京電力傘下の白熱球ランプの“東光電気”のこと)の建物があったあたりである。自転車事業の丸石商会の社長、丸石商会の息がかかった人物が支配人だった。11月23日、豊田自動織機創立記念日には、東京芝浦のガレージで、トヨタトラックの発表会があり、参加している。この日は、永野修身大将がロンドン軍縮会議に出席するため旅立った日であり、上海では抗日テロが続発していた」
  当時は自転車が移動手段の主役だった。ちなみに、自転車業界で先陣を切っていた丸石商会は明治期末英国のバイク・トライアンフを輸入販売していた経緯もある。
  トヨタA1型乗用車は、この年の5月に完成し販売したが、いまでは想像すらできないが国産車というだけで売れなかった。
  「足回りは丈夫なフォード、エンジンはシボレー型と外車販売の側が宣伝したため、かえって売れ行きが鈍ったという。故障して止まっているクルマの写真をとり、商売敵に売りつける者も現れた。名古屋トヨタ販売株式会社が設立されたのが昭和10年12月。常務取締役は、日の出モータースの支配人山口昇氏(1896~1976年)だった」
  余談だが山口は、若いころ慶応大学の野球部で投手兼キャプテンをしていた人物。戦後トヨタの販売店のリーダー的存在となる。その山口氏は、故郷の中京地区でトヨタのトラックを販売しながら、苦情を聞きそれを好機とばかりフィードバックし、信頼耐久性を高めていったという。東京で売り出した11年3月には、ずいぶん信頼を勝ち取った。販売にあたったのは、山口氏とも懇意だった元日本GM販売広告部長だった神谷正太郎氏だ。
  ここで注目したいのは、当時の東京市内の自動車模様である。
  昭和10年、東京市民が見る街中のクルマはほとんどが外車だった。東京市の統計課がタクシーの実情を調べたという。その結果、市中にはタクシーが1万1580台いて、運転手が7452人。会社組織が159で、残り7293人はすべて個人営業だった。車種はフォードが2546台、シボレー1561台、この2種で総数70.5%を占めた。

2022年7 月 1日 (金曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第15回)

斎藤尚一

  東京での発表は、芝浦サービス工場でおこなわれた。トラックの価格は、3200円、シャシーだけなら2900円ときめた。これは原価を割り込んだ価格で、アメリカ車よりも200円ほど安かった。ちなみに、1年後に発売された乗用車トヨダAA型の方は、3350円で、フォードやシボレーなどに比べ350円以上も安かった。当時のサラリーマンの年収が700~800円だったので、とてもじゃないが庶民がクルマを持てる時代ではなかった。
  販売し始めたトラックのG1は、かならずやトラブルが続発するはず。そう想定した喜一郎たちは、初代販売店となった名古屋の「日の出モータース」と相談し、最初の販売台数を6台だけと限定した。販売先も限定することで、故障が起きてもすぐさま対応できる体制を整えた。予想にたがわず、いたるところで故障し、昼夜を問わずフル稼働で対応した。喜一郎はみずからクルマの下に潜り不具合の箇所を確認し、設計や材質の変更を命じた。ここでトラブルというトラブルを出尽くさせることで、その後の不具合数を劇的に減らし、徐々に信頼性を獲得していった。
  昭和11年に入ると、G1トラックの事業も初期の混乱期を脱し、順調に動き出した。神谷による1府県に1ディーラー網の整備も着々と進んでいった。その年の2月に刈谷に組み立て工場が完成し、従業員も昭和7年に500人程度だったのが、3500人を超す陣容となった。このころ、のちにトヨタの社長にもなる東北大学工学部卒の斎藤尚一(1908~1981年:写真)や佐吉の弟の次男・豊田英二(1913~2013年)などが入社した。
  同じ年の5月、東京の丸の内で「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」が開催された。G1型を改良したGA型トラックに並び、AA型乗用車4台もお披露目された。AA型は試作車のA1型を一歩進めた完成車だった。全長4737mm、全幅1744mm、全高1736mm、乗車定員5名、最高速度時速100キロというトヨタ初の乗用車だ。

2022年6 月15日 (水曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第14回)

A型エンジン

  全面的に販売をまかされた神谷正太郎は、「販売網の充実なくして量産体制の完成はあり得ず」とした。そこで神谷みずから、地方の資産家を訪ね歩き販売店になるように説得した。
  熱意と誠実さに動かされ、東京を皮切りに栃木、静岡、岐阜、群馬などのディーラーが誕生し、昭和11年には岐阜ではフォードを抜いてトヨダの販売台数が凌駕した。群馬では登録台数の半数以上をトヨダが占めるという快挙を演じている。
  昭和13年の秋には、神谷正太郎は、各府県に一軒の全国ネットを完成させ、さらに翌14年には遠く樺太トヨダ、釜山トヨダまで設立している。
  G1型トラックは、乗用車のAA型より1年前倒しの1935年(昭和10年)12月に発売した。車名は「トヨダG1型」。
  AA型乗用車のプレス金型の設計と製作に取り掛かっていた昭和9年年末、商工省と陸軍省から国策上の理由でトラック・バスを製造してほしいとのオファーがあったのだ。喜一郎は当初は、政府の補助金を頼ると自助努力の妨げとなり、乗用車製造に悪影響を及ぼすと考えていた。だが、そのころフォードが、手狭になった横浜のノックダウン工場をより広い工場を作り上げ、日本市場ばかりか中国市場へも大きく手を広げる動きを見せており、これを阻止する陸軍省および商工省との対立も露骨になっていた。こうした情勢を見た喜一郎は、「まずトラックからやろうではないか」と決意した。
  そうと決まったら、開発はすさまじく早かった。
  すでにこのへんはお話はしているが、おさらいの意味でもう一度お伝えすると、1935年3月、34年型のフォード・トラックを購入し、これを参考にシャシー設計をおこなっている。すでに33年型シボレーのエンジンをモデルにした乗用車用の「エンジンA」(図版)の試作が完成していたので、これをトラックに流用することにした。フレームは丈夫なフォード式、フロントアクスルはエンジンと搭載との関係でシボレー式とし、リアアクスルは全浮動式のフォード式と、当時としてはそれぞれの長所を生かした設計だったとされる。
  とにかく開発期間半年ということもあり、間に合わない部品は、シボレーとフォードの補修部品を活用することにした。
  G1型トラックの試作完成したのが8月25日。翌9月に6日間の日程でおこなわれたのが前回にお話した走行テストである。

2022年6 月 1日 (水曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第13回)

神谷正太郎

  いま考えれば驚くべきことだが、モノづくりに力を注ぐあまり、販売面についてはほとんど準備がなかった。それだけ世の中はのどかだった、といえた。
  でも、フォードやGMがすでに日本くまなくサービスネットワークを張り巡らせていた。これに肩を並べるほどの販売ネットワークを構築する必要がある。切実にこのことを気づいた喜一郎は大至急経験豊富な人材を求めはじめた。
  その後の歴史を知る者には、人との出会いほど不思議なものはない、と強く思うに違いない。
  そうしたタイミングで喜一郎が知りえたのが、のち「販売の神様」と呼ばれた神谷正太郎(1898~1980年)である。神谷は、もともと名古屋市の南、知多半島の付け根にある知多郡(現在の東海市)の生まれ。名古屋市立名古屋商業高校を卒業後、三井物産に入りシアトルやロンドンの駐在員をへて、独立。自前の鉄鋼関係の商事会社をロンドンで設立し、インドや日本向けの鉄鋼を輸出していた。だが、現地での炭鉱労働者の労働争議のストライキで立ち行かなくなり帰国。
  帰国後の昭和3年、英語が堪能だったこともあり日本のGM法人にいまでいうヘッドハンティングで入社。
  2年後には大阪本社販売広告部長を務め、同時のエリアマネージャーとして販売店の設立や経営指導の経験を持っていた。日本GMのなかではナンバー2の存在だった。
  このタイミングで喜一郎と神谷は出会うことになる。
  神谷正太郎37歳、豊田喜一郎41歳だった。GMは、販売店に一方的なノルマを課す過酷なやり方に疑問を抱いていた時期で、喜一郎の情熱と人格、そして将来への夢に心が動かされた、「あなたがきてくれるのなら販売のすべてを任せる」という全幅の信任を得て、販売を引き受けることになった。
  ちなみにGM時代の給料は300円(現在貨幣価値で約80万円)だった。いきなりの役員待遇でのトヨタ入りではあったが、給料は1/3の月100円で引き受けた。男同士の息に通じたというか、二人のあいだに化学反応が起きたんだろうね。本田宗一郎と藤沢武夫の出会いを重ね合わせる読者もいるかもしれない。

2022年5 月15日 (日曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第14回)

トヨダG1トラック

  トヨタ初の乗用車となる「トヨダAA型」のプロトタイプA1型の開発は、じつはトラックの開発も兼ねていた。
  同じエンジン(A型エンジン)をはじめとする主要コンポーネントを使い、シャシーは1934年式のフォードのトラックをお手本にしてトラックも同時並行して開発されていた。「G1型トラック」がそれで、もともとは軍からの要請だった。でも実情は、少し違った。当時は、トラックの方の需要の方がはるかに大きく、ビジネス的にはトラックを優先すべしという声もなくはなかった。つまり、乗用車専用で開発するにはリスクが大きすぎたのだ。
  そこで、1935年9月、A1型試作乗用車とG1型トラックのテストが行われた。
  当時は、いまのような専用のテストコースがあるわけではないので、一般公道での走行試験である。コースは、愛知県の刈谷をスタートし、東海道を東へ進み、箱根を越え東京。東京から北に向かい熊谷、高崎を経て伊香保温泉。伊香保から西に向かい碓氷峠を越え、上田を経由して松本。そして松本から山梨の甲府に出て、甲府から静岡県の御殿場、さらに熱海に着き、熱海からふたたび東海道を西に向かいゴールの刈谷まで…‥そんなルートでA1型が5日間で1433km、G1型トラックはそれより1日長い6日間で1260kmを走破したという。
  改良のためのデータ集めだったが、実際は走行中次々にトラブルや故障に見舞われた。リアアクスル・ハウジングのフランジ取り付け溶接部が折損、プロペラシャフトが折れたり、ステアリングが効かなくなったり、トランスミッションが破損したり…‥現在の感覚でいえば、「危なくて乗っていられないクルマ!?」だった。
  部品一式を積んだサービスカーが伴走していたからいいものの、単独走行ならその場でアウト。重大トラブルが起きたら万事休止だ。もちろんマイナーなトラブルは両の手指の数を越えた。
  でも、その都度修理しながら、何とか予定の行程を走り終えてはいるが、前途多難な船出だった。明治維新からわずか70年しかたっていない極東の国が単独でクルマを作るということとはこういうことだった。愚直にならざるを得なかった。

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