みなさん!知ってますCAR?

2022年5 月15日 (日曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第14回)

トヨダG1トラック

  トヨタ初の乗用車となる「トヨダAA型」のプロトタイプA1型の開発は、じつはトラックの開発も兼ねていた。
  同じエンジン(A型エンジン)をはじめとする主要コンポーネントを使い、シャシーは1934年式のフォードのトラックをお手本にしてトラックも同時並行して開発されていた。「G1型トラック」がそれで、もともとは軍からの要請だった。でも実情は、少し違った。当時は、トラックの方の需要の方がはるかに大きく、ビジネス的にはトラックを優先すべしという声もなくはなかった。つまり、乗用車専用で開発するにはリスクが大きすぎたのだ。
  そこで、1935年9月、A1型試作乗用車とG1型トラックのテストが行われた。
  当時は、いまのような専用のテストコースがあるわけではないので、一般公道での走行試験である。コースは、愛知県の刈谷をスタートし、東海道を東へ進み、箱根を越え東京。東京から北に向かい熊谷、高崎を経て伊香保温泉。伊香保から西に向かい碓氷峠を越え、上田を経由して松本。そして松本から山梨の甲府に出て、甲府から静岡県の御殿場、さらに熱海に着き、熱海からふたたび東海道を西に向かいゴールの刈谷まで…‥そんなルートでA1型が5日間で1433km、G1型トラックはそれより1日長い6日間で1260kmを走破したという。
  改良のためのデータ集めだったが、実際は走行中次々にトラブルや故障に見舞われた。リアアクスル・ハウジングのフランジ取り付け溶接部が折損、プロペラシャフトが折れたり、ステアリングが効かなくなったり、トランスミッションが破損したり…‥現在の感覚でいえば、「危なくて乗っていられないクルマ!?」だった。
  部品一式を積んだサービスカーが伴走していたからいいものの、単独走行ならその場でアウト。重大トラブルが起きたら万事休止だ。もちろんマイナーなトラブルは両の手指の数を越えた。
  でも、その都度修理しながら、何とか予定の行程を走り終えてはいるが、前途多難な船出だった。明治維新からわずか70年しかたっていない極東の国が単独でクルマを作るということとはこういうことだった。愚直にならざるを得なかった。

2022年5 月 1日 (日曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第13回)

カールブリア

  トヨダAA型のボディについては、喜一郎は特段のこだわりを持っていたようだ。
  当時のボディは、「木骨ボディ構造」と呼ばれるもので、木材を主体にしたボディが当たり前だった。が、これをシトロエンやクライスラーがいち早く先取りした「オールスチールボディ構造」に変革しているが、これをいち早く取り入れた。
  それだけでなく、10年はデザインが旧くならないとされた最新鋭のデソート・エアフローのクライスラーをコピーすることにした。これは流線型のモダンなエクステリアで、ドイツ系移民のエンジニアであるカール・ブリア(Carl Breer1883~1970年/写真)の手によるもので、風洞を使ったエアロダイナミックス・デザイン。
  数年前LAにある自動車博物館を取材したとき、たまたまクライスラー社の基礎を作ったひとりカール・ブリアの特別展を開いていた。ドイツから新大陸アメリカにやってきたブレアの父親はLAで鍛冶屋を営み、馬の蹄鉄などをつくっていた。スタンフォード大学で学んだ息子カールの輝かしい業績をパネルなどで紹介されていた。しかもそのクルマのデザインの背景にはもうひとつ知られざる事実を見つけた。初飛行を成功させたライト兄弟による飛行機をデザインしたデザイナーを仲間に引き入れていたのだ。空力を特徴づけた斬新なデザインを作り上げたのは、こうした時代の背景があった。
  そのデソート・エアフローのクライスラーは、デザインがあまりに斬新だったせいか、営業的にはあまり振るわなかった。でも、クルマの歴史のなかではエポックを作り上げたクルマとして、いまでも高い評価を得ている。ちなみに、デソートとは、15世紀のスぺイン人探検家・エルナルド・デ・ソト(1496~1543年)のことで、ミシシッピー川を白人として初めて発見した、とされる人物でもある。
  トヨタ初の試作乗用車「A1型」と呼ばれたプロトタイプは、1934年に完成する。ボディのパネルはいまのように薄板鋼板を素材に金型にプレスで成形するという手法ではなく、すべて職人の手による手叩き製法だった。木の金づち、金床、定盤、それにゲージという実にシンプルな道具を使いながら成形していった。シャコ万と呼ばれるC型クランプで隣り合うパネルを仮り組み、しかるのちに溶接をおこなう、そんな手法である。

2022年4 月15日 (金曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第12回)

ボディデザインはデソート

  出来上がったエンジンをダイナモメーター(台上試験機)でテストすると、手本にしたシボレーのエンジンが65馬力なのに、各パーツをコピーして作り上げたエンジンは45馬力しか出なかった。しかも、すぐオーバーヒートする傾向にあり、その対策にも頭を悩ませた。燃焼室の形状の見直しや吸排気ポートの形状を変えるなどして、さまざまな試行錯誤を強いられている。
  トランスミッションのギアの加工にも、苦労している。当初、歯車の形状が不明で、ギアを作り上げる成型にどんな道具を使えばいいのか皆目見当つかなかった。のち歯車の権威となる成瀬政男博士(1898~1979年)が新鋭学者として東北帝大に在籍。若手社員を2名急遽東北帝大に国内留学させ、そこで歯車議論の講義を聞き、持参したシボレーのトランスミッション・ギアを解析。測定装置を備えた機械工業用の顕微鏡を用いて、10ミクロンオーダー(1/100mm)での正確な歯形を測定できた。このデータに基づき、10倍に拡大した波形曲線を描き、成瀬博士が確立した理論式により、歯車の形状を確定し、加工したという。
  こうした経験で、当初は海外の旋盤を使い切削などをおこなっていたが、徐々により使いやすい自作旋盤を改善し、旋盤自体も増やすことで、効率と作業の正確度を高めていった。
  ブレーキにも課題があった。参考にした流線形のボディデザインを持つクライスラー・デソート車には、当時先進技術だった油圧式4輪ブレーキが採用されていた。当時は、機械式が一般的で、油圧は国内にはなかったので、ブレーキ部品一式とブレーキフルードも輸入品を使うことにした。
  トヨタの技術陣はこのとき愚直に課題に向き合った。ただ単にその場しのぎで輸入品を使うのでは思考停止に陥る。今後の展望を考え、ブレーキまわりの研究とブレーキフルードの国産化に取り組んでいる。当時のブレーキフルードは、植物油を主成分とし、適切な粘度に調整する必要から、アルコール系の溶剤が混入されていた。化学試験室での調査研究の結果、植物油のひまし油にジアセトン・アルコールを加え、粘度を調整するのが最適だとわかり、小規模ながらも自社生産を始めている。むかしから、キャッスル印のプライベート・ブランドのブレーキフルードが存在するのは、こうした歴史的背景があったからだ。

2022年4 月 1日 (金曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第11回)

豊田初期の鋳造

  喜一郎たちが最初に取り組んだのが、このシボレーのエンジンのシリンダーヘッドとシリンダーブロックの鋳造だ。
  たとえばシリンダーブロックでウォータージャケットを形成するために中子(なかご)を設ける。入り組んだ3次元構造で、作り込むことに大変な苦労をしている。ちなみに、この中子は正確には、乾燥油を使った油中子。あらかじめアメリカの鋳物専門誌で、油中子の知識を得てはいたが実物を見たことがなかった。砂に混ぜる乾性油は、紙を張り付けた提灯や唐傘に塗る防水用の桐油(きりあぶら)を用いることにし、岐阜の唐傘屋から入手したという。これを知多半島内海海岸の浜砂と混ぜて油砂を作った。この油砂を木型に入れ造形し、陶器用の焼成炉で焼いた。桐油の混合率や焼成の温度・時間を一つ一つ変えながら、油中子製作の要領を会得していった。
  当初は鋳造後シリンダーの内面にボーリング加工を施すと、巣(鋳造時にできる空白部)が現れることが多く、10個作ると、8個もしくは9個は失敗作(オシャカ)だったという。こうした失敗を踏まえ、内面をさらに削ると巣がほとんどできていないことに力を得て、削り代を多く見越して鋳造をおこなうことで、ほとんど無駄が出ない鋳造づくりができたという。
  シリンダーブロック、シリンダーヘッド、ピストンなどは、コピーした自社製品でまかなえた。でもクランクシャフト、カムシャフト、バルブ、スパークプラグ、電装品などは国内での調達がままならず、シボレーの輸入部品を採用している。
  ところが問題はそれだけに収まらなかった。

2022年3 月15日 (火曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第10回)

シボレー1

シボレー2

  1930年代のトヨタは、とりあえず、ボディ外板の質の良い薄板鋼板はアメリカから輸入した。鍛造部品などの鉄素材である特殊鋼は兵器用の素材となっていたが、社内開発と決めそのための「製鋼部」を設立している。この部署が20年後に愛知製鋼として独立しクランクシャフトやギアなどの生産を担うことになるが、いまは話を深めないことにする。(ちなみに、愛知製鋼には東海市の社内敷地に「鍛造技術の館」という博物館をもっており、一般公開している。筆者もここに足を運び、取材したことがある。)
  本来は、日本人の手でゼロからクルマを開発するのが理想ではあるが、現実問題としては、当時の日本の技術力は、欧米のそれとは比較にならないほど低かった。そのことに向き合うことからスタートした。具体的には、研究開発部門、いまの言葉でいえばR&Dから始めた。そして、たとえばエンジンなら、お手本とするエンジンを見定め、それを愚直にそっくりそのままコピーするところから始めた。文字通り、“学ぶことは、真似ること”を意味した。
  昭和8年8月には、前年の秋以来取り組んでいた2気筒4馬力のバイクモーターの試作10台が完成している。これに相前後して、大島理三郎と鈴木利蔵をアメリカに派遣し、工作機械の買い付けをおこなっている。
  そこでシボレーの6気筒3389ccOHVエンジンをお手本にすることになった。
  シボレーのエンジンに白羽の矢を立てた理由は、フォードよりも燃費が良く、量産エンジンとして比較的ポピュラーで、エンジンの各部品の調達ができるという理由からだ。このシボレーは、日本人にはとくに因縁のあるクルマだ。太平洋戦争での激戦地の一つとされる硫黄島で、日本軍の最高司令官・栗林忠道中将(1891~1945年)。かれが駐米武官時代アメリカ大陸を自らハンドルを握りクルマを運転しているのだが、そのクルマがシボレーなのである。息子の太郎君宛てに絵手紙を書いているが、ほのぼのとした文面とともにシボレーがリアルに描かれている。
  (写真は、渡邉春吉さん所有のシボレーと直列6気筒エンジンが収まるエンジンルーム。まだ現役で走っている!)

2022年3 月 1日 (火曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第9回)

材料試験室

  喜一郎は、こうした「アツタ号」の動向を横目で冷静に観察し、頭をフル回転させながら成功の道筋を描いていたに違いない。アツタ号デビューから1年後、喜一郎は、技術面でのめどが一応立ったとして、妹の婿である社長の豊田利三郎を説得し1933年(昭和8年)9月に「豊田自動織機製作所」のなかに「自動車部」を設置した。
  壮大な成功を目指し、そのための下準備のはじめの一歩を踏み出したのだ。当面は、外国車の長所を学び、日本の国情にあったクルマづくりの開発をスタートさせたのである。
  翌1934年(昭和9年)、刈谷に試作工場と材料試験室(写真)をつくった。材料試験室は、鉄の引っ張り、曲げ、圧縮といった物理的特性を試験する試験室、分析室、写真現像、図書室などを備えた830㎡。そこで、鉄鋼材をはじめ、クルマを構成する各種材料の試験、研究がおこなわれ、外国車の自動車用材料についても分析がおこなわれた。
  いっけん回り道に思える基礎研究をなぜおこなったのか? 喜一郎のDNAには、佐吉譲りのものごとを突き詰めて考えるという深い好奇心もあるが、当時自動車づくりに適した高品質な鋼材を安定して提供する企業が国内になかったからだ。そのため、自前の研究所をつくるしかなかった。欧米の技術を丸呑みしながら、モノづくりをおこなおうという鮎川義介(1880~1967年)の日産との大きな違いである。
  じつは、こうした基礎研究や、自動車づくりの基本を大切にしている、格好の“証拠物件”ともいうべき資料を筆者は、ひそかに所有している。
  1970~1980年代に編集され、主だった社員に配布した様々な技術資料である。トヨタが創業以来約半世紀にわたり蓄積した知見やノウハウ、技術などを分野別に文字として残している。期せずしてこれらは、後輩への伝達事項となっている。たとえば「材料の知識」とか「自動車の知識」「自動車用語辞典」「生産用語辞典」「生産の知識」「自動車と情報処理」「エレクトロニクス用語辞典」「メカトロニクスの知識」などだ。もちろんこれらは非売品。部署ごとの専門技術者が、執筆しまとめた平均600ページにおよぶ大部で、やさしい文章で書かれている。「技術を共有化しなくてはいいクルマはつくれない!」そんなメッセージをくみ取れる、冷静かつ熱い気持ちで書かれた技術書である。欧米の自動車メーカーのことは知らないが、少なくともこうした高い品質の基礎技術書を自社でつくり上げているのは、トヨタ自動車以外知らない。

2022年2 月15日 (火曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第8回)

アツタ号

  開発スタッフの大半は、エンジンの知識がほとんどなかった。
  そこで、クルマのエンジンをじかに触れさせる目的で1933年製のGMシボレーの6気筒ガソリンエンジンを分解調査しはじめる。分解し、部品をスケッチし、その材質を調べたりしながら、自動車の基本を徐々に学んでいった。
  この当時、外部からもスタッフを招聘している。いわゆる“中京デトロイト化計画”で、「アツタ号」のエンジンを設計した菅隆俊(1886~1961年:のち拳母工場の建設、豊田工機の設立に活躍)や、「オートモ号」の設計を手がけた池永羆(いけなが・ひぐま)。それに3輪自動車の経験を持つ伊藤省吾や、自動車部品製造業界に詳しい元白揚社の大野修司などである。
  ちなみに、中京デトロイト化計画は後世のマスコミがいささか気負った表現だとおもう。当時の大同メタル工業の社長川越庸一(1893~1983年)が中心となった壮大なプランだったことは確かだ。川越は、福岡の修猷館を経て熊本工業高校機械工学科(現熊本大学理工学部)を卒業後、1922年にアメリカにわたりハドソンやダッチの工場を見聞、働きながら自動車の研究をした人物。帰国後1929年にGMの代理店の昭和自動車㈱のサービス部長をするなかで、中京地区で自動車づくりの機運を盛り上げようとした。
  川越は、名古屋商工会議所の主要メンバーで愛知時計電機の青木鎌太郎(1874~1932年)に声をかけ、さらに名古屋市長や愛知県知事に協力を依頼、さらには豊田自動織機や大隅鉄工所、日本車両といった名古屋の地元有力企業5社が、中京地区をアメリカのデトロイトのようなクルマ生産拠点を目指した。資本金1000万円を軸にした企業体での試みで、約2年がかりで「アツタ号」を完成させた。AA型乗用車が世に出る4年前の1932年(昭和7年)のことだ。
  これは、アメリカのナッシュをお手本に数台作り上げられた。もちろん量産にはほど遠い、手づくり乗用車だ。
  当時難所とされていた神戸の六甲ドライブもこなすほどの性能だったという。このエンジンを流用した乗り合いバス「キソコーチ号」も数台作られ、名古屋市バスとして走らせている。水冷8気筒、排気量3.94リッター、85馬力の大型エンジン搭載の高級車にちかい。
  「アツタ号」は価格6500円で売り出された。昭和7年ごろ米1俵(60kg)が8円20銭だったので、現在米1俵が約1万5000円とすると6500円は、いまの貨幣価値でいえば約1200万円。スーパーカーの値段だ。ちなみにフォードなら3000円(現在の貨幣価値で約500万円)で手に入った時代。2倍以上の価格ではとてもじゃないが売れない。よほどの富裕層でないと買えない。とてもじゃないが、庶民にはクルマを持つこと自体が、夢のまた夢というか、高根の花。
  しかも「アツタ号」はコスト自体が実は1台あたり9200円もかかったという。完全なコスト割れ。作れば作るほど損をする! くわえて、そこへ不況(昭和4年アメリカから始まった世界恐慌)が襲ったことで、デトロイト化計画はあえなく頓挫した。振り返ると中京デトロイト化計画は、絵に描いた餅でしかなかった。

2022年2 月 1日 (火曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第7回)

スミダバス

  豊田喜一郎たちがエンジンの研究を続けているあいだに、政府主導で新しい自動車をめぐる動きが起きていた。
  政府とは具体的には、管轄の商工省(現在の経済産業省の前身)である。商工業の奨励と統制をおこなうことができる国家機関である。
  大正初めから始まったアメリカ車の流入によって、壊滅的打撃を受けた日本の自動車メーカー。これを立て直すため、この組織がいわば司令塔になり、自動車の国産化の道筋を作ろうとしたのだ。
  そこには軍事上の自動車の必要性もあった。当初はフォードとGMの進出を歓迎していたのだが、両社の本格的な組み立て工場が稼働し始めると、輸入が急増し国際収支が悪化し始めたことで、輸入車を締め出す策に転じたのだ。もう一つは、ひそかに仮想敵国と定めた米国から戦力となる自動車を購入する矛盾に気付いたのである。
  昭和6年5月、商工省内に、「国産自動車工業確立調査委員会」を置き、具体的な方策をスタートさせている。委員会のメンバーは、陸軍省、商工省、鉄道省のほか、民間から石川島自動車製作所、東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造の国産3社。この年の9月、標準型式自動車の設計をおこない、自動車の要素を10個ほどに分けて、試作に入った。石川島がエンジン、東京瓦斯電気がフロントアクスル、リアアクスル、ブレーキ、ダットがトランスミッション、クラッチ、プロペラシャフト、鉄道省がフレームとステアリング、スプリングなどを担当した。
  この委員会の臨時委員のなかに、喜一郎が大学時代論文を一緒にまとめた隈部一雄(1897~1971年:東大教授、のちトヨタの副社長を歴任)、小林秀雄、坂薫、高校・大学を共に過ごした伊藤省吾がいた。彼らから喜一郎は、さまざまな情報を知り、またクルマをめぐるモノづくりのアドバイスを受けたという。
  商工省が音頭取りした「標準型自動車」は、昭和7年3月に試作が完成した。これはフォードとシボレーなどのクルマとの競合を避け、それより一回り大きい1.5~2トン積みのトラックとバスで、年間1000台の量産を計画した。しかも、3つの自動車会社は、量産効果を高め、コストを下げるために合併している。こうして生まれたのが、「いすゞ」であり、「ちよだ」「スミダ」である。

2022年1 月15日 (土曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第6回)

スミスモーター―

  父・佐吉が織機研究に向き合い子供の頃から現場を見て育った喜一郎。大正6年東京帝大の工学部を卒業し、機械工学を専攻している。内燃機関に関心が強く、大学時代から将来は自動車づくりに取り組みたい意思があった。そして、大正10年(1922年)、佐吉の長女愛子の連れ合いである義兄の豊田利三郎(1884~1952年)夫婦の海外紡織事業視察旅行に同行する。約10か月という長期にわたる欧米旅行で、海外の工業力を目の当たりにする。
  そこから約10年後の昭和4年(1929年)から翌年3月まで、喜一郎はふたたび横浜港からアメリカにわたり、自動車工場を見て回り、おおいに刺激を受けている。といっても、表向きは、自動織機に関する仕事での洋行だったが、ひとり喜一郎は、部下に仕事を任せ、自分はフォード社をはじめとする自動車工場や、部品工場を回っていたのである。このころのアメリカの自動車産業は、巨大な市場を背景に数多くのメーカーはビッグ3に集約されつつあり、全体的には日の出の勢いの時期だった。まさに喜一郎の思い描く先進的な自動車工場が目の前で展開されていたのである。
  喜一郎は、1930年(昭和5年)2月、2回目の欧米視察から戻ると、自動車に取り組む覚悟を固めたかのように織機工場の片隅に研究所を設け、技術者を集めて小型エンジンの研究をスタートさせた。手始めに自転車の補助エンジンであるスミス・モーター(写真)と呼ばれる小さなガソリンエンジンを少人数で試作・研究を始めたのである。このころ、喜一郎は大学の同窓であった内燃機関の研究家であり、東大教授となる隈部一雄(1897~1971年)をはじめ、友人のもとに通い、国産自動車の確立をめぐる政府や業界の動向を的確に把握し、同時に多くの事柄を学んでいる。
  一方、新しい工作機械や設備を購入し、工場に据え付けていった。導入された機械設備は、従来の紡織機械の世界のものではなく、より精密で高価なものだったが、喜一郎は将来を見据えて投資は惜しまなかったという。
  ところが、自動車についてはまったくの未経験集団同然である。トライ&エラーの繰り返し。当初は特殊鋼という材料の存在すら知らなかった。分解した外国製エンジンをそのまま模倣することさえ容易ではなかった。作っては壊し、作っては壊しの繰り返しの悪戦苦闘の日々だった。文字通り暗中模索のなかでのモノづくりへの挑戦である。

2022年1 月 1日 (土曜日)

『トヨタがトヨダであった時代』(第5回)

豊田喜一郎

  生まれ落ちた国のために仕事をして、自国を外国に誇示するべし! という国威掲揚を教育のど真ん中に置いていた。ココロザシのある人物は、“このままでは日本がだめになる!” そんな危機意識が募ったのは当たり前ともいえた。
  ちなみに、喜一郎は、父親の豊田佐吉からこんな薫陶を受けていたという。「わしは織機を作ってお国に尽くした。お前は自動車をやれ」。このまま手をこまねいていると、アメ車が日本の市場を埋め尽くしてしまう、という危機感は、当時の日本の起業家や資本家の気持ちとしては共通していた。
  だが、本格的な量産を目指す自動車産業に挑戦するとなると、リスクが大きすぎる。広大な工場施設や大量の優秀な労働力、機械設備、高い技術力、量産力、サービス体制、部品の購買力など数え上げたらきりがないほどの総合力が要求される。これらをすでに世界的企業となりつつあるフォード、GM相手にするわけだから、いわゆるクレバーな既存の資本家や起業家(具体的には三井、住友、三菱、渋沢、安田、大倉などの財閥)の大部分はやりがいのある事業だとは理解してはいるが、リスクの高いビジネスとして自動車産業にそっぽを向くか、二の足を踏んでいた状態だった。
  こうしたリスキーな事業に果敢に飛び込んでいったのが、トヨタと日産だったというわけだ。2社ともに新興勢力ともいえた。いまの言葉でいえばスタートアップ企業、あるいはベンチャー企業。
  ただ、このころの流れを注意深く調べると、トヨタも、正面切っての自動車製造に着手したというわけではない。むしろ日産の鮎川義介の方は、ワンマン企業だったこともあり、果敢に挑戦したといえる。
  この物語の主人公の豊田喜一郎は、豊田佐吉の息子とはいえ、その当時豊田自動織機製作所の常務に過ぎなかったからだ。喜一郎の独断で、「はいこれからうちの会社でクルマを作ろうと思います!」なんて宣言までには時間が必要だった。社長は、佐吉の長女の婿養子である豊田利三郎(1884~1952年)。喜一郎から見ると、10歳上の義兄である。喜一郎は、自分の夢を実現するには、外堀と内堀を少しずつ埋めていくしかなかった。
  (写真は1920年ごろの豊田喜一郎)

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