みなさん!知ってますCAR?

2019年2 月15日 (金曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第28回)

ワゴンRプラス  ワゴンRの予想を上回る成功で、ダイハツとの販売数に大差がつき始めた。あわてたダイハツは、2年後の1995年ムーブをデビューさせ、結果として日本の軽自動車市場にワゴンという新ジャンルを誕生させたのである。
  実は、このクルマのパッケージング(全体像)は、インテリア・デザイン担当の若者が、一人で黙々と考えデザインスケッチをほとんどそのまま生かして結実させたものだ、といわれる。どことなく、温かみのあるたたずまいを感じるのは、そのためかもしれない。デビューから累計で約460万台以上だというから間違いなく、スズキの稼ぎ頭である。
  ちなみに、ワゴンRは鈴木修の意見で「ジップ」という車名を用意していたところ、役員の一人に「よくないね」と茶々を入れられた。修の面白いところは、自分の美学にあまりこだわりを持たないこと。常に「目線を低くしておきたい」という気持ちを持ち続けている。何となく自分も「いま一つだ」と思っていたらしく、その意見に強く促され、「じゃあ、スズキはセダンもある。セダンもあるけどワゴンもあ~る。ということでワゴンRというのではどうだろう・・」ということで決まったという。そんなユーモアの源泉は鈴木修のどこから湧いてくるのか、不思議である。(写真はワゴンRプラス)
  参考文献;「スズキ・ストローリー」(小関和夫)、「俺は、中小企業のおやじ」(鈴木修)、スズキ歴史館での資料ほか

●次回から『知られざるダイハツの歴史』を眺めてみます。ご期待ください。

2019年2 月 1日 (金曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第27回)

ワゴンR   「小さな車を作ることで常に西のダイハツと、いい意味のライバル関係。いつも鍔(つば)迫り合いを演じている」
  スズキはそんな見方ができなくもない浜松発の自動車メーカーである。ところが、くらべるとスズキは先取り精神が一頭地を抜いていると思わせる時がある。最近なら2014年のハスラーの爆発的販売数だし、一昔前の1990年代なら1993年デビューのワゴンRがそのタイミングだった。
  ワゴンR(写真)が初お目見えした1993年といえば、バブル崩壊で、先行きが不透明で、日本人が内向きになり、いささかしょぼくれていた時代である。じつは、この軽のワゴンというジャンルではホンダが1970年代にステップバンというクルマで先鞭を付けてはいたが、あまりにも早すぎた登場タイミングで、ごく一部の若者にしか理解されなかった。1990年代はじめアメリカのミニバンブームがあり、「かっこいいワンボックス」を求める市場が出来上がっていたのである。
  貨物トラックから派生したキャリワゴンではユーザーの心が満たされていなかった。その意味ではワゴンRは当時の市場にド・ストライクだったのである。大人の男が道具としてのクルマとしてとらえた車だったのだ。

2019年1 月15日 (火曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第26回)

バレーノ  インドでは、生産の苦労をしただけあって、販売は極めて順調だった。普通の市民にとってこれまで高い関税(なんと170%!)に阻まれ、いいクルマに恵まれなかったのが、インド製の価格が安くて高品質なスズキブランドのクルマが販売されたのだから、インドの街中にスズキのSのマークのクルマが増えるのは時間の問題だった。
  インドで作られたスズキ車も2016年3月から日本で販売されている。5ドアのハッチバック「バレーノ」(BALENOはイタリア語で“閃光”のことだという)がそれで、1リッター3気筒直噴ターボエンジンと1.2リッター直噴4気筒ガソリンエンジンの2本立て。車格はスイフトと同じだが、ボディサイズはスイフトよりも一回り大きい。その後、5ドア・クロスオーバーSUVの「イグニス」(エンジン1242㏄4気筒)も登場している。
  いま(取材当時)では、インドの新車登録台数の約半分はスズキ車だという。インドは人口が約13億人。自動車の販売需要はここ15年で約4倍に増え、年間販売台数でいうと、中国の2800万台、アメリカの1780万台、日本の500万台、ドイツの370万台に次ぐ世界第5位の市場ということになる。

2019年1 月 1日 (火曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第25回)

鈴木修 (2)   当初は、こうした文化の違いで軋轢(あつれき)が生じたようだ。
   でも、現地の社長の賛同と、鈴木社長はじめスタッフの地道な説明とときには「工場経営はスズキ主導でやることになっている。それができなければインドにおさらばして、日本に帰る」と詰め寄った。このことで真剣みが伝わり、徐々にリーダー格の人が作業服を着たり、現場のラインに降りていったりと・・スズキ流の経営が浸透し始めた。
   こうして1983年12月には工場のオープンを迎え、ガンジー首相が工場まで駆け付け、スタートを切った。インド事業で苦労したのはほかにもあった。現地部品の調達である。当時、日本の自動車部品メーカー(サプライヤー)は「インドで自動車が作れるわけがない」として一社としてインドに進出する企業はなかった。
   そこで、最初はフル・ノックダウンといってほとんどの部品を日本から運び込み、インドで組み立てる方式だった。丸1年少したって生産数が5万台ラインになったころ、ようやく日本のサプライヤーがインドに見学に来ることで、インドでも十分仕事ができると判断、徐々にサプライヤーも進出してきた。

2018年12 月15日 (土曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第24回)

ニューデリーの近く  社員のだれに聞いても、カレーが好きな社員は少なくないが、インドなど行ったこともなければ、修自身もインドを訪れた経験がない。インドは、お釈迦様の誕生の地ぐらいの知識しかなく、まったくの未知の世界だった。
  2週間後、インドから「基本合意書を結ぶから、訪印されたし」との連絡が入った。社長になって4年目、52歳の修は、インドに飛んだ。そのなかで、ガンジー首相にもあいさつに行き、インド政府が自動車製造に並々ならぬ意欲があることを感じた。
  ニューデリーの近くのガルガオン(地図参照)というところに作りかけの工場があり、そこを修復して新工場とした。インド人の社長から「日本的な経営で構わない。全面的に任せます」というお墨付きをもらった。地元のインド人を雇い、経営にあたろうとすると数々の難問が怒涛のように襲いかかった。
  無断で工場内に幹部用の個室を作ったり、カースト制度のため社員食堂でカーストの異なるほかのスタッフたちと食事をとることを嫌がったり…「掃除はやらない。それはカーストの低い人たちの仕事だから…」と主張するものが出てきたり……同じ理由で「作業服も着ない!」とする社員もなかにはいた。当時のスズキの担当者から言わせると、「カオスの世界」に投げ込まれた気分だったようだ。

2018年12 月 1日 (土曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第23回)

カルタス  スズキの会長である鈴木修氏によると、インドでの自動車ビジネスが始まったのは偶然の産物だった。
  当時インドには、国民車構想というのがあり、インド政府直々に世界で自動車づくりのパートナーを求めていた。
  スズキがこれに前向きな返事を送ったことから、インドから調査団がやってきた。ひいては日本の自動車メーカーを見学に来たのである。1982年3月のことだ。
  ところが、ちょうどそのころ修氏はビッグスリーの一角であるGMとの交渉で北米に向かわなくてはいけなかった。とりあえず表敬訪問ということで、逗留する都内のホテルに向かい30分のつもりで調査団に合うことにした。この会談は、想定以上に話が弾み3時間の懇談となったという。北米から帰国後、修はインドの調査団は既に帰国したと思っていたら、修を待っているという。
  当時の日本の自動車メーカーのトップは、北米自動車摩擦の対応に追われ、インドへの目線を欠いていたようだ。ひとり修だけが、結果として、インドへの何か熱いものを感じたのかもしれない。ビジネスとは単に銭儲けではないということだ。
  ●写真はインドでも生産された2代目カルタス1989年式。

2018年11 月15日 (木曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第22回)

鈴木修  じつはスズキの海外展開は、北米よりも先にインドだった。インドでのビジネスの始まりは、1982年のことだ。
  鈴木修社長(写真)は、「とにかく、どんな小さな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい」というのがかねてからの信条だった。
  当時スズキは排ガス規制をめぐる技術的な失敗から屋台骨を揺るがす危機に陥ったが、何とかアルトの大成功で持ち直したところ。そんな時、未知な市場であるインドに挑戦したのは、修氏の先見性、それに指導力と決断が大きくものを言ったといえる。
  いまでこそインドは資本家たちには、地球上最後の巨大市場として大注目されているが、30年以上も前のインドに自動車産業が確立されるとは、誰しもが想像できなかった。そのため世界の大手の自動車メーカーは、どこも手を付けなかったのだ。
  だからして、当たり前のことだが、そうやすやすとインドへの足掛かりを確立できたわけではなかった。

2018年11 月 1日 (木曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第21回)

初代カルタス  スズキの海外戦略については、1980年代のGMとの提携が思い起こされる。
  当時の経済記者は「巨大なGMに東洋の弱小メーカーであるスズキはいとも簡単に飲み込まれるのがオチ…」と大いにその提携に危惧を抱いた。ちょうどアルトのヒットで社業が好調な時になぜあえてそんな挑戦をするのか? そんな心配もあった。だが、鈴木修社長は、GMとの提携を北米への足掛かりにしたいだけでなく、「技術面で一流メーカーの教えを請いたい」という思いだった、と振り返る。
  GMにとってもコンパクトカーをラインナップに加えたいという狙いがあり、スズキとの技術提携は、悪くない話だったようだ。こうして誕生したのが「カルタス」(写真)である。
  1984年にデビューし、北米にも輸出された。アメリカではシボレー・スプリント、ポンティアック・ファイアーフライという車名で販売された。スズキの4輪車が北米大陸の地を踏んだ最初である。筆者も北米取材でレンタカーとして数日間を共にしたが、チープ感が強く、正直あまり出来のいいクルマではなかった気がする。いまから見ればスズキの小型車生産のきっかけが、カルタスだった。
  カルタスは、その後90年代中頃まで活躍し、95年にカルタス・クレセントという名称となり、2000年にスイフトにバトンタッチするまで販売。15年間にわたり、スズキの登録車の代表選手として名を挙げたのである。

2018年10 月15日 (月曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第20回)

スズキのミュージアム内部案内図  1970年前後から始まった排ガス規制は、世界の自動車メーカーの喉元に、まるで刃を向けるような厳しい規制だった。
  後から振り返れば、確かにエンジンの燃焼という、これまでお金を投入して、あまり真剣に研究されてこなかったサイエンス(燃焼のメカニズム)を深く考えざるをえなくなり、その後の燃費向上に大きな足掛かりを付けた功績はある。だが、どこのメーカーもニューモデルの開発や新しいエンジンの開発など本来向かうべき方向性を大きく狂わせられ、足踏みを余儀なくされたという側面があった。
  スズキの場合は、このEPICエンジンの開発に結果として失敗したことで、「屋台骨が揺らぐほどだった。アルトのヒットでなんとか盛り返したが……」(鈴木修氏)という。少なくとも4ストロークエンジンの開発に大きく後れを取ったのである。軽自動車の新エンジンK6Aエンジンが登場するのが1994年、その後継エンジンR06Aエンジンがデビューしたのが2011年である。ちなみに、このEPICエンジンの話題は博物館のどこにも見当たらないのは残念だ。負の遺産として、後輩たちへの良きアドバイスになると思うのだが、そうした振る舞いができるにはもう少し時間が必要なのかもしれない。

2018年10 月 1日 (月曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第19回)

SuzukiEPIC  スズキのEPICというのはエグゾースト・ポート・イグニッション・クリーナーの略である。排気孔点火浄化装置。当時のスズキのエンジンは2ストロークエンジンが主力ということで、2ストローク専用の排ガス装置として当時はかなり注目されたものだ。
  2ストロークエンジンは、4ストロークエンジンのように排気バルブを持たずに排気孔(エキゾーストポート)という穴を設けている。そうしたエンジンの構造上、4ストロークに比べ、NOⅹこそ少なく、COはほぼ同等だが、HCの排出がやたらに多くなる傾向にあるエンジンだった。早い話生ガスのマフラーから出るのである。
  そこで、この排気から出る生ガス(HC)を燃やすためにエアポンプをつけ、さらに排気付近に2本目のスパークプラグを取り付けて燃やすというものだ。簡単に言えば、後燃焼、つまりアフターバーン方式で、燃費の悪化は避けられず、チューニングも難しいという側面があった。辛辣な言いかたをすれば、「苦しまぎれの排ガス浄化システム」であった。

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