みなさん!知ってますCAR?

2018年12 月15日 (土曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第24回)

ニューデリーの近く  社員のだれに聞いても、カレーが好きな社員は少なくないが、インドなど行ったこともなければ、修自身もインドを訪れた経験がない。インドは、お釈迦様の誕生の地ぐらいの知識しかなく、まったくの未知の世界だった。
  2週間後、インドから「基本合意書を結ぶから、訪印されたし」との連絡が入った。社長になって4年目、52歳の修は、インドに飛んだ。そのなかで、ガンジー首相にもあいさつに行き、インド政府が自動車製造に並々ならぬ意欲があることを感じた。
  ニューデリーの近くのガルガオン(地図参照)というところに作りかけの工場があり、そこを修復して新工場とした。インド人の社長から「日本的な経営で構わない。全面的に任せます」というお墨付きをもらった。地元のインド人を雇い、経営にあたろうとすると数々の難問が怒涛のように襲いかかった。
  無断で工場内に幹部用の個室を作ったり、カースト制度のため社員食堂でカーストの異なるほかのスタッフたちと食事をとることを嫌がったり…「掃除はやらない。それはカーストの低い人たちの仕事だから…」という主張するものが出てきたり……同じ理由で「作業服も着ない!」とする社員もなかにはいた。当時のスズキの担当者から言わせると、「カオスの世界」に投げ込まれた気分だったようだ。

2018年12 月 1日 (土曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第23回)

カルタス  スズキの会長である鈴木修氏によると、インドでの自動車ビジネスが始まったのは偶然の産物だった。
  当時インドには、国民車構想というのがあり、インド政府直々に世界で自動車づくりのパートナーを求めていた。
  スズキがこれに前向きな返事を送ったことから、インドから調査団がやってきた。ひいては日本の自動車メーカーを見学に来たのである。1982年3月のことだ。
  ところが、ちょうどそのころ修氏はビッグスリーの一角であるGMとの交渉で北米に向かわなくてはいけなかった。とりあえず表敬訪問ということで、逗留する都内のホテルに向かい30分のつもりで調査団に合うことにした。この会談は、想定以上に話が弾み3時間の懇談となったという。北米から帰国後、修はインドの調査団は既に帰国したと思っていたら、修を待っているという。
  当時の日本の自動車メーカーのトップは、北米自動車摩擦の対応に追われ、インドへの目線を欠いていたようだ。ひとり修だけが、結果として、インドへの何か熱いものを感じたのかもしれない。ビジネスとは単に銭儲けではないということだ。
  ●写真はインドでも生産された2代目カルタス1989年式。

2018年11 月15日 (木曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第22回)

鈴木修  じつはスズキの海外展開は、北米よりも先にインドだった。インドでのビジネスの始まりは、1982年のことだ。
  鈴木修社長(写真)は、「とにかく、どんな小さな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい」というのがかねてからの信条だった。
  当時スズキは排ガス規制をめぐる技術的な失敗から屋台骨を揺るがす危機に陥ったが、何とかアルトの大成功で持ち直したところ。そんな時、未知な市場であるインドに挑戦したのは、修氏の先見性、それに指導力と決断が大きくものを言ったといえる。
  いまでこそインドは資本家たちには、地球上最後の巨大市場として大注目されているが、30年以上も前のインドに自動車産業が確立されるとは、誰しもが想像できなかった。そのため世界の大手の自動車メーカーは、どこも手を付けなかったのだ。
  だからして、当たり前のことだが、そうやすやすとインドへの足掛かりを確立できたわけではなかった。

2018年11 月 1日 (木曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第21回)

初代カルタス  スズキの海外戦略については、1980年代のGMとの提携が思い起こされる。
  当時の経済記者は「巨大なGMに東洋の弱小メーカーであるスズキはいとも簡単に飲み込まれるのがオチ…」と大いにその提携に危惧を抱いた。ちょうどアルトのヒットで社業が好調な時になぜあえてそんな挑戦をするのか? そんな心配もあった。だが、鈴木修社長は、GMとの提携を北米への足掛かりにしたいだけでなく、「技術面で一流メーカーの教えを請いたい」という思いだった、と振り返る。
  GMにとってもコンパクトカーをラインナップに加えたいという狙いがあり、スズキとの技術提携は、悪くない話だったようだ。こうして誕生したのが「カルタス」(写真)である。
  1984年にデビューし、北米にも輸出された。アメリカではシボレー・スプリント、ポンティアック・ファイアーフライという車名で販売された。スズキの4輪車が北米大陸の地を踏んだ最初である。筆者も北米取材でレンタカーとして数日間を共にしたが、チープ感が強く、正直あまり出来のいいクルマではなかった気がする。いまから見ればスズキの小型車生産のきっかけが、カルタスだった。
  カルタスは、その後90年代中頃まで活躍し、95年にカルタス・クレセントという名称となり、2000年にスイフトにバトンタッチするまで販売。15年間にわたり、スズキの登録車の代表選手として名を挙げたのである。

2018年10 月15日 (月曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第20回)

スズキのミュージアム内部案内図  1970年前後から始まった排ガス規制は、世界の自動車メーカーの喉元に、まるで刃を向けるような厳しい規制だった。
  後から振り返れば、確かにエンジンの燃焼という、これまでお金を投入して、あまり真剣に研究されてこなかったサイエンス(燃焼のメカニズム)を深く考えざるをえなくなり、その後の燃費向上に大きな足掛かりを付けた功績はある。だが、どこのメーカーもニューモデルの開発や新しいエンジンの開発など本来向かうべき方向性を大きく狂わせられ、足踏みを余儀なくされたという側面があった。
  スズキの場合は、このEPICエンジンの開発に結果として失敗したことで、「屋台骨が揺らぐほどだった。アルトのヒットでなんとか盛り返したが……」(鈴木修氏)という。少なくとも4ストロークエンジンの開発に大きく後れを取ったのである。軽自動車の新エンジンK6Aエンジンが登場するのが1994年、その後継エンジンR06Aエンジンがデビューしたのが2011年である。ちなみに、このEPICエンジンの話題は博物館のどこにも見当たらないのは残念だ。負の遺産として、後輩たちへの良きアドバイスになると思うのだが、そうした振る舞いができるにはもう少し時間が必要なのかもしれない。

2018年10 月 1日 (月曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第19回)

SuzukiEPIC  スズキのEPICというのはエグゾースト・ポート・イグニッション・クリーナーの略である。排気孔点火浄化装置。当時のスズキのエンジンは2ストロークエンジンが主力ということで、2ストローク専用の排ガス装置として当時はかなり注目されたものだ。
  2ストロークエンジンは、4ストロークエンジンのように排気バルブを持たずに排気孔(エキゾーストポート)という穴を設けている。そうしたエンジンの構造上、4ストロークに比べ、NOⅹこそ少なく、COはほぼ同等だが、HCの排出がやたらに多くなる傾向にあるエンジンだった。早い話生ガスのマフラーから出るのである。
  そこで、この排気から出る生ガス(HC)を燃やすためにエアポンプをつけ、さらに排気付近に2本目のスパークプラグを取り付けて燃やすというものだ。簡単に言えば、後燃焼、つまりアフターバーン方式で、燃費の悪化は避けられず、チューニングも難しいという側面があった。辛辣な言いかたをすれば、「苦しまぎれの排ガス浄化システム」であった。

2018年9 月15日 (土曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第18回)

SuzukiEPIC  低価格車戦略を打ち出したアルトの成功は、1979年(昭和54年)である。
  スズキには、その前に長いトンネルをくぐる時代があった。1970年代初頭から社会問題化し始めた排ガスの問題である。クルマのテールパイプから出る排気ガスをよりきれいなものにするべく決められた法律は、いまでこそほとんど社会問題化されてはいないが、当時は、自動車産業を長い期間、大きく揺さぶる大事件だった。
  アメリカのマスキー上院議員から提案されたマスキー法案(大気浄化法)は、一酸化炭素CO,炭化水素HC,窒素酸化物NOⅹの排出を段階的に抑制するというものである。1972年にホンダが発表したCVCCエンジンは今でもその厳しい排気ガス規制をクリアした輝かしい第1歩としてことあるごとに追憶され、記憶をよみがえらせるが、その陰で数多くの排ガスメカニズムが消えていった。
  そのひとつが、スズキのEPICエンジンである。2ストロークエンジンのスズキ独自の排ガス浄化システムだった。

2018年9 月 1日 (土曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第17回)

アルトと鈴木修さんたち  当時、専務だった鈴木修は、従来コンセプトで売り出そうとしていたクルマを1年間凍結。「もっと安く、もっと軽く、常識破りのクルマを作ろう」という合言葉のもと、コストカット! 徹底した工程の合理化と部品削減を断行。本当にお客様の欲しがるクルマ作りを練り直した。コストカッターといえば日産に乗り込み大ナタを振るったものの、トヨタの章男社長の3倍の10億円という年収を受け取るカルロス・ゴーンを思い浮かぶが、修氏の年収は同じ頃、2億円を切ったそうだ。
  横道にそれたが、とはあれ・・・生まれたのがアルト。「全国統一価格47万円」という当時としては中古車並みの価格だった。当時はたとえば北海道のユーザーは輸送代5万円前後を払わなくてはいけなかったのだが、これを全国統一価格にした。それだけでなく、当時3~4グレードほどあったランクを1グレードにして量産性を高め、そのぶんコストを下げた。助手席のリクライニングシートを廃止するなど徹底した工程の削減と部品点数の削減をおこなった。
  4ナンバーの貨物扱いで税金も少なくてすんだ。生活の足を求めていた消費者の心をつかみ、アルトはあっという間に月販1万台を軽く超え、ベストセラーに躍り出た。
  以来アルトは、スズキの看板商品となり、デビューして30年で、世界規模で累計1000万台を達成。このアルトの成功でスズキはバイクメーカーから4輪車メーカーへの基礎固めができたのである。

2018年8 月15日 (水曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第16回)

初代アルト  社内では「せいぜい売れても年間150台ぐらい!」そんな悲観的というか、他人事めいた声があるなか、軽自動車初の本格4輪駆動車のジムニーは、1970年4月デビューした。価格は47万8000円。ルーツであるホープスターにくらべ、20万円も低価格のプライスタグが付けられての登場だった。
  ニューモデルが、売れるか、売れないかを見通すことができる、水晶の球はどこにもありはしない。ところが、このときばかりは、鈴木修は、未来を予測できる水晶の球の持ち主だったかもしれない。大方の予想を裏切り、大ヒットとなったからだ。ラダーフレームのパートタイム4WD,前後リジッドサス、こうした硬派のメカニズムが受けたのだ。2年後の1972年5月には、月産2000台を記録したのだ。
  どの大手自動車メーカーも手掛けていなかった市場に大きな需要が眠っていたのである。新しい鉱脈を掘り起こしたようなものだ。しかも1975年パキスタンでも生産されるなど、わずか30年で世界累計販売台数200万台を達成している。ジムニーはスズキの立派なブランドの一つになったのだ。2018年、8月現在グローバルで290万台に迫る勢いなのである。あまり言われないが、ジムニーのような車は、モデルチェンジを繰り返さないので、実は儲けが少なくないのである。※スズキの4輪セールスで輝かしき歴史を持つのは、アルトである。
  「さわやかアルト47万円」で1979年衝撃のデビューを果たし、女性の社会進出を後押しした初代アルト。実は、このアルト誕生にもジムニーのデビュー物語と肩を並べるほどの、大いなる秘話がある。
  排ガス規制とオイルショックでクルマが売れず、青息吐息の時代。軽自動車の規格枠拡大、小型車との価格差が小さくなり、軽自動車の存在意義が薄れつつあった。そんな時あえて……なのである。

2018年8 月 1日 (水曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第15回)

初代ジムニー  前回お話したとおり、当時、修は正真正銘の自動車メーカーの社員なのだが、4輪駆動というクルマのことがわからなかったと、恥じることなく自伝で告白している。「クルマなら車輪が4つあるのだからみな4輪駆動だと思っていた。2輪駆動というのはオートバイのことだと…」(注:2輪駆動のオートバイもありません!)
  でも、その4輪駆動車が傾斜のきつい富士山をトコトコ登る8ミリ映像を見たことで、「4輪駆動車というのはすごいものだ!」と、まるで子供のように無邪気な気持ちで感動したというのだ。
その気持ちが即座に「ビジネスチャンスだ!」ととらえるところに、修の非凡さが光る。
  「これからはレジャーブームが来る!」そんな予感が電流のようにからだを走ったかもしれない。
  だが、当時のスズキの技術陣は何やら危うさを感じ取っていたようだ。そもそも軽自動車の本格4WDは存在しなかったのだから、理詰めでモノを考える人と修の価値観が合致するわけがない。
  修は、技術陣の反対を押し切るカタチで、このクルマの製造権を買い取り、大幅な設計変更を加え、市販することにしたのだ。もちろん、製品として煮詰める段階では、修は技術陣の考えを取り入れたに違いない。
  ドライブトレインは前後が強靭さを誇るリジッドサスペンション、16インチホイール、2速タイプのトランスファーなどJEEP同様の本格的なメカニズム構成。キャリイ用の2サイクル2気筒360㏄エンジンとトランスミッションを組み合わせた。こうして軽く、走破性の高い、スタイリングも魅力的な4輪駆動を仕立て上げた。ネーミングは「ジープのミニ」ということで『ジムニー』としたのである。かつて修は、「チョイノリ」というバイクを命名したことがある。このときは成功とは言えなかったが、『ジムニー』は、成功したから、そう感じるのかもしれないが、よくできたネーミングだ。

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