光陰矢の如し! とはよく言ったものだ。まる2年はあっという間にやってきた。
マイカーのシエンタ2015年式(エンジン排気量1500㏄ 走行約6万キロ)の3回目の車検が迫ってきた。前回、川崎の検査登録事務所で取得したので、今回も同じところで車検を取るつもり。なにしろ川崎は、規模が大きい港北にある検査場(正式には神奈川運輸支局)よりも空いているからだ。
整備記録(メンテンナンスノート)を見直してみると、2年前の前回からわずか5000キロほどしか走っていないことが判明。この間ちょうどコロナ渦。しかも近所はもっぱらクロスバイク(自転車)での移動に切り替えたため、従来にくらべ1/4の走行キロ数でしかない。
とりあえず、あらためてざっと24か月点検をおこなった。もし不具合が発見できれば「検査後に修理をする」というやり方をとる目算だ。いわゆる“前検査・あと修理”というスタイル。たとえて言えば、フォーマルな場に出るとき、普段着にジャケットを羽織り、ドレスコードに引っ掛かれば受付でネクタイを借りてすませる、そんな気分?
いまやユーザー車検の受付は、スマホを使いネットで安直にできる。
車検証を手元に置いた状態で「インターネット予約サイト(https://www.reserve.naltec.go.jp)」にアクセスする。
そこで継続検査、検査車種の乗用車を選択し、次に出向くべき車検場を選ぶ。そして日時を指定し、スマホのカメラを起動して、車検証の下部にある2次元コードを読み取る。すると、画面にアルファベットと数字が並ぶ車体番号が取り込まれスムーズに予約完了となる。
この間わずか数分。あとは、確認メールが、送られ、そこには予約番号が記されているので、リマインダーに記憶させるか、当日、そのメールを参照すればいい。
車検に必要な用紙は、車検証、自賠責保険証、それにメンテナンスノートの3つ。以前は、自動車税の納税証明書が必要だったが、いまは窓口で確認できるということで不要。書類探しに右往左往。納税証明書を取りに近くの県税事務所の窓口に駆け込んだものだが、そのわずらわしさから解放された。
当日、車検場で準備する書類はこの3つ以外に3つ。自動車重量税納付書、一部鉛筆書きが要求される継続検査申請書、それに検査ラインの結果を印字する自動車検査票。この3つを車検証を横に並べ、備え付けのサンプルを見ながら記入する。ちなみに用紙代はいまや無料である。
書類ができたら受付窓口にGO! 受付では「では検査ライン〇〇番に入ってください」と言われる。
検査ラインに入る前に、点検ハンマーを手に持った検査官とご対面! 書類と実際のクルマは同一かどうかを確認する同一性の確認(ここでライト類もチェックされる)。そのときランプ類やホーン、ワイパーが作動するかをチェックされる。
いよいよラインに入る。すでにユーザー車検は20回以上の体験者だが、やはりどこか不安な気持ちでドキドキ。
ところが、その不安もすぐ消える。いまではユーザー車検のお客(?)にはピタリと「車検検査係」のおじさんが付いてくれるからだ。その係のおじさんが、手取り足取り教えてくれるのだ。サイドスリップでは「歩くほどの速度でゆっくりと走行してください」とか、ブレーキ検査では「もっとペダルを踏み込んでください」とじつに優しく教えてくれる。
ところがひとつ難問が! 排ガス検査だ。マイカーはハイブリッド車だからだ。
いわゆる整備モードにしないと、アイドリングストップ状態となり、排ガスの検査ができない。このときだけはあえて環境汚染を無視して、アイドリング状態にしないと検査ができないのだ。
そのための複雑な手順がある。ブレーキを踏まずにスタートボタンを2度押し、アクセルペダルを2回ベタ踏みし、次にブレーキペダルを踏みながらNレンジに入れ、再度アクセルペダルを2回ベタ踏み、さらにPに入れ・・・・という1度や2度聞いただけではとても覚えきれない複雑な手順が要求される。これらを、係のおじさんは、横に付いていて親切に教えてくれるのだ。
この案内係のおじさんに限らず、受付の女性や各担当者は、みなフレンドリーな空気を少しばかり醸し出しているようにも見える。むかしの築地の市場に迷い込んだような「素人さんお断り」のオーラなどまるでない。
ちなみに、今回は走行5000キロの履歴ということが功を奏して、無事車検に一発で合格。しかも、自賠責が従来より5000円ほど安くなり2万10円。重量税が1万5000円、検査登録印紙が400円、審査証紙が1700円で、自動車税を抜きにして、自賠責保険込みでわずか3万7110円でした。
節約だけではなく、クルマと触れ合う機会が増えたぶん、ずいぶん得した気分だ。みなさんも、ぜひユーザー車検に挑戦してもらいたい! 必ずやいろんな気づきが得られるはず。
(下の写真は、日本の車検場で配布している手のひらサイズの「クルマの日常点検ハンドブック」。わずか26ページの小冊子だが、だれにでもわかりやすく点検ができる工夫がある)
ボディと内外艤装部品は、特装車の製作やモータースポーツの部品作りを得意とするトヨタテクノクラフトに任せることにした。
図面があっても、当時はカラー写真がないため、シートやカーペットの色合い、触感が掴めずずいぶん苦労したという。でも、これも、当時製造にかかわったOBが存命で、彼らから50年の時空を超え、鮮明に記憶している情報を授けられた。
エンジンは、お手本にしたシボレーのOHV6気筒が載るシボレー1934年型を博物館が1986年に1台入手したので、いろいろな疑問が解消したという点もラッキーだった。
たとえば、オイルフィルターの図面が見つからず、疑問を抱いていたのだが、よくよく調べてみるとこのエンジンにはフィルターがなく、ストレーナーでオイルの不純物をろ過するというシンプル構造であることが分かった。OBとのインタビューで裏もとれたという。
ワイパーは、電動タイプではなく、バキューム式のアクチュエーターを使いエンジンのインテークマニホールドで発生するバキューム(負圧)を活用する手法。ゆえに車速が早まると、ワイパーの動きが逆に遅くなるという。これは輸入品で、調べてみると、現在もアメリカの部品業界では新品が在庫していたという。旧いクルマを大切に使うというアメリカ・クルマ社会の一面を見せられ、驚いたという。
面白いのは、スイッチ直付けのテールランプだ。普通テールランプは運転席付近にあるのだが、当時は、自動車取り締り令という法律で「後面灯火は運転席から消灯できないように装置すること」となっているので、ランプを消すには、ちくいちクルマから降りなくてはいけない。これは、もし運転手が違反を犯したとき、ランプを消して姿をくらます恐れがないように、そんな仕組みにしたというのだ。なんとも時代を感じさせる法律と装置であった。
こうしてAA型乗用車のことをあれこれ調べてみると、単に外国車をお手本にしただけでなく、喜一郎をはじめとした当時の開発者が、自分たちの頭脳と技術で創意工夫を凝らしたことがわかる。日本の国情にあった乗用車をつくるという大きな目標に向かい、チカラを合わせ一丸となって一歩一歩挑戦を繰り広げた、そんな証がAA型に他ならなかった。
AA型の写真や資料を眺めていると、時空を超えて、そんな人々の声が聞こえてくるようだ。
日本の自動車メーカーのなかで、とてもチャレンジングな会社をあげろ、と言われたら、たいていの人はホンダとマツダの2社をあげるのではないだろうか(3社ならスバルも入る)。
トヨタも日産もそれなりにチャレンジングなところはあるが、巨大な組織なので顔が見えづらい。その点、ホンダとマツダは全体像が見渡しやすく、ほどほどの企業規模のせいかヒューマンドキュメントを読み取りやすい。
ところが、そのヒューマンドキュメントを描いた市販書籍の数となると、この2社には、天と地というか100とゼロほどの差がある。ホンダは、創業者である本田宗一郎関連の本がざっくり言って、たぶん100冊はくだらない。だが、マツダの関連本となると、ほとんど見当たらない。
これはどう見ても不公平極まりない。
ホンダが静岡、東京それに埼玉、栃木をベースにしているのに対し、マツダは西日本の広島で、首都圏と遠く離れているせいか? いやそうではなく、ホンダの場合、本田宗一郎氏がある意味偉大過ぎるというか、文字通り立志伝中の人物として物語にしやすい。伝説が別の伝説を生み出し肥大していった感がある。
もっと言えばホンダという企業は、“伝説がブランドを作る”ということを、かなりまえから、もっともよく知る企業らしく、意図的にそうしたメディア操作に力を入れてきた形跡がある。メディアが、ブランドを構築してきたのだ。
そう考えるとマツダは、なんともお上品というか、控えめというか、皮肉まじりにいえばナイーブでイノセントだったといえる。
2018年に単行本化、2021年に文庫化された本書は、その意味で「ようやく出たぞ! マツダのヒストリー本」なのだ。
ロータリーエンジン(RE)を導入し、世界初のRE量産車である「コスモスポーツ」を世に送り出した松田恒次(1895~1970年)を主人公としてはいるが、3輪トラックなどでマツダの基礎をつくった松田重次郎(1875~1952年)の少年期からこの物語を始めている。
もともと大阪にある砲兵工廠などで職人としての腕を磨いた重次郎は、何度も会社を立ち行かなくしながら画期的な水ポンプを開発したり、ロシアからの膨大な量の「信管」(爆弾や魚雷を爆発させるための装置)を受注したり、そして故郷広島でコルクの会社の経営者として腕を振るう。そのコルク製造会社がのちにオートバイをつくり、3輪トラックをつくり、戦後自動車の量産に乗り出すのである。
いまの言葉でいえば、スタートアップ企業が、多くの失敗を重ねながら試行錯誤を続け、徐々にノウハウを蓄積し、大企業へと変貌していく。ダイナミックでワクワクする戦前の人間味あふれるモノづくり世界が展開される。
REをめぐる物語のアウトラインは、たいていの読者は知っているかもしれない。でも、あらためておさらいしてみると、当時の松田恒次の勇気とココロザシに感動する。そもそも、恒次は、一度重次郎とたもとを分かち(早い話、首になった!)、マツダ(正確には当時の社名では東洋工業)から離れている。
この背景には、恒次より8歳若い村尾時之助という人物がいたことは、今回この本で初めて知りえた。村尾は、呉生まれで広島大学工学部の前身広島高等工業学校機械工学科を卒業後、呉海軍工廠航空機部に入る。航空機のエンジン開発に携わり、さらに中島飛行機の海軍技官ともなった人物。大阪の工業高校中退の恒次とは違ったエリートエンジニア。
重次郎は、その当時、恒次よりもこの村尾を後継者にふさわしいとして、白羽の矢を立てようとしたようだ。恒次はマツダを離れ、ボールペンや編み機などの事業でそれなりの経験を積むのである。平時の場合なら村尾を選択するが、これからは激動の時代。そう見た重次郎は、恒次を呼び戻し、そこから数年後命を懸け、恒次にいわゆる帝王学を授ける。
マツダのリーダーとなった恒次には、じつは大きな秘密が隠されていた。家族とほんのわずかな知人しか知らなかったが、片足が義足だったのだ。若いころの病魔のおかげで片足をなくしていたのだ。このことは社員のほとんどは知らなかった。
元マツダの社員で、私の知恵袋のエンジニアKさんは、恒次さんと生前何度も出会っている。恒次は前触れもなくよく製造ラインの視察に来たともいう。恒次の身体の件を電話口で伝えたところ、しばらく絶句していた。まったく気づかなかったというのだ。でも、そのKさんのおかげで広島郊外にあるREのリビルト工場を取材したことをよく覚えている。
・・・・・それにしても、REの血のにじむような開発物語は何度聞いても心を動かされる。
(2021年6月刊)
足回りの作業をするとき、あると便利なのは手ごろな「椅子」だ。床にドシリとお尻を降ろして作業する場合もなくはないが、やはりワークベンチというかワークシートがあるに越したことはない。作業時の足や腰の負担度が劇的に軽くなるからだ。
そこで、昔よく使っていたのがお風呂で使う小型の椅子。これでも悪くはないが、やや低く、椅子の周辺に工具や部品を置く場所があるシートが求められるところ。そこで、専用の「ワークシート」(正式商品名はローリングワークシート:品番030935)をようやく手に入れた。
台湾製でたしか3000~4000円ほどで手に入れたオール樹脂製のタイプ。四隅にキャスターが付いていて、座るとスイスイ好みの場所に移動できる(もちろん床がそれなりに平たんである場合!)。座面の高さも330mmほどで日本人の体形にちょうどイイ感じである。樹脂製で1.9kgとだんぜん軽い。少し高級感のある鉄パイプ製でシート部にクッション性を持ったものは3~4kgなので、半分以下の軽さ。ヒョイと手に持ち移動することも簡単だ。手に持つことを想定しないらしく、素手だと手が痛くなるが‥‥。
座面には蓋があり、開けると小ねじや部品が入れられる。まわりにも凹みが計3カ所あり、工具や部品が入れられる。1/2インチのラチェットハンドルぐらいなら楽々収まる容量だ。
ただ、これが使ってみると、意外なところが気になった。座面がフラットで長時間座っているとお尻が痛くなる点。これはよくない。でも、まぁホームセンターあたりでゴムシートを手に入れ貼り付ければ大丈夫と言えなくもない。
一番心配なのは、肝心のキャスターだ。2~3年でたぶんこのキャスターは駄目になる可能性が高いと見た。荒れた作業場の路面などで無理やり体重をかけて動かそうとすると、おそらく壊れる可能性が高い。キャスターの根元が破損したら、樹脂製だけに補修ができず、やむなく廃棄処分となる可能性大だ。
となると、このワークシートは、価格が安いので、壊れるまで使い込み、壊れたら買い直せばいい。そんな感じのワークシートである。発売元:㈱ワールドツール http://www.astro-p.co.jp