若いころは内部のメカニズムに気を奪われて、デザインの良し悪しなどあまり考えに入れてクルマを見てこなかった。でも、このところデザインが量産品の成否を分けることが理解できる。
たぶんここ数年自転車にまたがり、ショーウインドウに写るわが姿を見たり、日々クロスバイクの自転車を愛でているせいかもしれない。三角フレームと2つのタイヤにハンドルとサドル、この4つの単純明快な要素で構成されている自転車でも(あるいはそれ故こそ!)デザインひとつで気持ちの高まりが違ってくる。そのことに気付いたせいかもしれない。
このほど発表された新型プリウスは、たぶん誰の目にも、なんともカッコいいスタイルに映るに違いない。
全長で25mm伸ばし4600mm、全幅で20mm伸ばし1780mm、全高では逆に40mm低くして1430mmとした。タイヤ径を19インチ(195/50R19)とでかくしている。フロントはまるでハンマーヘッドでシャープさを醸し出し、フロントピラーを寝かせた5ドアクーペ。これで、居住性は大丈夫なのかと心配が先に立つほどに、カッコよすぎる感じ。
いまから4半世紀前に登場した初代のプリウスは、どちらかというとズングリむっくりスタイルだった。当時はパワーユニット(何しろエンジンだけでなくモーターが追加している!)の小型化の困難さが反映されたスタイルだったが、逆にそれが好感さを生んだようだ。
あれから25年。いまやトヨタ車の約50車種にハイブリッドが誕生し、世界初の量産ハイブリッドカープリウスも2010年をピーク(世界販売約51万台)に、このところ販売面での低空飛行を続けていた。
トヨタの開発陣は、5代目を計画する前で悩んだという。脱炭素の世界的潮流のなかで、EVに切り替えるべきではないか!? だが、HVでまだいけるとする意見が上回った。「ハイブリッド・リボーン」を掲げてフルチェンジしたのだ。
デザイン、設計、製造、販売などあらゆる部署のメンバーを初期段階から巻き込み、ひとつのチームとして開発業務に取り組んだという。で、出来上がった5代目のもうひとつのコンセプトが「デザインと走りの良さ」である。
ハイブリッド車はこの冬発売、外部から充電できるPHV車は来春に発売なので、価格や詳細は不明だが、新型2リッターのエンジンを載せる新型プリウスはシステム最高出力が193PSと従来比1.6倍! PHV車システム最高出力がなんと223PSで0→100km/hがスポーツカー並みの6.7秒をマークするだという。
それと見落としがちだが、トヨタのHV特有だった小さすぎて、どこにあるのか戸惑ったシフトレバーが通常のシフトレバーの位置に明確にセットされ、メーターにシフト位置を表示させるだけでなく、レバー近くの文字表示を光らせドライバーにわかりやすくしているのも、4半世紀でHVが普通のクルマに近づいた印象を与える。
プリウスとは、ラテン語で“さきがけ”を意味するというが、そのココロは実に微妙である。
クルマという乗り物が誕生して以来、数多くの自動車に携わった人間がいる。そのなかで、ホンダのF1の元監督だった中村良夫さん(1918~1994年)ほど名著といえる多くの書籍を残したエンジニアはいないと思う。多くのエンジニアは、どうしても取扱説明書に限りなく近い唯我独尊じみた文章に終始しがち。
中村さんは早逝した医師の息子だった一方、明治維新の息吹を吸い込んだ祖母の薫陶を受けている。若いころ旧制中学で文芸書をはじめあらゆる分野の書籍を乱読したという。明晰で分かりやすく、しかも本質を突いた文章の背景は、そこにあったと思われる。
大正7年、1918年生まれの中村さんは、いわゆる戦中派だ。太平洋戦争開戦時ちょうど30歳代の働き盛り。
東大工学部航空学科を卒業後、中島飛行機に入り、すぐ陸軍航空技術中尉となり例の富嶽に載せる超弩級の星型36気筒エンジンなどの開発に携わる。が、1945年8月15日の終戦で無職となる。当時誰もが“徒手空拳のひと”になったとはいえ、精神的に激烈な衝撃だったに違いない。
終戦から4年目の昭和24年大学の恩師の紹介でトヨタ自動車への就職が決まりかけた。戦後の混乱期の当時、いまでは想像もつかないほど、食べることと住まいを確保することが最重要事項だった。住居も合わせて準備しての就職だと信じていた中村さんは、面接担当の人事部長が「君のために家を探している暇などない」といわれ、若い中村さんは、つい“若気の至り”で席を立ち帰ってしまった。
その後中村さんはホンダに入社することになるのだが、トヨタの人事部長とのほんのわずかなボタンの掛け違いで、トヨタは優秀な人材を逃したことになった。
このエピソードも面白いのだが、もうひとつそれ以上に驚く話がある。
トヨタの面接の少し前まで、実は中村さんは、乳母の嫁ぎ先でもある地元山口の宇部にある蒲鉾屋にいっとき技術者として席を温めている。その蒲鉾屋、蒲鉾などの製品を作り出す自動採取機の機械などを輸出販売していて、ネットで検索すると現在も宇部で㈱ヤナギヤという社名で社員150名ほどを要し、パリにも事業所を持つ中堅企業。
中村さんの自伝(1994年刊)に、この当時のことがリアルに描かれている。
当時、そもそもすり潰し機製造の鉄工所を併設していて、創業者の柳屋元助さんは、魚肉をすり下ろす擦り潰し機を模索していたという。皮と骨と内臓を取り去った魚肉に、当時メリケン粉と呼んでいた小麦粉と調味料を混ぜて、細かな練り物にしてしまう機械。この機械でできたすり身を板に盛って焼けば蒲鉾になる。成形して油で揚げればサツマ揚げ(山口ではテンプラと称した)になり、筒状にして焼けばチクワになる。
中村さんが造り上げたのは、回転式自動採集機と呼ばれるもので、魚を2枚に降ろし、内臓を取り皮と骨を除去して、魚肉だけを残すというマシン。創業者の元助さんの経験を十分に取り入れたオリジナルマシンだったという。この機械はその後少しずつ改良され(写真は現在のタイプ)、いまでも国内やアジアだけでなく、アメリカやヨーロッパにまで輸出しているという。さかなクンではないが、まさに“ギョギョギョ”なエピソードだ。
中村さんは死の2年前、この自伝を書き上げているのだが、この中で「戦後わたしが情熱を傾けてやってきたクルマ産業は、1994年現在、戦後の日本経済のバブル崩壊とともに大きく崩れ始めているのに、私がほんのお手伝いのつもりでやった柳屋の水産加工機はほとんどそのままの形で、いまや日本食ブームとともに世界中に輸出されている」。
つまり30年近く前、中村さんは、すでに日本の自動車産業に暗い影が覆い始めていることを強く感じていたのである。
人が本を手に読み始めるには、いろいろなキッカケが考えられる。友人に勧められた。新聞広告で興味を持った。書評を読んでなぜか引き付けられた。夏休みの読書感想文を書くためやむなく、なんていうのもあるだろう。
この吉村さんの書いた文庫版で430ページに及ぶ長編小説は、かつて(広田が)取材で何度となく訪れた京都にある八幡の解体屋街がキッカケ。いわゆる関西を代表する自動車解体屋街はかなりエグイ印象の“部品剥ぎ取りセンター”などがあり、どこか異界めいた雰囲気が漂った地域。一昔前までは中古部品のメッカという位置づけだったため、中古部品をテーマにした特集記事の取材となればカメラを担いで遠路はるばる出かけた。
何度も足を運ぶうちにこの土地には別のオーラがあることに気付く。でも、この地が神がかっているところと近代文明が混然としている不思議な聖地でもあることが明確さを増すのは、つい最近のことだ。
最寄りの駅は京阪本線の石清水八幡宮駅。故事来歴を訪ねると……このお社は、9世紀中ごろの創建で、徒然草や源氏物語にも登場する。大分の宇佐神社、鎌倉の鶴岡八幡宮と並ぶ日本三大八幡宮のひとつでもある。
しかも駅近くの小高い丘のうえには、19世紀末にトーマス・エジソンが発明した白熱球のフィラメントの材料となった見事な竹藪があり、10数年にわたりここの竹が使われたことを記念して異様に立派な石の記念碑がたっている。それまではクジラの油で夜の闇をかすかに照らしていたが、人類は白熱球のおかげで孤独な闇から抜け出すことができた。白熱球にはそうした文明の輝きがあり、この地はその一翼をになった。
この記念碑に気をとられ、つい見落とされがちだったのが、道を挟んで数百メートルのところにある「飛行神社」。多少話が紛らわしくなる。航空神社は、羽田の近く、相模原、それに立川などにあるが、飛行神社はたぶんここだけ。
日本の神社ほどバラエティ豊かな宗教施設はない。さきの八幡社をはじめ一宮、稲荷社、神明社、天神社、諏訪神社、熊野神社、春日神社、八坂神社、白山神社、住吉神社、山王神社、金毘羅神社、恵比寿神社などなど、ほかにも、偉人をまつった乃木神社や戦没者をまつった靖国神社や護国神社を入れると全国で8万8000社ほど。コンビニが約5万8000店舗なので、神社数の方が3万も多いのに驚く。
しかも、八百万の神の国だけに、金属の神様をまつる神社、雷様をまつる神社、神の使いというウサギをまつる神社など実に対象とする神様は文字通り八百万(やおよろず)。
こう考えると日本人の内なるココロを深いところで解明できそうな、いわば融通無碍の世界観ともいえる。飛行神社は飛行機が発明されたのち数多くの人が事故で落命した。その慰霊のためにつくられた、靖国神社と同じ招魂社のひとつ。
前振りがずいぶん長くなってゴメン。この神社を個人でつくった人物・二宮忠八(1866~1936年)を描いた小説がこの本だ。昭和2年(1927年)生まれの筆者の吉村さんは、記録文学や歴史小説の大御所であり、かつては凧揚げに興じ、模型飛行機づくりに熱を入れただけに、“日本の飛行機はじめて物語”を描くには、不足ない作家。二宮忠八がライト兄弟よりも10数年ほど前に現代の飛行機の原型をデザインして、緻密な設計図とそれに基づく完成度の高い模型飛行機を作成し、何度も飛行実験を繰り返してきた航空機の先達。昭和52年蔵の中から見つかった忠八の日記が出てきた。忠八の次男・顕次郎からこの日記を預かり、京都新聞に連載小説として筆を執った。
忠八は少年期には凧製作に天分の才を見せたところから、何とはなしに空を飛ぶことに夢想する。カラスが飛び立つのをじっと観察していると、飛び立つときは両翼をあおるが、やがてそれを止め、両翼を上向きに曲げて滑走する。その時はばたかなくとも上昇できるのは空気の抵抗故ということに気付く。鳥や昆虫類の翼の断面、仰角度、体重比などを緻密に観察し記録することを重ねることで、「飛ぶ」ということを科学的に突き止めていく。エアロダイナミクス理論を単独で編み出したのである。
そしてついに複葉の玉虫型の飛行機の模型をつくる。玉虫型とは少しいぶかしく思うが、玉虫はよく観察すると羽根が左右2枚ずつ、つまり複葉タイプなのである。人間を乗せ空にはばたくには、残すところあと動力、つまりエンジンである。最適なエンジンさえそろえば、空に飛べる。だが、悲しいかな当時の日本では、ここから先は、一発明家の領域を超える。国家的なプロジェクトとして、航空機の製作へと飛躍することを夢想するしかなかった。
薬事関係の下っ端の軍人だった忠八は、意を決して上司に設計図を携え、航空機製作を願い出る。時代は日清戦争から第1次世界大戦のころ。気球がようやく欧州で登場し始めてきた。
明治維新からわずか4半世紀。知識人の末席に座る上級軍人さえ、まさか人間が空を飛べるなんてことは夢のまた夢。3回も上申したが聞き届けられることはなかった。忠八は、気でも狂った変人としてしか見られなかった。それから数年後ライト兄弟の初飛行成功が報道され、飛行機はまたたく間に欧州で進化していき、第1次世界大戦ですでに戦略装置として登場するのである。
「日本人はものまね上手で、オリジナリティがない」という言い古された言葉。GAFAのような企業が育たない日本。スティーブ・ジョブスのような人間が育たない日本社会。なんだか、このことは遠い昔の画一教育から始まっていたこと。
それと、世の中にないものを始めてつくろうとする人は、ほとんど歴史の闇に消えていく運命。忠八もその一人と言えなくもないが、さいわい事業の才能があり、人並み以上に努力を惜しまなかった人物。社会的地位を獲得することができた。
大きな挫折を味わったが、相撲でいえば徳俵に足がかかった、いわば逆転人生ともいえる。かつて人生の大半の情熱を費やした空を飛ぶ夢をその犠牲になった御霊を慰霊する飛行神社をつくることができ、85年たったいまでも、こうして小説という活字のなかで読み継がれていることを思えば、悪い人生ではなかった、と思える。
吉村昭の歴史小説のなかには、種痘を手がけた笠原良策を描いた「雪の花」、樺太探検の間宮林蔵の小説、4度の脱獄をくりかえした白鳥由栄を描いた「破獄」、自由律の俳人・尾崎放哉を描いた「海も暮れきる」など強い印象を残す作品が少なくない。歴史のかなたに消えかけている人物に、やさしい目をそそいだ筆致で描く物語がほとんど。
緻密な取材と丹念な時代背景を見まわした細密な構成で、読む人をうならせる。常に新しい発見を読者に与える書き手でもある。この長編も、令和に生きる現代人には時系列だけで素通りしている日清戦争の実像を丹念に追いかけている。戦争という膨大なドラマのなかにひとりの主人公を置くことで、リアルに史実が立ち上がってくる。何度も読み返したくなる、そんな作品だ。(単行本は1980年9月、文庫本は1983年9月刊)
ペール缶というのを、ご存じだろうか?
20リッターのオイルが入った円筒形の金属製容器のことだ。ペールとは英語でPailとつづり、辞書には「潤滑油や塗料、溶剤などの液体を運搬したり貯蔵したりするのに用いる鋼鉄製の缶」とある。
エンジンオイルを手に入れる場合、通常の4リッターの四角い缶入りにくらべ、ペール缶だとずいぶん割安(安いオイルだと7000円台で買える)なので、数年前から愛用している。ちなみに、1年以上封を開けたオイルは劣化が進むと心配になるが、きちんと封をして雨にあたらないところに保管すれば2年ぐらいなら大丈夫。
ところが、このペール缶、オイルジョッキに移し替えるときかなり難儀をする。20リッターものオイルが入った鉄の缶は重いので、オイルジョッキに移し替えるとき体力を要する。少し手元が狂うとオイルが床にこぼれることにもなる。
そこで、身近にある階段などの段差をうまく使い、厄介さを少しでも軽減することになる。
そんなモヤモヤしているとき、台湾ツールでおなじみのアストロで「ペール缶ポンプ ギアオイル用」という製品を見つけた。本来は粘度の高いギアオイルをもっぱら吸い上げるポンプのようだ。でもパッケージには、それよりも柔らかいエンジンオイルも吸い上げられるとある。
使い方は、簡単だ。ペール缶の口にポンプ本体を差し込み、円弧状になったオイル給油口にオイルジョッキをたらすだけ。このときジョッキが不意に倒れないように助手役の人に保持してもらうとかの工夫すること。ホース長が1.25メートルあるので、シリンダーヘッドのフィラーキャップを外し、ダイレクトにオイルをエンジン本体に注ぎ込むこともできなくはない。でも過剰に入れすぎると抜く作業が増え、けっきょく2度手間になるので、要注意だ。
本体の手押しポンプを上下すると、オイルはペール缶からジョッキへと移送される。ワンストローク約60mlである。3リッター吐出させようとすると約33~34回ポンピングする必要あり、という計算だ。使わないときはホース先端部のノズルをポンプ上部の収納部に差し込むことができる。つまり、うっかりしてオイルを振り撒き、衣服を汚す心配はないわけだ。
ただ、ペール缶によっては口の形状がぴたりと収まらないケースがある。当方の場合、このケースだった。仕方がないので手でホールドしながらポンピングしている。この点について製品にはいっさい説明がないのが残念だ。
1年前に手に入れたもので、価格はたしか2780円だった。いまは円安で2倍近くになっているようだ。リーズナブルプライスとみて手に入れたので、いまならかなり躊躇すると思う。結論的にはあまりお勧めできない製品だ。