みなさん!知ってますCAR?

2022年12 月31日 (土曜日)

ぼくの本棚:リチャード・サットン著『ビジュアル博物館・自動車』(同朋舎出版)

ビジュアル自動車

  カラー刷りの美術全集などと同じ大型サイズの絵本だ。
  絵本だからといって高をくくってはいけない。目次や奥付を含めても70ページにも満たないが、300万点ともいえる複雑な機械、その機械が人間にもたらす喜びや楽しさを瞬間的に理解させるだけのチカラを秘めた印刷物だ。
  本の良し悪しをはかるのは、「内容」と「表現」、この2つである。とすれば、この本は、見事にこの二つを十二分に果たしている。
  目次を見ると・・・・・・「馬のチカラが自力へ」から始まり、「パイオニア時代の自動車」「華麗なる車体」「自動車旅行」「大量生産」「美しいボディスタイル」「街を走る小型車」「アメリカのドリームカー」「レーシングカー」・・・・と19世紀にはじまった馬車なしクルマの登場から、T型フォードで大量生産、それによる人々の暮らしにいかに自動車が広がりを見せ、クルマ自体が生活を彩ったか・・・・そんな歴史と社会的な背景を美しい写真で展開。
  “機能美”という言葉があるが、まさにクルマの内部、たとえばエンジンやシャシーの構成部品をこんなにも美しく見せてくれるおかげで、自動車そのものが機能美にあふれていることに気付かせてくれる。
  添えられている文章もよく洗練されたやさしい間違いのない日本語で語りかける。
  「警報器」のページを眺めると、プオッ~ッとかブ~ッといったどこか気の抜けたホーンの音が時代の空気と一緒に耳に入ってくる気がする。「エンジンの内部」の見開きページを見つめるうちに、まるで自分が一寸法師になってエンジンのなかに紛れ込み、その動きを眺めている気分になる感じ。べたつくオイルが纏わりつきそうな「駆動系」のページでは、ギアのギザギザを指で触り、使用済みギアオイルの嫌な臭いを確かめる気になる。
  なぜ、クルマは動くのか? なぜクルマは曲がれるのか? なぜクルマは止まれるのか? そんな疑問からスタートして、この本を手に取ると、そうした煩瑣な雑音が流れるように消えてクルマという存在がファンタジーとなる。ふと、機械嫌いな友人にこの本を見せたらどんな反応をするのか? そんなイタズラ心が湧いてくる本でもある。著者のリチャード・サットンという人物、調べてみるとカナダのコンピューターの科学者で、MIT(マサチューセッツ工科大学)とスタンフォード大学を卒業したDEEP MINDの研究家だともいう。子供から大人まで夢中にさせる、こんな素敵な本に通底する頭脳の内容を知りたい。(1991年11月刊)

2022年12 月15日 (木曜日)

ぼくの本棚:林義正・山口宗久『林教授に訊く「クルマの肝」』(グランプリ出版)

林教授

  「エンジンの燃焼室のカタチは、18歳の女性のおっぱいのカタチが理想的なんですヨ‥‥」
  えっ、そ・そんな! いまから20年ほど前のこと。横浜の大黒町にあったエンジン開発研究所の担当者は、エンジンダイナモがごうごうと稼働している脇で、いきなりの説明。エンジン、いわば鉄のカタマリで構成される精密な構成物にからだの一部とはいえ、生々しい女性の裸を連想させるいきなりの表現に、ココロが10メートルぐらい天空に飛び上がった気分になった。エンジニアの林義正さんには、その後数回インタビューした覚えがあるが、初回の先生の比喩がいまでも頭にこびりついている。
  4バルブエンジンの燃焼室は、ペントルーフ型。日本語であえて言えば、切妻屋根型。高い馬力を出すため、できるだけ多くの空気を吸い込み、できるだけ燃焼時間を短くし、エンジン各部のフリクションロスを少なくすること。この3つである。
  4バルブエンジンは「できるだけ多くの空気を吸い込む」ためだし、そのための燃焼室形状は必然的にペントルーフ型になる。この燃焼室形状は、もともとフランスのプジョー社が発明し、およそ110年前インディアナポリスのカーレースで採用された。だから何も林先生の発明ではないが、その鮮烈でユニークな説明はまちがいなく“林先生の発明”である。
  林先生は、日産のエリート的エンジニアのなかではかなりユニークな人物だった。ルマン24時間に向けたエンジンをはじめレーシングエンジン畑を歩んできており、最初のインタビューはこのルマン・エンジンをめぐるものだったが、ルマンのコースをシミュレーションするモニター画面を見ながらエンジンダイナモで負荷をかけている当時としては珍しかった開発現場を取材した。でも、あまりの表現でそのほかのことは覚えていない。
林先生は、ライフルはじめ銃の研究者でもあり、文字通り好奇心は世の中の神羅万象に及ぶ、そんな人物と見えた。だからこそ、いまではセクハラめいた絶妙な譬えで、のち東海大学工学部で謦咳に触れた学生の心をとらえた授業を展開したに違いない。
  理想のエンジンの条件その2つ目の、「できるだけ急速に燃焼させたい」という項目を具現化するため、林先生は、日産エンジン開発の現役のころ、Z型エンジンを開発している。日産が1970年代後半から90年代終わりにかけ、長年製造してきたツインプラグエンジンだ。1カム4バルブタイプのエンジンで、その後CA型が後継エンジンとなり、ツインプラグは引き継がれた。
  このCA18Sというエンジンが載ったスライドドアのプレーリーを2年ほど愛用していた(トライアルバイクを載せるために中古車で手に入れた)。
  想像してもらうとわかるが、限られたエンジンルームに収まり横置きエンジンのスパークプラグを交換する段になると、かなり大変だった。林先生にこのことをやんわり説明すると、さほどおどろいた顔ではなかった。たぶん、同じ質問に飽きていたのかもしれないし、そうしたメンテ上の不具合さをはるかに超えた有効性というか合理的理由がツインプラグにはあると信じておられたのかもしれない。
  それに林先生には直接関係はないが、その当時のプレーリーにはボディの致命的欠陥があった。スライドドアを支持するボディ剛性が弱く、ときどきスライドドアがレールから外れるのだ。そのほかにもこのクルマには、日本車にはあまり見られないマイナーな不具合、たとえばステアリングホイールの外皮が内芯との接着がはがれ、ブカブカになる。そこで、カッターで樹脂製の外皮に切れ目を入れ、そこから接着剤を流し込んで何とか凌いだ。
  そんなこんなで、このプレーリーは自動車ジャーナリストには、いろいろ面白い話題を提供してくれた。(普通のユーザーなら二度と日産車には手を出さない決意を固めるだろうが!?)
  この本は、「クルマの肝」と謳いながら9割はエンジンの話である。もともとクルマ雑誌に連載していた読者に質問にこたえるかたちの誌面を再編集したもの。たとえばそもそもの化石燃料を燃やして力を得るエンジンを詳細に解説してくれたり、レースエンジンと市販車エンジンの違いを懇切丁寧にレクチャーしてくれる。エンジンオイルをめぐるメンテナンスの話にもおよぶ。
  やや古い話題もないわけではないが、いま大きな岐路に立たされているエンジンに携わってきたエンジニアの生々しい声を聴く本としては、格好の一冊だ。(2006年4月刊)

2022年12 月 1日 (木曜日)

ぼくの本棚:吉村昭『虹の翼』(文春文庫)

虹の翼

  人が本を手に読み始めるには、いろいろなキッカケが考えられる。友人に勧められた。新聞広告で興味を持った。書評を読んでなぜか引き付けられた。夏休みの読書感想文を書くためやむなく、なんていうのもあるだろう。
  この吉村さんの書いた文庫版で430ページに及ぶ長編小説は、かつて(広田が)取材で何度となく訪れた京都にある八幡の解体屋街がキッカケ。いわゆる関西を代表する自動車解体屋街はかなりエグイ印象の“部品剥ぎ取りセンター”などがあり、どこか異界めいた雰囲気が漂った地域。一昔前までは中古部品のメッカという位置づけだったため、中古部品をテーマにした特集記事の取材となればカメラを担いで遠路はるばる出かけた。
  何度も足を運ぶうちにこの土地には別のオーラがあることに気付く。でも、この地が神がかっているところと近代文明が混然としている不思議な聖地でもあることが明確さを増すのは、つい最近のことだ。
  最寄りの駅は京阪本線の石清水八幡宮駅。故事来歴を訪ねると……このお社は、9世紀中ごろの創建で、徒然草や源氏物語にも登場する。大分の宇佐神社、鎌倉の鶴岡八幡宮と並ぶ日本三大八幡宮のひとつでもある。
  しかも駅近くの小高い丘のうえには、19世紀末にトーマス・エジソンが発明した白熱球のフィラメントの材料となった見事な竹藪があり、10数年にわたりここの竹が使われたことを記念して異様に立派な石の記念碑がたっている。それまではクジラの油で夜の闇をかすかに照らしていたが、人類は白熱球のおかげで孤独な闇から抜け出すことができた。白熱球にはそうした文明の輝きがあり、この地はその一翼をになった。
  この記念碑に気をとられ、つい見落とされがちだったのが、道を挟んで数百メートルのところにある「飛行神社」。多少話が紛らわしくなる。航空神社は、羽田の近く、相模原、それに立川などにあるが、飛行神社はたぶんここだけ。
  日本の神社ほどバラエティ豊かな宗教施設はない。さきの八幡社をはじめ一宮、稲荷社、神明社、天神社、諏訪神社、熊野神社、春日神社、八坂神社、白山神社、住吉神社、山王神社、金毘羅神社、恵比寿神社などなど、ほかにも、偉人をまつった乃木神社や戦没者をまつった靖国神社や護国神社を入れると全国で8万8000社ほど。コンビニが約5万8000店舗なので、神社数の方が3万も多いのに驚く。
  しかも、八百万の神の国だけに、金属の神様をまつる神社、雷様をまつる神社、神の使いというウサギをまつる神社など実に対象とする神様は文字通り八百万(やおよろず)。
  こう考えると日本人の内なるココロを深いところで解明できそうな、いわば融通無碍の世界観ともいえる。飛行神社は飛行機が発明されたのち数多くの人が事故で落命した。その慰霊のためにつくられた、靖国神社と同じ招魂社のひとつ。
  前振りがずいぶん長くなってゴメン。この神社を個人でつくった人物・二宮忠八(1866~1936年)を描いた小説がこの本だ。昭和2年(1927年)生まれの筆者の吉村さんは、記録文学や歴史小説の大御所であり、かつては凧揚げに興じ、模型飛行機づくりに熱を入れただけに、“日本の飛行機はじめて物語”を描くには、不足ない作家。二宮忠八がライト兄弟よりも10数年ほど前に現代の飛行機の原型をデザインして、緻密な設計図とそれに基づく完成度の高い模型飛行機を作成し、何度も飛行実験を繰り返してきた航空機の先達。昭和52年蔵の中から見つかった忠八の日記が出てきた。忠八の次男・顕次郎からこの日記を預かり、京都新聞に連載小説として筆を執った。
  忠八は少年期には凧製作に天分の才を見せたところから、何とはなしに空を飛ぶことに夢想する。カラスが飛び立つのをじっと観察していると、飛び立つときは両翼をあおるが、やがてそれを止め、両翼を上向きに曲げて滑走する。その時はばたかなくとも上昇できるのは空気の抵抗故ということに気付く。鳥や昆虫類の翼の断面、仰角度、体重比などを緻密に観察し記録することを重ねることで、「飛ぶ」ということを科学的に突き止めていく。エアロダイナミクス理論を単独で編み出したのである。
  そしてついに複葉の玉虫型の飛行機の模型をつくる。玉虫型とは少しいぶかしく思うが、玉虫はよく観察すると羽根が左右2枚ずつ、つまり複葉タイプなのである。人間を乗せ空にはばたくには、残すところあと動力、つまりエンジンである。最適なエンジンさえそろえば、空に飛べる。だが、悲しいかな当時の日本では、ここから先は、一発明家の領域を超える。国家的なプロジェクトとして、航空機の製作へと飛躍することを夢想するしかなかった。
  薬事関係の下っ端の軍人だった忠八は、意を決して上司に設計図を携え、航空機製作を願い出る。時代は日清戦争から第1次世界大戦のころ。気球がようやく欧州で登場し始めてきた。
  明治維新からわずか4半世紀。知識人の末席に座る上級軍人さえ、まさか人間が空を飛べるなんてことは夢のまた夢。3回も上申したが聞き届けられることはなかった。忠八は、気でも狂った変人としてしか見られなかった。それから数年後ライト兄弟の初飛行成功が報道され、飛行機はまたたく間に欧州で進化していき、第1次世界大戦ですでに戦略装置として登場するのである。
  「日本人はものまね上手で、オリジナリティがない」という言い古された言葉。GAFAのような企業が育たない日本。スティーブ・ジョブスのような人間が育たない日本社会。なんだか、このことは遠い昔の画一教育から始まっていたこと。
  それと、世の中にないものを始めてつくろうとする人は、ほとんど歴史の闇に消えていく運命。忠八もその一人と言えなくもないが、さいわい事業の才能があり、人並み以上に努力を惜しまなかった人物。社会的地位を獲得することができた。
  大きな挫折を味わったが、相撲でいえば徳俵に足がかかった、いわば逆転人生ともいえる。かつて人生の大半の情熱を費やした空を飛ぶ夢をその犠牲になった御霊を慰霊する飛行神社をつくることができ、85年たったいまでも、こうして小説という活字のなかで読み継がれていることを思えば、悪い人生ではなかった、と思える。
  吉村昭の歴史小説のなかには、種痘を手がけた笠原良策を描いた「雪の花」、樺太探検の間宮林蔵の小説、4度の脱獄をくりかえした白鳥由栄を描いた「破獄」、自由律の俳人・尾崎放哉を描いた「海も暮れきる」など強い印象を残す作品が少なくない。歴史のかなたに消えかけている人物に、やさしい目をそそいだ筆致で描く物語がほとんど。
  緻密な取材と丹念な時代背景を見まわした細密な構成で、読む人をうならせる。常に新しい発見を読者に与える書き手でもある。この長編も、令和に生きる現代人には時系列だけで素通りしている日清戦争の実像を丹念に追いかけている。戦争という膨大なドラマのなかにひとりの主人公を置くことで、リアルに史実が立ち上がってくる。何度も読み返したくなる、そんな作品だ。(単行本は1980年9月、文庫本は1983年9月刊)

2022年11 月15日 (火曜日)

ぼくの本棚:前間孝則著『技術者たちの敗戦』(草思社文庫)

技術者たちに敗戦

  この本は、ホンダの技術者・中村良夫はじめ、零戦の開発者・堀越二郎、曽根嘉年、新幹線の島秀雄、IHIを業界トップに押し上げた真藤恒、NECの緒方研二など6名の敗戦後、廃墟からどう立ち上がったかのドキュメント。
  このなかで唯一自動車関連の中村良夫にズームインすると‥‥。
  IHIでジェットエンジンの開発をしていた筆者・前間さんが、『ジェットエンジンに取り憑かれた男』(講談社刊)でデビューしたのちF1の監督として名をはせていた中村良夫さんにインタビューしたのち二人の距離が縮まったのはそう時間がかからなかったようだ。
  そのころホンダの常務まで上り詰め、リタイヤしてのち日本自動車技術会の副会長や国際自動車技術会連盟の会長などをつとめ世界を舞台に活躍していた中村さんが、若いころ中島飛行機で航空機エンジンの開発に携わっていた。
  前間氏がいみじくも表現しているように、中村さんは“日本の企業人の常識を破るような数々の著作を発表している技術者”であり、それだけに文字通り遠慮会釈なしに個人の考えを前面に押し出す稀有な技術者でもあった。
  ただし、もともと長州の医師の息子で、山口中学から東京帝大航空学科に進んだ超エリートらしく、身仕舞いに寸分の狂いのないダンディな紳士だった。その中村は、終戦直前まで「富嶽(ふがく)」に搭載予定だった空冷36気筒エンジンを開発していた。これは複列星型18気筒エンジンを2機、くし刺ししたレイアウトで6000馬力発生するという構想だった。この超弩級エンジンを富士山の別名「富嶽」に搭載し、日本の各都市を廃墟に変えつつあるB29への復讐とばかりアメリカ本土を直接攻撃しようという旧日本軍の構想だったのだ。
  だが、この構想は敗戦であっけなく消え去り、超エリート航空エンジニアの若者は、一夜にして闇のなかに投げ出される。敗北感が打ちのめされもした。戦後はGHQの命令で日本は「航空禁止」となり、“陸に上がったカッパ”同然、徒手空拳となる。世過ぎ身過ぎのため、一時3輪トラックメーカーに籍を置いたが、38歳のときにオートバイメーカーのホンダに入社。この時すでに38歳。
いわば敗戦の地獄の体験を潜り抜けてきた中村は、のちの世にありがちな軟弱な超エリートではなかった。ホンダという企業世界で、めきめき力を発揮しF1への道筋を切り開いた一方、市販4輪乗用車の開発においても大いに力を発揮した。ホンダと言えば、創業者の本田宗一郎がすぐ思い浮かぶが、じつは中村良夫のチカラなしにはホンダの乗用車開発の成功はなかったといわれる。
  必然的に40代のいまだ若いエンジニア中村。ほとんど経験だけでモノづくり世界を生きてきた創業者のあいだには溝が深まる。排ガス規制が厳しくなるなかで、シンプルな空冷エンジンがいいのか、温度管理がやりやすい水冷エンジンを選択すべきなのか、でこの2人の旧新エンジニアはぶつかる。もともと尊敬の対象だったおやじこと宗一郎に歯向かうのは、本義ではないが、科学的正義を信奉するエンジニアの中村としては、そんなことは言っていられない。
  けっきょく宗一郎は、藤沢副社長の助言で“潔く”身を引くことになるが、一方の中村もこの世代間の闘争で少なからず苦悩し、傷ついた。だが、そのことで、中村の執筆者としての力量が劇的に高まった。先日図書館から借りてきた山海堂刊の「F1グランプリ全発言」の冒頭ミハイル・シューマッハを描く記事に目を通したところ、実に高い見識の持ち主である彼だけにしか記しえない内容が、わかりやすくクリアな文体で展開されているのを、口をあんぐりして眺めてしまった。世のなかにはこんなとてもじゃないが、かなわない3周以上も先を行く男がいたんだ。(2013年8月刊)

2022年11 月 1日 (火曜日)

ぼくの本棚:中村尚樹著『マツダの魂-不屈の男 松田恒次』(草思社文庫)

マツダの魂

  日本の自動車メーカーのなかで、とてもチャレンジングな会社をあげろ、と言われたら、たいていの人はホンダとマツダの2社をあげるのではないだろうか(3社ならスバルも入る)。
  トヨタも日産もそれなりにチャレンジングなところはあるが、巨大な組織なので顔が見えづらい。その点、ホンダとマツダは全体像が見渡しやすく、ほどほどの企業規模のせいかヒューマンドキュメントを読み取りやすい。
  ところが、そのヒューマンドキュメントを描いた市販書籍の数となると、この2社には、天と地というか100とゼロほどの差がある。ホンダは、創業者である本田宗一郎関連の本がざっくり言って、たぶん100冊はくだらない。だが、マツダの関連本となると、ほとんど見当たらない。
  これはどう見ても不公平極まりない。
  ホンダが静岡、東京それに埼玉、栃木をベースにしているのに対し、マツダは西日本の広島で、首都圏と遠く離れているせいか? いやそうではなく、ホンダの場合、本田宗一郎氏がある意味偉大過ぎるというか、文字通り立志伝中の人物として物語にしやすい。伝説が別の伝説を生み出し肥大していった感がある。
  もっと言えばホンダという企業は、“伝説がブランドを作る”ということを、かなりまえから、もっともよく知る企業らしく、意図的にそうしたメディア操作に力を入れてきた形跡がある。メディアが、ブランドを構築してきたのだ。
  そう考えるとマツダは、なんともお上品というか、控えめというか、皮肉まじりにいえばナイーブでイノセントだったといえる。
  2018年に単行本化、2021年に文庫化された本書は、その意味で「ようやく出たぞ! マツダのヒストリー本」なのだ。
  ロータリーエンジン(RE)を導入し、世界初のRE量産車である「コスモスポーツ」を世に送り出した松田恒次(1895~1970年)を主人公としてはいるが、3輪トラックなどでマツダの基礎をつくった松田重次郎(1875~1952年)の少年期からこの物語を始めている。
  もともと大阪にある砲兵工廠などで職人としての腕を磨いた重次郎は、何度も会社を立ち行かなくしながら画期的な水ポンプを開発したり、ロシアからの膨大な量の「信管」(爆弾や魚雷を爆発させるための装置)を受注したり、そして故郷広島でコルクの会社の経営者として腕を振るう。そのコルク製造会社がのちにオートバイをつくり、3輪トラックをつくり、戦後自動車の量産に乗り出すのである。
  いまの言葉でいえば、スタートアップ企業が、多くの失敗を重ねながら試行錯誤を続け、徐々にノウハウを蓄積し、大企業へと変貌していく。ダイナミックでワクワクする戦前の人間味あふれるモノづくり世界が展開される。
  REをめぐる物語のアウトラインは、たいていの読者は知っているかもしれない。でも、あらためておさらいしてみると、当時の松田恒次の勇気とココロザシに感動する。そもそも、恒次は、一度重次郎とたもとを分かち(早い話、首になった!)、マツダ(正確には当時の社名では東洋工業)から離れている。
  この背景には、恒次より8歳若い村尾時之助という人物がいたことは、今回この本で初めて知りえた。村尾は、呉生まれで広島大学工学部の前身広島高等工業学校機械工学科を卒業後、呉海軍工廠航空機部に入る。航空機のエンジン開発に携わり、さらに中島飛行機の海軍技官ともなった人物。大阪の工業高校中退の恒次とは違ったエリートエンジニア。
  重次郎は、その当時、恒次よりもこの村尾を後継者にふさわしいとして、白羽の矢を立てようとしたようだ。恒次はマツダを離れ、ボールペンや編み機などの事業でそれなりの経験を積むのである。平時の場合なら村尾を選択するが、これからは激動の時代。そう見た重次郎は、恒次を呼び戻し、そこから数年後命を懸け、恒次にいわゆる帝王学を授ける。
  マツダのリーダーとなった恒次には、じつは大きな秘密が隠されていた。家族とほんのわずかな知人しか知らなかったが、片足が義足だったのだ。若いころの病魔のおかげで片足をなくしていたのだ。このことは社員のほとんどは知らなかった。
  元マツダの社員で、私の知恵袋のエンジニアKさんは、恒次さんと生前何度も出会っている。恒次は前触れもなくよく製造ラインの視察に来たともいう。恒次の身体の件を電話口で伝えたところ、しばらく絶句していた。まったく気づかなかったというのだ。でも、そのKさんのおかげで広島郊外にあるREのリビルト工場を取材したことをよく覚えている。
  ・・・・・それにしても、REの血のにじむような開発物語は何度聞いても心を動かされる。
  (2021年6月刊)

2022年10 月15日 (土曜日)

ぼくの本棚:星野博美著『島へ免許を取りに行く』(集英社インターナショナル刊)

島へ免許を取りに行く

  “父親か友人のクルマのハンドルを握り(この時点で違法じゃないか!?)近くの路上で実技試験を受け、簡単な筆記試験をパスすれば、ドライバーズライセンスをゲットできる”
  そんなアメリカの運転免許取得の安直さを耳にすると、クルマを運転することは、国や地域によりずいぶん温度差があることがわかる。
  日本でも、若者のクルマ離れといわれるように、以前ほど免許がさほど人生の重みになることはなくなったとはいえ、日本でクルマをあやつるため許可を得るには一苦労することには間違いない。
  40歳を前にして、女流カメラマン兼エッセイストの筆者は、人間関係に疲れ果てていた。そこで自分を取り戻すキッカケづくりを見つけることを探し始める。それは運転免許を取ることだった。そこで、集中して運転免許がゲットできる“合宿免許”をネットで調べると、意外と地方色豊かな感じが伝わり、旅の気分も味わえることが分かってきた。いわば一石二鳥の行動パターンだ。
  ところが、筆者は免許を初めてとるには高齢者のカテゴリー。なかなかちょうどいい合宿免許の自動車学校が見つからない。ふと見つけたのが、長崎県の五島列島にある自動車教習所。ここなら、東京から遠く離れているし、まわりが荒海に囲まれている。教習に嫌気がさして逃げ帰る気も起らずココロを一つにして免許取得に打ち込める。それに動物好きの筆者には、日本で唯一乗馬ができるという触れ込みも魅力的に映った。
  ふだん運動らしきものをしていない筆者は、若者にくらべると運転技術を身に付けるには時間がかかる。そればかりではなく、理屈が先に立つので交通ルールが素直に覚えられない。
  そもそも合宿免許は、通常の通学スタイルよりも短期間に免許が取れるようになっている。入学から卒業までスケジュール管理されているからだ。通常2週間で卒業し、実地試験免除を証書を携え、地元東京の鮫洲試験所で、筆記試験に合格すれば晴れて免許が交付される流れ。
  コトはそうとんとん拍子に運ばない。そもそも、この本の筆者は、1日中フル回転で活動する生活など長らくしたことがない。しかも自転車のハンドルさばきすら大きな疑問符が付く人間。「2週間あまりで運転の技術を覚え路上に出てクルマを運転する」などとてもできないことに気付かされる。
  でも一方で、東京から遠く離れた自動車学校では、誰もが社会から切り離され、現実の憂さを忘れ、五島の地がはからずも理想郷であることに遅まきながら気付く。ここでは誰かがだれかを蹴落とす必要もなければ、だれかを裏切って得をすることもない。
  現実社会からほんのすこし宙に浮いた、一種のユートピア。しかも一緒にいられる時間は思いのほか短いので自然と助け合い、気にかけあう。すぐ別れていくからこそ成り立つ優しい関係が成立する。
  猫好きの筆者は、この島でもう一つの楽しみを見出す。教習所の近くにある馬場で、馬に乗るのだ。初めて馬に乗った筆者は、同じ乗り物とはいえ自動車と似て非なる感慨を発見する。
  馬に乗ると、これまでに体験したことのない視点の高さ。それに左右非対称な、柔らかいものに座るという感触の驚き。足全体に馬の体温が伝わってきて、すぐに体がポカポカ暖かくなる。人間より大きな動物とはこれほど温かいものなのか? ふと数か月前死んだ愛猫のことを思い出す。「秋から冬にかけ気温が下がると、その猫はよく筆者の蒲団の中に入ってきた。猫にとって身体が何十倍大きな人間はまるで湯たんぽのようなものだった」。自分より大きな動物と接して初めて、猫の気持ちに思いをはせる。
  人より二倍の4週間もかかってようやく仮免許を取得した筆者は、自分の半生を振り返る。いわばこれまで自分仕事は一点集中型だった。
  たいして才能もないし、とくに異なる経験をしたわけではない。そんな人間が写真を撮ったり文章を書くためには、人より長くその場にいたり、人より長く物事を考えたりするしか術(すべ)はなかった。ひとつのことを1年2年長いあいだ考え続けることが得意。ところがクルマの運転に要求されるのは、それとは真逆で「瞬時にたくさんのことを考えること。精神は集中させ、しかし視線は分散させろ!」なのだ。
  とにかく4週間も五島列島に滞在したおかげで、約30名の人たちと親しく知り合うことができた。東京にいたのではとても出会うことのない多彩な人たちとの交流。
  東京に戻って晴れて都内でクルマを運転する筆者は、免許取りたてのドライバーが体験する様々な経験をする。車線変更の難しさウインカーで後車に伝えるタイミングなど、まるで異なる。だから戸惑いまくる。島では、シミュレーターでしか体験してこなかった高速道路の走行など、徐々にリアルなドライビングテクニックを学んでいく。
  運転免許という手段を手にした筆者は、なにかができるようになった喜びのひとつとして運転はかけがいのない新しい翼だと思い始める。読者は300ページ足らずの体験記を読んでいるあいだ、初心者の頃の瑞々しい気分に浸り、クルマをあやつる喜びを再認識できる。そしてからだの奥の方がなんだか暖かくなる。(2012年9月刊)

2022年10 月 1日 (土曜日)

僕の本棚:橋本倫史著『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)

ドライブイン探訪

  「うん? ドライブイン!」 この文庫本のタイトルを見て、正直いって不思議な感じに襲われた。
  “ドライブイン”はいまや死語になりかけている言葉だからだ。奥付をのぞくと2022年7月とある。印刷所から出てきたばかりの新刊文庫本。ドライブインは、わずかながら生き残ってはいるだろうが、斜陽産業をあえてメインテーマにして本ができあがる! そこに出版世界の不可思議さが漂う・・・・そう考えるのは深読みだろうか?
  でも冷静に考えると、レビューする側(広田)が、右肩上がりのテーマを追いかけがちな実用書の世界に毒されているからかもしれない。この本は、あえて完璧に斜陽となったドライブインをテーマにしている。ちなみに文庫はごく最近だが、単行本は2019年1月に世に送り出されている。それにしても、モヤモヤが頭のなかをよぎる。
  突き放して考えると、そもそもドライブインに興味のある読者がどれほどいるのだろうか? そう考えると疑問符が湧いてくる。それゆえに大きな狙いというか追求すべき何かがあるハズ。鉱脈が隠されている? そこに思い至ると、猛然とこの本への読書欲が湧いてきた。
  ドライブインは、日本のモータリゼーションの始まった1960年中ごろから出現する。まだ未舗装路が大半の昭和の中頃。晴れた日には埃が立ち込め先が見えない。雨になると泥をかぶる幹線道路のあちこちに、観光バスの乗客やトラックの運転手を顧客としたドライブインがあった。小さかった子供時代自転車で走り回っていたころを思い出す。峠を越えられず途中でエンジンを冷やしていたバイク(たいていはアルミの洗濯ばさみをクーリングフィンに取り付けてはいた)が珍しくなかった。
  ところが、にぎわっていたドライブインも、高速道路が張り巡らされた1990年代には斜陽産業の仲間入りになってくる。
  それでも、いまでも少数とはなったが、全国には多くのドライブインがあるという。時代の波を乗り越え生き残ったドライブイン。それは地元の顧客に支持されたドライブインや、ファミレスにはできない地場の食材を使った料理を提供するドライブイン、さらには家族経営独自の接遇待遇型のドライブインが、ドッコイとばかり、いまでも生き残っている。
  もう一度ドライブインとは、なにか? と思いをめぐらす。
  自動車に乗車したままで乗り入れることができる商業施設のことを指すという。ドライブイン・レストラン、ドライブイン・バンク(銀行)、ドライブイン・ハンバーガーショップ、ドライブイン・シアター(映画館)などがある(あった?)。面白いことにコロナ禍でドライブインは、感染予防の方策として、再び脚光をあびている。
  この本は、狭い意味での「ドライブイン・レストラン」の探訪記である。
  この本の非凡なところは、日本の道路の行き末はともかく、来し方を教えてくれる点だ。単なるルポで終わらない。
  たとえば、日本の動脈である東海道の起源は、江戸期ではなく、なんと1000年以上の昔にさかのぼる、という。
  律令制の中央集権国家を構築するうえで「五畿七道」という行政区分から始まった。五畿とは大和、山城、摂津、河内、和泉の畿内五国を指し、七道とは東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道をいい、これは道路の意味だけではなく、区画(地域)をも意味した。東海道に「宿」ができたのは鎌倉時代で、これが整備され、江戸時代には参勤交代制度が後押しして地方文化と江戸の文化の交流が起きる。なるほど、ひとつえらくなった気分。
  日本の高速道路がどういう背景でできたかも、この本は丁寧に教えてくれた。
  そもそも敗戦後10年ほどして、日本の発展を意図して、世界銀行の肝いりの調査団が日本の道路事情を世界的視野で点検された。それが1956年のワトキンス調査団というもので、「日本の道路は信じがたいほどひどい。工業国として道路網をこれほど無視してきた国は他にはない」とボロクソに評価。当時の日本人は、これに反感を抱くことなく、逆にこの進言をいわば“錦の御旗”として、高度成長経済の青写真のうえに、ハイウエイ建設に努力を傾ける。そして7年後の1963年には名神高速道路、さらにそこから6年後には東名高速道路が完成している。思わず心のなかで、「ヘッ~!」と叫ぶ。
  筆者はことさら鼻息荒く読者に伝える姿勢こそとらない。でも、読み進めるうちに、知らず知らずに日本の道路行政、日本の戦後社会の在りかた、庶民のクルマ生活の推移、日本の産業の変化、そして何にもまして、いまも大きな課題となっている日本のエネルギー革命に思いがおよぶ・・・・・。
  北海道から沖縄まで22件のドライブインを緻密に取材しているから、こんなにも広い世界観の風呂敷を広げてくれる。
  単なる探訪記だけに終わっていないのは、著者の広い好奇心と分け隔てしない他人への熱いまなざし。ドライブインは、基本的に家族経営なので、なぜドライブインに携わっているのか? その前のキャリアはどうなのか? それぞれのドライブインには繁栄と停滞、そして先細りなどの紆余曲折がある。そこの著者は、いきなりマイクを突き付ける不躾な直球ではなく、何度も足を運び、まるで永年の知り合いか何かになったかのように親密さを醸成し、本質に迫っていく。
  ドライブインのスタイルは、カレーやうどんそば、ラーメンというメニューだけではない。意外と千差万別だ。客が食べたものを自己申告するセルフ式のいうなれば性善説ドライブインがあるかと思えば、駐車場から注文するアメリカンスタイルの沖縄のドライブイン、いまやレトロとなった自販機がずらり並んだユニークなドライブイン。そして地場の食材をフルに生かしたホルモン炒め定食とか、海鮮料理で普通のファミレスには真似のできないメニューでお客を引き付けるドライブインもある。その背景にある家族経営の内実に著者は、愛情深く分けいる。
  店内に入ると土間の続きに設けられた「小上がり」に筆者の目線が注がれる。「蹴上がり」ともいわれるこの小さな座敷は、足を延ばしフット一息つける空間の存在。ここにこそジャパニーズスタイルのドライブインがあるといっているようだ。
  筆者は、1982年広島生まれのライターだが、生まれて初めて自分が追求したいテーマがドライブイン。熱意がこうじて「月刊ドライブイン」というミニコミ誌を製作、これがキッカケで単独の本になった。それだけに熱量の高い記事が目白押し文庫である。次ぎ、クルマで旅するときは、ファミレスではなく、ローカルなドライブインに立ち寄りたくなってきた。(2022年7月刊)

2022年9 月15日 (木曜日)

ぼくの本棚:大矢晶雄著『イタリア式クルマ生活術』(光人社)

イタリア式クルマ生活術

  「イタリアではクルマが汚いということは、山奥に別荘を持っていたり、門から家までが5分もかかる田舎のどでかい家に住んでいることを物語るステイタスだったりする…‥」
  いきなりこんなフレーズが目に飛び込んできて“わが意を得たり!”の気分である。
  ふと個人的な体験を思い出した。都内の一流ホテルで打ち合わせか何かで、マイカーでフロントに乗り付けた。バレー(Valet)サービスのスタッフが近づき、その場で鍵付きのクルマを預け颯爽とロビーに向かった(つもり)。すると同乗の娘が蒼ざめた表情で助手席から降りてきた。洗車も不十分な10年落ちの国産車で乗り付けたのだが、若い女性にはこの状況が理不尽だと映ったようだ。ピカピカの輸入車で颯爽と乗り付ける状況なのに、これはないんじゃない! 愛車のカギを渡されたバレーのスタッフの不運を必要以上に感じ取ったのかもしれない。これって日本人得意の忖度。それを是正するのは厄介だ。 
  むろんイタリア人にも忖度はあるかもしれないが、ベクトルが異なるようだ。
  なにしろ、イタリアのクルマ生活は限りなく本音で、ときには剥き出しに近いからだ。1987年式のランチャ・デルタLXという、かなりくたびれた中古車を手に入れ、その車とともにイタリア体験をするうちに筆者は、徐々にイタリアの本質に触れていく。
  そもそもイタリアでは車庫証明が不要なので、平気で自宅の前に路駐する。まるで日本の昭和40年ごろまでの光景だ。おまけに車検は、つい最近まで10年ごとだった。EUに加盟してから、2年ごとになったが、それまではリアシートにシートベルトが付いていなかったという。
  安全意識もかなり低い。曲がるときウインカーを出さないのが普通だというし、縦列駐車のときに平気で前後のバンパーをぶつけて駐車すると、逆駐車も気に留めない。しかもイタリアのオジイオバアは、孫を猫かわいがりしていたかと思うと、クルマのハンドルを握ると性格ががらり変わって、カッキーンとばかりアクセルONでコーナーをまがっていく。
  そもそもAT車などほとんどいなくて、みなMTでないとクルマだと認めていない風潮だ。庶民の大半は、フィアット・パンダあたりの安いクルマに乗っているのだが、とことん一台のクルマを愛し、ボロボロになるまで使い続ける。イタ車はドアハンドルなどつまらないところがいきなり破損したりするが、そんなときは近くの解体屋さんに足を運び、激安部品で修理してしまう。
  走れば必ず擦り減り、交換となると大出費となるタイヤもイタリアではエコタイヤならぬ再生タイヤがあるという。リトレッドタイヤといって、山部分(トレッド)部を削りそこだけ張り合わせるというタイプが日本でもあるが、あくまでも走行キロ数が多いトラックの世界。
  日本でも乗用車用再生タイヤは昭和50年ぐらいまであった。上野にある自動車雑誌社に入社したての頃、活版1/3ページの再生タイヤの広告があったことを覚えている。でもそれもやがて消えてしまった。
  ところが、面白いことにイタリアでは、乗用車の再生タイヤが珍しくないようだ。筆者のランチャにもこの再生タイヤを取り付けられた。4本で取り付け費込み1万6000円だったいうから驚きだ。新品タイヤの1本分で4本分を賄えるなんて!
  なにしろイタリアでは、満14歳になると排気量50ccのクルマ(バイクが大半だが)に無免許で乗ることができる。だから、本挌的に免許を取るときは、近くの空き地で練習し、そこら辺の路上で15分ほどの実地試験を受け、1~2回滑って合格という流れだというのだ。
  でも、イタリアも100%だと思ったら大間違い。
  いまは少し異なるかもしれないが、とにかく当時のイタリアは路上駐車が多いせいか、盗難が日常茶飯。とくにカーオーディオだけを盗んでいく泥棒があるという。ガラスを割られたりするので大損害につながる。そこで、昔はカーオーディオごと、ゴソッとクルマから簡単に取り外し、付属のベルトで肩からぶら下げ、バール(喫茶店)に入るスタイルだったが、いまでは、オーディオのフロントパネル(操作盤)がまるで板チョコのように取り外せ、スマートな盗難防止策済みのカーオーディオがあるという。
  アルプスの山奥からニョキっとばかり地中海に、まるで長靴のカタチに突き出したイタリアという国は、考えてみるとヨーロッパの中では異色の国民性ではないだろうか? サッカー熱だけではなく、フェラーリが活躍するF1でも、イタリア人の熱量は類を見ない。EU諸国のなかでは経済的には優位に立ってはいないが、文化や芸術の世界では常にリーダー。
  イタリア人の生活や、どちらかというと脱力系。前年同月比、なんて経済用語とは縁遠い。“生き馬の目を抜く”とまで揶揄される他人を出し抜いて素早く利益を得る生き方とは対極。だから、少し前までイタリアに住むためイタリア語を猛勉強していた友人がいたけど、なんとなく理解できる。
  この本は、1996年東京生まれ。国立音大の付属小から中学、高校を経て大学でもバイオリンをまなんだ、元バイオリニスト。ところがなぜか自動車雑誌の編集を経て現在コラムニストの筆者が、イタリアの中部の人口5万ちょっとの街シエナに根を下ろし、イタリア式自動車ライフを楽しむ物語。カタカナでイタリア語が出てくるので、多少なりともイタリア語の勉強になる。残念ながら音楽とクルマの関係はどこにも出てこない。
  ちなみに、イタリア人の戦争観のことだ。第2次世界大戦の総括というか反省があまり見られないのは不思議だと考えていた。ドイツと日本ともども枢軸国だったわけで、ドイツや日本は戦後巨大な精神的負担を強いられた。そのわりにイタリアは、その痛みがあまり見られない不思議さ。
  この疑問は、社会学者・古市憲寿『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社 2013年8月刊)という世界の戦争博物館めぐりを記した本を眺めていたら、なかば解明された。これによると、イタリアはアメリカやイギリス、ロシア、フランスなどの連合国に対しては敗戦国だが、ドイツと日本に対しては1943~1945年にかけ、ムッソリーニの退陣後、さらりと身をかわし、逆にドイツと日本に宣戦布告していたからだ。
  つまりイタリアは敗戦国でありながら戦勝国でもあった。戦争博物館らしきものもイタリアには、ほとんどないという。つまり深い後悔と反省がないのかも? 底抜けの明るさの一面はそんなところにもあるのかもしれない。(2002年4月発刊)

2022年9 月 1日 (木曜日)

ぼくの本棚:都築卓司著『ベンツと大八車日本人のアタマVS西洋人のアタマ』(講談社)

ベンツと大八車

  ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎氏に師事した物理学者の日本の科学技術文明エッセイである。
  30年ほど前、「ベンツと大八車」という刺激的なタイトルに惹かれて手に入れた単行本。ところが、ベンツや大八車のことは、いくらページを繰っても出てこない。
  「ハハ~ン、これはろくに熟読しないで、エイとばかり売れるタイトルをひねり出した担当編集者のせいだな。著者には、タイトルをつける権利が日本ではないようだから・・・・。サブタイトルの“日本人のアタマVS西洋人のアタマ”が先にできて、これだと凡庸なので、一発カマスうえで“ベンツと大八車”を大タイトルにしてしまったに違いない!」
  そんな夢想をついしてしまったが、当たらずとも遠からずだ。
  じつは筆者の都築卓司さん(1928~2002年)は、同じ講談社が発行するブルーバックス・シリーズの初期のころのメインライターだった。ブルーバックス・シリーズといってもピンとこない読者もいるかと思うが、自然科学や科学技術のテーマを一般読者向けにやさしく解説した新書。1963年創刊で、2022年時点ですでに2200点もあるという。都築さんは、このシリーズで「超常現象の科学」「不思議科学パズル」「タイムマシンの話」「誰にでもわかる一般相対性理論」など20冊近くを読者に届けている。
  今回取り上げた「ベンツと大八車」は、いまから半世紀近く前に出た本。だからPCはおろか、スマホも影も形もなかった時代の科学技術論だから、かなりのズレがある。逆に言えば、そこになんとも言えない面白みを見つけることができる。いまやグローバル経済で、人の行き来が頻繁で、国別文明論や人種別技術論がかなり怪しくなりつつある。だから一昔前、ふた昔前の日本人がどういう価値観で生活していたか? 
  この本が出た時点からさかのぼること33年前の1944年末、日本がアメリカとの戦争で、追い詰められた日本の軍部は、2つの切り札を具現化しようとした。ひとつは中島飛行機の粋を競った「富嶽(ふがく)」という名の未完の重量級爆撃機で、アメリカ本土に爆撃をする取り組み。もう一つは、なんと直径10mほどの紙風船をつくり、そこに焼夷弾をぶら下げ、ジェット気流に乗せて直接アメリカ本土空襲をおこなうというものだ。
  この風船爆弾の縮尺模型が、江戸東京博物館に展示してあり、たまたま同行したイラク戦争で狙撃兵だったアメリカの元兵士に説明。当方のテキトーな説明では不十分とばかり英文の説明文を読み始めると笑い転げ始め、しばらくその場から動けなくなった。この風船爆弾、楮(こうぞ)の和紙を3枚に重ね、こんにゃく糊で球状に仕上げたもの。組み立てるのに、広くて天井が高い場所がいるため、東京宝塚劇場、両国の国技館、浅草国際劇場などが使われたという。千葉や福島、茨城の海岸から計約9300個も放球され、うち約1000個ほどがアメリカ大陸にいきつき、6名ほどの死者を出したといわれる。
  いま思えば、こんなコスパ(費用対効果)の薄い、素人じみた風船爆弾を具現化して実際に飛ばした日本人。ここに現在の日本人にも通じる「手抜きを嫌う性癖」を見ると筆者は指摘する。たしかに胸に手を当てて考えると、わが風船爆弾は、少なからず数個ある。たとえば、のべ半世紀以上もだらだらやっている英語学習だ。英語脳になれとか、例文をとにかく暗記しろとか圧がかかるも、ひとつもネイティブには近づけない。
  日本人の自画像とは? 日本人に科学する力があるのか? それをこの物理学者は、スマートに解き明かしてくれる。(1977年11月発刊)

2022年8 月15日 (月曜日)

ぼくの本棚:藤原辰史著『トラクターの世界史人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』(中央公論新社)

トラクターの歴史

  トレーラーとトラクターはよく取り違えられるのだが、トラクターはあくまでも牽引する側の車両。トレーラーは、牽引される、つまり非牽引車(みずから駆動するメカを持たない!)のことだ。
  この本は、おもに農業用のトラクターを軸にした世界史的視野のユニークな新書だ。
  島根で育ち京大で農業系の学問を納めただけに、トラクターがどれほど人間の食に大きくかかわったのかをソーカツ的に展開。
  いわれてみればなるほどなのだが、農業用のトラクターは、後部にいろいろな目的のアタッチメント(付属物)を取り付け、地球の表面を耕す。地球から見ると、ほんのわずかな薄皮をひっかくに過ぎないのだが、人間から見るとそれは自然から食料を継続的に得るための涙ぐましい、文字通り生死を分ける営みなのだ。
  そもそも種を蒔く前に、土を掘り起こす。耕すことで収穫物の質と量が劇的に向上することを、農業を営む人たちは洋の東西を問わず、経験的に知っていた。土を耕す行為は土壌の下部にある栄養素を上部にもたらし、土壌内に空気を取り込み保水能力と栄養貯蓄能力を高め、さまざまな微生物の働きをよくし、活性化させる。このことの理屈は近代の科学的考察で証明された。カルチャー(文化)が土を耕すことに由来していることから分かるように、このことははるけき昔から農作業の中心に据えられてきた。
  トラクターが農業世界にもたらしたのは、言うまでもなく機械化だ。となると、これまでの鋤や鍬の人力による手作業から、農民を開放させるに十分だったか? 逆に機械化により借金を背負い込み苦境に立った農民もいた歴史の皮肉。
  トラクターのルーツは、イギリスとアメリカにある。当初は、蒸気エンジンを駆動力とする超大型のトラクターだった。自動車の歴史同様、やがて内燃エンジンを使ったトラクターが登場し、20世紀のはじめにアメリカのインターナショナル・ハーベスター社やマコーミック社などが台頭。T型フォードでアメリカの道路を埋め尽くしたフォード車は、その勢いに乗って2017年(T型デビューから9年目)にフォードソンという名のトラクターを登場させている。名前から想像して、乗用車フォード号の息子という位置づけだったようだ。
  ところが、このフォードソンには大きな欠陥があった。PTO(パワーテイクオフ)といういろいろな作業に対応できる仕掛けがなかった。それに乗り心地がひどすぎた。乗り心地については、T型を試乗した経験から保証できるほど、振動がひどい。まるでいまにも死にそうな老人役の志村けんに背後から羽交い絞めに合うほどの振動が全身に及ぶ。
  この本の面白いところは、トラクター愛に満ち溢れている点だ。エルビス・プレスリー(1935~1977年)が数台のトラクターを保有して時々、運転して楽しんでいたなど、小説に出てくるトラクターを逐一紹介してその時代でのトラクターへの思いを伝える。たしかに、機能に徹した道具は、下手な美術品以上の美しさを発揮するものだ。(2017年9月発刊)

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