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2018年2 月 1日 (木曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第3回)

1909年 鈴木式織機製作所  そこで、浜松市菅原町の今村幸太郎に7年間の契約で弟子入りする。父母の元を離れ、わずか14歳で実社会に船出したわけだ。
  親方の今村氏は、腕のいい職人。それだけに仕事にかけては厳しい親方でもあった。もともと勘のいい少年だった道雄は、一人前の技術を習得し、親方の片腕として活躍するのにさほど時間はかからなかったようだ。
  ところが、道雄17歳のときに彼の運命を大きく変える事件が起きた。日露戦争が勃発(1904年)したからだ。戦争が起きた余波で、建築の仕事がほとんどなくなったのだ。戦時下体制の空気のなかで新たに建築物をつくることを手控えるようになった。
  そこで、親方の今村は、当時モノづくりの世界では、一段下と見られていた足踏み式の織機の製作に転向する。道雄も当初の夢であった建築の仕事を途切れさせ、親方の仕事を手伝うことになる。
  1908年(明治41年)、徒弟契約の満了とともに親方の元を辞した道雄は、独立し織機の生産事業を起こす。日露戦争後、日本各地で足踏み式の織機が求められる機運があったからだ。叔父の世話で借り受けたのは、浜名郡天神町に蚕小屋を移築して改装したのが道雄の最初の工場だった。学歴は小学校の補習科どまり、文字通り徒手空拳の船出であった。

2018年1 月15日 (月曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第2回)

鈴木道夫  スズキの長い歴史は、1887年(明治20年)2月18日、浜名郡芳川村字鼠野にある貧しい農家(父親が治平、母親がマチ)に次男坊の男の子が生を受けたことから始まった。
  農家32戸の定型的な農村である。鈴木道雄(1887年~1982年)と名付けられた赤ん坊は、学問の神様とされ庶民からも親しまれた平安時代の「菅原道真(すがわら・みちざね:845~903年)」の名にあやかったとされる。
  この地域は昔から綿織物が盛んで、初秋のころには畑一面に綿の実が白一色になり、まるで雪が降り積もったようであったという。7~8歳になったころから両親の手伝いで綿摘みを手伝っていた道雄は、近くで機織りの音を聞きながら子供時代を送ったという。
  次男であった道雄は、14歳のとき当時の習わしとして家を出て働くことになる。父親の勧めで教師の道もなくはなかったようだが、元来創意工夫が得意だった道雄は、モノを創る道を選ぶことになる。大工の道を志し、将来はひとかどの請負師になる決意をした。請負師というのは建築を請け負う大工の棟梁のことである。

2018年1 月 1日 (月曜日)

あまり語られなかった“浜松スズキ物語”(第1回)

スズキ博物館s  ワゴンR、アルト、ハスラー、ラパン、スペーシア、エブリワゴンにジムニーと多彩な軽自動車のほかに、スイフト、ソリオ、イグニスなど、このところ小型自動車の開発も盛んなスズキ。今回のスペーシアでもそうだが、いまや総力を傾けクルマづくりに励んでいる感じだ。
  スズキのモノづくりの歴史は創業1909年。ということは、再来年でちょうど110年を迎える。
  といってもいきなり自動車ではなく、織機メーカーとして誕生し、戦後は2輪車メーカーとなり、4輪車生産に乗り出す・・・ホップ・ステップ・ジャンプと3段飛びで、順調にモノづくりメーカーとして成長したかというと、むしろ真逆だ。
  波乱万丈の連続であった。ときには廃業寸前までに追い込まれたこともあるという。
  だが、その都度お客の立場にたった≪モノづくり≫に立ち返り、困難を乗り越えてきた。
  遠州・浜松というバックグラウンドはもともとモノづくりが盛んな土地。その背景を含めスズキの製品の秘密がひと目で理解できる博物館(写真)が浜松の本社近くに10年ほど前、できている。
  この博物館を軸に、今回からスズキのヒストリーをたどってみることにする。

2017年12 月15日 (金曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第29回(最終回)

大阪福島  オフィスビルが立ち並ぶ福島駅周辺から一歩足を踏み入れると・・・ペンキが剥げ落ちてはいるが「電装品専門店○○商事」、あるいは「ベアリングの◇◇商会」という文字が読み取れる。
  シンガポール、フランスなど海外にも店舗をかまえ、国内では600以上の店舗展開をするエンドユーザー向けオートバックスセブンは、いまでこそ本社を東京としているがそのルーツは福島にある。昭和21年に故住野敏郎氏が自動車部品の卸売りを目的に個人経営の「末廣商会」を創業、その後「富士商会」「大豊産業」をへて現社名になったのである。
  過日、オンボロのマイカーのボディについた小傷を自分で修復しようと近くにあるオートバックスに足を踏み入れた。例によって社員教育の行き届いたスタッフから、カラーナンバーの見方など初歩的知識を教えてもらった。マニュアルどおりの接客ではあるが、悪くない感じだ。
  ≪好奇心≫といえばかっこいいが、物書きとしての悲しき習性で、ふとこんな言葉を彼に投げかけてみた。「そういえば、先日お宅の店のルーツである大阪のオートバックスの前を通りかかりましたよ」。すると、その社員は何を言われたのか分からなかったようで、返事はなかった。中年男の唐突な質問に引いたのかもしれない。「大阪の・・・」ではなく「大阪福島にある・・・」と言えばなにかしらの答えが返ってきたのかも知れないと、少し悔やまれた。
  ・ インタビューに答えてくれた方々(敬称略)松田鶴義(廣見商会・代表)/長安敏夫(パシフィック工業株式会社・会長)/上田長之輔(上田興業株式会社・代表)/中島功(SPK株式会社・会長)/森山峯明(守山自動車工業株式会社・会長)
  ・ 参考文献 大同自動車興業「60年の歩み」/大阪府自動車部品販売組合「30年の歩み」/「50年目の日本陸軍入門」(文春文庫)/「日本における自動車の世紀」(グランプリ出版)/「日本自動車史年表」(グランプリ出版)/「自動車販売王・神谷正太郎伝」(自研社)/「国産車を創造った人々」(トヨタ博物館)/「ヘンリー・フォードとT型フォード」(トヨタ博物館)/「日本史年表」(岩波書店)/「近代日本総合年表」(岩波書店)
  (次回からはスズキの知られざるヒストリー「浜松スズキ物語」をお届けします)

2017年12 月 1日 (金曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第28回

大阪・福島  モータリゼーションが始まった当初売れる部品は、クラクション、ランプ類、ブレーキライニング、それにクラッチディスク、クラッチカバーである。当時は、まだ道路もさほど混雑していなかった。生まれてはじめておもちゃを手にした子供のように、好奇心たくましく、クルマをあちこち乗り回し走行キロ数が伸びるから、こうしたパーツの要望が劇的に増加したのかもしれない。
  戦前のプレ・モータリゼーションは都会など人間が多く集まり局地的な車社会であったが、昭和40年からはじまった真性モータリゼーションは地方都市のみならず地方の町や村でもクルマが活躍するようになり、大げさに言えば日本列島全体が車社会に変貌したのである。
  そこで大阪の福島界隈の余力のある自動車部品卸業者の多くは、中国地方、九州地方、あるいは山陰や北陸に営業に出かけた。なかには広島や九州に営業所を出す会社もあった。
  平成4年(1992年)にSPKと社名変更した大同自動車興業は、その後国内に15以上の営業所を展開し、海外にもビジネス・ネットワークを構築している。
  福島に戦前忽然と誕生した自動車部品のビジネス街は、戦時下、統制会社に集約されて壊滅的となったが、終戦後、灰燼となった大阪の町から再生し、モータリゼーション誕生をキッカケに急成長を遂げるも、時代に吹き飛ばされたのか、いままた何事もなかったように元の静寂さを取り戻そうとしている。

2017年11 月15日 (水曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第27回

福島h  前年の昭和38年に大学を卒業してこの世界に飛び込んだ現会長の中嶋功氏によると・・・・当時の営業マンはみなスーパーカブで市内を飛び回っていたという。森之宮、あるいは尼崎あたりの顧客回りでもカブで出かけた。ところがそのころは市電が大阪市民の足。雨の日にうっかり市電のレールにのろうものなら、スリップして転倒。転倒にいたらずともリアタイヤがひょいと滑り、肝を冷やしたそうだ。バンパーやドアパネルなど大物の自動車部品の配達にはダットサントラックが活躍した。
  昭和40年代、モータリゼーションの大きな波が押し寄せ、福島界隈の自動車部品卸業者は、景気が悪くなかったにもかかわらず、櫛の歯が抜けるようにポロリポロリと倒産していった。手形が切れなくなったり、あるいは関連会社の倒産のあおりを喰らい自滅する……どんぶり勘定の企業やもともと資金に余裕を持たずに始めた企業家が少なくなく、ちょっとした想定外の出来事で消滅する会社が珍しくなかった。
  振り返ってみると、結果的には体力と経営戦略をしっかり持った企業が生き残った。
  昭和50年代は自動車部品卸業の世界に変化が出てきた。モータリゼーションが進んだのである。どういうことかといえば・・・ごく普通の庶民にクルマがほぼゆきわたり、トラックの補修部品の時代から乗用車の補修部品へとシフトしたのである。現在の急成長する中国やインドでもそうだが、モータリゼーション初期で売れる自動車部品はたいてい決まっている。

2017年11 月 1日 (水曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第26回

オイルフィルター (2)  ガソリンスタンドでは、ときどき客寄せと販促をかねてキャンペーンを展開した。たとえば「エアフィルター&オイルフィルター祭り」と称して普段よりも少しディスカウントして販売する。昭和40年代から50年代なら10アイテムのフィルターをスタンバイさせればお客のクルマの8割をカバーできたという。ところがいま同じようなイベントを開こうものなら、100以上のアイテムを事前に準備することになるため、事実上不可能だ。
  昔の手法ではとてもビジネスにならないのである。いまを知る人間からはごく当たり前であるが、モータリゼーションの進化というのは、ことほどさようにビジネスの形態を変えたのである。
  モータリゼーション前後の福島の表情をもうひとつの企業を通してみていこう。
  上田さんが戦前から終戦後に籍を置いていた大同自動車興業は、その後SPKとなり、現在福島5丁目にある自動車部品の老舗卸商社である。
  それまで中之島にあった本社を、現在の福島5丁目に新社屋を建て移転したのは昭和39年。当時の大同自動車興業の扱っていた商品はトラック系のリアシャフト、シャックル、Uボルトだった。翌年がいわゆる日本のモータリゼーション元年だが、補修部品の世界では依然としてトラックの世界だった。

2017年10 月15日 (日曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第25回

ファンベルト  昭和40年に花開いた市場がある。
  業界用語でいうところのアルファベット3文字“TBA”である。タイヤ、バッテリー、アクセサリーの頭文字をとったものだ。この3つの部品・用品が飛ぶように売れたのである。当時はいまでいう大型自動車部品商はおろか、カーショップなどはほとんど存在しなかった。ユーザーにいわゆるTBAをユーザーに販売する窓口はSS(ガソリンスタンド)だった。ここ10数年レンタカーに衣替えしたり、なかにはカラオケ・ショップに変身したりの超低空飛行のガソリンスタンドであるが、幹線道路から離れていない限り、当時はあきれるほど儲かった業種だったようだ。
  このガソリンスタンドに、タイヤ・バッテリー、それにアクセサリーの3商品を置いてもらい、売り上げを伸ばしたのである。「アクセサリーの世界では、現在では想像もつかないもの、たとえばルームミラーにぶら下げる人形が大人気で、いまでいうフィギュアは誰のクルマにも付いていたものです。当時はマイカーというのは動く応接間的存在で、シートカバーも飛ぶように売れました。レース仕様、カラフルな色物など・・・とにかく自分のクルマを飾りたい、差別化したいというユーザーの要望を満たす商品でした」。
  そういえばそのころ土足厳禁とか、高級車でもないのに毛バタキを新車購入時に必ず付けるという、いまから思えば笑いを誘いそうな奇妙な“習慣”もあった。
  (写真はファンベルトの在庫。ファンベルトも当時から、よく売れた部品だ)

2017年10 月 1日 (日曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第24回

オイルフィルター   昭和30年代の日本は誰しもがビンボーで、銀幕のなかでしか豊かな暮らしを味わえなかったのだが、長安さんのような恵まれた青年もいたのである。昭和30年代といえば、まだまだ戦前に造られたフォードとシボレーが街中を走っていた時代。当時のクルマのエアフィルターは、オイルバス方式もしくはデミスターと呼ばれるタイプ。板金製の箱のなかに切り子状の鉄製繊維があり、底にはオイルが入っていて、箱の中を通過する吸入空気中のゴミをそこでキャッチするというプリミティブなタイプだった。オイルフィルターは車種にもよるが付いてはいたのだが、日本の当時の整備士あるいはユーザーには「それがどんな役割をするものなのか、カイモク理解できず」、たいていのクルマは適当に塞いでしまっていたという。
   これは筆者の想像だが、先代の長安社長のイマジネーションはこんなふうだったのではないか・・・自動車時代が到来すれば、クルマのケアは大きな関心事になる。手間隙を惜しまない日本人は補修部品をこまめに交換するはずなので、必要交換回数の多い部品を手掛ければきっと事業は成功するはず。先代の予想はみごとに的中した。堂島での創業時にはわずか4名ほどだったスタッフが、堂島が手狭になり現在の福島区鷺洲(さぎす)に移ったときには尼崎の工場を入れ全部で50名ほどの社員を抱える企業になっていたという。鷺洲に移ったのはまさにモータリゼーションのはじまったとされる昭和40年の翌年である。勢いを増した事業は、一方では競争の激化をもたらしている。ライバル企業も増え、乱売合戦が始まったのである。その意味では昭和40年は、福島地区ばかりでなく日本の自動車補修部品業界の大きな曲がり角でもあった。

2017年9 月15日 (金曜日)

自動車部品センター街だった“なにわの自動車部品物語”第23回

長安さん  ここから登場願うのは、いわば「起承転結」の≪承≫の時代を生々しく語ってくれた長安敏夫さん(取材当時70歳)である。オイルフィルター、エアクリーナ-のフィルター、それに最近ではエアコンのフィルター。クルマにはこの3つのフィルターという自動車部品が活躍しているのだが、この3つを一手に引き受けているパシフィック工業(ロゴはPMC)の会長である。
  パシフィック工業は、長安さんの父親が昭和28年に始めた会社である。長安さんは学生だったので、先代が何をきっかけにフィルターにのめりこんだのかはいまとなっては明確ではないが、「おそらくは東京の芝にあった東洋エレメントの創業者木村社長などからの話からエレメントの将来性を見出したのでは・・・」と語る。
  昭和30年代初め関西学院大学在学中は英語クラブであるESSの一員で、当時の大学生としては例外的に英語には自信があった。「ロード&トラック」や「カー&ドライバー」といったアメリカのクルマ雑誌、あるいは自動車部品の英文パンフレットを父親から渡され、翻訳した。父親の覚えをよくしておけば当時父親が所有していたオースチン・ケンブリッジA20のハンドルを握らしてくれるし、ときには小遣いもくれる。そんな下心があったからだ。
  それになりより、当時憧れのアメリカの文化にじかに触れることができる喜びが何物にも替えがたかった。そうしたなかでフィルターの材料はどんなものであるのかを、ぼんやりとではあるが掴んだという。

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