みなさん!知ってますCAR?

2016年5 月 1日 (日曜日)

女性にだって扱える最新型タイヤチェンジャーに驚く!

イヤサカ・タイヤチェンジャー  大手自動車機器の商社を取材したところ、全自動のタイヤチェンジャーを間近に見てたまげてしまった。洗濯機でもあるまいし、全自動って本当かな? と思う読者もいるかもしれない。昔のタイヤチェンジャーと似て非なる性能なのである。
  近頃の乗用車タイヤは大型トラックほどではないが、超扁平タイヤゆえかなり重い。転がせてもタイヤチェンジャーの台上に持ち上げるのはよほどの力持ちでないと駄目じゃない!? ところが、機械が手元に近づくがごとく、タイヤのセット位置(正確にはスピンドル部)が90度傾くので、タイヤを転がす感じでセットできるのである。なるほど、これなら「よいしょっ!」と持ち上げる必要なしだ。
  ホイールアライメント・テスターで有名な、アメリカのハンター社の「レボリューション・タイヤチェンジャー」だ。じつは驚くのはこれだけではなかった。スイッチを入れると、タイヤの空気充填口(バルブ位置)とホイールの位置をセンサーで記憶させ、あとは自動で作業が進むのである。作業者は近くで、フットスイッチを踏み続けるだけ。5つのアームがまるでハリウッド近未来映画で出てくるロボットのように動き、ものの数分でタイヤとホイールを別々にしてしまった。タイヤとホイールの合体作業も、同じように全自動で、あっという間にやってしまった。ビードの硬いランフラットタイヤにも対応しているという。これなら「非力な女性でも楽に作業がこなせる」というのも、まんざらウソではない。
  それにしても・・・18インチのバイクのタイヤの入れ替えでいつもフウフウいっている筆者には、なんとも魔法を見せられている気分だった。このマシン、自重だけでも816kgと軽自動車並み。価格も300万円はくだらないようだ。

2016年4 月15日 (金曜日)

T型フォードのステアリングは麦わらが主成分だった!

フォード  「真実は小説よりも奇なり!」とはよくぞ言ったものだ。
  先日、ねっころがって眺めていたヘンリー・フォードの伝記「藁(わら)のハンドル」(竹村健一訳)にこんなくだりがあるのだ。ヘンリー・フォードはいうまでもなくフォード社の創業者で、「資本主義の基礎を築いた企業家の一人。自動車の大量生産方式を確立し、大企業とサラリーマンをこの地球上に発生させた人物」(竹村)である。
  この本の中ごろに、「T型フォードを造りはじめてから数年前までは、ハンドルに木材を使用していた」とある。
  いまでも高級車にはウッドハンドル仕様があるので、ここは少しも驚かないが、「木のハンドルは最上級の木材しか使えない、つまり精密さを要するので、高級材になる」ということの意味。そこで、ヘンリーは一計を案じ、よりやすく量産することが至上命題ゆえ、その当時大量に有り余っていた麦藁に着目。この麦藁にゴム、硫黄、珪土などの材料を混ぜ合わせ、チューブ状にする。あたかもミンチ肉のようになったカタマリを斜めに切断し、その外部をゴム状の物質でコーティング。1平方インチあたり2000ポンドの水圧で加圧し、1時間近く蒸気で熱して成型する。「取り出されたときには、このハンドルはまだ軟らかいが、すぐ火打石のように硬くなり・・・」最後に研磨され、鋼鉄の十字棒をはめ込み完了。コストは木材のときの約半分だったという。間違いなく当時のT型のハンドルは藁が使われていたのだ。
  このゴムそっくりの素材は、「フォーダイド」を呼んで、電気系統など約45の自動車部品に使われたという。それにしても・・・成功者とはいかに貪欲な存在だということがわかる!?

2016年4 月 1日 (金曜日)

折り紙入りのナゾの封書がマツダから!

238 2016年4月1日 マツダからナゾの封書  3週間ほど前、マツダから奇妙な封書が届いた。
  「広島中央郵便局」の美しい消印が押されたその封書を開けてみると、黒い一枚のカードと真っ赤な6角形をした風車をイメージする「折り紙」がでてきた。英語で、「マツダワールド・プレミアム」とあり、「ニューヨーク国際オートショーで新型車をお披露目するのは、喜びとするところです」とある。裏側には折り紙の開け方が、これまた英語で記してあり「花紋折り」という折り紙であることがわかる。その真っ赤な折り紙をおそるおそる開けてみると、「ニューヨーク・オートショーで“フタ”を吹き飛ばす手伝いをしてください」と英語で書いてある。
  何だろう、このナゾめいた封書は? 当初は何のことかさっぱり推測できずモヤモヤが続き、思い切ってマツダ広報のIさんに電話した。でも、電話の向こうで笑っているだけ・・・(そりゃそうだ、言うわけない)翌朝、ふとひとつの考えが浮かんだ。赤い6角の折り紙が、まるでロータリーエンジンのように見えなくもない。そこで、東京モーターショーに展示していた新型ロータリーエンジン・スポーツカーがNYでデビューする!? うん、そうに違いない。
  そしてこの原稿を書いている数日前、くだんのショーがはじまるや、その全貌が明らかになった。推理は大外れ。「ロードスターMX-5 RF」のことだったのだ。リトラクタブル・ハードトップ。直訳すると「引っ込めることができるハードトップ」、つまりソフトトップではなくハードトップ(たぶん樹脂か軽いアルミ合金、はたまたスチールか、素材は不明)をトランクに収められ、屋根付きだとファーストバックスタイルになる。RFは、リトラクタブル・ファーストバックの略だ。車速10km/h以下なら開閉でき、しかもソフトトップモデルと同じ容積のトランクルームを確保するという。それにしても、ナゾの封書は3週間ほど、ぼくを楽しませる結果となった。

2016年3 月15日 (火曜日)

インド製のクルマが日本の道を走る!

スズキバレーノ  「インド製のクルマが日本の道路を走る!」と聞くと、なんだか不安になる読者もいるかもしれない。でも、スズキブランドと聞けば安心する!?
  苦戦しているようだが、日産はタイ製のマーチを逆輸入しているし、かつてはアフリカ製のBMWが日本に上陸していたこともあった・・・鈴木修会長に言わせると「クルマは一番売れるところでつくり、余力があれば、外国に輸出するのが合理的な考え。インドは1983年に進出し、ようやくインドでのクルマづくりのレベルも上がり、インドの最新鋭の工場でこのクルマを造っているので、アジアまたはインドで造ろうがどこで作ろうが、確かなものは確か」という。「すでに欧州に出していても問題なく、日本はアジア生産車に対して変に考え過ぎなんじゃないですか」とも。
  「バレーノ」というのがそのクルマだが、1リッターと1.2リッターのコンパクトカー。1.2リッターの方は4気筒の従来型エンジンだが、面白いのは1リッターのほうで、3気筒直噴ターボ。なんと6速ATとの組み合わせで、キビキビした走りが楽しめるという。ただし、燃費はJC08モードで20.0km/lと、CVTと組み合わせた1.2リッターのCVT24.6km/lの後塵を拝している。価格も20万円ほど高い161万円台。
  インドでは、昨年10月に発売し、わずか5ヶ月で4万台を販売、バックオーダーをかかえる人気ぶりだという。ところが、日本での販売目標台数は年間5000台といやに弱気。スズキ経営陣の思惑は、軽自動車を含まない、いわゆる登録車で年10万台販売を目指しているのである。だからこのところ立て続けに、ソリオ、イグニスと登録車を送り出しているのである。なお、バレーノは、スイフトの「弟分」という位置づけなのだが、全幅が1745ミリで、1.7メートルを越えるため、3ナンバーなのである。スイフトは5ナンバーなので、弟のほうが幅を利かせているのである。

2016年3 月 1日 (火曜日)

含浸(がんしん)技術はエンジンなどのコストダウンに貢献した?

含浸技術  ときどき取材にうかがった先で、驚くべき個人的な発見をさせてもらい、心が開かれることがある。ながねん「含浸技術」に取り組んできた東京青梅市にある「㈱プラセラム」(プラスチックとセラミックの合成語だという)という30名たらずの企業を取材したときもそうだ。
  含浸という技術は、細かい隙間のあるものに液体を内部まで染み込ませ、より性能の高い製品に作り変える技術として、古くからある。でも、意外にも自動車のエンジン部品、それもシリンダーヘッドとかシリンダーブロックの主要構成部品に施されていることは、気づきもしなかった。
  「昭和30年代中ごろまでの日本のエンジンは、不良品が多く出たものなんです。それが含浸技術の導入で、瞬く間にオシャカ(不良品)の数が減り、それがより効率的なモノづくりにつながり、コストダウンに大きく貢献したのです」ということは日本の高度成長経済は含浸技術があったからこそ!?プラセラムの桑宗彦社長(78歳)は、そこまで断言しなかったが、聞いているほうは含浸技術の想像以上の偉大さに驚かされたのである。
  そもそも、シリンダーヘッドやシリンダーブロックなどの鋳造品は、鍛造品と異なり、目では確認できないが、顕微鏡で観察すると、数ミクロンの巣が無数に生じている。桑さんによると、鋳物という漢字は、金偏に巣を当てた文字もあるという。
  施工プロセスは意外と単純だ。直径1メートル、深さ2メートルの圧力容器に、たとえばシリンダーブロックなら10個近く入れ、内部をまず真空状態にし、そこにアクリル系の溶剤を入れ、0.5MPaほどの加圧で、隙間に染み込ませる。あとは円錐分離機で表面に付着した液を弾き飛ばし、次にお湯のなかで内部に染み込んだ液を硬化させる。対象物にもよるが10~60分ほどで完了。実は含浸技術は、なにも自動車だけでなく新幹線のモーターのベアリングに施すことで、100万キロ以上の耐久性を得ているともいう。恐るべし、含浸である。http://www.placeram.com

2016年2 月15日 (月曜日)

新型アウディA4とアルペンスキーの関係?

アウディA4  新型アウディA4がフルモデルチャンジされて、日本上陸となった。
  その発表会に出かけてみたら、流体力学についてのセッションを見ることができた。
  アウディA4は,4ドアセダンというごくごくオーソドックスなカテゴリーで、どこといってエクステリアの尖ったところが見えづらい。ところが、クラス最高空気抵抗値Cd値0.23。GT-R、86など並み居るスポーツカーよりも小さい。0.01小さいだけで時速100キロでの燃費が700メートルほど伸びる、という世界。その意味ではアウディは、セダンなのだが、スポーツカーより優れるという、なんとも不思議なクルマである。
  アウディ・ジャパンという企業は、「これがウリ!」とばかり、マスコミの前に流体力学の学者とアルペンスキーの皆川賢太郎選手をそろえ、A4の空力を力説したのである。A4の空力の秘密は、空力を高めるだけで1200時間にもおよぶ、もぐら叩き大作戦だったようだ。具体的には細かいリブを加えたドアミラー、スポイラーを機能したトランクリッド、きめの細かなアンダーボディの処理。クロスカントリー車で使われるクラムシェルと呼ばれるエンジンフードのデザインもきいているという。
  一方、アルペンスキーの選手のボディシェルを拝見して、驚いたのは、どちらかというと丸ポチャなのである。外観が丸みを帯びているが、上碗や太ももを観察すると、スピードスケート選手に近い筋肉質! サッカー選手とは異なるスマートさとやや異なる、体型に凄みを感じた。この身体で、最高速75キロ近いスピードで斜面を降りるんだな、と思うと、“バンパーを内に秘めた体型”なのかと、シュールな想像をめぐらしてしまった。
  ちなみにエンジンは、直4の2リッターで190PSタイプと252PSタイプがあり、駆動タイプもFFとフルタイム4WDの2タイプがあり、価格は510万円台から

2016年2 月 1日 (月曜日)

ニッチ・カービジネスを狙うスズキの思惑は果たして?

イグニス  燃料電池車の普及は、インフラ整備との追いかけっこでまだ先のことだが、いまや燃費のいいハイブリッドカーが多数派を占めつつある。軽自動車を除く登録車の世界で、トヨタ陣営の枠外にある、どちらかというと弱小メーカーであるスズキは、どんな手段で存在感を示すことができるか? ホンダのような個性を売り出すメーカーを目指すのか? はたまたマツダのように、他にはない技術を結実させてのクルマづくりで勝負をするのか? 
  スズキのカービジネス生き残り作戦は、どうもこの2つのメーカーとは一線を画すようだ。
  どこのメーカーもほとんど気付かないニッチな領域でのクルマづくりに、かけているように見える。軽自動車のハスラーは、遊びゴコロ満載のクロスオーバー。ダイハツや三菱、ホンダには存在しない。むろん過去には同じようなコンセプトのクルマはあったが、販売に結びつかなかった、いわば、お蔵入りしていたコンセプト。スズキの凄みは、埃をかぶった手法を21世紀のふさわしい色合いで飾りつけ、成功したのである。この世界は、売れれば官軍である。
  同じようなコンセプトで、今度は登録車で展開したのが今回デビューした「イグニス」(IGNIS:ラテン語でかがり火の意味)である。“年齢を問わずアクティブなユーザーがターゲット”が言葉としてのコンセプトも、なんだか遠い昔に聞いたようなキャッチ。半年ほど前デビューしたワンボックスの「ソリオ」のプラットフォーム(台車)とエンジンなどのパワーユニットをソックリ使った。持ち駒をすこし仕立て直すことで、価格を下げ、購買意欲を高める作戦。車高をやや高くして、アウトドアでも使えそうに見せるのがクロスオーバーという手の内。そのぶん乗り降りがやや面倒になり、シニア世代には受け入れられない!? でも、クルマのボディカラーだけで買うか買わないかが決まる世界、こんなクルマにもココロ動くユーザーがいるのかもしれない。(イグニスはなんと13色もある!)ちなみにスバル同様のステレオカメラが採用され、自動ブレーキ性能が強化されているのは慶賀すべきだ。排気量は1200ccで、すべてCVT。価格は130万円台から。

2016年1 月15日 (金曜日)

ピレリタイヤと須賀敦子の不思議な関係性

Pirelli

須賀敦子

  現場に行き、耳で聞いたり、目で見たりするのが取材の基本ではあるが、ときには、趣味の読書で思わぬ宝物に行き当ることがある。
  名うてのエッセイスト(随筆家)にして翻訳&書評家として知られる須賀敦子(すがあつこ:1929~1998年)さん。彼女の文章にはまり、8冊ほど買い込み仕事や移動の合間に読みふけっていたところ、そのなかの一冊にイタリアのピレリの創業者の“娘”がエッセイの中に登場してきた。娘といっても当時(1960年代ごろ)、上品とはいえ、すでに80歳代のお婆さん。
  実は須賀敦子さんも相当のお嬢さんとしてこの世に誕生している。明治期から帝国ホテルや赤坂離宮の水道工事を手がけた私設水道工事会社「須賀商会」の創業者の孫娘として生をうけるが、ある意味数奇な軌跡を描いた人物。戦後まだ日本が貧乏で海外に出ることが少なかったころ、大学を卒業後フランスとイタリアに留学。イタリアの男性と結婚。夫とはわずか7年ほどの結婚生活だったのだが、その後も夫の家族との交流があり、やがて東京に戻り上智大学で比較文化の教鞭をとりながら、エッセイストとして頭角をあらわすも、世に出たのが61歳。そののち10年に満たない執筆活動ののち病死。もともと何不自由なく育った日本女性が、イタリアでどちらかというと無産階級の男と貧乏暮らしの只中に覚悟を秘めて傾斜していくことで、金銭では手に入らない宝を手に入れた。そうとしか思えない。非可逆的な化学反応で奇跡的な世界を生み出し、このことが、多くの読者を引きつけている。でも、その存在が大きくフレームアップしたのは、その死からかなり月日がたってのこと・・・。
  『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫)というタイトルのエッセイのなかで、ピレリの創業者の娘ツィア・テレーサは、須賀さんの夫たちが経営するミラノにある豆粒ほどの本屋「コルシア書店」のパトロンという不思議な存在。この本屋はただの本屋ではなく、政治的というか思想性の色濃い書店という存在なのである。ピレリ社は、1872年(明治5年)に創業。1890年に自転車用タイヤを製造し、ドイツのタイヤメーカー・メッツェラーを買収し、F1やWRC(世界ラリー選手権)などで活躍。P6,P7,P ZEROなどのタイヤは、70年代から90年代にかけてスポーツカーに装着していた憧れのタイヤだった。日本人から観ると、イタリア人はどこか気まぐれ的要素を感じるが、この生涯独身だったお婆さんにもその臭いがただよい、不思議さと可笑しさが醸しだされる。そのピレリが、昨年中国の国有化学企業に買収されているのを知ると、時代が駆け足で変化していることを感じる。

2016年1 月 1日 (金曜日)

兵庫県三木市で見つけた“たたら製鉄”のナゾ

たたら製鉄①

たたら製鉄②

  取材に出歩くと面白い現場に出会うことがある。神戸から電車に揺られ約1時間のところにある兵庫県三木市の工具メーカーにうかがった折、無人駅の上に「金物博物館」を発見。足を踏み入れたところ、「たたら製鉄」の復刻現場を発見した。月に一度、街のひとにその様子を見せるというのだ。三木市はもともとハサミやノコギリなどをつくる金物の町なのである。
  「たたら」とは、1000年以上の長い歴史を持つ独自の製鉄技術で、もともとは「強く熱する」という意味で、インドあるいは中央アジアを源にする言葉だという。BC15~20世紀にヒッタイト(いまのトルコあたり)生まれた製鉄技術がインド・中国を経由し朝鮮半島から日本に渡ったのが西暦6世紀(古墳時代後期)とされる。おもに砂鉄を素材として、大量の木炭を使い、やがて日本刀づくりへと発展する。大量の木炭を使うため、中国地方などは禿山に近い状態になったという。大山にその姿が見えなくもない。
  粘土質の炉の中に木炭を入れ、点火後“ふいご”といわれる空気注入箱で、風を炉内に送り木炭と砂鉄を交互に上から加え続け、炉内の燃焼反応で高温にし、砂鉄から酸素を奪う(還元)で、和鉄をつくる。これを鍛錬で、脱炭(炭素分を抜く)ことで和鋼(わはがね)を作り出すのである。ちなみに、1トンの鋼をつくるのに木炭13トン、砂鉄13トンが必要だったといわれる。

2015年12 月15日 (火曜日)

グッときた!多摩川スピードウエイ回顧展

多摩川スピードウエイ  いまから80年ほど昔の昭和11年(1936年)から約3年間、観客数3万人以上を集めた日本初の常設サーキットが多摩川の河川敷(正確には現在の川崎市中原区丸子橋の上流)に存在していた。そこでのレースは、「全日本自動車競走大会」といったそうだ。戦前のクルマが戦った場所。
  日本が戦時体制に入ったため、全部で4回ほどしか開催されていないが、ダットサン(日産)とオオタ自動車(創業者・太田祐雄)の戦い、のちホンダをつくる本田宗一郎の浜松号の大事故、アメリカ日産の社長としてダットサンをアメリカで売りまくった片山豊(ミスターK)などが関わったいわば、戦後日本の自動車産業が花開くルーツを探る“聖地”ともいえる。本田宗一郎は、ここでの経験があったので、鈴鹿サーキットをつくったことは容易に想像できる。
  あまり知られていないが、この多摩川スピードウエイの前は、大正11年から昭和9年にかけて東京の洲崎の埋立地(江戸川区)、立川飛行場、鶴見埋立地飛行場、代々木練兵場、月島埋立地などの仮設のサーキットだった。だから常設サーキットは当時のクルマ好きの若者の悲願でもあった。多摩川サーキットの実現は、15年間のアメリカ生活を経験して帰国したジョージ藤本こと藤本軍治(1895~1978年)の尽力によるものだという。藤本は、アメリカ車のハドソン号で、下関から東京までの急行列車と競争して敗れるなど、破天荒な行動で風雲児の異名をとった男。
  もちろん河川敷なので、ダート(非舗装路)である。第1回のレースでは1ラップの速度が67kmほどだったのが、3回目には100km/h近い96.6km/hをマークしたという。こうしたことを知る写真展が、このほどレース場があった場所にほど近い東横線の多摩川駅近くであった。

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