みなさん!知ってますCAR?

2022年8 月 1日 (月曜日)

ぼくの本棚:竹内一正著『未来を変える天才経営者イーロン・マスクの野望』(朝日新聞出版)

イーロンマスク

日本人が取材して書いたイーロン・マスクの伝記だ。
  直近ではツイッター社買収で物議をかもしている。実業家イーロン・マスクの名を知ったのは、かれこれ15年ほど前になる。電気自動車が海のものとも山のものともわからない頃。当時は「へ~っ!」という感じで、いきなりカリフォルニアで、EVオンリーの自動車メーカーを買収し挑戦するニュースが耳に入ってきた。イーロン・マスクは、南アフリカで生まれ、カナダにわたり、そしてアメリカにたどり着いた移民である。現在51歳。
  電気系のエンジニアだった父親とモデルで栄養士の母のもと、恵まれた家庭で育った男は、ペンシルベニア大学で経営学と物理学をまなび、24歳でソフト制作会社を設立。これを皮切りにさながら“わらしべ長者”のように、企業を売却、その原資で新企業を購入、さらにそれを育て高額での売却を繰り返し、雪だるま式に莫大な資産を手に入れる。
  凡人は、そこがゴールとばかりリタイヤして優雅で退屈な暮らしを手に入れるものだ。
  だが、イーロン・マスクの人生観はまったく異なる。ここからが本番の人生とばかり、テスラ・モータースをグローバルな電気自動車メーカーへと押し上げる。当初は、自動車のことがほとんど分からないベンチャー企業に過ぎなかったが、英国のロータスからシャシー技術を導入し、トヨタのレクサスでたゆまぬ仕事を続けてきた人材を取り込む一方、GMとトヨタ合弁のカルフォルニアの中古自動車工場を格安で手に入れ、ここをリニューアルすることで世界に高級スポーツカーのEVを送り出す。創業期のよちよち歩きがウソのように、いまや時価総額ではるかトヨタを抜く。
  イーロン・マスクのすごいところは、モノづくりへの絶えざる好奇心と理解力、即決実行力、それに人たらし的魅力で多額の資金を集められる人間力。
  驚くべきことに、このテスラのCEOだけではなく、同時進行で宇宙開発事業に乗り込み、着々と成果をあげている点だ。スペースX社の代表としての取り組みだ。
  とはいえ、艱難辛苦の連続。無人宇宙ロケット“ファルコン9”は、3回にもわたり打ち上げ失敗を繰り返した。それでもイーロンは、まったく絶望しない。それどころか、失敗は成功の元とばかり、知見を積み上げ、見事にNASAができなかったコスト1/10でのロケット打ち上げを実現して見せた。イーロンの夢である「火星への人類移住計画」に向けて進んでいく。
  考えてみれば、現在世界の経済を支配しているIT企業は、アマゾン、アップルにしろフェイスブックにしても宇宙開発や自動車づくりに較べると、リスク度が一桁も二けたも低い。投資する金額の多寡だけでなく、人間の命がかかっているかを思えば、段違い。イーロン・マスクは、なぜ二つのリスキーな企業体を同時進行でアグレッシブに運営きるのか? 「二兎を追うもの一兎をも得ず」でなく、イーロン・マスクは「一石二鳥」あるいは「一挙両得」のことわざを地でいくのである。
  「いずれ地球は、人口爆発でほかの星に移住せざるを得ない。だから火星への移住を視野に入れている。それまで、できるだけ温暖化を押える意味で電気自動車の増殖に力を注ぐ」とイーロンは、彼の事業を説明している。「そもそもEVは化石燃料で電気をつくれば元も子もないという説があるが、そうではない。化石燃料をエネルギーとするエンジンは、入力したエネルギーのわずか40%しか車輪を回す力になっていない。つまり非効率。その点電気はたとえ化石燃料で作り出したものでも、途中でのロスは10%もいかず効率的。それに電気を太陽光または風力で作り出せば、完璧なエミッションゼロとなる」という理屈だ。著者の竹内さんは元エンジニアだけに、技術的解説が手馴れているので、ハラハラして読む必要なしだ。(2013年12月発刊)

2022年7 月15日 (金曜日)

ぼくの本棚:五木寛之著『メルセデスの伝説』(講談社刊)

メルセデスの伝説

  クルマ自身がもう一つの主役となっている、歴史的事実をもとにしたカーノベルである。
  “グロッサー・メルセデス”(巨大なメルセデス)の名でよばれるメルセデス・ベンツ770は、アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)の肝いりで1930年から1937年のあいだにつくられた超弩級のプレミアム高級車。
  おもなユーザーは、ヒンデンブルグ大統領、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、イタリアのベニート・ムッソリーニ、スエーデンのグスタフ5世、ローマ教皇ピウス11世、それに日本の昭和天皇など当時の世界の冠たる枢軸国のトップ人物。とくに、1938年にフルチェンジされたグロッサーは、7655ccの直列8気筒OHVエンジンであることには変わりないが、半楕円リーフリジッドタイプの前後サスを前後輪ともに独立懸架式に変更。スーパーチャージャー付仕様だと、400PSで最高時速190㎞をマークしたといわれる。
  厚さ45mmの分厚い防弾ガラス、主要キャビンを囲む部分が厚さ18mmの鋼板に覆われ、タイヤも被弾しても大丈夫な特別タイプ。標準仕様の車両重量2700kgのところなんと5トンを超えるタイプもあった(それでも戦車にくらべると1/8~1/10に過ぎない!)。この幻の高級車が、意外や7台も現存する。
  戦後生まれの放送作家の主人公は、ひょんなことからこのグロッサ―メルセデスをテーマにTVでのドキュメンタリーを製作するスタッフの一員となり、ドイツのメルセデス博物館に取材したりするうちに、主人公の父親の死が、このグロッサーとかかわりがあることが浮上。父親は終戦の直前国家の重大な名誉をになう仕事で殺されたことが分かり、その背後に戦後のどさくさに巨額の資産を蓄えた日本人の黒幕が浮かび上がってくるに従い、主人公の周辺で不明な事故が頻発する。
  これ以上書くとネタバレになりそうだが・・・・意外にも幻の“グロッサ―・メルセデス”、昭和天皇が愛用する予定だった超弩級高級車は、日本の某所にひそかに保管され、ベストコンディションで維持されていた。
  父親の無念を晴らすべく主人公は、敵陣に単独で乗り込み、大暴れする。まるでシルべスター・スタローンの「ランボー」の映画のように! 真夏のエアコンの効いた部屋で読み始めると2日で読み切ってしまう、奇想天外な痛快冒険カー小説である。これを機にちょっぴりベンツの歴史や終戦直後の知られざる日本の歴史を知りたくなる。(1985年11月発刊)

2022年7 月 1日 (金曜日)

ぼくの本棚:片山修著『豊田章男』(東洋経済新聞社刊)

豊田章男の本

  たいていの人がそうだが、いろんな媒体が増えたせいか昔ほどテレビの前に座らなくなった。
  とはいえ、妙に気になるTVコマーシャルがある。『トヨタイムズ』というCMである。俳優の香川照之を編集長に仕立て、トヨタのイベントを数秒でアピールする。これって、企業自体がメディアを持ち世間に発信するオウンドメディアという新手の自社広告の手段だ。
  媒体は、本来“公平・中立”が原則。だから、企業自前のメディアは公共性を欠き、本来あり得ない。でも、公平・中立の新聞社や放送局も、広告収入で活動を続ける以上、その理念は建前に過ぎない、ということは誰しも指摘するところ。でも、企業が媒体を持ち、社会にさも公平を装いながら大衆に訴え掛ける・・・・というのは疑問が残る。しかも、昨年末にお台場で発表したバッテリーEVの大々的記者会見。豊田章男社長が10数台の未発表のBEVをバックに、大きく手を広げているあの動画。これを、飽きずに6か月以上流し続けている。まともな媒体なら「終わったニュース」を流し続けることができる、というのがオウンドメディアなのである。
  調べてみると、トヨタは、これ以外にもSNSをフルに活用して、新しいモノづくりTNGA(トヨタ・ニュー・グローバル・アーキテクチャー)を佐藤浩市、三浦友和、黒木華、永作博美など豪華な俳優陣を使い、とくにメカに強くない消費者にもわかりやすい動画を展開している。
  さらには、レーシングスーツに身を包んだ章男社長は、トヨタ車でサーキットでの競技に参加し、それをSNSにアップし、話題作りに励んでいる。時代は、たしかにこの方向に向かっていることは理解できるが、何もそこまでしなくても・・・・という思いが湧いてくる。
  この本によると、こうしたトヨタのトップは何を考え、どこに向かおうとしているのか? そして何を望んでいるのか? 世界には約37万人のトヨタ従業員がいる。家族を含めると、100万人以上。サプライヤー、ステークホルダーといわれる人たちを入れると、数百万人。この人たちに理解してもらうために、章男氏自ら、あえてこうした露出を展開しているのだという。
  その背景には、章男社長就任わずか2か月後の大事件があった、とこの著者は判じる。
  2009年に起きたアメリカを舞台にした大規模リコール問題。「初動の動きが遅れたばかりに、3時間20分にもわたるアメリカの下院での公聴会で弁明しなければならなかった」からだという。大大ピンチに晒された章男社長は、前夜遅くまでスタッフと打ち合わせた予定稿を破り捨て、自分の言葉で終始語った。これが、大きく人の心を打ち、ピンチを脱することにつながった。だから、常に企業は情報を発し続ける必要性があり、オウンドメディアは一つの選択肢だという。
  この本は、経済記者なので、廃油の臭いのある泥臭いエピソードは期待できないが、トヨタの過去・現在、そして未来に分け入ろうとする長編ドキュメンタリーである。豊田章男社長の人となりがそこそこリアルに描かれている。いま、曲がり角にきている自動車メーカーの具体的な生き残り策を知りたければ、一読の価値ありだ。(2020年4月発刊)

2022年6 月15日 (水曜日)

ぼくの本棚:サトウマコト著『横浜製フォード、大阪製アメリカ車』(230クラブ刊)


横浜製フォード、大阪製アメ車

  日本フォードの副支配人だった稲田久作、日本GMのちトヨタで販売の神様と言われた神谷正太郎、安全自動車の創業者でクライスラーの販売を手がけた中谷保、それにヤナセの創業者・梁瀬長太郎。戦前日本の自動車産業勃興期を舞台に活躍した、この4人の男を軸にした自動車物語である。A5版の判型で、2段組み256ページ。
  日本人(おもに東京市民)が、自動車という乗り物を身近に感じ始めたのは、フォードのトラックシャシーを使って架装された11人乗りの路線バス、通称「円太郎バス」である。関東大震災(1923年)で壊滅した市電に変わり、市民の足となり大人気を誇った。
  極東の国でクルマの需要が見込まれると見たアメリカのフォード、ゼネラルモータースのGM、クライスラーのビッグ3は、昭和初期に横浜と大阪にノックダウン工場をつくり、あっという間に日本の道路をアメ車が走り回る状況を作り上げた。国家プロジェクトで自前の自動車生産を育てたいと目論む軍部には、こうした状況は歯がゆいばかり。その歯がゆさは複雑だ。当時の日本製トラックは、戦地で壊れまくり役に立たないばかりか足手まとい。その点アメリカのトラックは丈夫で壊れず信頼性が高かったからだ。
  この本は、こうしたすでによく知られる史実の隙間を、知られざるエピソード、それに豊富な図版や図表で埋めてくれる。たとえば、梁瀬長太郎は、欧州からアメリカに向かい洋上で大震災を知り、NYに着くや否やGMに2000台ものビュイックとシボレーを発注、これが日本に到着後またたく間に完売し、莫大な利益を得てヤナセのもとを作り上げたという。
  あるいは、円太郎バスの運転手を当時の市電運転手のなかから1000名希望者を募り、世田谷にある東京農大のキャンパスで陸軍自動車隊の教官が先生役で速成訓練を展開。いっぽうバスボディの架装は、馬車を製作していた工房など八方手を尽くして分散生産させている。それもあって、バスはいわゆる室内高が低く立ち乗りができず、対面する座席方式で、互いの膝がぶつかるほど狭かった。それでも、円太郎バスは当時の東京市民にはとても人気があった。市電の復旧が進んでバス路線の廃止が一度きまったが、廃止撤廃の声が多く、継続営業となり、バス自体も屋根をアーチ型に改良し、多少は居心地がよくなったとされる。それが、いまにつながる都営バスとなっている。すでに100年以上を超える都市の路線バスとなった。
  著者のサトウマコトさんは、鶴見生まれの横浜っ子。近所に稲田久作の旧家があり、その縁で大量の資料を発見し、この著を世に送り出せたという。小田急百貨店に50歳まで勤め、そこから乗り物好きが高じて、横浜の鉄道や歴史ものを出版する出版社を経営するかたわら、みずからも執筆の日々だという。
  文章はわかりやすい表現で好感をもてる。タイトルも悪くないし、発見も多い本である。
  苦言を呈すれば、みずからが編集者となっているせいか、はたまた本屋に並ぶ前に第三者の目が充分でないせいか、せっかくの力作も記事のダブりや誤植が目立つ(人のこと言えませんが)。全体としてまとまりが弱い、なんだか隔靴掻痒(かつかそうよう)なのである。(2000年12月発刊)

2022年6 月 1日 (水曜日)

ぼくの本棚:堀田典裕著『自動車と建築-モータリゼーション時代の環境デザイン』(河出書房社)

自動車と建築

  ふだん何となくクルマのハンドルを握っていても、気づいていないことがたくさんある。そのことにおおいに気付かされてくれるのが、この『自動車と建築』という風変わりな本だ。内容もさることながら、正直あまりこなれていない文章で、つい放り投げたくなった。でも辛抱強く読み進めると、意外な発見が散りばめられていた。
  たとえば、のちにモータースポーツの推進に貢献することになるドイツのアウトバーン。そもそもヒトラーが1933年、60万人規模の失業者対策として、かつドイツ帝国の兵站を支える道路の位置づけで建設され、速度無制限道路といういわば究極の舞台をつくることで、その後のドイツのクルマ産業を支えた。ここまではよく知られているが‥‥。
  この本によると、日本版アウトバーン計画なるものが「弾丸道路」という名称で戦前の日本にもあったという。わが国初の高速道路計画は、神武天皇からカウントしてちょうど2600年(皇紀2600年)にあたる昭和15年(西暦1940年)に鉄道省によって発表された東京・下関間新幹線建設を同じ年に新聞紙上をにぎわしたというのだ。当時の内務省の若手技師たちが、交通情勢や都市人口、工場地帯での生産量、自動車保有台数、港湾施設などを勘案し、ドイツのアウトバーンの向こうを張って「弾丸道路」計画を検討したという。つまりいまから80年も前に新幹線とパラレルに超弩級のハイウエイ計画が日本で存在したのだ。
  じっさい名古屋・神戸間の実地計画まで行われたものの、約2億円(現在の価格で5兆300億円)という建設費が認められずあえなくポシャッた。どうも戦争遂行のための国民向けアドバルーンだったかもしれない。
  自動車専用道路計画は、なにも国がおこなった東名高速や中央高速ばかりではなく、民間のチカラでの道路づくりもあった。伊豆にある小刻みな有料道路や芦ノ湖スカイラインや箱根ターンパイクなど観光道路が思い浮かぶ。それだけではない。終戦直後の昭和20年代末頃には、渋谷から江の島までを結ぶ「東急ターンパイク」計画まであったというからすごい。PIKEとは17世紀英国でできた道路所有者がつくる有料道路のことだが、1954年に東急電鉄の臨時建設部が渋谷駅を起点にして、二子玉川、戸塚、大船を経由して江ノ島にいたる約48㎞結ぶ有料道路の計画が持ち上がった。これも東名と第3京浜の完成で、実現には至らなかったが、これこそが小田原から箱根までの現在の箱根ターンパイクとしていまに残っているというのだ。
  高速道路で一休みするサービスエリアについても、この本はうんちくを傾ける。たとえば、東名の「足柄サービスエリア」は、京都大学工学部建築科を卒業した黒川紀章が、30歳のときに設計したもので、敷地周辺の樹木により外からは認めづらい空間にサービスエリアを構築したというのだ。断絶されたカーパーキングの世界。同じ東名でも富士川サービスエリアは、ガラリ異なる。経済学者清家篤の父清家清が設計したもので、富士川を眼下にして富士山と駿河湾を眺望するデザインとしている。
  このように、各サービスエリアは、個人デザイナーの手にゆだねられたというのだ。今日の街のデザインがよく金太郎飴にたとえられるが、道路施設は意外と個性が尊重されているというのだ。
  幹線道路沿いのたとえばガソリンスタンドや、商業施設が、なにやらてんでんばらばらのデザインなのは、こうした流れと共通しているのかもしれない。この本は、建築のデザインの門外漢にもわかりやすい筆致で少し前の自動車道路をとりまく無味乾燥と思いがちな建設に色合いを与える。(2011年4月発行)

2022年5 月15日 (日曜日)

ぼくの本棚:清水草一著『フェラーリさまには練馬ナンバーがよく似合う』(講談社)

清水草一

  フェラーリは、もちろんイタリアのスーパーカーだ。そのフェラーリに日本の練馬ナンバーを付けて、日本の道路を走る! これを聞いて「別にいいんじゃない!」というか「そうね、冷静に考えればフェラーリに日本の土着的匂いのする練馬ナンバーを付けるってダサいかも?」と思う人もいる。
  そう考えると、この一見ふざけたタイトルも、深い意味を感じ取れてくる。
  ふだんラーメンをすすりながらお金をためてスーパーカーのオーナーになるエンスー(エンスージアスト:趣味人)がいるとは聞いていたが、それに近い人なのかと思いきや、1962年生まれの著者は比較的恵まれたメディア関係者である。
  「週刊プレイボーイ」のクルマ担当編集記者になったことから、この本の筆者はフェラーリのハンドルを握る。怒涛の咆哮の排気音がまとわりつく! その時いきなりクルマの神様が降臨し、フェラーリのオーナーへの道を決意。4年後諸経費込みで1163万円強の費用で1990年式フェラーリ348tb(V型8気筒3400cc)を手に入れる。ある意味人生はマンガチックなのかも!?
  これで彼のカーライフは、極楽浄土、天国の楽園! と思いきや、いざオーナーになって冷静にフェラーリを味わってみると、誇るべき点とそうでない面を味わうことに。
  フェラーリを持つことがゲージツそのものなのだ! と至福の思いに浸るも、冷静に弱点にも目を向ける(向けざるを得ない?)。まっすぐ走ってくれないし、少し気合を入れてコーナリングすると横に飛びそうになるし、ブレーキも動力性にそぐわず、なんだか甘い。早い話、クルマの3大基本性能である≪走る・曲がる・止まる≫、これがあんまりよくないのだ。
  それだけではない! 金食い虫の高級車(あるいは当時のイタ車)は難儀だ。タイミングベルトを2年または走行2万キロで交換というオキテがあった。ふつうのクルマなら10万キロまでOKなのだが‥‥。手抜きすると、最悪ベルトが切れてエンジンがオシャカになり、目の玉が飛び出るほど大出費必至と脅かされ、泣く泣くベルト交換。ところが、エンジンが運転席の後ろに付いている、いわゆるミドシップ。だからふつうなら数万円で済むところ、エンジンを降ろしての作業がともない、けっきょくベルト交換だけで17万円!!
  それだけではなかった。2年ほどで、エンジンからのオイル漏れ、高速でハンドルがふらふらするとか、フル制動でハンドルがガクガクするなど……の不具合の兆候が出て、けっきょくホイールアライメントの調整、ダンパーとスプリングの交換、スタビライザーのブッシュ交換などなど、総額71万円の大出費。
  ここまで保守点検したにもかかわらず、スーパーカーは、油断できない! 遠出した時、いきなりエンジン不調に見舞われる。8気筒のうち4気筒が死んだ感じで、こうなるとスーパーカーもただの鉄の塊。
  ディーラーのアドバイスでECU(エンジンコンピューター)のヒューズの差替えをしたところ、ウソみたいに直ったという。排気温度上昇で、ECUが自動停止したことが原因か?! 日本の夏はイタリアの夏より暑くて湿気が多いことが原因か? そんなフェラーリ都市伝説が付きまとう輸入車特有の悩みがボコボコ現れる。スーパーカーを所有することなど端(はな)から考えたこともない、普通の読者は、ここで大きく留飲を下げる。そして、丈夫で長持ちする日本車オーナーの自分を慰める!?
  フェラーリオーナーの無尽蔵のトラブル体験と嘆き節がどこまでも続くと思いきや、このエッセイ本、途中から大きくスライス! フェラーリの母国イタリア旅行のドタバタや路線バスや鉄道輸送の超まじめな考察、市販車での草レースの自慢話などが展開される。内田百閒先生をホーフツしないでもない、いわば優雅なモータージャーナリストの“安房列車”といったところ。お気楽な気分になれる90年代のエッセイ集だ。
  (1996年7月4日発行)

2022年5 月 1日 (日曜日)

ぼくの本棚:伊東信著『イラスト完全版 イトシンのバイク整備テク』(講談社プラスアルファ文庫)

イトシン

  “失敗は成功のもと!” 失敗すれば、その原因を反省し、かえってその後の成功につながる。いまや、この素朴なことが信じられない時代になった、といえそう。資本主義社会が成熟し、モノがあふれているから、あるいは現代人はせっかちになり過ぎて回り道ができなくなったからかもしれない。
  とはいえ、この300ページ足らずの文庫本は、一行もそんなことが書いてはいない。
  分かりやすい文章と愛のあるイラストで、バイクの修理はこんなにやさしく、楽しくできるよ!! とすべてのページで謳い上げている! イトシンさん(伊東信/1940~2010年)の人柄がにじみ出た懇切丁寧、無駄な言葉を用いず、面白くてためになる実用書のお手本のようだ。
  壊れたら修理して長くバイクを楽しむことこそが、環境にやさしくカーボンニュートラルにつながる行為。そういうふうにはイトシンさんは正義を大上段に振りかざさない。意識すらしていなかった。単にその方が楽しいから。よりバイクとユーザーとの距離が近くなる。
  しつこいようだが、この本が出て20年過ぎて素直に読むと・・・・SDGsという言葉が飛び交う、いまの時代の欺瞞性に警鐘を鳴らしていると読めなくもない。
  ここで広田の個人的体験を。バイクに本格的に付き合いだしたのは、中古で手に入れたホンダCB250からだ。このバイクを通していろいろなことを教わった。
  フロントフォークのクッションオイルを交換するためネジ径M6ほどの小さな+ネジを緩めようとして、頭がもげたトラブル。完全にお手上げとなる。当時ホンダにはホンダSF(サービス・ファクトリー)という自前の整備工場を全国に持っており、そこに駆け込んだ。
  そこの整備士は冷酷に、こう云った。「お客さん、これはフロントフォークを交換するしかないです。修理代は4~5万円はかかります」。10万円で手に入れたバイクの修理費が購入費の半分! そのときの気分は、まるで死刑を宣告されたような気になった。そこで、なんとか頭のもげたボルトを取り外すべく、いろいろと聞いて回った。そしてポンチとハンマーで根気よく緩む方向に力を加え、緩め、2日がかりで取り去ることができた。そのときの喜びは一生忘れない。
  すり減ったリアタイヤの交換作業も、印象強く残っている。当時はチューブ入りタイヤ。タイヤレバーを使い古タイヤをリムから取り外し……新しいタイヤを装着する……。この作業は、ボルトを緩め取り外す、といった工程ではない、数々のスキルが要求される作業。なかのチューブをタイヤレバーで傷つけないとか、リムとタイヤの耳を均一に密着させるため、石鹸水を塗布するとか……。言葉だけでは通じない、言うにいわれない技が必要なのだ。これはどこか楽器の演奏に似ていて、ある程度訓練しないとうまくゆかない。つまり1回2回失敗しないとゴールまでたどり着けない、そんな世界。
  じっさいには上手な人の作業をじっと観察し、その模倣をする。もちろんそれでも数回失敗するのだが、その失敗の上に成功が見えてくる、そんな世界。むかしは、そんな作業を見事にやってのける、頼もしいお兄さんが回りにいた。なんだか、そうしたお兄さんの手際いい作業を見ると、まるでマジックを見せられている気分だった。
  イトシンさんは、じつは、筆者(広田)にとって頼もしい先輩のひとりだった。バイクや整備の楽しみや深みを教えてくれたのも、イトシンさん。むかしの工具をめぐる話をしてくれたのも彼だった。
  『ヤングマシン』というバイク雑誌の編集部員のときは、企画でツーリングに出かけたものだ。なかでも2日間の岩手で展開されたイーハトーブ・トライアルではずいぶんお世話になった。モノにこだわらない、生き方も示してくれたように思える。彼ほど読者を大切にしたライター兼イラストレーターもいなかった。編集者時代に「ヤング・ジンマシン」(蕁麻疹をもじった自嘲気味なタイトル)というイトシンさんのファンクラブに、一度も参加できずに終わったことが残念。イトシンさんの話は、実は彼が書いた記事の3倍ぐらい面白かった。いま思うと、その面白い話を浴びるほど聞いていた。“イトシン語録”としてまとめればよかった、と悔やまれる。(2011年12月20日発行)

2022年4 月15日 (金曜日)

ぼくの本棚:佐野裕二著『自転車の文化史』(中公文庫)

自転車の文化史

  自動車以上に“日用品”となっている自転車の興味深い歴史をコンパクトにまとめた文庫本である。
  じつはイマドキの自転車は、知る人ぞ知る高級自転車を含めほとんどが台湾製である。安い実用車(シティバイシクル)なら中国製というのが相場だ。
  この本は、昭和62年(1987年)に出たものなので、最近のこうした自転車の動向こそ知る由もない。いまはエコロジカルの代表選手ともてはやされている自転車は、当時つまり高度成長経済まっただなかの昭和後期には、“駅前公害”と汚名をきせられていた。どこの駅前にも、自転車置き場からはみ出た自転車がまるでスクラップのように山積みされていた、そんな時代。
  大正7年生まれの筆者は、フランス語が達者だったことから戦時中インドネシア戦線(仏印戦線)の宣伝部で通訳を担当。戦後は時事通信社の記者だった。だからか癖のない、こなれた文章で自転車の誕生から面白エピソードまでをつづる。
  面白いことに昭和59年に赤坂にあった「自転車文化センター」で、“明治期の自転車特別展”を催した、とある。歴史を振り返る展示物が必要から、全国の博物館や自転車コレクターに問い合わせたところ、存在しないと思われていた明治初期につくられた木製の自転車が20台も集まったという。ミショー型とかオーディナリー型と呼ばれる前輪にクランクペダルを取り付けた前輪駆動タイプ(とくにオーディナリー型は前輪が巨大タイプだ)。もともと輸入製品で日本に入ってきたこれらの旧式の自転車。俄然興味を引くのは残存していたのが、これらをコピーした国産製だけだった。
  自転車は、木製からあっという間に鉄製に進化する。じつはその作り手が、堺などで江戸末期まで活躍していた鉄砲鍛冶職人だった。失職鉄砲鍛冶が、サドルを支えるシートポスト、ハンドルとフレームをつなぐハンドルポスト、前輪のキャスター角を確保するため若干円弧状に加工されるフロントフォーク。こうした部品や補修部品の需要もあり、火造り技術(鍛造技術やロウ付け技術)が要求されたのだ。鍬や鋤をつくるいわゆる“野鍛冶”の仕事よりもずっとやりがいもあり、利益も上がった。価格も下がり、金持ちの道楽だった乗り物が当時の若者・商店の店員たちの移動手段に化けていく。こうした知られざる埋もれた自転車の歴史が語られる。
  不思議に思うかもしれないが、日本における自転車の歴史は、その後、時間差で現れる自動車の歴史をなぞる。海外から流入→国内生産→海外へ輸出という流れ。「日本の自転車は長いあいだ前輪のスポーク数が32本で後輪が40本と決まっていた」という。欧米の自転車は前後36本だったのに。「これは、日本では荷台に重い荷物を積むことが多かったからだ」。自転車の速度は、人の歩く4倍以上の15~20km/h。一度に運ぶ荷物は100kg近くにも。ということは自転車は、トラックが登場する前までは暮らしを変える革命的な移動手段だったのだ。
  ちなみにアメリカでの自転車の歴史はもっとぶっ飛ぶ。自転車がいきなり飛行機へとシフトしたのだから。1903年、ノースカロライナ州のキティフォークでのライト兄弟初飛行。このライト兄弟、もともと10年前から自転車の製造と販売を手掛けていた個人商店(みたいなもの)。それがいきなり、宮沢賢治的発想で、「空を飛んでみたい!」という一心で飛行機を作り人類初めて空を飛んだのだ。だから初めの飛行機は間違いなく、“空とぶエンジン付き自転車”と言えなくもない。
  いまアシスト量2倍で、ぐんぐん楽に坂道を上ることができるe-Bikeが世界的に大流行の兆し。一度この本を手に取り自転車の過去を振り返ってみるのも悪くないね。

2022年4 月 1日 (金曜日)

ぼくの本棚:ケイティ・アルヴォード著『クルマよ、お世話になりました』(白水社;堀添由紀訳)

クルマよ、お世話になりました

  どちらかというと≪クルマ礼賛≫を信条とするブログ記事からいえば、こうしたクルマ否定論の本を取り上げるのはどうかと思う読者もいるだろう。
クルマが大好きな読者のなかには、思わず耳をふさぎたくなる箇所が少なくない。
  でも、世の中は多様な価値を認めてこそ健全だ。そこで、薄目を開けながらこの本を読んでみた。
約300ページにわたる単行本の大半は、“クルマという機械”の悪口が、これでもかこれでもかという具合につづられる。
  曰く、クルマは深刻な環境問題を引き起こしている! 曰く、クルマは金食い虫だ。曰く、クルマに恋すると身体を動かさないので、不健康に結びつく。曰く、クルマ社会はユーザーへのコストだけではなく社会的なコストがかかりすぎている。曰く、クルマがなければ交通事故の大半はなくなり、道路がいまほどクルマに占領されることが少なくなりより暮らしやすい世の中になる。
  その主張は逐一もっともである。筆者アルヴァ―ドさん自身(カルフォルニア生まれでミシガン州に住む市民活動家でもある女性)が1992年までクルマの恩恵にあずかってきただけに、単なるクルマ嫌いのヒステリックな論調ではなく、事実を淡々と積み上げていく。それだけにページをめくるたびに、胸にぐさりと突き刺さり、憂鬱になる。
  ページを繰るたびに「それでも、クルマは人間に移動の自由を与えてきているし、いまもその役割が小さくない。それに交通事故死も安全装備の進化で劇的に少なくなっている」そんなふうに心のなかで反論するも、筆者の正論にいつしか敗北している自分に気付く! そして最後に、筆者は、「クルマの運転と喫煙は驚くほど似ているのよ! 悪いとわかっていても、断念するように言われても、やめられないものなのだ。それにクルマの支配から解放されると素晴らしい世界が待っている」と。さらに、歩くことの素晴らしさや自転車を使っての移動がクルマ以上に気持ちのいい時間をもたらすことを説きまくる。それでも、雨の日、嵐の日でも車は快適に移動できるし、公共交通機関は当てにできないのでは! と反論したくもなるが・・・・。
  この本は、いま置かれているクルマとの関係を冷徹に見直し、できればクルマと離婚(原題がDivorce your car!)を強力に勧める。ある日突然クルマをやめるのは麻薬をやめるに等しく衝撃がでかすぎる! 「カーフリー」つまりクルマと完全に離婚するのでなければ「カーライト」。つまり愛車の仕様をできるだけ減らし、徒歩や自転車での移動を心掛ける。そのことで世の中はずいぶん良い方向にいくに違いない・・・・そう訴える。
  なんとはなくクルマと付き合ってきたのだが、この本を読むことで、逆にクルマの魅力を再認識でき、クルマとの距離感が鮮明になってきた。(2013年11月発行)

2022年3 月15日 (火曜日)

ぼくの本棚:中岡哲郎著『自動車が走った 技術と日本人』(朝日選書)

自動車が走った

  独自の視点で展開する日本自動車産業史である。
  交通の歴史を振り返ると、明治期から日本は鉄道網をゆきわたらせた。おかげで便利で比較的安価な公共交通ネットワークが世界的にも例を見ないほどに整えられた。にもかかわらず、日本は年間2000万台以上のクルマを作り続けるトップレベルの自動車大国となっている。いわれてみれば腑に落ちる、この素朴な疑問。これを梃子に京大卒の技術史家は鋭く江戸末期から我が国の科学する人たちをウォッチする。
  日本でモータリゼーションが始まるのは、いわゆるマイカー元年といわれる1966年(昭和41年)。飛行機野郎長谷川瀧雄が主査をした初代カローラが発売された年とされる。ふつうの庶民がクルマを所有できる気持ちになった。それまではクルマを持つことは夢であった。
  そのカローラデビューからほぼ60年前、日本初の自動車第一号が走っている。岡山の山羽虎夫がつくった山羽式蒸気エンジンを搭載した屋根なし10人乗りバス。そののち日本初のガソリンエンジン車を作った内山駒之助、オートモ号を作った白揚社の豊川順彌、ダット号の橋本増治郎、オオタ車の太田祐雄(すけお)、それに豊田章男氏の祖父である豊田喜一郎などなど。
  こうした先人たちはオシャカ(不良品)を山のように重ね、あたら財産をすり減らし、なかには橋本のように子供の預貯金まで手を伸ばした。なんとしてでも、わが手で自動車を作ろうとした。振り返ると死屍累々! なぜそこまで、情熱を持ち続けられたのか? 経済合理性を考えたら、つまりコスパからみれば大冒険。なぜそんな・・・・よく言えば愚直、悪く言えば無謀極まる挑戦をしなくてはいけなかったのか? 
  当時の富裕層の大半は、自動車産業を極東の島国につくることなど、初めからあきらめていた人が多数派だった。三井、三菱、住友といった財閥は、リスクが大きすぎるとして手を出さなかったし、ヤナセの初代柳瀬長太郎は「(日本ですそ野の広い産業構造を必要とする)量産自動車産業などできるわけがないから、欧米から輸入するのがいちばんの得策だ」ときわめて常識人らしい主張をしていた。
  山羽式蒸気バスはタイヤの供給不良でバス運行が数日で頓挫している。その幻の蒸気バスの轍(わだち)が消えてから、100年たたずして日本の自動車産業は世界トップの座に駆け上った。もし時空を超えて、現代の様子を見たら虎夫さんは、驚いて顎が外れるか涙をながすハズ。・・・・なぜ極東の島国で実現できたのか? 20世紀日本の最大の謎!(最大ではないかも)
  この本は、その謎の正体を産業史のなかに丹念に分け入り、見つけ出そうとする。
  答えは意外なものだ。「乗用車を持つことは日本人の夢だったから!」と筆者は言う「それは文明のモデルとして日本人の目に自動車が写ったから。明治期には、蒸気船や鉄が日本人の文明のシンボルだった。それが関東大震災以後、初めて自動車を見た日本人は自動車こそが文明のシンボル(と思い定めた!?)」。振り返ると死屍累々だが、目には見えない夢の数々が自動車づくりの熱として結実した?! これって“ものづくりサムライの挑戦”?
  江戸末期の「蒸気船」の設計図をもとに模型で蒸気船を作り上げた日本人から始まり、博覧会などで西洋の新しい技術に触れることで、インスパイアされた日本人が、自動車を走らせる夢を追いかける、そんなロマンをふくんだ技術史を分かりやすく追いかける。大学の先生ではあるが、数年間モノづくりの現場で働いた経験のある筆者は、象牙の塔にとどまらないリアリティあふれる筆致で日本人とモノづくりの関係を読み解く。
  (初出は1995年の「朝日百科」、1999年単行本)

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