累計1500万台という途方もない台数が売ったT型フォードをめぐる人間像にも注目。
今回はそのうちの対照的な2人を紹介したい。
その一人が≪鋳物やチャーリー≫という愛称でヘンリー・フォードから呼ばれていたチャールズ・ソレンセン。1881年に生まれ、いまらか40年ほど前に87歳で亡くなった人物。4歳のときスエーデンからアメリカに移住し、成人になってストーブの鋳物工場の行員として働き、その経験を見込まれ1905年、24歳のときフォード社に入社。金型の開発や鋳造工程の合理化を進め鋳造工程の改革を実行。T型の大量生産を実現するハイランド・パーク工場や、リバー・ルージュ工場の建設に尽力。ベルトコンベアを使った組み立てラインの考案者でもある。
1930年代に入り、V8エンジン製造に携わり、第2次世界大戦中はフォードの軍需部門の責任者となり、ボーイングの爆撃機の製造に携わる。1944年に退職しているが、1937年には故郷のスエーデン王室からナイトの称号を送られ、ハッピーな人生を送ったとされる。
もう一人のノーヴォル・ホーキンスは、1907年に入社し、フォードの販売と宣伝の基礎を築いた人物。全米のディーラー網の確立に力を注ぎ、生産能力を上回る大量受注を獲得、これがキッカケで大量生産方式が誕生するのである。トヨタの神谷正太郎と似た存在だった。
広報誌≪FORD TIMES≫を発刊してパブリシティ戦略をしたり、鉄道網を活用した効率の高い輸送を実行した。ところが1919年にヘンリーと意見対立が表面化し、退社し2年後の1921年にライバルメーカーのGMに移籍、同じフォード退職組みのウイリアム・ムードセン(全米14の工場を設計と建設を指揮した人物)と共に新型車シボレーを盛り上げ、1927年にT型フォードを引退に追い込むことになるのである。
T型フォードが累計1500万台という途方もない台数が売れた理由にはいくつかの要素があるが、ユーザー自らが修理できるという点も大きかった。
当時の自動車は大体2000ドル前後だった。通常の労働者の年収がそのころ800ドルだったので、とても手が出せない。できるだけ安くクルマを提供したい。それに補修と部品サービス網の体制をしっかり整えることも必須と考えた。たとえ部品が壊れても、安く、しかもすぐに部品交換できれば長く使ってくれるはず、と考えたのだ。実際突然の故障にもスクリュー・ドライバー、数本のレンチそれにペンチさえあれば対応できたといわれたものだ。
当時父親がT型フォードを愛用していて、子供時代を振り返り、その父親のことを描写しているごく平均的なアメリカ人のエピソードがある。
「うちの父はさほど機械に強いほうではなかった。でもT型については、スパークプラグやバルブの交換、タイマーの掃除、変速機の調整、ガソリンタンクに木の棒を入れて残量を調べる方法を覚えた。修理工場がほとんどなかったため、簡単で手早く修理できることが重要だった」
T型フォードの最高速度は約72.5km/hで、ガソリン1ガロンあたり40キロ走った。つまり、実用燃費10.81km/lと燃費も悪くなかったのだ。
車両価格は発売当初は825ドルだったが,4年後の1912年には600ドルへ,1922年には290ドルと労働者の年収の半分以下で手に入るクルマとなった。ベルトコンベアの導入など生産工程の合理化を推し進めることで当初の64%もの値下げを実現している。かくしてアメリカは地球上にはじめて自動車なしでは生活できない領域を作り上げたのである。
T型フォードが累計1500万台という途方もない台数が売れた理由にはいくつかの要素があるが、軽量化という要素も見逃せない。
当時鉄鋼の世界で世界をリードしていたイギリスからバナジウム鋼の情報がヘンリーの耳に届いたのである。鉄に微量のバナジウムを添加することで靭性(粘り)や機械加工の容易性が損なわれることなく従来のスチールにくらべ、約3倍の引っ張り強度が高められる。つまり、従来の使用量をたとえ半分に減らしたとしても従来の鉄素材にくらべ強度が確実に向上するという夢の素材だ。
フォード社はこの新素材をエンジン本体(4気筒サイドバルブ)や車軸に惜しみなく採用することでライバルのシボレーに比べ車体全体でおよそ20%も軽くできた。
現在でもクルマ作りの大きなポイントは軽量化。2割もライバルよりも軽くできたため、燃費にもいいし、コストダウンにもつなげられる、今流の言葉で言えば商品競争力が高いわけである。
T型フォードのトレッドは、未舗装路に多かった当時の馬車が作ったわだちから割り出されたものだ。56インチ(1422ミリ)である。現代のヴィッツなどコンパクトカーのトレッドとほぼ同じである。ただし、南部仕様は少し広く60インチ(1524ミリ)である。
ちなみに、10年ほど前レンターカーでマンハッタンを走った折、イーストリバー沿いのルーズベルト通りがやけに道幅が狭かったのを鮮明に記憶している。フルサイズカーだったため、かなりナーバスになりながらハンドルを握った。たぶんこの道をかつてT型が群れをなして走ったはず。そう思うと不思議な気持ちが沸いてきた。
2回の自動車会社倒産の憂き目にあったヘンリー・フォードは、レースで優勝して名声を得て投資者を募り3度目の自動車会社「フォード自動車」を設立する。43歳のときだった。
ヘンリーとそのスタッフは、新しいクルマづくりに4つのコンセプトを打ち立てた。
一つ目は当時主流の乗り物である馬車よりも丈夫であること。未舗装路が大半だった時代立ち往生しないクルマが望まれた。2つ目は馬車と同じ感覚で運転できること。経験のないひとでもドライブできる。そのためには20HPあれば十分とした。
3つ目は右側交通に便利なように左ハンドルであること。当時はハンドル位置が左右入り乱れており、右ハンドルだと降りるときに危険だった。
4つ目がリーズナブルな価格であることと補修と部品サービス体制をしっかり整えること。当時の労働者の年収は約800ドル。だから、2000ドルを超えないで販売したいという狙いがあった。
20世紀が始まったばかりのアメリカでは、馬車の時代だが、わずかながら自動車らしきものが登場している。電気自動車、蒸気自動車、それにガソリン自動車である。ガソリン自動車はシェア20%ほどでどちらかというと電気自動車と蒸気自動車に押されていた。ところが、ちょうどラッキーにもそのころテキサス州で大油田は発見され、ガソリンが豊富に安く手に入る流れができたのである。シンプルで、価格が安く、扱いやすく、馬車以上に頑丈なクルマ。燃料代も安く手に入ったこともあり、爆発的にT型フォードは売れたのである。
エンジンオイル交換といったメンテナンスシーンから、ダンパー交換というちょっとした部品交換まで、大活躍するのがリジッドラック。英語では「ジャッキスタンド」と呼ばれるが、ウマとも呼ばれる道具である。このリジッドラックは、通常三角形をしていて収納するうえで実に厄介な道具。とてもスマートに格納できるシロモノではなかった。
ところが、この常識を意図も簡単にひっくり返した製品が登場した。 KDD(古寺製作所)の「折り畳み式リジッドラック」がそれ。
リジッドラックとして使うときは3本脚を広げるが、使わないときは3本足の部分が簡単に折り畳め、円筒形となり、工具箱に納まる。もちろん、トランクにもらくらく入り、従来のように飛び跳ねたりしてもあちこちを傷める心配がない。しかもハイトが最低で20センチなので車高の低いフェラーリですら使えるぐらい。素材は板金製で、重量は2個で約2kg。気になる価格は2個セットで1万2000円だという。発売は8月ごろだという。
「タイヤは命を乗せている!」 大昔にそんなTVコマーシャルがあった。
タイヤほど操縦安定性、乗り心地、燃費などを左右する最重要部品のわりにはふだんあまり注意を払わないケースが少なくない。 空気圧が10%下がっただけでも乗り心地や操縦安定性が微妙に悪くなり、燃費もダウンする理屈だ。それとトレッド面に山があっても経年劣化で硬くなり、乗り心地が悪化しているケースがある。走行キロ数が年間3000キロ以下で5年以上たったクルマのタイヤなどはたぶん山は5分山ぐらいだろうが、指で触ってみるとそれと分かるほど硬化しているケースがある。中古車を手に入れた場合、タイヤの山があっても安心できない。
どのくらい前のタイヤかは、サイドウォールに書いてある4桁の数字で判断がつく。 たとえば「4905」とあれば、2005年の第49週目に製造されたタイヤであることが分かる。つまり2005年の12月あたりという勘定だ。
とくにこの知識は、硬くなるとその価値がなくなるスタッドレスタイヤの中古を手に入れるときに活用できるので覚えておいて欲しい。
ひところに較べドライブシャフトのゴムブーツの破れトラブルが少なくなった理由をご存知だろうか? 数年前から徐々にゴム製のブーツから樹脂製のブーツにシフトし、トラブルが劇的に減少したからである。
それでも少し旧いクルマは依然としてゴム製のブーツ。熱がこもったり、異物にヒットしたり、あるいは経年劣化などでその寿命は5年~6年というのは通り相場。リビルトのドライブシャフトに交換するのも悪くないが、≪割れブーツ≫で修理するという手段もある。
割れブーツというのは文字通り取り付けしやすいようにあらかじめ2つに割れた(あるいは割れ目が入った)補修用のブーツで、かぶせて→グリスを注入して→バンドで留める・・・というかなり簡略な修理。この修理法、かつては安かろう悪かろうの世界だったが、最近では割れ目部分に使う溶剤が進化し、かなり信頼性が高くなり、2年または走行2万キロ保証付きの製品が登場している。
大野ゴム工業(電話03-3690-5825)の「オーレッグ樹脂ブーツ」は、31アイテムもあり、価格は5700円だという。
実際作業したことがないので自信をもって薦めることはできないが、好奇心が豊かでブーツ破れに出会ったひとは試してみる価値はありそうだ。
これから夏場にかけて大活躍するカーエアコン。
ところが、快適な装置であるはずのエアコンがスイッチをONにしたとたん逆効果になるときも。嫌なにおいが車内に侵入することが珍しくない。エアコン使用後(駐車中)エアコン内部が高湿度になることでバクテリアやカビが発生。これが不快なニオイの元だ。カー用品の香水でごまかすという手もあるが、神経質なドライバーには気になるニオイである。
VALEO(バレオ)の「わさびデエール」なる製品は、エアコンのフィルターに簡単に取り付けて手軽に効果を確認できる消臭抗菌剤という触れ込み。
さっそく、6年目になりエアコンスイッチONで露骨に嫌なニオイが出てくる愛車に取り付けてみた。フィルターは助手席のグローブボックスを外せば引き出し式にすぐ顔を出す。フィルターの凹凸を利用してクリップで留めるというもの。作業時間約10分間だった。さっそく、取り付けためしてみると、予想外にその効果が表れた。わさびのエキスが意外と効果を表したのかもしれない。
価格は2480円で、効果は約1年だという。少し値段が高い気もする。それに、純正の薄いタイプなら簡単にいくが、長寿命のエアコンフィルターはろ紙自体が厚いのでうまく取り付かない。このあたりを解決するとさらに売れるかもしれない。
マフラーと一言でいってもいろいろな部位がある。前の小さなタイコのことをプリマフラー、後ろのでかいタイコをメインマフラーと呼ぶのが一般的。後ろのマフラーをカットしてみると、バッフルプレートと呼ばれる隔壁で仕切られ、パンチングメタルと呼ばれる穴があいている。排気の流れを追いかけてみるとまるで迷路(ラビリンス)である。マフラーの内部で排気のエネルギーを減衰し、消音させているのである。ただし、いわゆる抜けのいい、パワーを出すマフラーでないと意味がない。そこで、マフラーメーカーは、さまざまな工夫をしてマフラー内部を設計しているのである。
ところで、17年ほど前からクルマのマフラーは穴があかなくなった。それまでは早いもので2~3年で穴があき、車検ごとに交換というケースもまれではなかった。その時代がウソのように、いまどきのクルマのマフラーはほぼ一生モノが多いのは、ワケがある。
ステンレス製に替わったからである。ただ、ステンレスは硬いので従来のアルミメッキ鋼板とくらべ金型の素材を替えたり、モノづくり舞台裏ではそれなりの革新をせざるをえなかったという。
最近は低床化、テールを見せない工夫など、ふだんあまり気にしないクルマのマフラーの世界にも、時代の風が吹いているのである。
前回は、エンジンがダメになったときの話だったが、今回はオートマチック・トランスミッション。略してATだ。
エンジンと同じくらい、ATがダメになった時は限りなく致命的ともいえるトラブルである。修理代がざっくりいって20万円以上かかるからだ。それなら別のクルマに乗り換えたほうがいいというケースも出てくる。
でもその前に! 中古ATで修理する! という手段を選択肢に入れてもらいたい。
中古ATは、リビルトATにくらべ確かに保証期間が短い。だから品質もそれなり、と考えているとしたら大きな間違い。中古ATを商品化している現場を拝見すると、ストール試験、シフトショックテスト、走行試験で異音の有無の確認、外観試験、内部のオイル(ATF)の汚れ具合などをベテランスタッフの厳しい目で丹念にチェックし、初めて商品として並ぶ。保証期間も3ヶ月と昔に比べずいぶん伸びている。それにリビルトのATに比べるとアイテム数が豊富なので供給率も高い。
もしATがダメになったとき昭和メタルパーツセンター(電話0120-815-301)で部品を手配するか、整備工場を通して中古のATを注文できる。在庫確認や詳細を知りたいときも昭和メタルのスタッフが懇切丁寧に教えてくれる。トリビア的知識としては「ATFのクーラーがラジエーターのタンク内にあり、これが汚れているケースが多いので、その恐れのある場合はラジエーターの交換、もしくはラジエーター屋さんでオーバーホールを頼む」ことだ。
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