みなさん!知ってますCAR?

2020年7 月 1日 (水曜日)

バルブステム・オイルシールが思わぬところで役立つ!?

表札1

表札2

表札3

表札4

  先日引っ越しをしたことから、旧宅で使っていた表札を流用することになった。
  ねじ径M4のスタッドボルト(ステンレス製)を壁に打ち込み、縦・横15センチ×20センチほどで、厚みが10mmもあるガラス製の表札。この表札本体をやはり10mmのステンレス製カラーで、壁から浮かせ、頭を袋ナットで留める、というものだ。いまどきのよく見かける、なんら変哲のない表札だ。
  壁はサンディング材と呼ばれるもので、ドリルで簡単に穴が開いた。
  下穴は、M8が入るほどにデカくして、そこへ15分で固まりカチカチになるというホームセンターで300円で手に入れた、ロックタイトの2液性パテ(正確には液体ではなく粘土状)を穴に押し込み、固める。このパテ、付属のペラペラの樹脂グローブでこねるのだが、ゆるゆるでうまくゆかない。急遽手持ちの樹脂グラブに切り換え、事なきを得た。ところが、そのパテが、壁から2~3㎜に付着し、おかげで正規のカラーが収まらない。正確に言うと、じつは収まるのだが、表札をかぶせ、最後の袋ナットがねじ込めないのだ。
  う~ん、困った! カラーに替わるものはないものか? 
  その時ひらめいた。引っ越し作業の際に目に留めた「バルブステム・オイルシール」である。10年以上前、あるサプライヤーを取材して、サンプルでいただいてきたものだ。外径12㎜強、ステム径5㎜で手に持つととても軽い(約2g)。このゴムシール部をカッターで取り除き、収めてみると、ア~ラ不思議! なんだか、まるであつらえたようにピタリと収まったのだ。
  (ここで咳ばらいを一つ)ところで、このバルブステム・オイルシールの役目は何か? 
  トヨタの整備士向け技術修理書によると「バルブステムとバルブガイドブッシュはエンジンオイルにより潤滑されるが、燃焼室に過度に侵入することを防ぐため、バルブガイドブッシュの上部にゴム製のバルブステム・オイルシールを取り付け適度に潤滑されるようになっている」
  なじみのエンジンリビルダーに聞くと、1970年代の日本のエンジンのなかにはこのオイルシールが早期劣化してオイル下がりしてリビルダーを苦しめたという。当時のオイルシールのゴムはニトリル系だったのが、フッ素系に進化し、こうしたオイル下がりトラブルは聞かなくなったとのことだ。
  ・・・それにしても、バルブステム・オイルシールを表札の一部に使い、エンジンの神様のお叱りはないのだろうか?

2020年6 月15日 (月曜日)

器用と不器用のあいだ

器用・不器用   自分のことで恐縮なんですが……子供の頃から機械ものが好きで、こんな仕事をやっているので回りのたいていの人は「とても器用な男だ」という印象を持つ人が多い。
  ところが、先日自分の不器用さに呆れ果てる事態に遭遇した。たぶん世界で一番不器用な男、と痛いほど自覚した。
   数年使わなかったハンドツールのラチェットハンドルのヘッド部が、固着してスムーズに動かなくなっていた。
   とりあえず、外から浸透潤滑剤を吹き付けてみた。が、そんな姑息で安直な手段では解決できなかった。
   なかをバラシてみるしかない。大げさに言うと「分解整備」。写真では分かりづらいかもしれない。円の一部が切れている形状のサークリップで留められているので、ラジオペンチを使い、サークリップを広げればいい。
   この「ラジオペンチでサークリップを広げる」言葉でわずか17文字(期せずして俳句と同じ!)だが、これが私には難しい。当初、使い古したラジペンでやっていた。そこで、手持ちの新品3ピークスの「軽いラジオペンチ」(これ商品名:品番LR125S)に持ち替えたら、10数回のトライでできました。「弘法は筆を選ばず」ではなく「不器用こそ筆を選べ!」である。
   ハンドツールは、ボルトナットを脱着する作業が大半。不器用であろうがなかろうが、あまり関係ない。デジタル式ともいえる。
   だが、サークリップを脱着するとか、ブーツカバーを取り付ける、キャリパーにピストンを収める。こうした「あいまいともいえる作業」「わずかなチカラ加減やチカラの向きが決め手となる作業」「アナログチックな作業」は、まさに起用と不器用が、天国と地獄につながる。バイクのタイヤ脱着、細いマイナスドライバーでおこなうステアアリング・ダストブーツの取り付けなど……友人や先輩たちは、不器用な男を横目に、みな神業のように、なんの苦も無くこうしたアナログ的スキルを発揮した!
   だから・・・・プロの整備士の工具箱には、かなりお高いクニペックスのペンチやニッパーが収まっているのか? 変なところで感心してしまった。

2020年6 月 1日 (月曜日)

クロスレンチを考えると…

クロスレンチ  「スペアタイヤ」がいまや死語になりつつある。
  いまどきのクルマには、スペアタイヤが付いておらず、付いているのは万が一の時のタイヤ内部注入液とシガーライターから電源を取り使う手のひらに載るほどコンパクトな12Vエアポンプ。スペアタイヤは重量物で、しかもコストがかかるが、ポンプとエアゾルなら格安だ。燃費とコストが下がり、自動車メーカーにはメデタシメデタシなのである。
  タイヤが走行中にパンクする経験は、通常のドライバーレベルでは一生のうち2回か3回しかない(チューブ入りタイヤのときはごく日常的だったが)。そんなデータを知ると、何も無駄なスペアタイヤなど乗せて走るのは合理的じゃない、という考えにいきつく。
  だから、タイヤをクルマから取り外すとき使うホイールレンチ(クロスレンチ)も不要となるわけだ。
  ホイールレンチをクロスレンチとも呼ばれる理由は、もちろん十字の形状をしているからだ。
  先日、ガラクタを整理していたら、写真に載せたほど(あるいはそれ以上)のクロスレンチが出てきた。みな、懐かしいものばかり。ときに、左端の折れ曲がり式のものは、80年代にカーショップで買い求めた無印製品(たぶん台湾製)だが、やや重いが、コンパクトにたためて便利なので、長く使っていた。真ん中上と下の製品は、いずれも新潟のKDR製で、上のが「棒一本にすべて収まる」というSPADAという洒落た名前のクロスレンチで、その下が「楽太郎」という噺家みたいな名称のクロスレンチ。SPADAの方は、一度しか使わなかったが、楽太郎は、軽い(重量が0.365㎏で、通常の半分以下)。パイプ製だからだ。やはり工具はすべからく軽いのに越したことはない、そんな思いにとらわれた工具だ。
  右の2つは、ソケットツールなどを専門とする工具メーカー製のものだが、あまりにストレートすぎで、色気(というか工夫?)がないので、使わずじまいである。

2020年5 月15日 (金曜日)

戦後1947年デビューした電気自動車「たま号」とは何だったのか?

たま号のホイールキャップ  日本が第2次世界大戦の敗戦国になって今年で75年、いまや戦争をリアルに語る人はごくごく少数派となった。
  いわゆる戦中派といわれた人は、戦後の混乱のなかでたくましく働き、おかげで日本は奇跡的と世界で賞賛されるほどの復興を遂げることができた。その息子や孫は、その遺産で食いつないでいる、そして遺産もか細くなってきつつある。恒産だけでなく恒心すら、か細くなってきている。
  そう考えると、ここで戦中派の行動に思いを寄せることは、無駄ではないと思う。
  1947年、終戦から2年たって発売された電気自動車の「たま号」に注目したい。電気自動車=CO2を出さないから環境にやさしい、というステレオタイプな思いが頭をもたげるが、ベクトルがまったく違った。当時ガソリンが統制品で入手ができず、仕方なく、木炭自動車で我慢をしていたのだ。ノロいし煙を吐く木炭自動車より、ワンチャージで限られた走行キロ数しか走れない電気自動車の方がまだまし。そんなコンセプトで誕生したのが「たま号」だった。たま号の性能は、4人乗りで、最高速度約35㎞/㎞、1充電約96㎞というものだった。
  戦後職を失った立川飛行機(石川島造船所がルーツ)の残党200名が、生き延びるために雨漏りのするオンボロ工場で手作りされた電気自動車は、戦後の復興に貢献したのだ。立川飛行機は、もともと航空機の機体(ボディ)をつくってきたので、ゼロからエンジンをつくりあげるよりも電池を湯浅電池からモーターを日立製作所から購入し、EVを造り上げたのだ。この中心人物が、元立川飛行機の試作工場長で、のちプリンス自動車の専務となる外山保(とやま・たもつ)さんである。
  ところが、1950年6月、朝鮮半島で南北間の戦争が勃発したことで、鉛蓄電池の鉛が5倍以上に高騰し、一方ガソリンが市中に出回ることになり、EVの存在理由が怪しくなり、あえなく生産中止に追い込まれるのである。わずか5年間の生産。累計1000台ちょっと。時代のあだ花といえなくもない。(写真はたま号のホイールセンターキャップ)

2020年5 月 1日 (金曜日)

非売品が残念! マツダの100エピソード本

マツダ100年エピソード1

マツダ100年エピソード2

  スズキもそうだが、マツダもじつは創業100年だそうだ。
  ちなみに、ダイハツは1907年創業だから、すでに103年たっている。トヨタと日産は仲良く1933年創業だから、100年にはまだ13年ある。ホンダは、戦後の1946年だから、100年までには、26年待たなくてはいけない。
  マツダは、少し前まで東洋工業といった。もともとはコルクをつくっていた。
  創業者は松田重次郎であり、その息子松田恒次、この親子でマツダの基礎をつくったのである。ところが、面白いことに、ホンダの創業者・本田宗一郎のことは100冊以上(たぶん)の書籍となって誰でもが知る人物という位置づけ。ところが、松田重次郎さんや松田恒次さん(ついさん付けしたくなる!)となると、ほとんど本になっていない。だから誰もほとんど知らない。
  かつて、このブログでマツダの創業時のことは詳しく調べ書き連ねたので、時間があったら覗いてほしい。
  今回紹介したいのは、『MAZUDA 100 EPISODOES』という本である。
  100個のエピソード(記事)で、マツダのこれまでの歴史を追いかけている。
  社史、つまり会社のヒストリーというと分厚く箱に入った立派なものというのが通り相場で、けっきょく本棚の奥に眠る運命の存在。ところが、この本は、新書版の大きさで、トータル300ページほど。
  1つの記事が3ページほどに簡潔にまとめられているので、寝転がって読むにはちょうどいい。戦前の3輪トラックを宣伝するため、キャラバン隊をつくったとか、戦後ロータリーエンジン車の開発に血のにじむような失敗と苦労を重ねた話など(下の写真は“悪魔の爪痕”チャターマーク)、下手な小説(たとえば私の「クルマとバイク、そして僕」のような)よりよほど面白い。手前ミソ的なあまりいただけない記事も少しはあるが、みずからの過去の傷口をさらけ出す記事も多くあり、「えっ、こんなの書いて、いいのかな?」と思うとこともある。舞台が広島なのはさらにいい。マツダの愚直さが出ていて、悪くない! ただし、これが非売品というのはいただけない。

2020年4 月15日 (水曜日)

これは意外! 自動車のポスターで見る、かつてのフランスは自動車大国だった?

自動車のポスター1

自動車のポスター2

  自動車ジャーナリストなる職業を長年続けているが、取材すればするほど知らないことが現れ、なんとも不思議な感覚に襲われる…‥。
  先日、トヨタ博物館にある「自動車文化資料室」でなんとなく佇んでいたら、ふと「自動車のポスター」のコーナーに目が向いた。『自動車のポスター』。ディーラーで見かけるぐらいである。若いころはたしか駅の構内などで見かけ、クルマへのあこがれを掻き立てられたものだ。その自動車のポスターの嚆矢は、フランスだという。この博物館には、フランスとアメリカの自動車ポスターを300枚ほど所有しているという。
  まず、写真を眺めてほしい。アールデコ風の画風である。20世紀初頭のフランスのポスターだ。
  フランスでは、ガソリン自動車が登場した19世紀のすえには、すでに近代的な自動車ポスターが登場しているという。フランスのパリは当時アートの中心地で、芸術家やポスターのデザイナーが集まっており、芸術性の高いポスターが数多く生み出された。ちなみに、1900年のフランスには自動車メーカーがおよそ150社もあり、世界最大の自動車大国だった。だから、自動車ポスターは、圧倒的にフランスのものが多く残されている(写真上)。現在フランス車といえば、シトロエン、プジョー、ルノーぐらいしかないので、その落差に愕然とする。
  ちなみに、初期の自動車ポスターは、具体的にクルマそのものを描くのではなく、華やかな女性をモチーフにして、人々の関心を引こうとする意図が見える。でも、自動車の普及とともに、その描かれ方も変化していったようだ。
  いずれにしろポスターは、自動車とそれを取り巻く人々の意識を色濃く反映し、当時の流行やトレンドが端的に表現され、その時代の香りをプンプンと感じさせる。(下の写真は、1970年登場のトヨタ・セリカのポスター。キャッチコピーは「未来の国からやって来たセリカ」だった。いまから見ると、なんともエグイ感じだ!)

2020年4 月 1日 (水曜日)

3年前、ロシアで発見されたトヨダAA型の意味とは?

発見されたトヨダAA   トヨタが“トヨダ”だった時代。いまから83年ほど前、トヨダこと「豊田自動織機製作所・自動車部」が1台の乗用車を作り上げ、7年間で合計1404台を世に送り出した。言わずもがな‥‥これ佐吉の息子豊田喜一郎が中心に命がけでつくったクルマだ。
  このクルマ、エンジンはシボレーの8気筒、ボディはクライスラーのエアフローをお手本として満を持して造り上げた記念すべきクルマだ。ところが、トヨタのルーツともいうべき、初期の物語をいっぱい詰め込んだ「トヨダAA型」は、不幸にして1台も現存していない。でも、トヨタ博物館にも、名古屋駅近くの「産業技術記念館・クルマ館」にもあるじゃない! そんな指摘をする読者もいるかもしれないが、実はそれらは、設計図から苦心して作り上げた復刻バージョン、つまりコピークルマというべきクルマなのである。いくら良くできていても本物だけがもつアウラが伝わらない!
  もし現車があれば! ボロボロでもいいから、80数年前に作ったAA型が残っていたら!? そんな悲痛な思い(夢?)を抱くトヨタマンは少なくないという。
  「事実は、小説よりも奇なり!」とはよくぞ言ったものだ。なんと3年前現車が見つかったのだ。80年ぶりに!
  なんとロシアのウラジオストックで、長いあいだ農家の納屋に眠っていたところをたまたま発見されたという。推測だが、第2次世界大戦中にロシアの戦利品として、接収されたものらしい。
  ある筋から、この情報をオランダのローマン・ミュージアム(経営者はトヨタのディーラーでもある)にもたらせれ、トラックでモスクワに運ばれ、いまはオランダの博物館に鎮座しているという。すぐに、喜一郎の孫にあたる現トヨタの社長・豊田章男氏が現地に赴き、祖父が創ったクルマの前で感慨にふけったそうだ。
  写真で見るように、車体はベコベコ、ドアがへしゃげ、内装もかなり欠落しているところがあり、グリルもなんだか改造されている。計器パネルの文字はロシア語にかえられている。泥の海から引き揚げられた遺跡のようだ。
  でも、よくぞ時空を超えて生き延びていたものだ。おそらくは、モノ不足で貧しかったロシアだからこそ、生き延びていたのではないだろうか? これが先進国なら、とっくの昔にスクラップにされていただろうに。
  不躾ながら……このクルマ、けっきょくいくらでトヨタが買い取るのだろうか? 飾るとしたら、どこにどんなふうに飾るのだろうか?

2020年3 月15日 (日曜日)

教材を自ら作る! エンジンやボディのカットモデルづくり60年?!

カットモデル1

カットモデル2

ボディカット

  「カットモデル」というのをご存じだろうか?
  エンジンやクルマのボディをカットして、ところどころにペイントをして、エンジンやクルマの仕組みを理解してもらう教材。たとえば直列6気筒エンジンともなると、6個の気筒があるので、ピストンの上下と吸気と排気バルブの動きが、教科書ではとりあえず理解したとしても、リアリティを持てない。そこで、モーターのチカラで上下動するカットモデルがあれば、たちどころに理解できるというものだ。ロータリーエンジンや水平対向エンジンなどのレアモノもある。じつは、こうしたクルマのエンジンやボディのカットモデルは、長いあいだ自動車メーカーのいわば“専売特許”的な教材だと思っていた。自社の技術を広く理解してもらい、ブランド力を高めたり販売増進に結び付ける、そんな狙いだと…‥。
  ところが、こうしたエンジンやボディのカットモデルを学生に作らせ、自前の教材としている自動車整備専門学校がある。4年間で1級整備士資格も取れる「埼玉自動車大学校」(埼玉県北足立郡伊奈町)がそれだ。この学校に在学中、年間1個はつくるという。
  作り方をこっそり教えてもらった(といっても簡単にはいかない)ところによると、すべて弓のこぎりでカットするという。まず、何を見せるのかを考え、どこをどう切るのかをケガキ線を入れ、あとはギコギコと切るのだという。「ピストンを動かそうとしてカットすると、シリンダーが半分になり、ひずみが入りリングが邪魔してピストンが上下しなくなる。そこで、リングをみえるところだけ残しあとはカットする」(菊地室長)という。
  このカットモデルづくり、学校創設以来約60年間恒例行事のようにおこなっているという。すべて在庫できないのでかなり廃棄しましたが、と言いながら、いまでも80点近く校舎内にあるので、いつでも見ることができる。ビッグサイトや幕張メッセなどのイベント会場での貸し出しでも活躍しているカットモデル。意外なところで活躍しているようだ。

2020年3 月 1日 (日曜日)

エンブレムメーカーで聞き及んだ本田宗一郎さんのこだわり?!

アキュラのロゴ  先日鬼籍に入ったノムさんこと、野村克也元監督。「勝ちに不思議な勝ちあり、負けるに不思議な負けなし」など、数々の名言を残し、引退に瀕した選手を再生させるなど長年にわたり名将ぶりを発揮した。王、長嶋が常に日の当たる場所で咲くヒマワリだとすれば、自分は地味な“月見草”だと自嘲した。そんなハングリー精神を抱え、他を寄せ付けない高い頭脳をもった野村監督。その相似形をクルマ業界で見つけるとしたら、ホンダの創業者である本田宗一郎氏ではなかろうか? ややこじ付けに聞こえそうだが。
  本田さんを知る人が語るエピソードはいずれも桁外れなものが多い。現場であまりに鈍感な仕事ぶりをした部下に、スパナが飛んできた! そんないまではパワハラもどきのエピソードもあるが、今回取材を通じて知ったエピソードは、「一つのエンブレムと10億円」とでも言いたくなるテーマだ。
  上野と浅草のあいだにあるクルマのエンブレムをつくって60年以上の歴史を持つ上原ネームプレート工業。日ごろ何の気なしに眺めているエンブレムの周辺情報を取材したのだ。材質、モノづくり、歴史、エピソードなどなど聞くことは山のようにある。デザイナーには申し訳ないが、たとえばクルマのエンブレムを取り外したら、よほどのクルママニアでない限り車名はわかない。逆に言えばエンブレムこそそのクルマのアイデンティティを示す唯一のモノ!?
  そんなエンブレムと本田宗一郎の関係とは何か? 
  アメリカ市場での高級車ブランド・アキュラをリリースした1990年、いまから30年前の話。本田さんが元気な時だ。アキュラがほぼ完成し、あとは本田さんの認可を受けるだけ。そのとき、本田さんはエンブレムのHのデザインに待ったをかけたのだ。ブーメランが向き合わせてHと読ませるデザイン。これを本田さんはHとは読めないとしてNO!を突き付けたのだ。
  さぁ、大変。横浜港から第1弾のクルマがアメリカに向け積み込む数日前。デザイナーが、急遽手直ししてようやく本田さんがOKを出したのが、写真のロゴ(右)。ビフォア(左)のモノに横一本棒を追加したのだ。カタログをつくりなおし、エンブレムをみな張り替えたという。鶴の一声で、当時のお金で、ざっくり10億円のお金が吹っ飛んだという。

2020年2 月15日 (土曜日)

国産の113人乗り新型連節バスが、この6月から横浜の水際を走る?

国産連節バス1

国産連節バス2

  このところのコロナウイルス問題で小康状態だが、インバウンド需要を狙った“観光地の魅力度向上作戦”は、あちこちの自治体で熱を帯びている。
  150年前はわずか500人程度の貧しい漁村でしかなかった横浜市もその例にもれず、ずいぶん熱心だ。昨年1年間でみなとみらいにやってきた観光客は8300万人というからすごい。
  そこで打ち出したのが、国産の新型連節バスによる新路線バスルートだ。
  横浜駅東口から、みなとみらい、イベント会場の横浜パシフィコ、赤レンガ倉庫、大さん橋客船ターミナル、中華街をへて、山下ふ頭までの約5キロの行程を113人乗り新型連結バスが結ぶというもの。「IRがだめなら、観光資源があるので、それを魅力あるようにつなげていきたい!」とついゲスの勘繰りをしたくなるが、いざそのバスを見たとたん、「意外とこれ、イケるかも!」と正直、これを企画した人物の頭脳をリスペクトしちゃいました。ブルーのメタリックのバスのカラーリングと、フツーのバス2台分の長い路線バス、他にはない斬新性。乗客を一度に大量に運べるという機能性だけではない。そこはかとない美意識をいたく刺激された、といえば理解してもらえるか? 
  連節バスは、すでにドイツ製のタイプが藤沢や神戸などで運用されている。ただ、これらはみな大量輸送が一大目的。横浜での試みは、オシャレな街づくりというか街おこし作戦に連節バスを持ってきたことになる。
  このバスはショーケースにたとえられる。道行く人から眺めると“動くショーケース”であり、そのショーケースに乗客が乗りこめ、移動の楽しみを味わえる。水際の整えられた美しい街並みを堪能する。
  ・・・・そうか、日本の町で一番忘れられている「美しい街づくりのコンセプト」をこのバスで具現化しようとしているのかも? ブルーのメタリックに彩られたバスを見ているうちに、そんなプラスな思考がどんどん広がっていった。(ただし、車内に足を踏み入れ、がっかりさせられたのは、心躍ることのない地味なシート表皮。欧州バスのカラフルさを見習うべきだと思う!)
  ちなみに、このバスのエンジン(モーターとのハイブリッドタイプ、エンジンは直列6気筒8866㏄)とトランスミッション(AMTの7段)は日野自動車製で、全長18メートルのボディや足回りなどはいすゞが担当し、組み立ては路線バスの工場である宇都宮でおこなわれるという。連節バスのモノづくりをごく単純化すれば、2台のバスの後ろと前をカットし、定評のあるドイツ・ヒューブナ―社製の油圧制御の連節機でつなぐ、というものだ。最大屈曲度56度で、車両重量はコンパクトカーの約18倍にあたる18トン。12個のカメラを持ち、路線バスでは世界初のドライバー異常時対応システムを備える。
  この連節バスの運営は、横浜交通局で、今回同時に4台の連節バスを導入したという。価格は1台約1億円だから合計4億円の買い物。うち半分は国からの補助金でまかない、残りの半分(つまり全体の1/4)は横浜市が負担するという。

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