クルマのトランスミッションの世界もどんどん進化し続けている。
一番の話題はCVTの目を見張る進化具合である。かつてのCVTは、油圧式制御だったためスムーズさに欠けたり、エンジンをレーシング(空ぶかしのこと)した状態でポンと繋ぐとプーリーと金属ベルトが滑りほどなくベルトがばらけてしまう・・・そこでリサイクル部品の注文が殺到、という事態になった(新品は目の玉が飛び出るほど高いから!)。
でもこれもいまは昔の物語で、たとえばベルトがプーリーと当たり面に細かなオイル溝を設けるなどの工夫で信頼耐久性がずいぶん高くなった。そればかりでなく、電子制御が巧妙になり、走りがよくなり、燃費にも大いにプラスしている。いまどきの燃費のよいクルマは、ハイブリッドを別にして、フリクションロスの少ないエンジンとよくできたCVTの組み合わせに絞り込まれてきているほど。
ところが、CVTのメンテナンスで間違ってはいけないのは、潤滑油。CVTF(Fはフルードのこと)はそのCVT指定のものを使うこと。同じメーカーでもジャトコ製のCVTとアイシンAW製のCVTの両方を持っていることがあるので要注意。これを間違えると摩擦係数が異なり、ベルトが滑り最悪故障の原因となる。
2回の自動車会社倒産の憂き目にあったヘンリー・フォードは、レースで優勝して名声を得て投資者を募り3度目の自動車会社「フォード自動車」を設立する。43歳のときだった。
ヘンリーとそのスタッフは、新しいクルマづくりに4つのコンセプトを打ち立てた。
一つ目は当時主流の乗り物である馬車よりも丈夫であること。未舗装路が大半だった時代立ち往生しないクルマが望まれた。2つ目は馬車と同じ感覚で運転できること。経験のないひとでもドライブできる。そのためには20HPあれば十分とした。
3つ目は右側交通に便利なように左ハンドルであること。当時はハンドル位置が左右入り乱れており、右ハンドルだと降りるときに危険だった。
4つ目がリーズナブルな価格であることと補修と部品サービス体制をしっかり整えること。当時の労働者の年収は約800ドル。だから、2000ドルを超えないで販売したいという狙いがあった。
20世紀が始まったばかりのアメリカでは、馬車の時代だが、わずかながら自動車らしきものが登場している。電気自動車、蒸気自動車、それにガソリン自動車である。ガソリン自動車はシェア20%ほどでどちらかというと電気自動車と蒸気自動車に押されていた。ところが、ちょうどラッキーにもそのころテキサス州で大油田は発見され、ガソリンが豊富に安く手に入る流れができたのである。シンプルで、価格が安く、扱いやすく、馬車以上に頑丈なクルマ。燃料代も安く手に入ったこともあり、爆発的にT型フォードは売れたのである。
年に数回整備士コンテストなるものを取材する。
全国から選りすぐりの整備士(なかにはテクニカルアドバイザーという名称のディーラーもあるが)が集まり、筆記試験、商品知識試験、実技(実車)試験のだいたい3本柱で競い合う。なかでも一番の見所は≪実技試験≫と呼ばれるふだん扱っているクルマを使っての競技。「エンジンがかかりません。60分以内に修復してください」あるいは「ハードトップが途中で開けられなくなりました。これを60分で修復してください」というのだったり・・・。
人の不幸は蜜の味、ではないが他人が難問を前に悩み苦しんでいるところを見るのは、正直悪い気はしない。もちろん頑張っている姿を拝見して羨ましいな、と思うこともあるが・・・。
先日取材したのはプジョージャポンの整備士コンテストで、選りすぐりの16名が競い合い、9月にマレーシアで開催されるアジア・パシフィック大会に出場メンバー4名を選出するというもの。そこで勝ち進み11月に開催予定のワールドカップにチャレンジする。整備士の世界もワールドカップの時代なのだ。 でも、欧州の大半はいまやディーゼル車。かたや日本ではガソリン車のみで、日本の整備士はディーゼルなど触ったこともないはず。どんな問題がでるのだろうか?
惨めな敗戦から立ち上がり、ようやく純国産乗用車である観音開きのクラウンの発売にこぎつけたのが、昭和30年(1955年)。それから52年後の2007年、当時の日本人から見ればまさかこんなクルマが誕生するとは思わなかった。
「異次元のハイパフォーマンスとクラス世界トップの環境性能の両立」 少し大げさに言えば≪見果てぬ夢≫を具現化したクルマと褒めてもいい。
さっそくこの1300万円もするクルマに乗り込み初夏の軽井沢の閑散とした道路を走る。静かだ。あまりにも静か・・・インパネの表示を見るとモーター走行だからむべなるかなだ。関越自動車道路に乗り込んだ。車内は静寂が支配し、アクセルを踏み込むが、そのスピード感は皆無に近い。スピードメーターは軽く時速120キロを指すが、感覚的には時速40キロだ。V8・5リッターエンジンで6リッター車に匹敵するパフォーマンスを実感できた。ちなみに、時速100キロまでの到達時間はわずか5.5秒だ。
時速120キロで、エンジン回転数は1000rpmすこし。いやはやハイパフォーマンスハイブリッドはすごいものだ。これで燃費(10-15モード)が12.2km/lというのだから・・・・。
でも、15分ほど走るうちにまわりのクルマがとてもノロマでくだらないクルマに見えてきた。ヒエラルキーの頂点に立った気分が我がココロに忍び込んできたのである。うっかりすると免許証がいくつあっても足らないクルマ。スピード感の欠如は逆にいえばリスク欠如にもなる怖いクルマにも変貌する!? 理性のある大人でないとこのクルマのキーを渡してはいけないのではないか・・・と思い始めた。もちろん、レクサスのLというロゴマークが、このクルマで正当性を帯びるかどうか? も気になるところだ。
北京近郊に≪全体がディズニーランドそっくり。なかではミッキーマウスそっくりの着ぐるみやピカチュウそっくりの人形が販売されていた≫という遊園地があり物議をかもしている。そんなニュースがまだ記憶に残っているなか、先の上海モーターショーにも多くのフェイク(偽物)が展示されていた。
なかでも一番面白かったのが、スパークプラグのNGKのブース。正真正銘のホンモノのNGKのスパークプラグと、中国各地で出回っている偽物をコンビネーションとして展示していた。カットモデルまで見せて「中身がこんなに違います」みたいなところを中国のユーザーに示していた。さらに「偽物を使うとエンジンがブローしますよ」あるいは「ピストンに穴があきますよ」はたまた「こんなふうに偽物は金具部分が錆びますよ」「電極が簡単に溶解しますよ」。
NGKというロゴに紛らわしいNGLとかMGKがあるという。 これって、プラグメーカーにとってはとても大きなダメージで、本気で困っている。
「ノレンに腕押しみたいな気もしますが、それでもこうした啓蒙活動をすることで少しでも理解して欲しい」とそこにいた担当者は中国のフェイクに対するノーテンキ振りの実情を呆れ顔で説明してくれた。価値観の違いでは済まされないところまできているようだ。
エンジンオイル交換といったメンテナンスシーンから、ダンパー交換というちょっとした部品交換まで、大活躍するのがリジッドラック。英語では「ジャッキスタンド」と呼ばれるが、ウマとも呼ばれる道具である。このリジッドラックは、通常三角形をしていて収納するうえで実に厄介な道具。とてもスマートに格納できるシロモノではなかった。
ところが、この常識を意図も簡単にひっくり返した製品が登場した。 KDD(古寺製作所)の「折り畳み式リジッドラック」がそれ。
リジッドラックとして使うときは3本脚を広げるが、使わないときは3本足の部分が簡単に折り畳め、円筒形となり、工具箱に納まる。もちろん、トランクにもらくらく入り、従来のように飛び跳ねたりしてもあちこちを傷める心配がない。しかもハイトが最低で20センチなので車高の低いフェラーリですら使えるぐらい。素材は板金製で、重量は2個で約2kg。気になる価格は2個セットで1万2000円だという。発売は8月ごろだという。
鳥の糞、真夏の強烈な紫外線・・・クルマを取り巻く世界にはさまざまな塗膜を傷める犯人が存在する。5月から7月の北関東に多い、雹害もそのひとつ。北からの冷気と南からの暖気がぶつかり上空で、氷の粒が生じ、ときにはゴルフボール大の氷が落下し、クルマのボディを傷める。
デントリペアはクルマのボディのヘコミを鉄の棒1本で直してしまう職人技である。
実際雹害に遭遇した車両を見た職人の一人によると「でこぼこはボンネットだけでも150個ぐらい、ルーフを含めると400近くあった・・・」これを数人の職人が手分けして、数時間で直したという。
このデントリペアの技術は、短期間ではとても習得できないタフなものだ。
10年以上デントリペアのスクールを経営しているデント・ジャパン(電話0120-57-5200)の責任者によると、最低でも20日間、平均すると50~60日間の集中技術特訓が必要だという。ヘコミの裏側から工具を使い持ち上げていくわけだから、どのポイントにどのくらいの力をかけるか・・・素人から見るとほとんど神業に近い技術である。もし、デントリペアで愛車のヘコミをなおしたいひとは、デント・ジャパンのホームページを検索してほしい。近くのデントリペアショップを知ることができる。
誰しも一度は口にした車名でも、意外とその真実が知られていないことが世の中には少なくない。フォードの「モデルT」(T型フォード)もそのひとつといえる。
1908年にデビューし、19年間に約1500万台をつくり上げ、地球上にはじめてモータリーゼーションを具現化したクルマ。世界初のベルトコンベアによる量産自動車でコストをどんどん下げた。それまでの欧州ではクルマはお金持ちや貴族の遊びのツールでしかなかったものが、T型フォードは自動車をつくる工員さんですら少しがんばれば手に入れることができたのである。
その意味でT型フォードの成功は、従来のクルマの概念を根底から塗り替える革命的な出来事だったのである。
意外と知られていないことだが、T型フォードは、日本人がクルマを便利な乗り物だと強く認識した初めての存在でもあった。というのは、大正12年(1923年)関東大震災により壊滅的被害を受けた東京が交通機関の復興のためT型フォードのシャシーを大量(といっても800台)に輸入し、これをベースに11人乗りのバスが運行し、当時の東京市民から「円太郎」(円太郎というのは当時の落語家の名前からもじったものだ)の名前で親しまれたのである。
このことがキッカケで、フォードは、横浜にノックダウン工場(大正14年)、GMは大阪にノックダウン工場(昭和2年)をつくり、戦前の日本の車社会を作り上げたのである。約10年間のあいだに年間2万台ほどのクルマは作られたのである。ゆえに当時を知る年配のひと(80歳以上)はそのころの自動車は「フォードとシボレーだった」というのである。
現在、愛知県のトヨタ博物館では「ヘンリー・フォードとT型フォード~大衆車はじめて物語り」を開催(6月24日まで)。先んじてこの展示会をとことん取材、そこで見えてきたT型フォードのナゾを追いかけ、次回からは連載でお伝えしたい。じっさいT型フォードに試乗できたので、その運転方法、価格のナゾ、エンジンのナゾ、リアアクスルのナゾなどをお伝えしたい。