自動車部品のなかで一番シーラカンスしている部品は何だろう?
バッテリーだ、と答える人が少なくないだろう。クルマのバッテリーは、相変わらず重い鉛バッテリーを採用しているからだ。しかも、突然何の前触れもなくダメになる部品である。カメラの世界ではリチウムイオン電池が当たり前なのに、なんと遅れていることか?!
そんな罵声が聞こえたのか、新神戸電機から新型ハイテクバッテリーがデビューした。
極板自体は鉛に変わりがないが、特殊カルシウム軽合金を採用し、自己放電が少なく、寿命が長いのがまずアドバンテージ。
注目は、それだけではない。バッッテリー自体に自己診断機能を備えており、異常を検知するとエンジン停止後約30秒間アラーム音でユーザーに知らせ、バッテリー寿命の間際まで安心して使える。しかも、マニュアル診断として、バッテリー上面のチェックボタンを押すとLEDが5秒間点灯し、バッテリーの状態(良好・要注意・要充電・要交換・過充電の5パターン)を教えてくれる。これまで万が一出先でダメになったら・・・という心配から、まだ使えるバッテリーを泣く泣く廃棄し環境負荷をかけてきたユーザーが、これで少なくなる。
≪もったいない精神≫が籠もったバッテリーとして注目したいね。
いまさら言うもでもないが、イマドキのクルマは70個ほどの電子コントロールユニットを持つ。そのため昔のクルマを修理するときのように、勘を頼りにするだけでは不具合を発見することすらできない。
そこで、コンピューター診断機が活躍するのである。
ところが、この診断機、トヨタならトヨタ、ベンツならベンツという具合に個別対応が原則。マルチにどんなクルマでも苦もなく診断できるということは原則できない。
そこで、登場したのがボッシュの診断システム。いま日本で走っている乗用車の9割以上の整備データを備え、スピーディに愛車の点検をおこなえるという。しかも、日本の現状の車検の弱点を克服したメニューだという。たとえば通常の車検のブレーキテストでは踏みはじめや軽く踏んだときの性能をいっさい見ないが、ボッシュでは途中過程をつぶさにチェックし数値化とグラフ化でユーザーに分かりやすく見せる。ショックアブソーバーの良否判断も振動を与え収束具合をグラフ化し数値化することで、劣化具合を確認し、左右差まで示してくれる。
つまり車検ではわからない愛車の健康具合をよりつぶさに把握し、不具合個所をかなり的確に診断できる。日本の整備工場は急速に元気を失いつつある時代。勘の整備からITの整備に切り替えられるか? 課題が山積するなか、ボッシュ印の整備工場が今後増殖できるか、その行方をウオッチングしていきたいね。
ヘンリー・リーランドは、1843年の生まれ。ということは橋本増治郎よりも32歳も年長で、橋本が30歳のときに63歳のリーランドに会ったことになる。リーランドは、アメリカの北東部バーモンド州に住む敬虔なクリスチャンの農家の8番目の息子として生を受け、11歳にして靴職人として働き始め、3年後には織機工場の工員となっている。18歳のとき南北戦争(1861~1865年)が始まった。いつの時代もそうだが、戦争は大きく社会を変えていく。兵器産業が発達し、大量の軍靴の需要が増え、ミシンをはじめさまざまな機械が発達する。
ミシンの生産方式には、のちに自動車の生産方式に応用される互換性のコンセプトが取り入れられ、1970年代には年間50万台もの生産力を獲得するのである。また、ミシンが家庭に進出する手法として、のちのGMなどが取り入れることになる分割払い方式(ローン)が誕生している。
こうした時代のうねりのなかでリーランド青年は、22歳のときにコネチカット州にある兵器メーカー・コルト・リボルバー社で当時のもっとも進んだ生産設備と精密な加工技術を習得する。社会的にも一流の工員となったリーランドは結婚。キャリアアップを目指し妻の故郷・マサチューセッツ州に移り住み、29歳のときロードアイランドにあるブラウン&シャープ社に入社。この会社は、ミシン、フライス盤、マイクロメーターといった精密加工を要する製品を作り出していた。ここで、リーランドはミシン部門の責任者となり、当時のアメリカの最先端技術をマスターする。
37歳のとき、みずからのアメリカンドリームを実現するために、リーランドはデトロイトに機械加工の会社を設立、そこでギアの製造や特殊工具の設計と生産をおこなっている。
ここでリーランドは自動車との決定的な出会いを果たす。
アメリカ初の自動車メーカーであるオールズモビル社は1899年に設立されているのだが、実はこの会社は1901年に火災に遭い、それがきっかけで多くの部品を外注で作ることになる。その外注メーカーのひとつとしてリーランドの会社が選ばれたのだ。
自動車という新しい乗り物の魅力に取り付かれたリーランドは、蒸気機関や船舶用エンジンの製造を手掛けてきた経験から「ブロックゲージ」を使ったモノづくりをはじめた。ブロックゲージというのは当時100分の1ミリの精度を持つ長方形の小型ブロック(のち1000分の1ミリも登場する)で、製品の精度が高められるだけでなく、複数の工場でこのゲージを持っていれば国際標準の原器を持っているのと同じ理屈になり、工場が離れていても精度の高い部品が作り出させる。実は、のちにT型フォードで大成功を収めるヘンリー・フォードよりも早く、このブロックゲージをモノづくり世界に持ち込んだのがヘンリー・リーランドだったのである。
植物自動車、といっても最近“環境VS食料”という対立軸で語られ、エネルギーの高騰をめぐり物議を醸しているバイオ燃料のことではない。
COMS-BP(コムス・バイオプラスチック)のことである。
一人乗り電気自動車≪コムス≫をご存知だろうか? 12V-28Ahの鉛蓄電池を備え、車重290㎏,1充電で約35km,最高速度50㎞/hという性能で、トヨタ店やカローラ店に行けば70万円台で手に入る。
そのコムスの車体をほとんどすべて植物由来のプラスチック製にしたのがこのプロトモデル。先日横浜のみなとみらいで行われた「人とくるまのテクノロジー展2008」に展示された。
半年で高さ3~4メートルにも生長するケナフ。そのケナフの表皮は強い繊維質でポピュラーだが、従来廃材としていた茎からリグニン樹脂という接着剤を取り出したところがポイント。このリグニン樹脂は耐熱温度150℃と高く、しかも成型時の製品性を左右する寸法安定性に優れている。このリグニンに繊維が細く強靭として知られるマオの繊維をフェルト状にし、含浸させ、熱プレスにかけ成型。
こうしてできたのがリグニン/マオ ボードと呼ばれる素材。この植物由来樹脂でこのクルマのボディの大半をつくったという。カーボンニュートラルで、通常の石油由来のABS樹脂などに比べ10%軽量だという。内装材はすでに量販車の一部に採用されているので、近い将来、植物系のボディと内装を持ったクルマも夢でない!? 課題は強度とコスト。開発したトヨタ車体では、“植物自動車”の実用化を目指しさらに研究中だという。
前回に引き続きスエカゲツールhttp://www.suekage.co.jp/の製品。「スーパーテンメタル・ラチェットハンドル」という商品名のラチェットハンドルだ。
数あるラチェットハンドルの中でも、これは見た目がきわめてスマートであることがまずアドバンテージ。
ハンドルの指が入るところを樹脂にし、上部のメタルと、いわばハイブリッド構造であるところがユニーク。フィット感に優れ、ともすれば時間に追われぎくしゃくするメンテナンスの作業時間が、これを握ることで、一息入る気分がしないでもない!? 使った時のバランス感も悪くない。
差し込み角は3/8インチ。プッシュボタン式なので、ソケットの脱着もしやすい設計だ。ギア数は72山と細かいので、タイトなところでの作業も無理がない。もちろん、プッシュボタンが付いているので、ソケットの脱着が楽だ。プッシュボタンの操作力は重くもなく軽くもない感じで好印象。
値格は、1/4インチが3,350円、3/8インチが3,950円、1/2インチが4,800円だという。
エンジンの摺動部にベアリングを追加し、メカニカルロス(摩擦抵抗)を減らし燃費向上とCO2を削減する。そんなストーリーが自動車開発の世界で進みつつある・・・・・。
ドイツを本社とする自動車部品サプライヤーに「シェフラー」という企業がある。ここは、LUK(ルーク)、INA(イナ)、FAG(エフエージー)という3つの部品ブランドを持つ企業。
3つが統合してからわずか2年弱なので、認知度はさほど高くはないが、従業員6万7000人、50カ国180拠点を持つ巨大部品サプライヤーだ。この企業が提案しているのが、たとえばエンジン内部のカムシャフトやバランサーシャフトにベアリングを組み込むというもの。
すでにアウディとBMWのディーゼルエンジンのバランサーにはこのベアリングを組み込み、燃費向上に貢献しているという。ただし、クランクシャフトのジャーナルとピンはプレーンタイプのベアリングが今のところ有利。1ピースのベアリングを組み込むにはクランクシャフトを組み立て式にするなど厄介な問題だけでなく、ノイズが発生する課題があるからだ。
エンジンだけでなく、デフの軸受けのテーパーローラーベアリングをボールベアリングに置換して、メカロスを低減させることもできるという。テーパーは線接触なので抵抗がでかくボールは点接触だから抵抗が小さいというわけだ。このほか、ハブユニットにもボールベアリングを採用することで燃費を1.5%向上させる策もあるという。
文字通り重箱の隅をつつくテクノロジーというべきか、合わせ技というべきか!?
蒸気自動車は、コネチカット州やマサチューセッツ州などの北東部の州で作られていたが、当時のガソリン自動車、「オールズ」「フォード」「ビュイック」「キャデラック」などの工場はデトロイトに集まっていた。デトロイト近くにある五大湖のひとつミシガン湖周辺には、硬木を産していたところから昔から馬車や荷車の製造が盛んな土地であった。しかも、農機具や船舶エンジンなどの機械工場も少なくなかった。のち「MOTOR TOWN(モータウン)」と呼ばれる素地があった。
橋本増治郎は、デトロイトでヘンリー・マーチン・リーランドに面会することができた。わずか数時間の出会いに過ぎなかったようだが、のちの橋本の人生を大きく左右するきっかけになったと思われる。
ヘンリー・マーチン・リーランドといってもいまではその名を聞いてどんな人物だったか即答できる人は少ない。かつてはアメリカを代表する大型高級車のキャデラック、リンカーンをつくった人物なのである。それだけでなく、フォードなどののちの自動車産業の育成にも大きな影響を与えた「ブロックゲージ」をはじめて自動車製造に持ち込んだ男だった。
次回は、少し寄り道をして、ヘンリー・リーランドの人となりを追いかけてみたい。当時のアメリカのモノづくりの先進性も理解できる…。今から100年以上前の日露戦争(明治37年:1904年)ごろの話である。
(写真はリーランドが造った1902年型キャデラック・モデルA)
富士重工業が、トヨタ自動車傘下の自動車メーカーとして生きることになった。
日野自動車、ダイハツように、役員がトヨタから送り込まれ、経営の立て直しが今後展開されおそらく経営体質が改善され、儲かる企業にシフトされる、というのがもっぱらの観測。
社員や株主は、とりあえず安心だとはいえ、スバルという日本のクルマ社会での存在意義が大きく変化せざるを得ない。
サンバーは赤帽などの需要があるため当分ひき続き生産されるものの、不採算部門だった軽乗用車はダイハツに統合され、トヨタ流の小型車生産が導入されるのは必至。
トヨタ流でもスバル流でも、車はクルマで同じではないか! と考えるとそうではない。ジャーナリストとして日ごろの付き合いから言うのだが、スバルの開発者は実験担当者とほぼ同一人物の場合が多い。細分化され、クルマづくりノウハウがどんどんマニュアル化されるなかで、スバルのクルマ造りはある種、孤高を保っていた!? クルマが好きな人、ハンドルを握りクルマの挙動を確かめられる人が多くクルマづくりに携わっていたとみている。だが、一方では高みからモノを見られるプロジェクトリーダーがいなかった。あるいは、開発陣の中が均一化してしまい、異端的な考えをするスタッフを取り込めなかった。
ちょうど50年を迎えることしにスバルの大変化が起きたことは何か因縁めくが、いずれにしろスバル360を作った百瀬晋六(ももせ・しんろく)的人物がここ50年間に出なかったということなのかもしれない。スバルといえばロビンエンジン(芝刈り機などで使われる汎用エンジンで、強制空冷2ストロークエンジン)を使ったポケバイ(ポケット・バイク)しか所有したことのないので、いくらか後ろめたい気もするが…。