1920年(大正9年)に創業された東洋コルク工業の社長に就任している。昭和2年である。当時東洋コルク工業は、不況下の中で苦しんでいた。重次郎は東洋工業を立て直す役目を担っていたのである。重次郎は熱いモノづくりの好奇心をこのコルクにも注ぎ、コルクの表面を焼くことで強度を高めることを見出し、高品質の製品を生み出した。だが、コルクだけでは重次郎のたぎる思いをいやすことはできない。
重次郎が目指したものは、機械工作部門と3輪トラック部門だった。
昭和4年1月に東洋工業は、呉海軍工廠と佐世保海軍工廠の指定工場となっている。2年前から、クラウゼ社製の旋盤、ヒューレ製の万能フライス盤、アルフレッド・ハーバード社製のタレット旋盤、シンシナティ・ミリングマシン社製の立てフライス盤、万能工具研削盤、ライネッカー社製のかさ歯車形削盤などの輸入機械、国産工作機械数十台を導入した。一方コルク部門から機械部門へ従業員の配置転換を行うなどし、着々とモノづくりの体制を構築していたのである。
今や歴史の襞に隠れて見えなくなりつつあるが、東洋工業の自動車部門への進出は、2輪車からスタートしているのである。昭和の初頭にイギリス製のバイク2台(フランシス・バーベット号とダネルト号)をサンプル輸入し、各部を分解して部品を一つずつスケッチ、試作につなげた。昭和4年11月に2サイクル250㏄エンジンを完成し、翌5年3月には完成車の試作にこぎつけた。
試作したのは計6台で、その1台が広島市の招魂祭の余興としておこなわれたオートレースで当時名車の誉れ高かったイギリスのアリエルを抑え、初優勝を飾ったほどだ。このバイクは、計30台製作され、1台350円~380円で市販している。現在の貨幣価値に直すと270~300万円といったところだ。
2輪製作は、このときが最初で最後だった。重次郎は、より普遍性と将来性の高い3輪トラックに目を向けたのである。大正の末から昭和の初めにかけては、馬車や荷車が物流の主役だったが、3輪トラックが主に中小企業の貨物運搬手段として急速に広まる可能性を見て取ったのだ。
究極のクリーンカーである燃料電池の姿がホンダのFCXクラリティの登場で、かなり明確になってきた。ちなみにクラリティとは英語で「明晰(めいせき)」の意味。
空気中にあり余りほどある酸素と特殊ボンベ内の水素を車内で≪反応≫させ電気を起こし、モーターのチカラでクルマを動かす・・・原理自体はとてもシンプルだが、火がつきやすい水素が漏れたときの安全性、高圧電力の安全性確保などだけでなく、燃料電池の反応プラントFCスタック(スタックは堆積の意味)を量産できるかが大きな課題。
ホンダはこうした課題を10年がかりでようやく一応の≪カタチ≫にしたのがFCXクラリティ。でも3年でわずか200台の生産計画。リース販売で、月になんと80万円をユーザー負担。漏れ伝わるところによるとコストは現在約1億円だからだが、真の意味での量産にはまだまだいくつもの壁が立ちふさがっている。
燃料電池車の登場は自動車社会の根底から革新するといえる。
エンジンがない、パワープラントがまったく異なる・・・これによりエクステリアデザインはかつてない未来系になるからだ。走行フィーリングも異次元だ。エネルギー効率はハイブリッド車の約2倍。内燃機関とはまったく異なるドライビングテイスト。試乗した人によると「走り出してグッときてビュ~んと走る」という。
開発責任者によれば、2015年よりも早く量産体勢にもって行きたいという。そのときには、車両価格がいくらになっているか? 水素ステーションなどのインフラはできているのか? ワクワクどきどきの車社会になるのか、カイモク見えていない。
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