コンビネーションレンチのメガネ部が、ラチェットタイプになっているレンチである。
通常ラチェット機構を組み込むとヘッドが大きくなりがちだが、サイズ12ミリで24.2ミリとスパナ部の25ミリよりわずかにコンパクトに仕上げている。締め付け方向と緩め方向は、レンチを逆にして使うのだが、暗がりでもたちどころに分かるように締め付け方向(右回し)には黄色のリングが、12角部近くに配する。使ううちに禿げてはくるだろうが、なかなかお洒落である。
しかも、72ギアを使っているので、送り角度が5度、つまり5度レンチを振るスペースさえあれば回せる理屈。手狭なところにあるボルト・ナットに対することができるということだ。加えて、ギアを受け止める歯を6枚にすることで、本締めできるほどの高トルクに耐える。もちろん、レンチにパイプをつなげて過度なトルクをかけるのはご法度だ。
ラチェット機構を持つメガネ部は、上下に180度首を振ることができる点も使い勝手の向上に貢献している。メガネ部には、相手のボルトやナットの角を痛めない角丸形状(スナップオンで言うところのフランクドライブ)としている。スタンダードの長さのほかに、ロングタイプ(たとえば12ミリでスタンダード172ミリに対し312ミリ)も用意されている。ちなみに、表面仕上げは梨地と鏡面の中くらいのサテン仕上げと呼ばれるフィニッシュでいい感じである。TOP工業のホームページは、http://www.toptools.co.jp
音声やアラームでユーザーにインフォメーションする製品はさほど珍しくなくなった。自動車部品のなかで重くてかさばるというところから一番シーラカンス状態にいる鉛バッテリーに、アラーム機構が組み込まれたのである。世界初だという。
日立の自動車用バッテリーCYBOXという銘柄のバッテリーがそれ。このバッテリー、もともとカルシウム系の合金の採用で、自己放電が少なく、蒸留水が還流する構造にすることでバッテリーの寿命まで補水がまったく不要だという。
それだけでなく、バッテリーの上部に高精度演算をおこなう基板が付いていて、常時自己診断をしている。何しろエンジン始動時の瞬間的電圧変化を2/1000秒単位で測定してデータを蓄積されて自動的にジャッジされる。≪頭脳を備えた鉛バッテリー≫ともいえる。
もし過充電、要充電、要交換状態に陥った場合、エンジンを切ったのち約30秒間アラームが鳴り、ドライバーに知らせるというものだ。つまりバッテリーが完全にダメになる前に知ることができ、無様な救援を呼ばなくてもいいということ。JAFの出動理由の第1位でしかも全体の3割を占めるバッテリー上がりがこれでなくなる!?
実は東洋工業には、コルクの製造、工作機械の生産、3輪トラックへのチャレンジのほかに、もうひとつ見落としてはいけない業種をそのころスタートさせていた。削岩機(さくがんき)である。
ダムや水路の建設になくてはならない道具である。東洋工業の削岩機の生産は昭和10年。満州事変以来の財政膨張政策による公共土木事業の活発化、軍関係施設、道路、鉄道、トンネルなどの建設、石炭の増産などを背景に削岩機の需要が高まっていた。ところが、当時の国内の削岩機メーカーは、3輪トラックの勃興期同様、町工場的なものが多く、削岩機本来の要求である精密度と、部品の消耗度の激しさ、つまり信頼耐久性に対応できないでいた。
この削岩機業界への進出は、東洋工業の役員の一人で株主でもあった日産窒素肥料(現・チッソ)を中核とする日窒の総帥・野口遵(のぐち・したがう:1873-1944年)のアドバイスから始まった。余談だが、野口は、戦前活躍した実業家の一人で、明治41年に日本窒素肥料を設立したのをはじめのちに中国電力となる広島電灯、旭化成となる日本ベンベルグ絹糸、ホテルロッテとなる半島ホテルを開くなど、電気化学工業の父、朝鮮半島の事業王と呼ばれる。朝鮮半島に大規模な水力発電所を作り、巨大コンビナートを増設した立志伝中の人物だ。
東洋工業の削岩機づくりも、3輪トラックづくりの時に当時名機とされたイギリスの単車を分解し研究したのと同様、削岩機の世界では世界的名声を博していたアメリカのインガソルランドの製品を手に入れ、分解し、各部品をスケッチするなどとことん研究し尽くしている。とはいえ削岩機の心臓部であるピストンの素材の焼き入れにはかなり苦心したと伝えられる。3輪トラックづくりと削岩機のモノ作りに共通しているものがあり、困難を乗り越え、市場で認められる製品と成長していった。
「私たち、主婦で、ママで、女です!」
コンパクトカーに乗る7名の女性のTVコマーシャルのそんな底抜けに明るい声に、内心ドキッとした男性読者が少なくないはず。三丁目の夕日の時代から約30年、「日本女性はこんなに自信満々の存在になりました!」と高らかに宣言しているようである。相対的に自信のあまりない男性をイメージする!?
「5人がゆったり、7人がしっかり乗れる7シーターのコンパクトカー」であるパッソ・セッテとブーン・ルミナスは、この分野では先鞭をつけたホンダのフリードと真っ向対決状態。フリードが5人乗りと7人乗りの選択性に対し、こちらはシートアレンジで可変定員性をウリとしている。
そのパッソにキュートなドライビングシューズが登場している。ベネビスというブランドと提携した専用の女性用シューズである。ボディカラーと同じ6色を揃え、つややかなエナメル素材に程よい丸いトウ、足裏には柔らかクッション、プチトマト柄の中敷は銀イオンで消臭・抗菌効果をプラスしているという。低めのヒールで、滑りにくい靴底など、運転しやすく、歩きやすいコンセプトを入れ込んだという。
女性ドライバーの4人に一人は毎日クルマを運転するというデータがある。この専用シューズ、おしゃれで、使い勝手のよさも上々のようだ。価格も9,980円(税込み)とリーズナブル。もちろんパッソ&ブーン以外のクルマのユーザーでもOKなのだが、どれだけ売れるか。あまり売れるとトヨタ(あるいはダイハツ)は靴部門を持つことになる!? 靴フェチではないが、やけに気になるところだ。
RATCHETというのは英語で「・・・に歯止めをかます」という動詞。ラチェットハンドルをはじめハンドツールの世界ではそのラチェット機構を持つ工具が少なくない。ハンドツールにラチェット機構を組み込むことで、飛躍的に工具が使いやすくなったのも歴史的背景もある。
一昔前まで日本製ラチェットハンドルは、安っぽくて本格的な作業には向かなかった。ホビー工具の領域だった。ところが、最近はこの常識が覆りつつある。本締めができる本格的なラチェットドライバーが登場している。
ドライバーメーカーの老舗であるベッセル(電話06-6976-7771)から発売されたのが、「メタルライン・ラチェットドライバー」。いわゆる大きなトルクをかけられるプロ向けの製品だ。スナップオンなどに比べ小ぶりで軽量なので、日本人の手になじみやすい。
送り角度が15度と細かいギアで作業時のフィーリングも上々と見た。うれしいのは、ビットが豊富だということ。とくに使用頻度の高いプラスビッドが1番2番3番とフルラインナップ。これにマイナスビッドも加わり計4個。ハンドルエンドに付いているネジ式キャップを開けるとビット収納場所となる。欲を言えば、ヘックスビッドが追加でき、左右の切り替えフィールがもう少し重厚感があればさらによかった。
いまどきの整備工場を覗くと、リサイクルに気配りをしている世界が見える。
たとえばオイルフィルターエレメントはろ紙と金属部でできているので、分解して、分別しているのである。この不便さを解消するため、数年前からろ紙だけを交換するタイプが登場しているが、価格的にさほど安くないので、あまり評判はよろしくない。
いずれにしろ「ろ紙は紙でなくてはいけない」という先入観で製品化したためにブレークスルーができなかった、といえる。
そんななか登場したのが、汚れても捨てないで、繰り返し使えるという「ランマックス・マグネットオイルフィルター」。ボディがアルミ製で表面はアルマイト処理。内部のフィルターは紙ではなくステンレス製の蛇腹タイプ。マグネットを内蔵しているので、純正では除去できなかった30ミクロン以下の鉄粉粒子を確実に補足するという。Oリングの外径とセンターボルトの大きさで、3タイプがあり、ほとんどの国産車に対応できる。そのつど分解&灯油などにより洗浄&エアブロー、そして組み立てで、半永久的に使えるという。キノクニ エンタープライズ http://www.kinokuni-e.com/
マツダの前身である東洋工業は、昭和5年(1930年)、広島県安芸郡府中村(現・府中町)に約3万3000㎡の土地を取得、3輪トラックの新工場としてスタートしている。
新工場ができた昭和6年にはわずか66台だった3輪トラックは、翌年には518台、さらにその次の年には1251台とうなぎのぼりの生産となった。当時の3輪トラックのタンクには三菱のスリーダイヤモンドとMAZDA(マツダ)のロゴが重なっている(写真)。販売を三菱商事に委託していたためスリーダイヤモンドが記されていた。もうひとつは、MAZDAは社長の姓である松田という意味だけでなく、紀元前6世紀に誕生し、古代ペルシャの国教として栄えた拝火教(ゾロアスター教)の光の神「アウラ・マツダ(Ahura Mazda)の神話にのせて、新しく誕生した“マツダ号を小型自動車界の光明たらしめよう”との願いが込められていた。
東洋工業は、その後2重フレームタイプのDB型3輪トラック、排気量を482ccから485㏄に高めたDC型を昭和9年1月に発売。同年10月には、エンジンの排気量を654ccにアップし、しかもエンジンとトランスミッションを一体型にしたKA型3輪トラックをデビュー。このKA型は伝動装置にすべてギアを使った画期的なものだった。
その後昭和11年までに、TSC型、KC型と次々に改良版を世に送り出し第二次世界大戦前における3輪トラック市場の地歩を確実なものとしている。なかでもモダンなデザインと当時言われたKC型は、昭和10年から昭和13年の2年8カ月の生産期間に5595台という記録を作った。
この時代、東洋工業は宣伝活動にも積極的に取り組んでいる。昭和11年に行われた「鹿児島―東京間キャラバン宣伝」もそのひとつ。マツダKC型4台とマツダDC型1台で、鹿児島をスタートに東京までの約2700㎞を25日間かけて走破。この3輪トラック初の試みで、マツダの製品の優秀性を大いにアピールした。
昭和13年4月に登場したGA型3輪トラックは、計器盤を緑色に統一した「グリーン・パネル」で人気を博した。このGA型に搭載されたエンジンは669㏄で、従来の3段トランスミッションから4段に変更し、登坂力、加速力、燃料消費などあらゆる面で向上したという。
ちなみに、排気量654ccにボリュームアップした背景は、昭和8年8月自動車取締令が改正され、3輪車を含む小型自動車の範囲が排気量750㏄までに拡大されたことによる。
当時マツダの3輪トラックのライバルだったのは、明治40年代に国産初の内燃機関である吸入ガス発動機を作った発動機製造のダイハツ号(昭和5年12月デビュー)だった。発動機製造は、のちのダイハツとダイハツディーゼルのルーツで、ダイハツ号というのは「大阪にある発動機製造」からきた愛称である。戦前の日本では、このように3輪のモータリゼーションが始まっていたのである。
これまで500万円以上の高級車を評論することはほとんどなかった筆者だが、なぜか3台で総額3000万以上の高級車に立て続けに乗るチャンスが巡ってきた。取材で東松山にあるボッシュの工場に出かけたとき、試乗することができたのだ。すべてボッシュの第3世代のコモンレールシステムを備えたディーゼル乗用車。
日本仕様のメルセデスベンツE320CDIアバンギャルド,アウディA4カブリオレSライン3.0TDIクアトロ(写真)、BMW535ⅾ Mスポーツの3台だ。3台とも価格から類推できるとおり、走行性能、静粛性、コンフォート性など文句のつけようのないレベル。文句を付けたいのはプライスだけだ。
すべて6気筒3リッター、インタークーラー付きのターボで過給しているのでアクセルペダルを踏み足せばロケットを思わせる加速を味わえる。ディーゼル車がレースの世界でも活躍しているという事実が理解できた。欧州で、ここ数年販売される半数以上の乗用車がディーゼル仕様であることも理解できた。
数年前アコードのイギリス仕様のディーゼル車に乗ったことがあるが、さらによくなった印象だ。
こうなると、欧州で活躍しているヤリス(ヴィッツ)やスマートといった小型ディーゼルにも乗りたくなった。日本ではなかなかディーゼル車のアドバンテージは理解できない。たとえ3割燃費がよいディーゼル車もイニシャルコストが高いこと、しかも軽油の値段がガソリンとわずか数円ほどしか違わないため、次世代型乗物はハイブリッド車と電気自動車の方向に動きつつある。となると日本でディーゼルが成功するためには、ディーゼルハイブリッドしかないのかもしれない。