かつては博物館といえば≪すでに死んでカビが生えた物体の陳列場所≫というイメージだった。そんなものを見ても、何も聞こえてこないし、語りかけてこない。生きている世界こそ、一番だと思っていた。未来はたとえ過去の延長であっても、未来への見通しは現在から見るだけで手いっぱいだったからだ。
ところが時間の経過で、人の思いも変わるものだ。
いま自分があるのは過去がある・・・親父やオフクロ、それにお爺さんのお婆さん、そのまた親父やオフクロ・・・考えれば当たり前のことだが、自分が人の親や、人の祖父になりつつあると、考えも変化するもののようだ。そんなわけで博物館ほど、面白いものはないと思うようになった。
ぼんやり眺めるのみいいし、写真を撮ってあとであれこれ調べて楽しむのもいい。とりあえず、博物館に出かけると、何かしら収穫物があり、インスパイヤされることが少なくない。
広島県の福山市に「福山自動車時計博物館」というのがある。
1989年設立だから、かれこれ4半世紀ほどたつ。迂闊にも広島に出かけたおり、その存在に気が付き、はじめて伺った。ボンネットバスとボンネット消防車のリストアやマツダの三輪乗用車のレプリカ、それに日野自動車の「コンマース」というFFレイアウトのワンボックスバンなど、ほかの博物館では見ることができないシロモノに対面できる。展示車両を乗ったり触ることもできる。いつ完成するか分からないダイハツの三輪乗用車「ビー」も専属リストア職人の手でただいま再生中だった。この博物館の多くのクルマが映画やTVで出演していて、そこからクルマやそのクルマが活躍した時代を知るのも面白い。クルマだけでなく和時計やタワークロックも見ることができる。館長の能宗孝(のうそう・たかし)さんは、マンションを11棟持つ地元の不動産王だが、商店街を活性化するプロジェクトを進めたりの異色の経営者。主任学芸員の宮本一輝(みやもと・いつき)さんも学生時代古墳の研究をしていたユニークな人物。http://www.facm.net
われわれの祖父母が少年もしくは青年時代を送った大正時代とは、どんな時代だったのか?
ひとつは、大衆文化が誕生した時代であった。日露戦争(1904~1905年)後すでに義務教育が徹底して1940年(明治40年)には、これまでの4年以内だった義務教育が6年生となり、ほとんどの人が文字を読めるようになった。識字率の飛躍的な向上というやつだ。庶民の手紙も、いわゆる候文から言文一致体の文章も徐々に広がりつつあった。都市を中心にインテリ層が増加し、活字文化を支えて側面もある。新聞が100万部を超え、岩波文庫が誕生し、講談社の前身である大日本雄弁会講談社の雑誌「キング」が100万部を越えたのも大正期である。活字だけでなく、大正の末には、ラジオ放送が始まり、レコードの販売数がうなぎのぼりとなり、歌謡曲が全国に流行したのもその頃だ。流行歌の誕生だ。
都市を中心にライフスタイルが大きく変化したのもこの時代だ。
洋服の普及、和洋折衷の食生活、鉄筋コンクリート造りの公共建築、家庭のおける電灯の普及、水道・ガス事業の発展など現代の生活につながるモダンライフの萌芽が都会では見られている。だが、こうした大衆文化や近代化は、当時多数派だった農村にまでは普及せず、都市と農村の格差が際立ち始めたのもこの大正時代からだ。
自動車という乗り物が、日本に始めてやってきたのは明治31年(1998年)。フランスの技師のジャン・マリー・テブネという青年が日本に工作機械を販売しようという野心を秘めて来日したのがキッカケ。パナール・ルヴァソールを携え、フランスの機械技術を近代的な工業製品である自動車で伝えようとしたらしい。ところが、日本はまだ人力車、大八車の時代。当時の日本人には、はるか雲の上の乗り物。現代でいえば自家用ジェット機をみる眼差しだったようだ。
三菱のアイミーブと日産のリーフ。ジャパニーズ製電気自動車は、とりあえず出揃った。
車両価格は今後量産が進めばある程度解決するが、大きなハードルがある。1充電の航続距離が実用上100キロあたり、充電時間がクイックでも数時間もかかるという宿痾(しゅくあ)ともいえる足かせだ。充電設備というインフラの整備を数えると、計4つの大きな課題が横たわる。今後電気料金が高騰する予測もあるの、ランニングコストに夢を託せなくなる恐れもある。
だが、限りある化石燃料の現実を突きつけられれば次世代のパーソナルモビリティは、電気自動車しかないというのも共通した見通し。こうしたことを背景に自動車メーカーだけでなくさまざまな企業が次世代電気自動車の技術革新に心血を注いでいる。
自動車のオルタネーター、産業用モーター、鉄道のモーターなど多岐にわたりモーター技術を培ってきた三菱電機は、このほど電気自動車用のモーターの開発をお披露目している。電気自動車の主な構成は、モーター、インバーター、電池、それに制御システムだが、電池の直流を交流に変えるインバーターをモーターと一体化したモジュール化に成功したのだ。これにより容積比を半分に重量を10%減となったという。しかもモーターの集中巻構造により巻線密度を高め、インバーターのパワー半導体素子をシリコンカーバイト〔SiC〕にすることで、モーター出力を5%改善し、従来のインバーターに比べ損失を半減。
今後電池の性能向上も進み、車体の軽量化も平行しておこなわれる予測なので、5年後10年後の電気自動車は、たぶん見違えるほど性能向上するはず。でも、こうした進化も、いま販売している電気自動車が売れなければ現実とはならないわけで、技術の進化も一筋縄では行かない!?
2003年に早川書房で出版されたヴィトルト・リプチンスキというスコットランドのエジンバラ生まれの大学の先生の書いたネジにまつわる歴史物語が、昨年文庫に収まったのを期に手にとって見た。
ネジの話ですぐ思い出すのは、1543年に種子島に流れ着いたポルトガル人から手に入れた火縄銃。この火縄銃が戦国時代を変え、やがて織田信長の天下統一につながるのだが、尾栓(びせん)と呼ばれるオスネジの相手つまりメスネジの製作が長くマル秘事項だったという逸話。それと、終戦直後フォードの工場を見学した本田宗一郎氏が、工場内の床に落ちていたネジをポケットに入れて持ち帰ったという逸話。フィリップス・ネジだ。
この本はそんなエピソードとはほとんどかすりもしない。西洋で発明されたネジのルーツはどうやら甲冑の蝶ネジ(ウイングナット)だったらしい。自動車製造を支えたフィリップネジのライバルにロバートソンネジがあり、そのネジのほうが実は性能が高かったという話・・・・著者自身が建築学や都市学の専門家で機械屋さんでないこと(21世紀を迎えるにあたりミレニアムの記念でニューヨークタイムズの編集者からの依頼がキッカケ)、翻訳者も女性のためもあり、特に機械やねじに強くはないこともあり、まるで油の香りはおろか機械の音も聞こえてこない。靴の上から痒いところを掻いている感じは避けられない。ボルトとナットに思い入れを抱く人には少々お高く留まった本に見えるかもしれない。
でも救われるのは、元旋盤工にして小説家の小関智弘さんの解説。少し昔のねじきり職人の姿が活き活き理解でき、リアリティ溢れる。これだけ読むだけで幸せな気分になれる。早川ノンフィクション文庫。600円だ。
若者のクルマ離れが叫ばれてはじめて久しい。
現代の若者には信じられないかもしれないが、かつてクルマは若者のあこがれの工業製品であった。クルマ産業が日本のモノづくりの牽引役を果たしてきたともいえる。厳しい環境性能、マスプロダクション世界での時代のニーズなどが、かつて個性的だった日本の国産車だけでなく、なかでも光り輝くスポーツカーたちを、ほとんど駆逐してしまった。代わりに冷蔵庫や洗濯機と同じ感覚で扱われるクルマばかりが増えていった・・・。
このままでは、日本のクルマ作りは弱体化する。熱い情熱を持った骨太のクルマ造りの火をかかげなくては! 私が見るところ,トヨタの86〔スバルのBRZ〕はこうした背景で誕生したようだ。1300ミリの低いプロポーション、FRレイアウトで、フロントには直噴タイプの水平対向200PSエンジン。パワーウエイトレシオ5.95~6.25kg/PSという数値がスポーツカーのひとつの証を示している。トヨタのスポーツカーの原点であるヨタハチやAE86カローラの香りを残す最新技術を注ぎ込んだ、比較的リーズナブルなプライスの21世紀型スポーツカーが、たぶんこれなんだろう。
86の発表会は、幕張メッセでおこなわれた。面白かったのは、やや太り気味のトヨタの社長がレーシングスーツで現れ、やや間延びしたレセプションの途中貴島孝雄さん(63歳)が壇上に登場(写真)したことだ。1994年に初代のマツダロードスターNA6CEの開発主査をつとめ、2代目、3代目のロードスター、それに3代目のRX-7(FD3S)の責任者でもあった人物。現在はマツダから身を引き山口東京理科大工学部教授である貴島さんがかつての敵陣に招かれるのは、不思議な感じがしたが、それは俗人の邪推だと気付いた。スポーツカーという高い価値の共有をすること、量産車とは異なるベクトルを共有する同志が、競合する企業の壁を乗り越えている、そんな悪くない光景だった。
意外とスルーしてしまったが、昨年平成23年は、大正元年(1912年)から数えてちょうど100年にあたる。
大正時代というのは、明治の45年間と昭和の64年間のあいだに挟まり、わずか15年と短いこともあり、その時代の特徴や世相などがどうも霞がかかって輪郭がぼやけがち。だが、実は、大正時代こそが人々の生活に自動車が役立つように使われだした時代。“初期の自動車実用化時代”ともいえる。国産自動車工業がスタートを切った時代でもある。とりわけ、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災後、壊滅的な被害を受けた東京の市電の応急措置として導入された市営バスは、日本人の自動車への関心を呼び覚ましたとされる。この市営バスは、“円太郎バス”と呼ばれ愛されたもの。実はフォードTT型のシャシーにバスボディを架装したものだ。皮肉にも震災で日本人ははじめて自動車というモビリティに目覚めたのである。そこから国産初の量産乗用車クラウンの誕生まで、30数年待たなければならない。
奇跡の無血革命といわれる明治維新が、江戸期の知的経験や産業育成にその成功の背景にあったのと同じように、昭和30年代から花開く日本のモータリゼーションも実は、種を蒔き若葉を育てる長い期間があった。それが大正時代から昭和初期にかけてだった。そう考えると、われわれの祖父や曽祖父が生きた時代がどんな時代だったのか知りたくもなる。このほどトヨタ博物館で催された「大正100年記念 大正 自動車(くるま)物語」を踏まえ、その時代とクルマにまつわる人々を覗くことにしよう。
「現在日本の乗用車販売比率のなかでディーゼル車は1%に過ぎない。これを打破するのがこのクルマです」
そんな強いメッセージで登場したのが、マツダの新型SUV CX-5である。例のエンジンからシャシー、ボディにいたるまで新技術『スカイアクティブ』をすべて投入。ガソリンエンジンは圧縮比13の高圧縮、ディーゼル車のエンジンでは14というオキテ破りの低圧縮(通常は16~18)で、ハイブリッド技術を使うことなく、燃費と排ガス浄化を両立させようというものだ。車両重量が1.5トン前後と重い。そのせいかJC08モードで、ディーゼル車が18.6km/l、ガソリン車が16.0km/lと、やはり燃費ではハイブリッド車にはかなわない。
注目は、ギャレット製の2ステージターボチャージャー付きのディーゼルターボ車だ。まだ試乗こそしていないが、175PS,420Nmということから想像できるように≪かつてない加速感≫を味わえるクルマに仕上がっているそうだ。
ところが、このディーゼルターボ車、エンジンオイル交換スパンが1万キロごとと、期待外れ。大型トラックが6万キロ以上の時代、せめてガソリン車の1万5000キロごと並みにできなかったのか? 調べるとオイル容量は5.1リッター。容量を増やせばオイル交換スパンを伸ばせるが、増やすと車両重量が増える。そのジレンマに直面しているのはわかる。走行10万キロ超は当たり前のロングライフ使用の時代を迎え、メンテナンスの世界でもブレークスルーしないと意味がない!
480円といえば、ほぼ牛丼1杯分の値段である。
そんな、あまりにもリーズナブルな値段で、手のひらサイズのラチェット装置が手に入る。
直径35ミリ、重量55グラムの文字通り、手のひらに入れれば隠れてしまうほどのコンパクトなところに、32ギアのラチェット機構を組み込んである。へこみ部分は1/4インチ(6.35ミリ)、でっぱった四角部も1/4インチ。つまり、ヘコミには手持ちのビットを組み合わせ、出っ張り部には1/4インチのソケットのコマをドッキングさせることで、コンパクトなハンドツールに仕上げるという寸法だ。
左右の切り換えはブルーのハウジングとローレット加工してあるギア部をカチカチと回すことでできる。ギアフィーリングも軽やかで悪くない。1/4インチならオーバートルクになる心配はあまりないので耐久性も十分だと推理できる。3/8インチタイプ(価格は750円)もある。http://www.straight.co.jp