“だれや知る、サイドバルブ・エンジンのその中身。74年の時空を超えて、語りかける日本のモノづくり”
そんな、詩とも語りともわからぬ、ツブヤキがふと頭をよぎる。品川駅からクルマで10分ほど走ったところに、ダットサンをはじめ日産の歴代オールドカーをリストアしている工場があった。サファリ・モータースという、いかにも日産がかつてラリーに熱を入れていたヨスガを思い起こすネーミング。
旧いクルマを蘇らせるというとなんだか、ご隠居仕事のようにイメージする。だが、その想像は完璧に裏切られる。平均年齢40歳代のメカニックがいきいきと旧車の再生に取り組んでいる。旧車というのはくたびれ果てたクルマ。さまざまなトラブルに向き合うことで、メカニックがいかにやりがいを抱けるか。目の輝きですぐ分かる。部品の調達から、ときには部品造り、微妙な調整などなど、イマドキの電子制御付きモダンカーにはない人間味がある。
とりわけドキドキしたのは、1938年式のダットサンの排気量722cc 4気筒サイドバルブ・エンジンがバラされた状態を目撃したときだ。これから組み付け作業に入るというところだ。ウエイトのない素朴な形状をしたクランクシャフトは、オーバーレブ(過回転)させるとすぐ真ん中から折れるという。フロントオイルシールは、ゴムではなく羊毛などの毛を固めたフェルト製だ。バルブを駆動する役目のカムシャフトのギアは、なんとベークライト製だ。でも、ピストンとコンロッドは、当時としてはすすんだアルミ製。そのコンロッドの下部には、スプーン状の突起が付いていて、オイルパンに設けられたオイル溜のオイルを掬(すく)い、ピストンのほうに散布する仕掛け。現代のエンジンしか知らない者には、複数の疑問が沸き起こる。時空を越えて、設計者にインタビューしたくなる。
こうした旧いエンジンはヘッドボルトが折れたり、ふつうのエンジンではありえないトラブルが横たわる。それをひとつずつ絡まった糸をほぐすように解決する・・・探偵が問題を解決するため、推理を働かせるのと似た作業が続く。サファリ・モータースでは、すでにダットサンなど60台ほど再生したという。http://www.safarimotors.jp
日本初のタクシー会社は、大正元年(1912年)の2月に有楽町の数寄屋橋際にできた「タクシー自働車会社」。自動車ではなく自働車であることに注目。日本のタクシー、観光自動車業のルーツを築いた長晴登(1866~1916年)が社長。新橋と上野に営業所を置き、フォードT型6台を使っての営業だったという。フォードT型は、1908年に誕生しているので、当時の情報環境や物流を思い合わせると、「いち早く」という言葉で表現してもいいのかもしれない。日本初のタクシーには、驚くべきことに“料金計上器”(料金メーター)が付いていた。当時の読売新聞にはこんなふうに伝えている。「今回麹町区有楽町5丁目1番地にタクシー自働車株式会社なるものが設立された。同会社営業の特色とするところは、市内一定の駐車場に自動車を配置し乗客を待ち合わすことで(途中でも空車の場合には乗客の求めに応じる)・・・・乗車賃金及び走行距離数は、自働車に取り付けてある料金計上器に数字で自然に表れる事、賃金は最初の1マイル(1.6km)に限り60銭、その先は半マイルを増す毎に拾銭を加える外に、雨雷、夜中市外などは特別割引を取り、乗客数は1人から3人まで同一である」
日本初のタクシー会社で使われたフォード・モデルTは、4人乗りで、20馬力とチカラがあり、車体も頑丈で、悪路にも強いなど当時の路面情況のよくなかった日本ではジャストフィット。価格も一台3000円とリーズナブルで、8500円以上したといわれる根津嘉一郎のルノー1台で3台近く買えた勘定だった。ちなみに、大正初期では大工の手間賃が1円15銭だった。
13万キロをあとにした愛車「ファンカーゴ」の車検が迫ったある日、フロントブレーキのパッド交換を決意した。数週間前から、ブレーキをかけるたびに、嫌な音がするのにだんだん気になりだしたからだ。前回パッド交換してから、約3万キロオーバー。そろそろ交換するには頃合(ころあい)だ。タイヤを外し、キャリパーを横から見るとギョギョ! いわゆる裏金(バックプレート)ぎりぎりまで摩擦材が磨り減っていたのだ。とくに内側がひどい。裏金にローターがぶつかっている形跡。これじゃ、威勢のいい音を奏でるはず。パッド側面に付いている板金製の摩耗を知らせるウエアインジケーターが左右ともに根元で折れていた。これでは、正常にパッドが限度厚さになったことを教えてはくれないはずだ。
さっそく、旧いパッドを取り外し、特殊工具のピストン戻しを使いピストンを目いっぱい押し込もうとする。ところが、ピストンが固着しており、ピストン戻しのハンドルにオキテ破りの延長パイプをつけないと動かせないほど。とにかく、今回はパッドを新品にして、車検をパスしてから、しかるのちにピストン回りのオーバーホールをするつもり。
その作業は後日報告として、持ち込みのユーザー車検に関しては、なぜか排ガスで再検だった。HCが多いと出たのだ。過去30回ほどユーザー車検を受けているが、初めて。O2センサーの故障か、はたまた触媒のつまりか? 近所の修理工場に持ち込み、測定しなおすと、あ~ら不思議、規定値内で、問題なし。ふたたび本番の車検場で、恐る恐る再検したところ、何のことはないすんなりパス。たぶんアイドリングを長くやりすぎたなど、ちょっとした調子でHCが多量に出たようだ。
このところの流行語のひとつに「見える化」というのがある。少し前のコトバのディスクローズをさらに積極性を持たせた感じ、といえなくもないこのコトバ。工具の世界にもこの「見える化」がキーワードになりそうだ。
ハンドツールメーカーのひとつ前田金属のTONEブランド(http://www.tonetool.co.jp)で「シャッター付きサービスボード」が発売されたのだ。770×600×120ミリの大き目。いわば大き目の額縁ほどで、重さが16.5kg。写真は、1/2インチ工具を中心にしているが、3/8インチでも、とにかく自分の好みのツールをセットできる。必要な工具を即座に探せ、取り出せ、紛失の機会も劇的に少なくなるというのが、ウリだ。それよりも見るからに、「見える化」は、工具自体のインテリア性を引き出している点だ。聞けば、サイクルショップ(自転車屋さん)に受けるというのも理解できる。樹脂製のシャッターが付き、鍵もかけられ、しかも横置きでも縦置きでも自在。本体は板金製だ。気になる価格だが、5万7600円。
ディーゼルなのに圧縮比が14とガソリンエンジン並みの低さ。超高圧2000バールのピエゾタイプのインジェクターで4段階以上に多段噴射。ギャレット製の2ステージターボチャージャー。いくつもの新しいテクノロジーの合わせワザで、JC08モードで18.6km/l(10・15モードで20km/l)というSUVでトップの好燃費を叩き出す。
CX-5を箱根で試乗してみて驚いたのは、燃費だけではなかった。度肝を抜くほどの動力性能と、よくできたアイドリングストップ〔ⅰ-stop〕。ガソリンエンジンのV6 4リッターに相当するという前宣伝はまんざらウソではなかった。全域にわたりトルクフル。大きな声では言えないけど、芦ノ湖スカイラインをサーキットのように痛痒ない走りを楽しんだ。かつてのディーゼル車にあった「(音が)うるさい・(走りが)トロイ・(排気が)汚い」という3悪を追放し、ディーゼルの良さがググッと姿を現したクルマ、といっても誉めすぎではない。アイドルストップからの再始動が、世界最速0.4秒というのもユーザーには誇らしいところだ。マツダのスカイアクティブ技術は、文字通り第3のエコカー以上のポテンシャルがあるかもしれないと直感した。気持ちが久しぶりにグッときた! 2WDの売れ筋グレードが、300万円を切るリーズナブルな車両価格も大いに魅力。
ところがほぼ満点に近いCX-5だが、唯一といっていいほどの“逆アドバンテージ”がある。車幅が1840ミリ(もちろん3ナンバーだ)とコンパクトカーにくらべ150ミリほどでかいのだ。これはもともと北米や欧州を視野に入れたクルマだからということだ。狭い路地の多い日本に住む消費者には、なんとも口惜しい。それでも、いまのところ月販予定販売1000台のところ、8000台以上の注文があるという。
明治の末になると、ごく小数の欧州車などが限られた貴族や上流階級の人たちの手で、国内に持ち込まれ、愛用されていた。いわば趣味の世界の延長線の贅沢極まりない存在。いまなら自家用ジェットに近い。たとえば、有栖川宮威仁親王殿下(ありすがわのみや・たけひとしんのうでんか:1862~1913年)は明治38年(1905年)に渡欧した際フランスのダラック車を購入。その後、初の国産ガソリン自動車タクリー号の完成を支援されたほか、「遠乗会」を開催、日本自動車倶楽部の創設など、わが国初期の自動車界をリード。「自動車の宮様」として敬愛された。52歳という若くして亡くなった宮様を偲んで当時の雑誌「モーター」の主幹・山本愿太(やまもと・げんた)は「我自動車界にとり、第一人者に在りしませり」と哀悼の辞を述べている。
ちなみに、明治45年(1912年)発行の写真画報「グラフィック」という雑誌には、その当時の自動車の所有者のインタビュー記事が掲載されている。その中に根津嘉一郎(ねづ・かいいちろう:1860~1940年)がいる。中央線の開通に尽力した若尾逸平(わかお・いっぺい)や“投機界の魔王”と呼ばれた雨宮敬次郎(あまみや・けいじろう)らとともに甲州財閥の一人。東武鉄道や日清製粉などの社長を歴任し、鉄道王とも呼ばれのちの根津美術館のもとを作った人物でもある。当時フランス車のルノーを愛用していた根津は、「私が自動車を買ったのは、贅沢のためではない。平生の繁忙要務を敏速に弁ぜんが為である(普段の事業の忙しさを少しでも和らげるためだ、の意味)」と自動車の便利さを強弁している。
この根津の愛用していたルノーとほぼ同型のルノーがトヨタ博物館にある。「ルノー・タイプDJ」で、馬車時代の名残から運転席と客席が完全に独立したリムジンボディの高級車。現在のクルマと同じに前方から開閉するエンジンフードとエンジンの後方に置かれたラジエーターが特徴。エンジンは、水冷4気筒L型ヘッドで排気量3365cc。全長4713ミリ、全幅1816ミリ、全高2229ミリ、ホイールベース3396ミリ。車両重量が1746kg。
大正時代に入ると、わずかだが街に自動車の姿を見るようになる。タクシーや現在のバスにあたる乗り合い自動車が街中を走るようになり、庶民も自動車の存在に少しずつ関心を抱くようになる。
いまや「ぶつからないクルマ」が急速に身近な存在になりつつある。
スバルのレガシーなどに採用される「アイサイト」は、当初カーナビとほぼ同じ値段の20万円を予定していたがいまでは約10万円台。
先ごろデビューしたマツダCX-5には、メーカーオプションで取り付けられるスマート・シティ・ブレーキ・サポート〔略してSCVS〕は、上級モデルには標準装備だが、はじめから付いていないグレードでも7万8000円の上乗せで付けられるという。しかもこの値段は、リアビューモニターとオートクルーズの3点セット、デフレとはいえ信じられないほど安い!? サプライヤーはコンチネンタル社。
あるデータによると追突事故の約6割が時速30キロ以内で発生するという。CX-5の衝突事故軽減装置は、時速25キロ以内なら完璧に衝突を防いでくれ、それ以上の速度ではダメージを軽減できるという。スバルの「インサイト」はカメラで障害物を捕らえるが、マツダはフロントガラスに取り付けられたレーザー(近赤外線)センサーだ。雨天時、逆光、夜間といった見えづらい環境下でも障害物をキャッチできるのが、自慢だ。近赤外線というとなんだか遠い存在だが、TVのリモコンと同じ波長の長い光線のこと。開発者に話を聞くと、三好のテストコースなどで、雪や霧のなかで約1年半かけてテストを重ね、信頼性を確立したという。写真のようにATの誤発進抑制制御もできるので、高齢者ドライバーにありがちな駐車場での衝突事故も防げる。
たとえばインパネの下部にアクセサリーを取り付けるとか、とにかく通常の工具ではとても使えそうにないタイトな場所での作業に実に重宝するのが、この「マイクロビット・ラチェットレンチ」だ。
全長90ミリと手のひらに隠れるほどのコンパクトさ。重量は45g。あまり小さいので、紛失する恐れもある。そのためもあってか、グリップエンド部に鍵穴状の穴があり、そこに携帯ストラップでもぶら提げたくもなる!?
1/4インチ(6.35ミリ)の手持ちのビッドがそのまま使えるので、使用頻度が高くなるのもいい。付属するのは、全長18ミリと25ミリのプラス2番。表面は鏡面研磨もどきで愛着をもてる。ギア数は60なので小気味いい感触なのもいい。左右の切り換えレバーはスライド式で軍手ではいざ知らず、素手ならごく自然に切り換えられる。価格は、980円だった。 http://www.straight.co.jp/