1台約200万円として・・・10台でフェラーリ1台分。つまり、イタリアのピュアスポーツカー・フェラーリの1/10の値段で、ミドシップスポーツカーが手に入る。
“200万円の軽自動車”と考えるといささか高い感じだが、フェラーリと同じミドシップエンジンスポーツカーで、車庫も小さくていいし、維持費も安い、しかも燃費もフェラーリよりはるかにいい(なにしろレギュラー仕様!)。こうしたクルマは、非日常的空間で評価し楽しむクルマなので、「こちらがよくて、あちらはあまり・・・」といった下世話な理屈はもともとなじまない。素直に、乗る喜び、走る喜び、所有する喜びを感じればいいだけ。
実は、このクルマに関わって一番ハッピーだったのは、開発者たちに違いない。資料をあれこれ弄繰り回し、眺めると、そんな思いがしてくる。ミドシップレイアウトというミニサイズのクルマに成立させる。スポーツドライビングと、快適性、21世紀にふさわしいスポーツカーなど実用車とは異なるがゆえの開発の苦労がちりばめられている。
たとえば、ミドシップエンジン車ゆえのエンジンの冷却性。ボディ床下からの空気の導入をしているだけでなく、ボディサイドからの冷却風の導入をおこなっている。コトバでは簡単だが、何度もトライ&エラーをしているようだ。オイルパンの形状にも苦心している。スポーツカーなので、すぐれた旋回性能を発揮するのだが、それによりエンジンオイルの片寄りによる、油幕切れが心配。そこで、Nシリーズ(エンジンはNボックスなどと基本構造同じ)とは異なり、中央部分を深くしたオイルパン形状に変更し、大きな横Gがかかっても油圧を確保できたという。
ボディ構造も衝突安全性、スポーツカーとしての剛性、軽量化などの要素を満足させるべく、苦心したという。直線と滑らかな曲線で構成した独自のボディ骨格で、かつてのビートやホンダS2000を上回るねじり剛性値をたたき出している。ちなみに車両重量は830~850kgに収まり、燃費は6速MTが21.2km/l、CVTが24.2km/l(いずれもJC08モード)。
こうした企業努力が実り、マツダのオート三輪は、好評を博し、排気量も482ccから485ccに、さらに昭和7年には750ccにアップさせた。また、フレーム構造を変更したり、チェーンドライブからシャフトドライブ、パイプフレームから圧延鋼板フレームへと進化していった。月産300台のペースでのモノ作りが完成していた。3輪オート作りで終わらせるのではなく、本格的なモータリゼーションの到来を先読みして、小型4輪の製造を視野に次のステップを目指した。
父親の重次郎は、早くから3輪と4輪自動車の総合自動車メーカーへの飛躍を視野に入れていたようだ。こうした背景には、当時ダットサンを中心とした小型4輪車の目覚しい台頭があったからだ。昭和10年4月には日産自動車の横浜工場ではダットサンの組み立て一貫生産が始まっていたし(写真)、トヨタ自動車の前身である「豊田自動織機」自動車部では豊田喜一郎以下技術者の手でA型エンジンを載せた「トヨダA1」の試作車が中部地方の山岳路を走破していた。翌年の昭和11年には新設されたレース専用のサーキット多摩川スピードウエイでは初の自動車レース「全日本自動車競走大会」が開かれ、メルセデスなど輸入車に混じってダットサンやオオタ号、それに本田宗一郎あやつる「カーチス号」が活躍していた。
ホンダS660の発表のあった同じ日の午後、新型カローラがお台場でお披露目された。マイナーチェンジで記者に華々しく披露することはあまりない。それだけに、トヨタとしては強い思いがあったようだ。
そもそもカローラは、1966年(昭和41年)に初デビューしている。サニーより排気量を100cc増やすことで当時の消費者の注目を集め、その後の成功につなげていくのだが、初代の開発者は、戦時中航空機を開発していた長谷川龍雄氏(1916~2008年)。長谷川さんの面白いところは、クルマの開発リーダーである主査の10か条を残した点。そのなかで「広い視野を持つべし」はごく当たり前だが「主査は要領よく立ち回るな」とか「無欲な性格が向いている」など、哲学や宗教につながる世界を展開している。
長谷川さんは、カローラのことを「地球人の幸福と福祉のためのカローラ」としている。
だから、マイナーチェンジした今回のカローラは、高級車並みの高い安全性を備えたようだ。具体的には、レーザーレーダーとカメラの組み合わせで、10~80km/hの幅広い速度域で自動ブレーキを作動させ、リアルワールドで発生している追突事故の80%に対応している。カメラによる車線逸脱防止システムも備えている。時速30キロ以下の追突防止を支援するシティセーフティをオプション設定というホンダS660が、色褪せて見えた。カローラフィールダーの価格は160万円台から。燃費は23.0km/l。
モノを挟む道具のうち一番ポピュラーなプライヤーという道具は、どちらかというと、これまでないがしろにされていた。少し前まで、バイクでもクルマでも「標準工具」というおまけに付いてくる道具のなかで、見るからに安っぽい工具がプライヤーだったからだ。標準工具のなかで、ドライバーはとても使い物にならなかったが、プライヤーはとりあえず使えたため、「プライヤーとはこんなものなのか」とユーザーは合点した。よりいいプライヤーが登場しなかった背景はどうもそんなところにある。(もちろんクニペックスなどのブランド品はあるにはあるが)
新潟県にあるIPS(五十嵐プライヤー)は、このプライヤーに目をつけたのは凄いと思う。「プライヤーを使うユーザーが困っている点はなんだろう?」たぶんそんな疑問から、このソフトタッチのプライヤーが誕生したのではないだろうか。全体のデザイン自体は従来のプライヤーと同じだが、くわえ部分に樹脂としていることで、くわえた際の相手へのダメージをやわらげている。メッキ品や化粧ナット、樹脂製品をくわえた際、樹脂なので、傷つける心配が小さくなる。しかもくわえる部分のデザインに工夫をすることで、加工性も向上させている。くわえ部は、いわば消耗品。破損したら、プラスドライバー1本で交換が可能だ。見逃せないのは、プライヤーはガタが大きいのが当たり前だが、ごく小さい。しかもグリップにはビニール・コーティングを施しているので、手が痛くなりづらい。黒い部分はカチオン電着塗装だという。
近くのホームセンターにて820円で手に入れたのだが、なかなか侮れないプライヤーだ。調べると、IPSには、このソフトタッチシリーズにはウォーターポンププライヤーなど全部で7シリーズもある。
アメリカのセグウエイ(SEGWAY)で先鞭がつけられた電動2輪のパーソナル・モビリティは、20世紀の発明である自動車からは軸足を大きくずらした乗り物。高齢化社会を見通した新しい乗り物として、注目を集めている。このチャレンジングな一人乗り電動ビークルは、トヨタやホンダもここ5~7年のあいだに果敢に提案していることは記憶に新しい。
このほど、既存の自動車メーカーではなく、大学と自動車部品サプライヤーがタッグを組んで、より挑戦的なパーソナル・モビリティ「ILY-A(アイリーエー)」を発表した。大学とは千葉工業大学であり、企業とはATなどの自動車部品を生産するアイシン精機である。
注目すべきは、人ごみの中でも安全に走行できるビークルモード、アクティブに身体を動かすキックボードモード、台車やベビィカーのような役割をするカートモード、それに文字通りキャリングバックのように、ズルズル路面を引っ張り移動するキャリーモードと1台でシチュエーションにあわせて、4つの使い方ができる。まるでハリウッド映画のトランスファーマーのように1分ぐらいでカタチを変えられる。14インチの駆動輪の間にリチウムイオン電池とモーターを収め、いち充電で丸一日使え、しかも、走行中突然ひとが飛び出した際の自動ブレーキ付き。現在30kg以上とやや重いが、5年以内に商品化するときは、10kg台に収められると胸を張っていた。
間近に見た感じでは、アイシン精機が関わっているだけに完成度は高いようだ。だが、そもそも、ナンバーなしなので、公道を走れず、速度もせいぜい時速10キロで走る乗り物を必要とする社会が来るのか? 先輩格のセグウエイは高価ということもあり、販売は伸びていない。価格がセグウエイの半値以下のたとえば30万円とか40万円ぐらいなら、飛行場とかテーマパーク、倉庫、イベント会場などで活躍できそう。でも、公共交通機関のない地方のシニアの足としては、既存の自動車との併走は危険が大きすぎて難しい。となると、それ以上の使い道はいまのところ考えづらい。
第1号が、1929年(昭和4年)に完成した。支援者の実業家・野口遵(のぐち・したがう:1873~1944年)の助言もあり、国内での販売は、三菱商事に委託することになった。だからこのオート三輪の燃料タンクの側面にはスリーダイヤモンドとMAZUDAのダブルネーミングが記されている。ちなみに、MAZUDAは、暗黒の世を光明にみちびく光の神「アウラ・マツダ(AHURA MAZUDA)」という紀元前7世紀ごろペルシャから創始した古代宗教ゾロアスター(拝火)教の神の名前。それと松田という苗字が似ているとことから採用されている。
当時、工場はわずか3000坪ほどだったが、現在の本社のある府中に新工場を建てるべく、1万坪の土地を購入した。この工場のレイアウトも恒次の指導でおこなわれた。
3輪オートの市場は、「ダイハツ(大阪発動機)」や「くろがね(東京くろがね工業)」などがしのぎを削るなかで、新進メーカーも参入し、5年後の1935年ごろには生産過剰の様相が見られた。販売競争に打ち勝つために、1936年4月にキャラバン隊を組織した。5台のオート3輪「マツダ号」を連ね、鹿児島―東京間1600マイル(2700km)を25日間かけて走破。行く先々で200回近い映画鑑賞会を催しながらの一大宣伝キャンペーンだった。
補機ベルトとよばれるVリブドベルトは、エンジンのチカラを用いて冷却水を循環させるウォーターポンプや発電機(オルタネーター)、ときにはパワステのポンプを駆動する大切なベルト。
もしこれが切れると、発電しなくなり、バッテリーがあがってしまい、オーバーヒートにおちいり、走行不能になる。20年以上前はVベルトと呼ばれるV字断面のベルトだったため、2~3万キロで切れたり擦り減ったりして、何かとトラブル原因をつくった部品だった。溝がたくさんあるVリブドタイプになり、金属製のプーリーとの接触面積が大きくなったおかげで、寿命も伸び、だいたい5万キロは大丈夫。とはいえ、伸びることを想定して、12ヶ月ごとに遊びを点検し、伸びていれば調整ボルトを緩め、張りなおす。
先日、自動車部品のイベントでベルトメーカーの「バンドー化学」(大阪)のブースを取材したところ、面白いものを発見。樹脂製の単なるゲージなのだが、これを使用過程のVリブドベルトに当てることで、そのベルトの摩耗度を簡単に確認できるというもの。担当者いわく「Vリブドベルトは、クロロプレンゴム製からEPDE(エチレン・プロピレンゴム)に変更され耐熱性や耐寒性が飛躍的に伸び、耐久性が高まっています。Vリブドベルトの寿命判断は、亀裂を見るのではなく、溝の深さが深くなることを劣化が進むと思ってください」とのコト。つまり溝の擦り減り具合をチェックするゲージだったのだ。新品時との比較で即座にだれにでも判定できる。いまのところ,自動車部品商などに無償で配布しているという。
工具だけではないかもしれないが、工業製品をウォッチングしていて、ときどき面白いな、と感じるとは、“下克上”の現場を見ることだ。下克上とは、戦国時代、目下のものが目上の者を凌駕する、いわばオキテ破りの現象。
ウォーターポンプ・プライヤーは、上下のアゴ部から延長している長めのハンドルを両手で開き,掴む相手の大きさにあわせ、アゴ巾を調節する。つまり「掴む前に、目算してこのぐらい開けばいいかな・・」と考えながらの“前動作”を要した。だから、慣れないと、ときどき、開きなおし! ということもある。そのぶん二度手間にもなる!
GISUKE(扱い企業名:高儀 電話0256-70-5100)の「オートマチック・ウォーターポンプ・プライヤー250ミリ」は、はじめから目いっぱいアゴを開いて相手を掴めば、OKなのだ。自動的にアゴ巾を調整してくれるのである。相手の大きさに合わせてあらかじめ・・・という心煩わせる必要なし。下部のグリップにスプリングを内蔵したストッパーが付いていて、上のグリップ部がずるずると動き、アゴ幅を相手にフィットさせる・・というものだ。
「必要は発明の母」あるいは「誰にでも思いつきそうだが、いざとなると・・・なかなか」、「だれがどんな流れで思いつき商品化したのだろうか?」。このウォータープライヤーをいろいろいじっていると、そうしたコトバが頭のなかに渦巻く。しかも、ジョイント部が3枚合わせ構造なのだ。これは2枚合わせにくらべ、コストアップになる傾向なのだが、力強く握ったときどちらかに振れないし、相手にたいし体勢が崩れずにピタリと掴むことができる。形状も、どこかドイツの老舗クニペックス風で、飽きがこない。価格はホームセンター調べで1810円と、実にリーズナブル。中国製の工具というとこれまで評価以前のものばかりだったが、初めて評価していい製品に出会えた!?