ここ数ヶ月筆者は、15年ぶりに自動車整備士についての本を書くため整備士にインタビューしたり、その周辺を取材している。
さほど変わらないものと大きく変わったものがある。
変わらないものは整備士そのものの数はあまり変化がないようだが、若者のクルマ離れが深刻で、自動車専門学校に入学する生徒が少なくなり、現場の整備工場(カーディーラーも含め)募集をかけても新人が集まらない。そこで、地域を越えて広く人材募集したり、工業高校だけでなく、普通高校出身者への働きかけをおこなうなど、予定定員を確保するのに苦心しているようだ。しかも、もともとクルマ好きでない人材が、新しいことを学び一人前の整備士になる確率はあたり高くない。
イマドキのクルマはハイブリッドカーに限らず、各部に電子制御が組み込まれ、いわば“走るパソコン”のようなもの。基本的な電気の知識はもとより、配線図を読み込み、現実のクルマの電気トラブルを解決する能力がより求められる。これを満足におこなえる人材は、私の見るところ10%ほど。これを高めるため自動車メーカーは大改革をおこなう必要に迫られている。
一方、電動化で、パワステやウォーターポンプ、エアコンのコンプレッサーを駆動するベルト類が消え、回生ブレーキの導入でブレーキパッドの減りが激減。電子製品の信頼耐久性が高まり故障率が減る傾向にあるため、このままでは自動車整備士の仕事がなくなる、と指摘する向きもあるほど。車検や点検がある限り整備士がなくなることは考えにくいが、つらつら考えると、これから四半世紀後の2040年には半分以下になると考えても少しもおかしくない。最近のクルマは「白物家電」といわれるが、家電の世界には専従の修理する人はいない。クルマの近い将来そうなる!?
終戦直後、恒次は、商工省(現在の通商産業省)からの呼び出しを受け、上京した。銀座の光景を見て腰を抜かした。
広島では当時進駐してくるオーストラリア軍に備え、婦女子はみな山へ避難させる、という時節だったのだが、銀座では日本女性が進駐軍のGI(アメリカ兵士の俗称で、当時はこう呼ばれていた)の腕にぶら下がり媚(こび)を売っている光景に出くわしたからだ。「これはちと様子が違うぞ」とすぐに広島にとって返し、今後の方針を立てることになる。平和な時代の到来で、工業製品はすぐにでも売れる時代だ、と直感したのだ。こうして終戦からわずか2ヵ月後には、いち早くオート三輪車の生産にとりかかったのである。
だが、数多くの部品で構成される3輪トラックづくりは簡単ではなかった。
占領軍の方針で鉄板の割り当てがなかったため、ボディ作りに苦慮した。そこで旧日本軍の廃棄したタンクの鉄板を払い下げてもらい、それを素材にした時期もあった(写真)。タイヤの供給が間に合わず、やむなく社員5名ほどが汽車で九州のタイヤ工場に出向き、ひとり4本のタイヤを抱え徒歩で広島に持ち帰るという、今では考えられない挿話もある。
恒次はこうした物不足の時代、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を見せた。
「エンジンオイルの交換は、自然吸気(NA:ナチュラル・アスピレーション)エンジンの場合で走行1万キロごと、ターボなど過給器付きのエンジンではその半分の5000キロごと。エンジンオイル・フィルターはオイル交換2回に1回の割り」と長く考えていた。80年代だったと思うが、「シビア・コンディション」で使われるクルマはその半分で、メンテナンスをおこなう、という情報が日本にも導入された(北米では一足先にシビア・コンディションの考えが登場している)
シビア・コンディションというのは、「ホコリの多い悪路を走るクルマ」とか、「宅配便のようなゴーストップの繰り返しの多いクルマ」「山坂をもっぱら走るクルマ」という具合に、遠い世界の走行で、自分には関係ないと考えていた。
ところが、自分のファンカーゴ(平成13年式)が、走行13万キロあたり(現在17万3000キロ)から目に見えてオイル消費が大きくなり、現在1万キロ走って1リッターのオイル消費! この現実を知人の1級整備士にぶつけたところ「もっと早くオイル交換すべきでしたね。本来トヨタディーラーの推奨は走行7500キロごとで、7500キロだと半端な数字で忘れやすいので、5000キロごとをトヨタディーラーでは勧めているのですよ」とのこたえ。つまり、渋滞の多い都市部を走ったり、近所への買い物が多いクルマは立派な「シビア・コンディション」状態の使い方だというのだ。いわれてみればその通り。もともとアメリカなど一度エンジンをかけたら、2時間3時間止めずそのまま走り続けることが多い使い方を基準にシビア・コンディションというのがあるということらしい。となると日本で使われる大半はそれにあたるのである。
エンジンルーム内、あるいはインパネの下部など手が入りづらい狭いスペースでのねじ回しに苦労するケースがある。むろん、この場合はスタビドライバーの登場なのだが、このスタビドライバーが意外と曲者。小ぶりのサイズだとアクセス性には優れるが、どうしても指先だけの作業となるので、回すときトルクをかけづらく、最後までしっかり締めこみづらい。だからといってグリップが太めだとチカラの伝達こそ上手くいくが、アクセス性に課題が残る。まさにジレンマの世界。
ANEX(兼古製作所http://www.anextool.co.jp/)の「ラチェット式ミニ・スタビードライバー」は、このあたりのユーザーのじれったさを解消すべく考えられている。本体を軽量なアルミベースの丸みを帯びた(直径33ミリ)とし、外周に滑り止めのローレット加工を施し、内部にラチェット機構(ギア数40なので送り角9度)を組み込んでいる。握りなおすことなく、実に軽やかに動かせる。
付属ビットは使用頻度の高いプラス2番と、マイナスの6だ。ビット装着時の高さは31ミリ。樹脂製のスピンディスクを付ければ早回しができるし、付属のハンドルを本体に取り付ければ、トルクアップが図れる。ビットに溝を施すことで、この溝にツメを立てれば比較的楽に脱着できる実に細やかで、心にくい工夫がある。価格はホームセンター調べで1214円。この手のひらにのる小さなドライバーを眺めると、なんだかメイド・イン・ジャパンの素晴らしさが味わえる。
羽田空港・第2旅客ターミナルの屋上にある展望デッキは、真夏を思わせる日の光が降り注いでいた。異様な熱気は、晴天のせいばかりではなかった。いまや遅し! とカメラを構える数百名の報道陣の熱気があったからだ。4月22日午後2時半、仙台空港発の小さなジェット機は羽田空港に降り立ち、歓声が上がった。赤と白で塗装されたジェット機は、回りの大型ジェット旅客機に比べ圧倒的な小ささではあるが、本田宗一郎の小学生時代の飛行機への憧れで誕生したことを知るひとには、込み上げるものがある。
ホンダは、物語をつくるのが飛びぬけて上手な自動車メーカーだ。
ジェットエンジンばかりか、機体までホンダ独自にデザインして作り上げたもの。通常アルミベースでつくるのが常識だが、カーボンファイバー・プラスチック(炭素繊維樹脂)で胴体を作り上げ、強度と軽量化を両立。胴体部にエンジンを取り付けるのが常識のところ、主翼の上部にジェットエンジンを付けることで、居住空間を拡大し、振動・騒音を低減。どこか新幹線の7000系と共通したフロンノーズには、藤野道格(ふじの・みちまさ)社長のインスピレーションが埋まっているという。旅の途中の免税店で見かけたサルバトーレ・フェラガモのハイヒールの形状が大きなヒントになったというのだ。
展望デッキでたまたま出会った中年の航空マニアから小さなエピソードを得た。IHIの田無工場でジェットファンを作っていたエンジニア時代、よく宗一郎が工場見学に訪れたというのだ。「うちも、そのうち飛行機を作るんだよ・・」そんな宗一郎のコトバがいまも耳に残っているという。調べると田無工場というのは、戦前中島飛行機の下請けの豊和産業があったところ。戦闘機などのキャブレターや高圧ポンプを作り、戦後の昭和32年から平成19年までIHIのジェットエンジン部品工場だった。
ホンダによると、ホンダジェット機はアメリカ・ノースカロライナ州の工場で年間100機程度つくられ、価格は1機5億円以上するという。
昭和12年、東洋工業は、実用車として当時もっとも普及していたイギリスのオースチン・セブン(排気量750cc)を一台手に入れ、これを研究する一方エンジニアの竹林清三をアメリカに派遣。その後モデル車はオペル37年式(排気量1100cc)、英国のMG37年式などを購入している。さらに当時のお金で約55万円(いまの金額で約40億円)を投資してプラット&ホイットニー社のケラーマシン(KELLER MACHINE:金型切削機:写真)、グリーソンの傘歯歯車歯切り盤、フェロースの小型歯車歯切り盤、レーべ社製のカム研磨機などを購入。4輪生産の準備を少しずつ構築。ところが、こうした4輪生産への計画は、戦争の色が徐々に濃くなる中で、第2次世界大戦後に持ち越されることになる。
1945年8月6日の朝、広島の上空で一発の新型爆弾が炸裂した。一瞬にして広島市内は、瓦礫の山となり、10万人以上ものひとが犠牲となった。この爆撃で、恒次の弟の宗彌も亡くなり、従業員の中にも家族を失った者が少なくなかった。ところが東洋工業の工場は、山の向こうに位置していたため、さほどの被害を受けずに済み、原爆で廃墟と化した広島市の中心部にあった県庁、裁判所、警察本部、NHK,中国新聞などが東洋工業を仮事務所として入居してきたため、広島いちの大世帯となった。
5代目となるステップワゴンは発売された。「家族のためのミニバン」という新ジャンヌのパイオニアだったステップワゴンも、トヨタのノア&ヴォクシー、日産のセレナの猛追で、営業的には不振をかこってきただけに、大いに“ホンダ流飛び道具”に期待がもたれた。
ところが蓋を開けてみれば、「たいしたことないな」というのと「いやいや見るべきものあり」の二つの見方ができる。新開発の直噴1.5リッター・ダウンサイジングターボの採用で、常用域2.4リッター並のトルクを発生、という謳い文句だ。燃費がJC08モードで、15.0~17.0km/lというのは、やはり競合車がハイブリッドで20km/l以上を叩き出していることを思えば物足りない。ただ、自動ブレーキをオプションとはいえ(約10万円プラス)全車に取り付け可能というのは、アドバンテージ。
新型ステップワゴンの使い勝手上のウリは「わくわくリアゲート」と呼ばれるもの。リアゲートは従来どおり上ヒンジで上方に持ち上げられるだけでなく、乗用車のドアのように真ん中で縦に開閉できるのだ。サードシートの乗り降りがだんぜん楽だ。ところが、これを成立させるうえでかなりの工夫、という過剰装備を課している。縦折れ機構を組み込んだため、ドア自体が約9kgも重くなったのだ。リアバンパー一体型でしかも、リアゲートには重いゲートを持ち上げるダンパーも通常の5倍ほどの太いものを付けている。ゆえに車両重量が1700kg前後で、これはたとえばノアハイブリッドより90kgほど重い。
ステップワゴンの価格は288万8000円から。販売目標は月間5000台と控えめなのはホンダの自信のなさの現れ!? 走行キロ数が年間1万キロ以内のユーザーならこちら、2万キロ以上ならハイブリッド、といえなくはないが・・・。
モンキーレンチほど、ふだんは当てにされないが、いざとなると当てにされる工具はない。
ボルトをつかむ開口部の幅をウォームギアと呼ばれるギアで自由に変えられ、複数のサイズのボルトに対応できるのが一番のウリ。でも、アゴ部の調整自由ということは、微妙に相手の6角部とのあいだに遊びがうまれ、“カドが舐める”というトラブルを引き起こす要素をはらんでいる。モンキーがアバウトなツールの代名詞でもある所以(ゆえん)だ。英語ではアジャスタブル・レンチとも呼ばれるだけに、便利の裏には不都合な事実が隠れている!?
そこで、モンキーレンチの各メーカーは、ここ20年「遊びの追及」に尽力してきた。遊びはガタともいい、ガタが少なければ、相手の6角部を舐めづらいからだ。とくに新潟のTOP工業はひたすらそれに邁進したのはよく知られている。
ペンチやニッパーの老舗で東大阪の「フジ矢ペンチ」(電話0120-248-440)が、モンキーレンチの世界に進出している。この製品もそのひとつで、ためしに近くのホームセンターで「ライトモンキーFLA-28-F」を購入してみた。全長155ミリ、厚み10ミリ、幅58ミリの手のひらサイズ。0ミリから28ミリも開くので、小柄なわりには、幅広いボルトに対応できるというのが最大のウリ。使ってみると、あごの遊びが極端に少ない。遊びが少ない背景は工作精度の向上だと見た。しかも、モンキーは通常上下のアゴがすこしハの字に開き気味なのだが、これはパラレル。しかも下あごに滑り止めにギザギザが施してある。薄く、しかもグリップ部に肉抜き穴があり、114グラムと軽くできている。ふだん使いというよりも林道ツーリングのツール袋のなかに忍ばせておきたくなる一品だ。購入価格は1419円。台湾製だ(人件費の高い日本ではとてもこの値段ではつくれない)。ネットで調べると、これ以外にも、いろいろなサイズがラインアップしているのに驚く。