VWはこのところ、話題を振りまいている。
ひとつはスズキとの提携破談にまつわる長引いた揉め事、もうひとつは伊藤忠商事からヘッドハンティングされた日本人社長が、このほど突然辞任した点だ。後者は販売面でベンツに抜かれてしまったことからの社長解任劇だったようだ。自動車ビジネスがあいかわらず一寸先は闇だということがいまさらながら身につまされる!?
そんななか、プラグイン・ハイブリッド(PHV)の「ゴルフGTE」が日本で発売された。
PHVというのはガソリンエンジンと充電池、電気モーターの3つで構成される。いうまでもなく、家庭のコンセントから充電してEVとして近場を走れ、充電池の電気がなくなったら、通常のハイブリッド車として使えるため、燃費がHVにくらべだんぜん高い。EVなら最長53.1キロ、JC08モード燃費で23.8km/l。通常の電気自動車の航続距離が現在100キロほどしかないことを思えば、次世代型エコカーの本命のひとつといえなくはない。
ゴルフGTEの魅力は、≪燃費がいい≫だけではない。≪走りを楽しめるエコカー≫ということが大きいらしい。電子制御の活躍で、燃費重視の走りで、東名の東京インターから大井松田インターまでの距離をEVとして、最高速度時速130キロで走れるだけでなく、ハイブリッドモードでお財布にやさしくも走行でき、さらにはエンジンとモーターの2つのパワーソースをフルに活かし、スタートから100km/hまでを7.6秒で駆け抜けられる。スポーツカーもどきの走りもできちゃう。3つの顔を持つクルマなのである。エコカー減税の恩恵で最大38万円まで車両価格への補助が出るとはいえ、プライスの499万円なりの数字の前には、萎えるユーザーが多い。
子供のころまったく勉学に励むことのなかった筆者には、図書館は無用の長物だった。いまでは来館者が直接本に触れて、本選びができる開架式が主流だが、当時は、金網の向こうにずっしりと蔵書が並ぶ閉架式。いくら魅力的な本であろうと、その魅力は金網越しでは子供の心に伝わらなかった。子供と本の距離は遠のくばかり。
そんな昔の恨みを晴らそうと、先日、近くの子供図書館に足を踏み入れたら、偶然一冊の絵本に遭遇した。『じどうしゃ』というタイトルの絵だけの絵本(10ヶ月~2歳向け)。1966年に福音館書店から出て1986年時点で45刷りというロングセラー。筆者の寺島龍一さん(1918~2001年)はエキゾチックな女性像で知られた著名な洋画家。調べると、トールキンの「指輪物語」や「ホビットの冒険」、スティーブンソンの「宝島」などの挿絵だけでなく、船や鉄道、航空機など機械モノへの関心も高かった画家だ。
この16ページの文字なし絵本の主人公は、“スバル360”。この小さなクルマが最初は赤いコロナの後ろを走っているが、ページをめくるたびにタンクローリーやトラックなど前のクルマをグングン追い越し、やがて信号待ちで停まる。でも赤信号では、後からきた緊急車両の消防車とパトカーが、交差点を越え去っていく。停止線で2台の緊急車両のテールランプを眺めるスバル360。それだけの物語。でもそれ以上の想像の翼が広がる絵本でもある。高度経済成長がはじまりかけた日本。その中心にいたスバル360が身長180センチという当時としては異例のノッポの男が開発に携わっていた事はあまり知られていない。そのナゾを追いかけてみたい。
このほど渋谷駅から徒歩で5分のところにボッシュのカフェがお披露目した。
ボッシュといえば、ディーゼルエンジンの噴射ポンプや点火装置、はたまたABS(アンチロック・ブレーキシステム)など自動車の歴史のマイルストーンを構成する部品を生み出したメガサプライヤー(巨大自動車部品メーカー!)。実は、自動車部品だけでなく家電や産業機器テクノロジー部門での活躍もあり、世界での従業員数は36万人を数える巨大企業。
簡単に言えば日立製作所やデンソーが喫茶店を始めたようなもの!?
なぜモノづくりメーカーがカフェをはじめたのか?
ボッシュの日本進出は、すでに1世紀近いのだが、日本で家電を展開していないということもあり、いまひとつ知名度が高くない。「実はドイツ生まれのボッシュは、自動車の性能や安全性だけでなく、人々の暮らしをより豊かにするうえで頑張ってきている企業」ということを遅まきながらアピールしたい! ということらしい。
お店の名前は「カフェ1886 at Bosch」。1886というのは、創業者のロバートボッシュさん(1861年~1942年)が、25歳のときにシュトゥットガルトに創業したことを示している。木を多用したなごみのインテリア、銀座のトリバコーヒーがブレンドした独自のコーヒー、こだわりのサンドイッチなど、ここでしか味わえないメニューが並ぶ。初期型のディーゼルエンジン用列型噴射ポンプ、点火装置のマグネトーなどを愛でながら上級のファーストフードを味わうのも悪くないと思った。
星の数ほど市場にあふれるドライバー。
ハンドツールのなかでは一番身近なわりには、なかなかベストなものが見つからないともいえる。
今回取り上げるのは『パーフェクトドライバー』。世のドライバーに満足できなかったユーザーの心を見透かしたような、あるいは挑戦的な製品名である。発売元は三木市にある藤原産業(電話0794-86-8200)。MADE IN TAIWAN と台紙にあるように、製造は台湾である。手にしたのは、ホームセンターにて598円で手に入れたプラスの2番。
軸が4角断面(幅6ミリ)で、先端はタガネのように両側面が薄くできている。頭がグチャグチャになったネジ部をハンマーで叩き、溝をつくりまわそうというデザインだ。この発想は、ANEXのビスブレーカー(3960)と同じだ。もちろん、通常のドライバーのように使えるところがうれしい。つまり「頭がこわれかけたビスでも回せる」という付加価値を追加したドライバーなのである。
手に持つと、貫通タイプなので、やや重いが、測定してみると131グラムで、ライバルたちに比べ、重くもなく軽くもなし。全長215ミリもごく標準的だ。気に入ったのは、グリップである。軸の近くは硬めの樹脂であるが、手の平にあたる部分は密着性の高いやや柔らかめの樹脂の2重構造タイプ。しかも6角断面なので作業台で転がる心配はない。イジワルして、台所洗剤を手につけ実際ビスを回してみたが、グリップ力はほとんど落ちず、すんなり使えた。これまでのドライバーは、みなヌルヌルとして使えなかったという経緯があるが、このドライバーは安いわりにはなかなか完成度が高いと見た。
自動車をはじめとする機械を細かく切り刻んでいくと、最後に残るのは何か? ネジ、ボルトである。となると、機械文明の象徴であるボルトを日本人が始めて目にしたのは、いつのことか?
ズバリ、16世紀の中ごろ。あの火縄銃の伝来とされている。天文12年、西暦でいえば1543年、種子島に一艘の中国船が漂着。種子島を支配していた種子島時尭(たねがしま・ときたか)がその船に乗っていたポルトガル人から2丁の火縄銃を購入したことからはじまる。さっそく、地元の刀鍛治の矢板金兵衛清定(やいた・きんべい・きよさだ)に命じ、その製造を始めさせた。瞬く間に火縄銃が広がり、この武器を積極的に活用した信長の天下統一に大きく貢献したことはよく知られているところ。
鉄砲鍛治集団は、堺や国友が有名だが、博物館があるのは滋賀県の長浜にある国友である。長浜市内からママチャリで約20分の田畑が広がるのどかな場所に佇んでいた。30分もあれば見飽きるほどミニ博物館。ここを管理するオジサンに無理を言って、“尾栓(びせん)”を見せてもらうことにした。火縄銃は銃身の後に火薬を詰め爆発させるので、メンテナンスのうえから銃身のうしろをネジ式で取り外す仕組みが必要。ときどき掃除をしないと残りカスが悪さをして、銃身が詰まったり、爆発するおそれがあるからだ。この尾栓の作り方が長年マル秘だった。雄ネジ自体は、丸棒に糸を巻き(あるいは三角の紙を巻くとか)ヤスリでネジ部をつくれる。ところが雌ネジは銃身の内側にネジを切るわけなので、現在のように旋盤があるわけではないので難事業!
この博物館に来て判明した。銃身を火で暖め、雄ネジをねじ込み、叩いたうえ、タップでネジを切り開いたようだ。ちなみに、火縄銃の職人は、鉄砲鍛治のほかに、銃床を作る台師、それに象嵌を施すなどの飾り職人の金具師の3つの職人で構成されていたという。17世紀のはじめの大坂夏の陣前後には、国友村には73の鍛冶屋と500名にもおよぶ職人がいたというからオドロキだ。
昭和38年の第10回全日本自動車ショー(現在の東京モーターショー)に初めて400cc1ローターのロータリーエンジンを出品。このとき恒次はロータリーエンジンが載る未発表のコスモスポーツで、会場に駆けつけ大きな反響を呼んだ。恒次一行は、帰路2台のコスモスポーツ(写真)で、協力会社やマツダ特約販売店を訪問している。このコスモスポーツは翌39年の第11回東京モーターショーで正式に発表され、会場の人気をさらった。だが、発売までにはまだ2年以上の歳月を要した。昭和40年はじめには10万キロを走破し、6月に完成した三次テストコースで、連続高速耐久テストをおこなわれるなど、のべ走行キロ数70万キロ走らせた。数々の改良を加えられたコスモスポーツは、昭和42年5月、デビューした。総排気量491cc×2、最高出力110PS、最高速度185km/h、0→400メートル16.3秒という驚異的パフォーマンスだった。
自動車の歴史のなかで、これほど大きな課題を克服し量産化した製品はなかったと断言できる。流麗なスタイルのコスモスポーツを前にして、恒次の感慨が言葉では尽くせないほど深いものがあった。その後、ファミリア、カペラ、ルーチェなどにもロータリーエンジン車を揃え、マツダにロータリーエンジンありきの印象を強めた。コスモスポーツのデビューから3年後の1970年11月15日、マツダを世界の自動車メーカーにまでのし上げた立役者・松田恒次は静かに息を引き取った。●参考文献/「私の履歴書」(日本経済新聞社)、「日本車を造った人々」(トヨタ博物館)、「東洋工業社史」(東洋工業)、「東洋工業と松田重次郎」(東洋工業)、「日本自動車史年表」(グランプリ出版)
★次回からは、スバル360はじめ富士重工業の伝説のエンジニア百瀬晋六さんのあゆみをお届けします。
スズキの小型自動車ソリオが5年ぶりにフルモデルチェンジされた。
1242ccのエンジンがほぼ全面的に見直しをされ、ハイテンションスチールをボディの51%に使うなど車両重量も見直し、全体で100kgの軽量化。リチウムイオン電池とモーター機能付きの発電機ISGを採用した「マイルドハイブリッド」を取り込み、燃費がクラストップの27.8km/l(JC08モード)を叩き出している。新開発のプラットフォーム(車体の土台)でボディ剛性、衝突安全性、静粛性も高まったという触れ込み。ドリンクホルダー、ティッシュボックスが納まるなど使い勝手もよくしたという。
ところが、外観デザインがあまりにフツーしていて、お金を出して購入しようという気にならないのはどうしたことか? ベストセラーカーのハスラーのようなチャレンジングなところがエクステリアにでていない。なんとなく“昭和の外観”をしていては、いくら2トーンカラー仕様を用意してもユーザーは財布のひもを緩めない。それに室内を見ると、クラストップの広さというわりには、リアゲートの開口部高さが960ミリと全高1745ミリのわりには低い。室内高は、1360ミリとずいぶん高い印象だが、リアシートが下にダイブしないので、後方部はかなり割り引いた高さとなる。荷室高は1055ミリ。つまり、荷室面積は意外と見掛け倒しで、全高で70ミリも低いトヨタのシエンタに負けている感じだ。ただし、価格は、スズキ車らしく145万円台からと、ユーザー目線の戦略的なプライスだ。
ここ数年「使いやすいフロアジャッキ」を探し求めていた。
何よりも軽くて、使いやすいフロアジャッキは、サンデーメカニックの場合、やはりアルミ製に限る。スチールだと重すぎて、腰を痛めたりケガをしそうだ。この点は、何度も危うい目にあったので、断言できる。
巨大倉庫型ショッピングセンターCOSTCOで見つけてきたのが、小型のアルミ製フロアジャッキだ。「NOS NSJ0101JPB」という品番。全長56.5センチ、最低高さ8.6センチ、最高高さ37.4センチ。デュアルピストンなので、6回のストロークで最高位置に達する。本体重量11.3kg。ロードバイク(スポーツ自転車)ほどの重さと考えていい。定格荷重1360kgなので、クラウンあたりまでなら車両片側を持ち上げる分には充分の能力。黒いナイロンの袋に入れて、持ち運びできる点も好感度。
さっそく、愛車の17万キロをあとにしたファンカーゴのフロント部を持ち上げるべく、フロアジャッキを下にもぐらせた。車体下部のジャッキポイントまで突っ込むと、ハンドルの上下のストロークがつらくなる。ジャッキの全長が60センチを切っているため、バンパーにハンドルバーの手前近くが干渉して、上下にストロークができない。しかも、ハンドルバーを上下すると、ジャッキ本体の前部が持ち上がるウイリー状態になり、空振りとなる! そこで、あらかじめジャッキポイントの間隙ほどにジャッキをリフトアップしておき、ずるずるとジャッキを押し込み、わずかなストロークでも作動できるコツを飲み込んだ。イージーには使えないところが50点だが、なんとか工夫と馴れで使いこなせて合格点の70点に届きそう。このフロアジャッキのファイナルアンサーは、宿題だ。ちなみに価格は、円安基調のおかげで1万7980円とけっして安くはない!