ところが、入社して3年と立たぬうちに戦況が悪化。1945年8月15日、敗戦の日を迎える。晋六、26歳のときだ。戦後連合軍によって占領下に置かれた日本での航空機製造が禁じられた。研究はおろか製造も何もかも禁じられた。中島飛行機は、二度と軍需産業に進出できないように12もの企業に分割された。このとき、多くの技術者は、自動車産業に転進し、のちの日本のモータリゼーションの発展に尽力する。
晋六は分割されたひとつ富士産業のエンジニアとして戦後の第一歩を歩むことになる。群馬の太田市にある呑竜工場と東京の三鷹工場では、1946年からスクーターのラビットを生産し、実績を上げた。晋六が所属した群馬の伊勢崎工場では、バスのボディを生産。晋六は、そのバスボディの設計をにない、航空機時代で培った技術を投入して、シャシーフレームを使わないバスのモノコックボディ化に成功。RR駆動方式で、日本初のモノコックボディの「ふじ号」の誕生である。広々とした車内に、座席をこれまで以上にセットできたことで好評だった。ちなみに、昭和25年8月になると旧中島飛行機=富士産業グループは、新しい法律・企業再建整備法により、伊勢崎工場は富士自動車工業、三鷹と太田の工場は富士産業。荻窪製作所は富士精密工業、大宮製作所は大宮富士工業、宇都宮製作所は宇都宮車両とはなったが、社員たちは相変わらず伊勢崎、三鷹、太田という具合に場所名で呼んでいた。
昭和26年一月、大きな転機が晋六に訪れた。上司である専務の松林敏夫から、「自動車をやりたいので、研究を始めてくれ」というものだった。他社に先駆け本格的な乗用車製造を視野に入れた研究をまかされた晋六は、突然の提案に驚いたが、自動車づくりへの挑戦する気持ちに火が点いた。
ここから“飛行機やから自動車屋へ”と晋六は、新しい一歩を踏み出した。