2週間ほど前から、愛車ファンカーゴのインパネ付近から突如としてビビリ音が発生した。
当初は、よくあるグローブボックスの内容物が踊っているのかと思いきや、どうもそうではない。インパネからのビビリ音と疑い、走行中左手で疑わしいところに手を当て、音が消えるかどうかを見るも、音源がつかめない。ならば、インパネ内のワイヤーハーネスが路面の突き上げで上下動しそれが音として、伝わっていると推理し、グローブボックスを取り外し、覗いてみたり、浸透潤滑剤をメクラめっぽう塗布。それでもいっこうに音が消えない日々が続き、「18万キロも走ってきたから、いよいよ駄目なのか」とまるで片腕をなくした気になった。大げさに聞こえるかもしれないが、このままでは発狂するかもしれない!
こんなときは知恵袋に頼むしかない。トヨタ系ディーラーに勤める友人の1級整備士Kさんに連絡。仕事帰りのKさんを助手席に乗せ、いざ試験走行。ところが、医者の前では骨折した足も急に痛くなくなるのと同じで、ビビリ音が出ない。「ビビリ音を出してくださいよ」とKさん。ココロのなかで「出せと言われてもこれだけは・・・」と思ったとき、下り坂のトンネル内で、待望のビビリ音が出てくれたのだ。このときほどホッとしたことはなかった!? 自分が狼少年になりかけたからだ。音が出てからのKさんはすごかった。あちこちを触り始め、耳を近づけ、5分も走るかは知らないうちに音源を特定したのだ。意外や意外! 後付のワイドミラーが犯人だった。ルームミラーにワンタッチでくわえ込みとめるタイプの室内後方鏡が音源だった。
10年以上も使っていてこれまで何のトラブルもなかっただけに、まさかワイドミラーからとは予想だにしなかった。左の耳から40センチほどしか離れていないワイドミラーから出ているとは? てっきりインパネからの音だと信じ込んでいたのだ。人間の聴力のいい加減さを痛いほど教えられた。Kさんがいうのは、大部分こうしたトラブルは後付のカーナビ、ETCホルダーなどが原因だという。ワイドミラーの4つの爪のゴムが劣化して硬くなっていたのと、冬場でより硬くなっていたのが原因のようだ。純正ミラーと少し離して取り付けることもビビリ音発生の予防になる、とKさんは教えてくれた。まさに“泰山鳴動してねずみ一匹”とはこのことである。
基本セッティングがようやく終えたのち、耐久走行試験で赤城山や伊香保まで足を伸ばし、毎日20時間ほどの悪路中心の試験をおこなった。耐久走行試験は、机の上であれこれ考えただけでは出てこない“気付き”を開発者に提示した。駆動系の共振で騒音が出る。埃でエアクリーナーつまり出力ダウンする。ブレーキパッドの偏摩耗が起きる。バスやトラックと同じ形式のウォームナット方式のステアリング・ギアボックスはガタが出てハンドルの遊びが大きくなる。ステアリングのバックラッシュを調整することで改善するも、トランスミッションのギアが抜ける、サスのボディ付け根部に亀裂がはいる、ダンパーは走行2000キロで抜けるなどモグラ叩き状態のトラブル。路面からの外乱でフロントサスとステアリングまわりに自励振動が発生もした。これはとくに厄介な課題だったが、最終的にはシミーダンパーを装着することで解決している。
そもそも基準というものがないので、地道な走行テストを繰り返すことで、基準を作り上げていった。いわば闇の中で手探りをしながらの作業だ。その走行実験担当者の一人に32歳の新入社員・家弓正矢(かゆみ・まさや)がいた。家弓は陸軍幼年学校、同航空士官学校を卒業した生え抜きの職業軍人だった。太平洋戦争では飛行第98戦隊の整備部隊に配属され、マレー半島を転戦し死線をくぐりぬけ、海軍指揮下の本庄・児玉飛行場で8月15日を迎えている。敗戦後本庄の農業開拓団に入ったが、農業は性に合わず、心機一転して大学受験を志し、みごと東大工学部機械科(旧航空学科原動機科)に入学。すでに結婚して3人の子供がいたが、本庄で農業をやりながら東京まで通学する生活をやりぬき(本郷3丁目まで距離にして90キロ現在でも電車で片道2時間ほどだから当時はゆうに3時間はかかっている)、卒業と同時に富士自動車に入社したのである。このように、当時スバルの開発陣はいまから見ると、個性豊かで飛びぬけた努力家の人材が揃っていた。
現場に行き、耳で聞いたり、目で見たりするのが取材の基本ではあるが、ときには、趣味の読書で思わぬ宝物に行き当ることがある。
名うてのエッセイスト(随筆家)にして翻訳&書評家として知られる須賀敦子(すがあつこ:1929~1998年)さん。彼女の文章にはまり、8冊ほど買い込み仕事や移動の合間に読みふけっていたところ、そのなかの一冊にイタリアのピレリの創業者の“娘”がエッセイの中に登場してきた。娘といっても当時(1960年代ごろ)、上品とはいえ、すでに80歳代のお婆さん。
実は須賀敦子さんも相当のお嬢さんとしてこの世に誕生している。明治期から帝国ホテルや赤坂離宮の水道工事を手がけた私設水道工事会社「須賀商会」の創業者の孫娘として生をうけるが、ある意味数奇な軌跡を描いた人物。戦後まだ日本が貧乏で海外に出ることが少なかったころ、大学を卒業後フランスとイタリアに留学。イタリアの男性と結婚。夫とはわずか7年ほどの結婚生活だったのだが、その後も夫の家族との交流があり、やがて東京に戻り上智大学で比較文化の教鞭をとりながら、エッセイストとして頭角をあらわすも、世に出たのが61歳。そののち10年に満たない執筆活動ののち病死。もともと何不自由なく育った日本女性が、イタリアでどちらかというと無産階級の男と貧乏暮らしの只中に覚悟を秘めて傾斜していくことで、金銭では手に入らない宝を手に入れた。そうとしか思えない。非可逆的な化学反応で奇跡的な世界を生み出し、このことが、多くの読者を引きつけている。でも、その存在が大きくフレームアップしたのは、その死からかなり月日がたってのこと・・・。
『コルシア書店の仲間たち』(文春文庫)というタイトルのエッセイのなかで、ピレリの創業者の娘ツィア・テレーサは、須賀さんの夫たちが経営するミラノにある豆粒ほどの本屋「コルシア書店」のパトロンという不思議な存在。この本屋はただの本屋ではなく、政治的というか思想性の色濃い書店という存在なのである。ピレリ社は、1872年(明治5年)に創業。1890年に自転車用タイヤを製造し、ドイツのタイヤメーカー・メッツェラーを買収し、F1やWRC(世界ラリー選手権)などで活躍。P6,P7,P ZEROなどのタイヤは、70年代から90年代にかけてスポーツカーに装着していた憧れのタイヤだった。日本人から観ると、イタリア人はどこか気まぐれ的要素を感じるが、この生涯独身だったお婆さんにもその臭いがただよい、不思議さと可笑しさが醸しだされる。そのピレリが、昨年中国の国有化学企業に買収されているのを知ると、時代が駆け足で変化していることを感じる。
工具をウォッチィングしていて最大限にエキサイティングな気分に満たされるのは、当初はきわめてシンプルで改良の余地なしと思われたカテゴリーの工具のなかに、いつの間にか大きな存在感を備えた製品を目の当たりにするときだ。
最近のL型ヘキサゴンレンチの世界がまさにこれ。ヘキサゴンレンチの分類としてはナイフ型、ドライバー型、ソケット型、それにフレックス型といわれる両端が自在に動くタイプなどがあるが、やはり主流はL型。サイズごとにコンパクトにひとまとまりになるし、短軸と長軸があり、使い勝手がいいからだ。
このL型は「6角棒という素材を鋼材メーカーから購入し、曲げて、先端部をボールポイントタイプにしたり角を取ったりするだけ」と言えばそれまでの単純きわまりない工具。数年前までは、ショートタイプ、ロングタイプなどごく寂しいバリエーションしかなかったが、ここ数年で様相は一変。短軸を極端に短くしてタイトなところにアプローチしやすくするとか(写真一番上)、長軸部にカラーを付けて早回すができるという付加価値をプラスする(上から2番目)、あるいはボールポイントのアプローチ角度を38度の極限まで詰めたタイプ(上から3番目)、はたまたカド部でL字に曲げることで振り角度を小さくできこれまた狭いところでも使いやすくする(一番下)トリッキーな手法(モノづくりのオキテ破り!)、ボールポイントで相手のボルトをキャッチする機構を組み込んだタイプなどいわばL型ヘキサゴンレンチの爛熟期を迎えている。
年に一度東京ビッグサイトでおこなわれる「エコプロダクツ」は、今年で17回目。主催者に聞くと、入場者数が減り気味で,わずか17万人ほど。ひとつには、エコという言葉が当たり前になり,人々の頭の中でスルーしているからだという分析もできる。
ということはわれわれ庶民、一人一人がもっとエコ意識を持つことが大切。
エコの製品を追い求めるのもひとつなのだ。というわけで、今回はフォークリフトに注目した。
フォークリフトの動力は、ガソリンエンジン、ディーゼルエンジン、液化天然ガス・エンジン、それにバッテリーなど多岐にわたる。でも環境問題で、いまやバッテリー・フォークリフトが主流派になりつつあるという。ところが、バッテリーは充電時間が8時間も必要だ。ちなみに、その世界市場は年間約100万台、日本だけでも7万8000台に過ぎないという。トヨタブランドのフォークリフトはうち約2割。
そこで、理想のパワーソースはやはり燃料電池であるFCフォークリフト。
豊田自動織機では、2.5トンタイプのフォークリフトを展示。『ミライ』などFCクルマは、70MPa(メガパスカル)の高圧で水素をクルマに注入するのだが、フォークリフトはその半分の35MPaで大丈夫なので、水素ステーションも約半分(それでも2億5000億円)で済むという。発売は2016年の秋ごろだというが、当初は公共の市場などでの活躍になる。広くいきわたるには人々のエコ意識にかかっているようだ。
昭和27年、試作車にP-1(パッセンジャーカー:乗用車の意味:写真)というコードネームが付けられ、バスのボディ工場として稼動する伊勢崎工場の一角で設計・試作がスタートした。
P-1の設計陣は、百瀬を中心にわずか10名ほどの小さな所帯だった。フルモノコック・ボディの4ドアセダンのP-1は、FR方式で、フロントのエンジンルームには富士精密工業製の1500ccOHV48馬力/4000rpm、最大トルク10kg-m/2000rpmで低速トルク重視型のエンジンだった。昭和29年2月には16ヶ月を費やし、P-1の試作第1号が完成。さっそく、その試作車を登録し、中島飛行機時代からの整備主任兼実験ドライバーでもある中野修次にハンドルを握らせ、専務の松林を後席に、助手席には百瀬が乗り込み、千葉の成田山に向かった。3人はやや緊張したものの、試作車らしいメカニカルノイズを発生させながら、トラブルなしで往復200キロを走りきったP-1に自信を深めたという。
ところが、これは単に運がよかったに過ぎなかったことが分かる。というのは、試作車を工場内で走行実験するうちにさまざまなトラブルが起きたからだ。ブレーキの前後バランスのチューニング不足だけでなく、トラック用のホイールとタイヤはバネ下重量増加が目立った。ダンパーの動きも満足のゆくものではなかったし、プロペラシャフトも時速90キロあたりで振動で暴れることが分かったのだ。
取材に出歩くと面白い現場に出会うことがある。神戸から電車に揺られ約1時間のところにある兵庫県三木市の工具メーカーにうかがった折、無人駅の上に「金物博物館」を発見。足を踏み入れたところ、「たたら製鉄」の復刻現場を発見した。月に一度、街のひとにその様子を見せるというのだ。三木市はもともとハサミやノコギリなどをつくる金物の町なのである。
「たたら」とは、1000年以上の長い歴史を持つ独自の製鉄技術で、もともとは「強く熱する」という意味で、インドあるいは中央アジアを源にする言葉だという。BC15~20世紀にヒッタイト(いまのトルコあたり)生まれた製鉄技術がインド・中国を経由し朝鮮半島から日本に渡ったのが西暦6世紀(古墳時代後期)とされる。おもに砂鉄を素材として、大量の木炭を使い、やがて日本刀づくりへと発展する。大量の木炭を使うため、中国地方などは禿山に近い状態になったという。大山にその姿が見えなくもない。
粘土質の炉の中に木炭を入れ、点火後“ふいご”といわれる空気注入箱で、風を炉内に送り木炭と砂鉄を交互に上から加え続け、炉内の燃焼反応で高温にし、砂鉄から酸素を奪う(還元)で、和鉄をつくる。これを鍛錬で、脱炭(炭素分を抜く)ことで和鋼(わはがね)を作り出すのである。ちなみに、1トンの鋼をつくるのに木炭13トン、砂鉄13トンが必要だったといわれる。
ラチェットドライバーがいつの間にか、プロが使う道具の一つにのし上がっている。この背景にはスナップオンが切り開いた、質のいいラチェットドライバーの登場がある。
工具業界というのは、クルマ以上に真似をされる(あるいはする)世界であるが、単なる真似だけでは語り足りない面白みがある。「どれだけ従来品より安く、より使いやすく、さらには付加価値を付けるか?」が競われる。ごく最近登場したSEKのプロオートシリーズの「伸縮式ラチェットドライバーSED-1V」は、価格が2500円前後のわりにはよくできた製品だといえる。
さっそく、安売り家具店ニトリで購入した組み立て式BOX棚を組み付けるのに使ってみた。プラス1番を16本ほど締めこんだ。手持ちのPBにくらべても軸のガタが比較的少なく、悪くない。伸縮機能については、220ミリから300ミリに伸びて、いっけんライバルを蹴落とす勢いを感じるかもしれない。操作もハンドルのプッシュボタンを押せば手で伸縮できる。でも、これはあまり付加価値にはならない。逆に330ミリも伸ばすためグリップが150ミリもあるのは厄介。この伸縮機能のおかげで、付属のビットをハンドル内に収容できないデメリットが生じている。
ビット数は最近増加の一途であるが、プラス1,2,3番、マイナス5.5ミリ、ヘキサゴンビット4,5,6ミリの3本、それに1/4インチのソケットアダプター1個、計8本で、必要にしてほぼ充分。左右の切替えのハンドル側に印がないので、カチカチといちいち手で確かめる必要がある。いろいろと○と×をあげつらうことができるが、ギア数が30でわりと滑らかだし、コスパから見ると上出来の一本であることは疑えない。