フォードの日本進出は、大正12年(1923年)9月に起こった関東大震災がきっかけだった。当時の東京市が壊滅状態になった市街地の交通手段として、フォードのTT型(T型フォードのトラック版)のシャシーが緊急に800台輸入された。それにボディを架装して輸送機関の乗り合いバスとして創り上げたのである。写真にあるように「円太郎」という名で東京の都民に親しまれた11人乗りのバスだった。市電や鉄道に替わって“自動車”という存在が、輸送機関として市民の意識に強く根付いたきっかけになった。円太郎というのは当時の落語家・橘屋円太郎の出し物「ガタ馬車」にちなんだものだった。
こうした大震災後のセールスが動機付けになり、フォードは日本に調査団を送り込んだ。日本における自動車の需要をリサーチした。その結果相当数の需要が見込めると考え、横浜に工場を展開する決断をしたのである。
それまでの日本では、年間わずか100台に満たない輸入車と数百台足らずの国産自動車が供給される程度だった。フォードの進出で初年度の1925年は3500台弱だったのが、翌年には8600台ほどになり、GMが加わった1927年には両社で1万2000台以上、さらに1928年にはその倍の2万4000台にも達し、日本におけるフォードとGMの自動車ビジネスは軌道に乗った。