コンタクトポイントが使用過程で焼損し、ときどき取り外してサンドペーパーを使って磨かないとエンジンが不調となる。本来予備のコンタクトポイントを常に保有するべきなのだが、情けないことに予備パーツはほとんどなかったという。
ラジエーターだって、今のように防錆効果のあるLLCではなくただの水だった。内部が錆びて穴があき、ほうっておくと水がなくなりオーバーヒートで走行不能となる。戦場では溶接マシンがあるわけでなく、石鹸を穴に練りこむなどの応急処理で、とにかくなだめながら走らせたという。兵隊も疲労困憊していたが、トラックも相当の重症状態で使われていたのが実情だったようだ。これでは戦闘する前に敗れていたようなもの?
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、1931年に起きた満州事変、日中戦争と昭和のかくも長き15年戦争が終わった。
しかし一般の市民にとっては終戦だからといってすぐに平穏な暮らしが戻ったわけではなかった。日本の主要都市は昭和19年から終戦にかけてボーイング29などの空襲を受け、壊滅的な被害をこうむっていたからだ。大阪も例外ではなかった。とくに終戦の年の3月13日から始まった、波状攻撃で大阪市内の約27%を焼失。福島界隈も大きな痛手を負った。ただ、現在の福島1丁目、2丁目、4丁目あたりは幸いにも戦禍をまぬがれている。
終戦と同時に、いびつな形態だった「大阪自動車用品配給統制会社」が解散となった。晴れて自由経済のもとで商売ができる日が再びやってきたのである。敗戦は開放を意味していた。
(写真は、昭和30年代の国産車のディストリビューター。この中に消耗部品のコンタクトポイントが収まる。)