統制会社が保有していた自動車部品などの商品の在庫は、そこで働いていた人たちの退職金代わりとして分配された。営業担当はいうに及ばず事務員の女性にも等しく分けられ、リヤカーで部品を運んだという。
福島地区には焼け残った家屋が存在していたので、自然発生的に、リヤカーの行き先はその福島だった。軒下を間借りして、リヤカーから降ろした自動車部品を並べ販売するというものだった。
昭和21年(1946年)に戦地から復員した松田さんは、23歳になっていた。上海で終戦を迎え、約1年間上海の山中で留め置かれたのち、船で博多港に到着。1年間、生まれ故郷の宇和島で百姓をしながら養生をして翌昭和22年に大阪に戻った。その足で福島界隈をぶらぶら歩いてみると、電車通りにずらりと部品商が軒を並べ、さらに国道2号線沿いの民家の軒先を借り、やはり自動車部品を販売している光景を見た。
今も存続している出入橋たもとにある“きんつば”屋には、小豆に変わる代用品のサツマイモで作った“きんつば”を求める人の列でごった返していた。この光景に圧倒された松田さんは、割り込む隙もなく「大阪にいたら飯は食えないっ!」と直感したという。再び愛媛宇和島の田舎に戻ったという。