敗戦という、社会のみならず個人的にも爆弾が頭上に落とされたような前代未聞の一大ショックのなかでも、人間は今日を生き明日を生きていかなくてはならない。過去の経験をできるだけ生かす職場、かつて属していた組織に戻ることは手っ取り早い選択だったであろう。
しかし当初は仕事らしい仕事がなかったという。売るものもなかったし、クルマだって終戦からまだ間がない頃ゆえ走っていなかったのである。
ところが、そうこうするうちによくしたもので、商売の糸口らしきものが見えた。
松田さんを知る昔の顧客から、あるいは二葉工業が仕事を始めていることを聞きつけた人達から、部品の注文が舞い込んだのである。「フォードのアクスルが欲しいのだが・・・」「シボレーのトラックのエンジン部品がなくて困っている・・・」といった類だった。
当時福島から南西に位置する港区の大阪湾にほど近い市岡(いちおか)界隈にはセコハン屋、つまり中古部品屋さんが50軒ほど軒を並べていた。市岡は昭和25年9月3日未明に上陸したジェーン台風(当時は占領軍が故国の慣習と同様に、台風に女性の名前をつけていた)による高潮の被害を受けたところ。松田さんは、1時間近くかけて自転車あるいはリアカーを引いて市岡でセコハンの商品を仕入れ、それを顧客に販売するという商売をしたという。
当時トラックを使った運送業が上げ潮の時代だった。戦前からのフォード、シボレーのトラックが依然として主役であり、フォードとシボレーの部品なら、仕入れれば何でも売れたという。「数日に一度、市岡に商品を仕入れにゆき、たとえば500円で手に入れた商品を2倍の1000円ぐらいでさばきましたから、それで十分食って行けました」。松田さんは遠くを見る目でそんな風に語った。(写真は、昭和30年代の浄正橋筋で、いまのなにわ筋。このころには国産車が活躍し始めていた)