松田さんは30歳のとき、二葉工業のご主人の妹さんと夫婦になり、それから5年後の35歳のときにノレン分けをしてもらい、現在の福島3丁目に店を構えた(資材当時)。
「独立してここで商売を始めたのは1960年ごろでした。私の店から指呼の距離に6軒の自動車部品商がありました。うちはトヨタ車が中心だったのですが、他はたとえば日産車、ホンダ車、輸入車をメインとしているという具合で、いわゆる棲み分けいうんですかね、仲良くやってましたわ。お客さんにとっても、こうした形態が都合よかったみたいですね」
一方、松田さん同様、自動車連隊の一人だった上田さん(写真)は、終戦を武漢で迎えるが、アミーバ赤痢、発疹チフス、マラリア・・・という病気のデパートのごとく病に次々に襲われ、ほうほうのていで氷川丸に乗せられ福井県舞鶴に降り立った。ちなみに、終戦後約660万人の日本人が海外に残された状態となり、うち約66万人がこの舞鶴港に引き揚げ船で到着したという歴史がある。現在これを記念して「舞鶴引揚記念館」が建っている。
氷川丸といえば、戦前はブラジル移民の輸送で活躍し、戦時中は日本海軍に徴用され病院船となり、戦後は引き揚げ船としてはたらき、その後は客船として使われ、晩年はごく最近まで横浜港で船上ホテルになっていた歴史的な船だ。