そこで、浜松市菅原町の今村幸太郎に7年間の契約で弟子入りする。父母の元を離れ、わずか14歳で実社会に船出したわけだ。
親方の今村氏は、腕のいい職人。それだけに仕事にかけては厳しい親方でもあった。もともと勘のいい少年だった道雄は、一人前の技術を習得し、親方の片腕として活躍するのにさほど時間はかからなかったようだ。
ところが、道雄17歳のときに彼の運命を大きく変える事件が起きた。日露戦争が勃発(1904年)したからだ。戦争が起きた余波で、建築の仕事がほとんどなくなったのだ。戦時下体制の空気のなかで新たに建築物をつくることを手控えるようになった。
そこで、親方の今村は、当時モノづくりの世界では、一段下と見られていた足踏み式の織機の製作に転向する。道雄も当初の夢であった建築の仕事を途切れさせ、親方の仕事を手伝うことになる。
1908年(明治41年)、徒弟契約の満了とともに親方の元を辞した道雄は、独立し織機の生産事業を起こす。日露戦争後、日本各地で足踏み式の織機が求められる機運があったからだ。叔父の世話で借り受けたのは、浜名郡天神町に蚕小屋を移築して改装したのが道雄の最初の工場だった。学歴は小学校の補習科どまり、文字通り徒手空拳の船出であった。