ところが、1930年代に入ると「織機の時代の限界」を感じ始めていた。一時は海外へ輸出していた織機だが、織機に代わる次世代に通用する商品の開発を提案できないと企業の存立は危うい! そんな予測が道雄にはあった。すでにこのとき、次期主力商品は自動車、という考えが道雄の頭にはあったようだ。その背景には、同じ織機メーカーだった豊田式織機の動きがあったからだ。そのころ豊田佐吉の息子・豊田喜一郎が、自動車づくりを目指して動いていたのだ。
道雄をリーダーとする鈴木式織機も1937年には25万台世に送り出した英国の大衆車である「オースチン・セブン」(写真は、トヨタ博物館所蔵)を手に入れ自動車の研究に着手している。このクルマは、20年代から30年代後半に英国で大成功を収めたサイドバルブの排気量800㏄足らずの小型車で、累計29万台生産し、その後の1500万台を生産し、アメリカにクルマ社会をもたらしたフォードのT型の先鞭をつけたクルマでもある。
道雄たちは、このクルマをとことん研究し、自動車の試作にチャレンジしている。
だが、同じ年日中戦争が起こり、軍需品の生産に向わざるをえなくなる。戦車砲や砲弾の製作だけでなく、軍用トラックのいすゞエンジンのクランクシャフトやピストンの仕事をすることになった。軍需工場化されると敵方のアメリカの爆撃を受ける運命だったが、浜松市内から少し離れたところに工場があったため、戦災の被害はほとんどなかったようだ。
なお、道雄も、徴兵検査で身長が規定に満たなかったこともあり、戦争に駆り出されずに済み、戦後を生き抜くことになった。