パワーフリー号は、競合車にくらべ安かったこともあり、翌年には月産4000台をかぞえ、織機ビジネスの不振を打ち払う以上の利益をもたらしたのである。
実は翌年の1953年「ダイヤモンドフリー号」を市場に投入している。
これは排気量をライバル車同様の60㏄として、要望に応えたのである。ダブル・スプロケット・ホイール式の駆動システムもウリだった。価格は3万8000円。当時、エンジン付きの自転車はトラックの代用品としてときには200kgもの荷物を載せて走ることがあり、それには排気量36㏄のままでは力不足だったのだ。
このダイヤモンドフリー号は、毎日新聞社主催の第1回富士登山レースに優勝し、札幌~鹿児島間の約3000キロ、18日間におよぶ「日本縦断テスト」の成功で話題を集め、当初の販売台数の1.5倍の月産6000台に達したという。