初夏、北陸・小松市にある日本自動車博物館にお邪魔した際、初めて目にした古いクルマ。初対面にもかかわらず、どこか懐かしく感じたクルマのことを秋の終わりになって急に思い出した。
1899年製のフランス製「ドディオン・ブートン4輪車」(写真)である。
かつて、福岡に赴いたとき日本最古の乗用車である「アロー号」のことを取材したことがある。弱冠24歳でアロー号を作り上げた矢野倖一(1892~1975年)が初めてクルマというものに接し、修復までまかされたクルマが、3輪車と4輪車との違いはあるが、同じコンセプトのクルマだった。依頼したのは、戊辰戦争のときに物流を任され大儲けした村上義太郎(1947~1922年)。日露戦争の勝利品として伊藤博文の懐刀・金子堅太郎(1853~1942年)から村上が譲り受けたという因縁のクルマらしい。
村上は、物流だけでなく、港湾や都市事業などのビジネスにも手を広げ、当時「博多の一代男」の異名を持った。その村上のスポンサードで、村上の屋敷内の一部を工場にして、苦心惨憺4年の歳月を経て作り上げたのが、「アロー号」だ。アロー号のエンジンは、水冷2気筒4サイクル・サイドバルブ式排気量1054㏄、12馬力。4人乗りで、車量重量320㎏。日産がダットサンを量産する20年も昔の話だ。
ちなみに、日本自動車博物館所有のドディオン・ブートンは、空冷単気筒サイドバルブ、排気量250㏄、2.25馬力。2人乗りで車両重量は300㎏だという。この頃のクルマは、今の軽自動車の半分の重さもなかったのだ。
じつはスズキの海外展開は、北米よりも先にインドだった。インドでのビジネスの始まりは、1982年のことだ。
鈴木修社長(写真)は、「とにかく、どんな小さな市場でもいいからナンバー1になって、社員に誇りを持たせたい」というのがかねてからの信条だった。
当時スズキは排ガス規制をめぐる技術的な失敗から屋台骨を揺るがす危機に陥ったが、何とかアルトの大成功で持ち直したところ。そんな時、未知な市場であるインドに挑戦したのは、修氏の先見性、それに指導力と決断が大きくものを言ったといえる。
いまでこそインドは資本家たちには、地球上最後の巨大市場として大注目されているが、30年以上も前のインドに自動車産業が確立されるとは、誰しもが想像できなかった。そのため世界の大手の自動車メーカーは、どこも手を付けなかったのだ。
だからして、当たり前のことだが、そうやすやすとインドへの足掛かりを確立できたわけではなかった。
前号登場したシボレー1931年を身近に接したことから、あらためて栗林忠道中将のことを描いたノンフィクション『散るぞ悲しき』(梯久美子著)を読み直してみた。
陸軍士官学校を優秀な成績で卒業した栗林は海外留学の栄誉が授けられる。大半がドイツやフランスを希望するのだが、栗林は英語が得意だったこともあり、単身アメリカ留学する。そこで軍事研究の傍ら、ハーバード大学やミシガン大学の聴講生として語学やアメリカ史を学ぶ。
当時最新のシボレーK型2ドアタイプを手に入れ、カンザス州から首都ワシントンまでの1300マイル(2080㎞)を走破したのは、1929年の冬だ。この長距離ドライブでは、いろいろなクルマ体験をしている。なかでも砂漠でタイヤがパンクしたとき10代後半の娘さんに、パンク修理を手伝ってもらい・・・・「アメリカでは16歳以上なら届け出をすればすぐ運転ができ、簡単な修理はみな自分でおこなう」ことを実の兄の手紙の中で報告。さらには、栗林の身の回りを世話してくれた年配のメイドでさえ、クルマを手に入れ自動車を生活のなかで活躍させている様子(つまりモータリゼーションがすでにアメリカでは成立しているということ)を描いている。
このころ、日本の自動車事情はどうだったか?
東洋工業(現・マツダ)や発動機製造(現ダイハツ)などから3輪トラックがようやく世の中に出始めたころなのだ。すべて英国などの製品をお手本にしたものだった。日本初の自動車メーカー快進社の橋本増治郎(1875~1944年)が、ダット号を苦心の末作り上げるも、ビジネスとして成り立たず、やむなくその権利を鮎川儀介に譲り渡したのが1931年であった。それから10年後に日米大戦があり、栗林中将は終戦の年の春、硫黄島で5倍以上の米軍と対峙するのである。
※写真は、昭和5年(1930年)発売のHA型ダイハツ号。エンジンは、空冷単気筒サイドバルブ、排気量500㏄。
精密ドライバーと聞くと、クルマやバイクの整備で、まず使うことがない。でも、メガネ、カメラ、時計、電子機器などを補修するとき、必要になるのが精密ドライバーである。
通常は、単能工具(0番のプラスならゼロ番だけという!)で、横一列に6本入りというタイプがある。グリップエンドが空転するタイプをよく見かけるし、筆者もこれを愛用している。
ところが、先日近くのホームセンターに足を踏み入れたら、ビット差替え式の「12in1マイクロ精密ドライバー」が並んでいた。6本12種類のビット(両頭ビットだ)が付いて1274円と比較的お手軽価格。悩むことなく購入した。グリップ内部が2重構造になっていて、インナーの赤い円頭部をアウターの穴から回せる構造だ。ハンドルエンド部に小さな穴があり、その穴とビッドの位置が合えば、両頭ビッドがストンとこぼれ落ちる仕掛け。
さっそく使ってみると、悪くないフィーリングである。
軸自体をテレスコピック機能を付け、最短135㎜、最長200㎜(従来品は約100㎜)、もちろん途中の長さでもOKという付加価値を付けている。そのため、軸とグリップ部のガタが気になるところだが、それほど気にならないレベルだ。計6個のビットをおさめた重量は、39gとこれも、通常のタイプにくらべちょうど3倍の重さである。従来品とは劇的に使用感覚は異なるものの、普通のドライバーのフィールに近づいたと思えば、いいのかも。
この差し替えタイプ、なによりも美点なのは、12in1である。1本で12種類の先端部!プラスが0番、00番、000番、マイナスが1.5,2.0,2.5の各3種類、それにトルクスT4、T6,T7,T8、T10、T15の6種類と豊富なことだ。発売元は、兵庫県三木市の「(株)イチネン ミツモト」(℡0794-84-1620)。台湾製だ。
『1931年式シボレーを楽しむ、ユニークな自動車メディア・イベント2018』そんな少し毛色が変わった催しが、先日都内であった。戦災孤児から身を起こし、1986年に世界第6位の大富豪ともてはやされたバブルの紳士の一人渡辺喜太郎氏の御曹司・渡辺春吉氏主宰の「麻布私塾会」&アンクレア(株)の主催。
シボレーの直列OHV6気筒3.3リッター・エンジンは、創業初期のトヨタがお手本としたエンジンで、トヨダA型エンジン(この時代のトヨタはトヨダと濁るのである)は、まさにこのフルコピーといわれる。フロントエンジン・リアドライブ(FR)の駆動レイアウトに、観音開きのドア、たっぷり大人4名が乗れる室内。まるでセダンのお手本のようなクルマである。90年近くたったクルマだが、軽井沢の車庫から渡辺さんみずからがハンドルを握り都内まで運転してきたという。いまでも十分日常の足として信頼性が高いという。
実は、このクルマ、渡辺さんの解説で、もう一つのエピソードを持っていた。太平洋戦争末期、硫黄島の激戦で破れたとはいえ果敢に戦った栗林忠道陸軍中将(1891~1945年)。梯久美子のノンフィクション作品「散るぞ悲しき」やクリント・イーストウッド監督、渡辺謙主演映画「硫黄島からの手紙」で描かれる名将だ。この栗林が、若き日にアメリカ赴任時、手に入れたクルマがシボレー1931年式だった。このクルマのハンドルを握り、アメリカの軍事施設などを視察して回りながらアメリカ大陸横断をしたという。
このとき栗林は、アメリカの圧倒的国力を肌で感じ、そのことを帰国後説いて回った。だが、そのことで逆に親米派のレッテルを張られ、皮肉にも1944年上司の命で硫黄島の指揮官としてアメリカに対峙することになった。
そんな因縁のシボレー1931年式は、秋の日にさらされ2トーンカラーがひときわ映えていた。
スズキの海外戦略については、1980年代のGMとの提携が思い起こされる。
当時の経済記者は「巨大なGMに東洋の弱小メーカーであるスズキはいとも簡単に飲み込まれるのがオチ…」と大いにその提携に危惧を抱いた。ちょうどアルトのヒットで社業が好調な時になぜあえてそんな挑戦をするのか? そんな心配もあった。だが、鈴木修社長は、GMとの提携を北米への足掛かりにしたいだけでなく、「技術面で一流メーカーの教えを請いたい」という思いだった、と振り返る。
GMにとってもコンパクトカーをラインナップに加えたいという狙いがあり、スズキとの技術提携は、悪くない話だったようだ。こうして誕生したのが「カルタス」(写真)である。
1984年にデビューし、北米にも輸出された。アメリカではシボレー・スプリント、ポンティアック・ファイアーフライという車名で販売された。スズキの4輪車が北米大陸の地を踏んだ最初である。筆者も北米取材でレンタカーとして数日間を共にしたが、チープ感が強く、正直あまり出来のいいクルマではなかった気がする。いまから見ればスズキの小型車生産のきっかけが、カルタスだった。
カルタスは、その後90年代中頃まで活躍し、95年にカルタス・クレセントという名称となり、2000年にスイフトにバトンタッチするまで販売。15年間にわたり、スズキの登録車の代表選手として名を挙げたのである。
文筆業というのは、実に厄介なものだ。
先日、バスの単行本を半年かけてようやく書き上げ、胸をなでおろし、何の気なしに資料をあれこれあさっていたら、大きなミスをしでかしていたことに気付いた。出来上がった本を手に取ると、約束したかのように、なぜか2つ3つ誤植が目に飛び込んでくる。今回、臍(ほぞ)をかんだのは、それだけではなかった。古い資料の中に「日本初のガソリンエンジンのバス誕生」の話があったからだ。
日本初のバスといえば、明治36年(1903年)の「二井商会の京都の乗合自動車」と馬鹿の一つ覚えをしていたら、これは蒸気エンジンのバスで、ガソリンエンジンのバスは別にあった!
当時京橋で自転車販売と自動車の修理をしていた「オートモビル商会」が、1905年に12人乗りの乗合自動車を改造して、広島のバス営業をもくろむ業者に販売していた。エンジンは、オートモビル商会の社長の吉田真太郎(1877~1908年)がアメリカで買い求めた水平対向2気筒ガソリンエンジンで、ボディは名古屋のボディメーカーに依頼。もともと鉄道車両の欅(けやき)製のボディは、重く、これに耐えられるタイヤが当時は見つからず、担当エンジニアの内山駒之助もお手上げとなり、ついにバス営業は取りやめになったという。日本のゴム工業ができるずっとずつと前のお話とはいえ、実に人間味ある物語。この歴史的事実が抜け落ちていたのである! あとの祭り、とはこのことだ。
「工具」という製品は、それだけ見ると“謎の物体”に見えるときがある。
ソケットツールの老舗メーカーKO-KENの「ダブルジョイント」も、遠くから見ると「光り輝く芋虫!」に見えなくはない。
製品名の「ダブルジョイント」もなんだか真新しい。でも、よくみると、わかる! ソケットツールはそもそも単独では使うことはなく、つなぎ合わせて初めて他の工具にはないパフォーマンスを発揮する。ラチェットハンドルなど、まさにそれだ。≪奥まったところにあるボルト、それも少しまっすぐに見えるところではなく、横にずれているボルトやナット≫を脱着するとき、便利なのがユニバーサルジョイントだ。エクステンションバーとソケットのあいだに付けて使う。
ところが、普通のユニバーサルジョイントだと、曲がり具合が不足して目的にボルトの頭に行きつかないときがある。曲がり角度がだいたい25度しかないからだ。
そこで、ユニバーサルジョイントを2個付け(関節が2つ!)、曲がり具合をより深くすることで、ようやくアクセスできた! そんなシチュエーションもある。そこで、いっそのことダブルのユニバーサルジョイントがあってもいい! そんなコンセプトで製品化したというのが、「ダブルジョイント」。写真は差し込み角1/4(価格4100円)と3/8インチ(価格4580円)だが、1/2インチも登場しているようだ。カタログデータだと、通常の25度→50度になる。値段がそれなりだけあり、6面体のボールジョイントの関節はスムーズに動いてくれる。