ダイハツのルーツである発動機製造㈱は、地元大阪の機械工学の学者たちの「熱意」から誕生したのである。明治40年、西暦1907年のことだ。
明治時代の後期、日本が欧米の先進国に学び、近代国家への道をひた走っていた時代だ。日清、日露の戦争に勝利して、時代の針が大きく回り、日本の産業革命期が佳境に入ろうとしていたころ。繊維工業から始まり、製鉄、石炭、電力などの基礎産業、造船、車両、機械などの製造工業が大きく伸びつつある、社会全体が大きく変わる時代でもあった。
当時、こうした産業の中心にいたのは、三井・住友・三菱・安田などの財閥系。
ところが、ダイハツのルーツは、こうした流れとは趣を異にし、機械工学の学者たちの熱意から始まっている。企業を起こして、利益を追求するというより、むしろ学究的な動機が先行したようだ。いわば純粋理工系のアウトサイダー的事業集団。何しろ「内燃機関の国産化」が主な設立趣旨だった。
設立の中心にいたのは、官立大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)の校長・安永義章(写真:1855~1918年)。安永は、肥後佐賀生まれ。明治16年陸軍省の技師になり、2年後の18年からドイツとフランスに兵器製造技術研究のために留学。「日本を工業立国にするには内燃機関の製造と普及が不可欠」という思いが高まっていた。そこで、同学校の機械科長の鶴見正四郎教授を仲間に引き入れ、当時の大阪在住の財界人に働きかけ、国産の内燃機関を開発する株式会社を設立したのである。
「発動機製造株式会社」である。このとき専務取締になったのが、大阪財界の有力者・岡實康である。事務所兼本社工場は、大阪駅の北約500メートル、現在の新梅田シティ。当時の徽章は、エンジンのフライホイールに中央部にアルファベットのE(エンジンの頭文字)を配したものだった。