ダイハツの前身発動機製造(株)が設立された時代の民間での自動車への取り組みは、実にか細かったわけだ。いっぽう、日露戦争を経験した日本の陸軍は、広大な大陸戦線での兵站(ロジスチックス)の輸送には、人馬による輸送には限界があることを痛感させられる。
そこで、発動機製造(株)が設立されたちょうど1907年に、陸軍次官から陸軍技術審査部長に自動車に関する調査研究命令が発せられている。これを受けて、1908年、フランスの「ノーム」という車両を購入し、東京・青森間の試験運行。翌年1909年には、フランス・スナイドル社の貨物トラック2台を入手し、東京・盛岡間を運航試験している。加えて、1911年には英国のソーニクロフトやドイツのベンツ社「ガッゲナウ」という貨物トラックを購入し、調査研究をおこなっている。
こうした研究をもとに、陸軍部内では、1911年(明治44年)つまりタクリー号デビューの4年後には、大阪砲兵工廠にて国産の「軍用貨物車第1号」が完成「甲号・自動貨車」(写真)と命名された。大阪砲兵工廠は、大阪城の東側に広がる220万㎡の広大な敷地に最大6万4000名の工員を擁したアジア最大規模の軍需工場。続いて第2号車も完成し、国内だけでなく中国東北部・満州での運航試験が行われている。ちなみに、「甲号」の仕様目標は、積載量1.5トン以上、総重量4トン、エンジン出力30馬力以上、最大時速16㎞以上だった。いまから見ると、重くて、非力で鈍重な車両の印象だ。