1913年、大正2年には、「乙号」が大阪砲兵工廠火砲製造所と東京砲兵工廠砲具製造所の2カ所で各2台ずつ完成させている。翌年1915年には4トン級の「丙号」、3トン級の「丁号」を完成。このように、明治の末年から大正初期にかけて「軍用トラック製造計画」は着実に進み、1914年から始まった第一次世界大戦参戦の際には、臨時陸軍自動車班が編成されている。
ついで、技術将校クラスをアメリカなどに派遣して、さらに研究開発が進められていった。いっぽう軍だけでは質量ともに期待できる車両の確保が難しいと考え、民間の自動車産業の育成策を講じている。「軍用自動車補助法」というもので、1918年に制定し、同年に施行された。これは軍制定の基準を備えたトラックとその応用車(バスなど)を「軍用保護自動車」という枠に入れ、製造者に対して一定の補助金を交付、その車両を購入し、使用する使用者側にも一定の購買&維持補助金を支給するというもの。平時には、民間利用させ、有事の際には軍用車として活用するというのが狙いだった。
この時代の日本は、こうした状態の自動車発展途上国だったのである。