エンジンオイルのフィルター、通称「オイルフィルター」は、簡単に言うとエンジンシステムのなかの腎臓のようなものだ。
使用過程のエンジンオイル内の汚れや不純物を取り除き、エンジンを守る役目。エンジンオイルは使っているうちに、金属の摩耗粉、ゴミ、カーボンなどで汚れてくる。これが潤滑部分に送られると摺動部の摩耗を早めたり、焼き付きを起こす原因となる。そこでオイルラインの途中にフィルターを設け、不純物を取り去るようにしているのである。
ターボチャージャーではないNA(自然吸気)ガソリンエンジンでは、走行7~8千キロごとにオイル交換と同時にフィルターも交換する……というのが、私のやり方。そのとき必要になるのが、オイルフィルターレンチという工具(ハンドツール)である。
工具には、大きく分けて汎用工具と特殊工具(SST:スペシャルサービス・ツール)の2つがあるが、フィルターレンチは、汎用的な特殊工具である。比較的使用頻度の高いポピュラーな特殊工具。だから、意外と市場が大きく、世の中には様々な形状のフィルターレンチが登場している。
写真は、手持ちのフィルターレンチを全員集合させてみた。ほかにも類似したものが5~6個あるが、パターンとしてはこんなものだ。要はエンジンルームはもともと広々していたが、70年代中頃に入ると排ガス規制やエアコン、パワステなどの補器類がエンジンの回りに取り付き、どんどん手が入りづらくなってきた。すると、従来のフィルターレンチでは太刀打ちできない。そこで、当初ハンドルが付いたタイプだったのが、お椀型(写真左隅2つ)になって、お椀型では汎用性がないので、アジャストタイプ(写真上部4つ)になり……そんな歴史が、この写真からリアルに語ることができる。
左端のハンドル付きのものはフランスのファコム製で、デザイン性が評価されているせいか値段が2万円近くしているが、これは例外中の例外。たいていは数千円で手に入る。真ん中のチェーン式のものは、フランスに旅したおりたまたま入ったスーパーマーケットで40フラン(約4000円)ほどで手に入れたもの。その左隣はモデルT時代からのアメリカの特殊工具の老舗専門メーカーKDツールズのナイロンストラップ式の品番3149。1/2角のハンドルと組み合わせて使うタイプ。つまりフィルターにナイロンストラップを巻き付け使うというものだ。手の延長上にある工具は、見ているだけでなんだかおもしろいですね。
フォードとGMはあらかじめ日本の市場を十分リサーチし、抜かりなく乗り込んできた。それだけに、日本での自動車組み立て&販売戦略は、見事に成功を遂げた。大正14年3400台だったのが、翌昭和元年には2倍以上の8600台、その後2万~3万台と推移している。この時代は、まだマイカーとしてではなく、営業車であるハイヤーやタクシーとして使われはじめ、徐々に日本の社会に定着したのである。フォードとGMは日本上陸4~5年で、それぞれ80店舗ほどの特約店を構築していった。
この当時のことを知る年配の業界人の口からは「とにかくフォードとシボレーの時代だった!」。
言葉を換えれば“フォードまたはシボレー”がそのころの自動車を指す代名詞だった。現在日本の輸入車シェアはせいぜい10%である。いまから見ると、高い輸入車シェアはとても不思議に思うが、この時代が外国車に偏っていた自動車市場にはそれなりの理由があった。日本国内での信頼性のあるクルマの量産化は夢のまた夢だった。大量生産VS少量生産という規模の話だけではなく、アメリカ車は国産車にくらべ壊れにくく、万が一壊れてもサービス体制がある程度あるため、信頼耐久性が高かった。それに比べ国産車は、信頼耐久性やサービス体制で劣り、そのうえ車両価格がどうしても量産車のアメリカ車にくらべ高価とならざるを得なかった。クオンティティとクオリティ、この両面で彼我の差は大きかった。
こうしたいわば自動車だけの世界を見ると、日本がアメリカ車に占領されている状態である。貿易赤字が増える一方だ。
そこでなんとか、「純粋な国産自動車を育成していきたい。自動車産業は日本の国を富ませるカギをにぎっている! 」当時日本の中枢をにぎっていた人々がそんな思いを抱いて、ひねり出した政策が“軍用自動車補助法”である。1918年(大正7年)施行した法律。日本陸軍が、有事のときに徴用(強制的に使用)する自動車に、製造者と使用者に補助金を与えるというものである。いわば本来自由であるべき自動車に、初めから縛りを加えた法律なのである。
ところが、この国産自動車保護策は必ずしもうまく機能しなかった…‥。(写真はシボレースペリアシリーズK1925年式)
日本が第2次世界大戦の敗戦国になって今年で75年、いまや戦争をリアルに語る人はごくごく少数派となった。
いわゆる戦中派といわれた人は、戦後の混乱のなかでたくましく働き、おかげで日本は奇跡的と世界で賞賛されるほどの復興を遂げることができた。その息子や孫は、その遺産で食いつないでいる、そして遺産もか細くなってきつつある。恒産だけでなく恒心すら、か細くなってきている。
そう考えると、ここで戦中派の行動に思いを寄せることは、無駄ではないと思う。
1947年、終戦から2年たって発売された電気自動車の「たま号」に注目したい。電気自動車=CO2を出さないから環境にやさしい、というステレオタイプな思いが頭をもたげるが、ベクトルがまったく違った。当時ガソリンが統制品で入手ができず、仕方なく、木炭自動車で我慢をしていたのだ。ノロいし煙を吐く木炭自動車より、ワンチャージで限られた走行キロ数しか走れない電気自動車の方がまだまし。そんなコンセプトで誕生したのが「たま号」だった。たま号の性能は、4人乗りで、最高速度約35㎞/㎞、1充電約96㎞というものだった。
戦後職を失った立川飛行機(石川島造船所がルーツ)の残党200名が、生き延びるために雨漏りのするオンボロ工場で手作りされた電気自動車は、戦後の復興に貢献したのだ。立川飛行機は、もともと航空機の機体(ボディ)をつくってきたので、ゼロからエンジンをつくりあげるよりも電池を湯浅電池からモーターを日立製作所から購入し、EVを造り上げたのだ。この中心人物が、元立川飛行機の試作工場長で、のちプリンス自動車の専務となる外山保(とやま・たもつ)さんである。
ところが、1950年6月、朝鮮半島で南北間の戦争が勃発したことで、鉛蓄電池の鉛が5倍以上に高騰し、一方ガソリンが市中に出回ることになり、EVの存在理由が怪しくなり、あえなく生産中止に追い込まれるのである。わずか5年間の生産。累計1000台ちょっと。時代のあだ花といえなくもない。(写真はたま号のホイールセンターキャップ)
「フレックスエクストラクター・ギアレンチDEG」。
実に長い、しかもカタカナ文字が4つも連なる工具名である(最後のアルファベットは品番)。フレックスは首振り、エクストラクターはこの場合「なめてしまったネジでも緩められる」という意味だそうで、最後にギアレンチというのは、メガネ部にラチェット機構を組み込んでいます、そんな意味なのである。
速い話、このレンチはスパナとメガネブを持つ“コンビネーションレンチ”(アメリカのプロトツールが発明したとされる!)の超進化版ととらえられる。軸がしかも、90度ツイストしている。トルクをかけるとき、手のひら(というか指が)角にあたらず平たいところにあたるのでチカラの伝わりが具合いい、手になじむ形状。そんな機能(というか企み、狙い?)がてんこ盛りのレンチなのである。
しかもまわりの風景が映り込むいわゆる鏡面加工で美しい。
そこで、まずスパナ部にズームインだ。フムフム、角部に少しえぐりをつけ相手のボルトの6角部とガチッと組んだ時、応力を分散させ、通常のスパナより少しばかり大きなトルクがかかる狙いなのだ。
次にメガネ部。メガネ部もこの考えと通底し、通常の6角タイプの辺の中央に少しばかり凹みをこさえている。「これにより約80%角が丸くなったボルトやナットでもがっちりつかみまわすことができますよ」(スエカゲツールの担当者)という。ギア数も72もあり、振り角度はわずか5度。実に小気味よいギアフィーリングを得ている。なお、メガネ部の首振り角度は180度。
写真は10mmだが、12mmの全長が224㎜。通常のコンビレンチ(12㎜)が170㎜前後なので、やや長い感じ。重量は134gなので、通常の2倍。たしかに手に持つとズシリとするが、スリムな形状なので、さほど重さは気にならない。価格は、12㎜で3500円だという。サイズは10,12,14mmと3サイズだけだ。(3サイズセットが1万600円)
このところの新型コロナ騒ぎで、取材に出かけられず、正直ネタが枯渇しそう! いくら頭を振るも、打ち出の小づちのようには面白いネタがわいてこない! 弱った、弱った! そんなとき、ふと10年ほど前のヨーロッパぶらり旅のことを思い出した。
オーストリアのウイーンにふらりと出かけた時、とんでもないクルマに出会ったのだ。
オーストリアのウイーン。英語で「ビエナ(VIENNA)」と発音するんだけど、音楽や絵画に人並み以上に関心を持っていたわけではない。ただ岡山の自動車解体業者を取材中に、たまたま出会ったおじさんがオーストリア人で、オーストリア・ハンガリー帝国、毎日新聞ウイーン支局長だった塚本哲也の力作「エリザベート・ハプスブルク家最後の皇女」で仕入れた知識で話が盛り上がった。中世から第1次世界大戦まで、ウイーンは実はヨーロッパの中心だった。そのことに強く気づいたことで、ウイーンへの旅に出たのである。
絵画館やオペラハウスなど、ひとしきりの観光をしたのち、ふと足を向けたのは、中心街から地下鉄に揺られ15分ほどのところにある「ウイーン産業科学博物館」。こじんまりしたイイ感じの白亜の建物だ。
その中に不思議なクルマを見つけた。フェルディナンド・ポルシェが24歳の頃に作り上げた電気自動車である。よく見ると、フロントにデカいハブがある。ホイールインモーター方式のEVなのだ。しかもフロントには泥除けに見えるが、エアロダイナミックな風防付きだ。ぱっと見馬車みたいだが、いまから見ても新技術が盛り込まれたクルマだ。
調べてみると、ボヘミアン地域に生まれたポルシェさんは、18歳でウイーンに出て、発電機などをつくるベラ・エッガー社(のちの鉄道システムなどをつくるブラウン・ボベリ社。日本の国鉄もここから電気機関車などを購入している)に入社し、ヤーコブ・ローナー社の主任設計者になる。ここに約6年務め、その後1906年、31歳で、アウストロ・ダイムラー社に入社し、ビートルなどの開発に携わるのである。この目で見て、しっかり写真に収めたのは、ローナー・ポルシェのEVだったのだ。
このEVは、ウイーンの消防署で使われ、のちタクシーとして活躍したとされる。1898年製だ。最高速50㎞/h、巡航速度35㎞/hで1充電で50㎞走行したという。バッテリーは、80V 74セルで300Ahだったという。
ちなみにポルシェ博士と呼ばれる理由は、のちシュツットガルト工科大学から名誉博士号を受けたためだが、実は、彼は系統だった教育を受けてはいない。ベラ・エッガー社時代、ウイーン工科大学で夜間の聴講生として、物理学や電気工学、それに機械工学を学んだだけなのである。
そもそも、ヨーロッパ、アメリカで自動車産業が成立し、モータリゼーションと呼ばれる自動車が庶民の生活の一つの核となった社会が、先進国に定着するのは20世紀にはいってからである。世界最初の量産自動車であるフォードのT型フォードがデビューしたのが1908年。以後19年間に累計1500万台を世に送り出し、アメリカに世界初のモータリゼーションを実現させた。
フォードとGMは、こぞって日本に進出したのは、大正末期から昭和の初めにかけて。西暦でいえば1920年代。
1923年(大正12年)、関東大震災が起き、東京の公共交通だった市電が壊滅的被害を被り、当時の東京市がフォードのボディなしのシャシーを800台輸入し、これを乗合いバスに架装した。これが好評を博したことがきっかけとされる。フォードが1925年(大正14年)に横浜に、GMがその2年後の1927年(昭和2年)に大阪にノックダウン工場をつくった。ノックダウンとは、部品のほとんどをアメリカから輸入し、日本人の工員を雇い、日本の工場で組み立てるというものだ。
そのころ、日本にも自動車工場がなくはなかった。橋本増治郎の快進社(写真)、オートモ号の白楊社などである。昭和元年から昭和6年にかけて、年間200~400台のレベルである。いわば脆弱な自動車メーカーで、とても量産工場とは言えなかった。まるでドーナツをつくるようにベルトコンベアで日に100台以上つくるアメリカからやってきた自動車工場からすれば、ものの数には入らない。当時のメイドインジャパンのクルマは、風前の灯火だった!
この物語の主役である鮎川義介は、1880年、明治13年に山口県に生まれている。フォードが日本に進出した1925年のとき45歳である。若き日にココロザシをいだき米国を見ていた。明治維新を功労者を叔父に持つ鮎川には、こうした現状を変革して、日の丸印のクルマを自分の手でつくり上げたい気持ちが胸に迫ったとしても不思議ではなかった・・・・。
スズキもそうだが、マツダもじつは創業100年だそうだ。
ちなみに、ダイハツは1907年創業だから、すでに103年たっている。トヨタと日産は仲良く1933年創業だから、100年にはまだ13年ある。ホンダは、戦後の1946年だから、100年までには、26年待たなくてはいけない。
マツダは、少し前まで東洋工業といった。もともとはコルクをつくっていた。
創業者は松田重次郎であり、その息子松田恒次、この親子でマツダの基礎をつくったのである。ところが、面白いことに、ホンダの創業者・本田宗一郎のことは100冊以上(たぶん)の書籍となって誰でもが知る人物という位置づけ。ところが、松田重次郎さんや松田恒次さん(ついさん付けしたくなる!)となると、ほとんど本になっていない。だから誰もほとんど知らない。
かつて、このブログでマツダの創業時のことは詳しく調べ書き連ねたので、時間があったら覗いてほしい。
今回紹介したいのは、『MAZUDA 100 EPISODOES』という本である。
100個のエピソード(記事)で、マツダのこれまでの歴史を追いかけている。
社史、つまり会社のヒストリーというと分厚く箱に入った立派なものというのが通り相場で、けっきょく本棚の奥に眠る運命の存在。ところが、この本は、新書版の大きさで、トータル300ページほど。
1つの記事が3ページほどに簡潔にまとめられているので、寝転がって読むにはちょうどいい。戦前の3輪トラックを宣伝するため、キャラバン隊をつくったとか、戦後ロータリーエンジン車の開発に血のにじむような失敗と苦労を重ねた話など(下の写真は“悪魔の爪痕”チャターマーク)、下手な小説(たとえば私の「クルマとバイク、そして僕」のような)よりよほど面白い。手前ミソ的なあまりいただけない記事も少しはあるが、みずからの過去の傷口をさらけ出す記事も多くあり、「えっ、こんなの書いて、いいのかな?」と思うとこともある。舞台が広島なのはさらにいい。マツダの愚直さが出ていて、悪くない! ただし、これが非売品というのはいただけない。
新潟のTOP工業といえば、戦前の中島飛行機の一式戦闘機「隼」の鍛造部品の製造からスタートした老舗工具メーカーである。遊びのないモンキーレンチや3枚合わせのウォーターポンププライヤー、それにベルト式オイルフィルターレンチなど野心的なハンドツールが登場。ひところは注目していたのだが、このところあまり元気がない。(ただ、横浜ベイブリッジを構築したさい活躍したのがTOPの片口メガネレンチ、とされ、頭に“黄金“というキャッチが付くようだ)
……先日手持ちの工具を整理していたら、こんなツールが出てきた。20年ほど前手に入れたものだ。
「TOP ショートメガネレンチ4本組み」品番TMS-4000である。
ネットで検索したが、どうも絶版らしく、価格も不明だ。立ち上がり角度が30度のごく普通のショートメガネレンチなのだが、10-12,11-13の2本の柄の中央に3/8インチ(9.5㎜)の角部をほどこしてある。ソケットツール、たとえばエクステンションバーとか、ラチェットハンドルなどと組み合わせられる工夫をこらしている。手が入りづらいところにあるボルトの脱着に活躍できるというコンセプトのようだ。穴なしは7-8,14―17である。
このショートメガネ、ユニークなのはこれだけではない。パッケージには、7㎜をのぞき「フランクドライブ」とある。
フランクドライブといえば、もともとはスナップオンの十八番(特許)で、相手のボルトのアタマの角に工具をあてることなくトルクを加えるので、結果として応力が分散し、ボルトの角を痛める心配がないというふれこみの形状。7㎜だけがそうではないのは、小さすぎて加工でききないからのようだ。
ユニークなこのショートメガネ、あまり評判にならず消えていったようだ。