まず、この写真をじっくりご覧いただきたい。
荷台からこぼれ落ちても不思議でないほどの荷物がてんこ盛り。涼しい顔で歩いている横の男の人の頭に、いまにも荷物が落ちてきそうな、そんな奇妙な写真だ。この写真を見て、ハハ~ン、これは東南アジアあたりの発展途上国の光景だな。そう思われたかもしれない。
じつは、これ、れっきとした日本の原風景なのである。カメラマンの花岡弘明さんが学生時代に北海道を旅した折、ふとシャッターを押してものにした一枚だという。場所は、帯広駅の構内。時代は昭和33年、1958年ごろだという。
品川にある「物流博物館」で見かけたものだ。博物館の担当者がこの写真の“中身”(なんの荷物なのか)を必死に探ったところ、この車両は保導車と呼ばれる荷馬車の荷台で、荷物の内容は「引っ越し荷物」だということが判明した。この写真を逐一ズームインすると、向かって右上には、行李(当時の荷物箱のことで、竹や柳の木でつくられた。これはたぶん柳行李)が見え、その下には当時の日通のアルミ製のコンテナが4個ほど見える。このコンテナ折り畳み式だったという。
上部真ん中左には自転車の片輪が見える。その左横にはリンゴ箱を流用した荷物、左端には布団袋、さらにその下には木箱にコモ(菰)掛けした大きな荷物、そしてその下には俵状の荷物が8個ほど見える。その隣に「リズムミシン」の文字が見える。リズムミシンは中島飛行機浜松製作所が戦後、富士産業と名称を変更し、製作したミシン。1967年まで作り続け、同社はその後プリンス自動車となり、自動車部品製造に転じている。横の男は、作業員で右手に持つのは荷役のとき肩にかけるなどして活躍する前掛けだという。
車輪に目をやると、荷馬車のタイヤである。もちろんチューブ入りタイヤ。後輪の横に、プレートが見える。“〇通(マルツウ)26”とある。このことから日本通運が管理していた荷馬車であることが判明した。当時の荷馬車には、10トンや15トンは平気で積んだというから、現代のトラックとさほど変わらない。調べると、昭和30年に日本通運は牛馬を626頭所有し、牛馬車も870台持ち、荷車は2545台もあったという。昭和41年に、トラック輸送が牛馬車輸送を上回る、そんなデータがあるので、昭和30年代は、文字通り牛馬車の力を借りたモノの輸送が、当たり前のように人々の生活を支えていたことになる。
一枚の写真が、時空を超えて、いまの人にはとうてい理解できない、2世代前の引っ越しの光景を見せてくれたのである。写真1枚が、“すこし昔の日本の世界”をこじ開けた、ともいえる。
1914年、第1次世界大戦がはじまるとアメリカ、ロシア、オーストリアなどから軍需品の注文が殺到し、戸畑鋳物は大いに受けに入るのである。鮎川儀介は、これを手掛かりに、さまざまな産業界に触角を伸ばしていく。鉱山業、水産業、化学工業、電波事業、保険業務、生命保険会社などなど、この中に自動車産業が入るのである。このときから日産は、複業企業、コングロマリットの様相を呈するのだ。
昭和3年(1928年)ごろ、国内の自動車メーカーのみならずフォードとGMにも鋳物の自動車部品を供給し始めた。鮎川は、このころから、自動車産業が将来成長産業になると見通してチャンスをうかがっていた。
自動車業界参入の機会は意外と早く来た。昭和6年6月に戸畑鋳物の定款を改定し、自動車製造を付け加え、その2か月後にはダット自動車製造の株式の大半を買収して、経営権を握った。ダット自動車は、もともと橋本増治郎(1875―1944年)が苦心の末作り上げた快進社をルーツとする日本初の自動車メーカーである。
鮎川は、従来の日本の少量生産の自動車産業から脱皮する目標を掲げ、昭和8年2月プレスや鍛造用の機械設備や工作機械類200台ほどをアメリカから輸入し、当初ダット自動車製造から買収した大阪工場で、ダットサンとフォードとシボレーの部品生産にあてた。
さらに、10月には横浜市神奈川区の埋め立て地に、大量生産方式の近代的な自動車工場を建設するための用地2万558坪を確保した。そして同年12月、日本産業600万円、戸畑鋳物400万円、資本金1000万円の自動車工場が完成するのである。自動車メーカー・日産の誕生である。
昭和初期の金解禁の余波で不況下を潜り抜けた日本の経済の流れから、鮎川は自動車製造部門では年間2500万円もの赤字を5,6年は覚悟していた。ところが昭和6年の満州事変勃発頃から、徐々に好景気にシフトし、日産は予想外の順調な滑り出しをしたのである。
日本産業は、鮎川義介が久原工業を改組して、昭和3年に資本金5000円で創立した持ち株会社。傘下には、日本鉱業、日立製作所、戸畑鋳物を擁したが、創立当初は確かに昭和恐慌の時期とぶつかり業績はいずれも振るわなかった。
40フィート(約12m)の海上コンテナを運びトラクター(牽引車)の姿を幹線道路で見かけることが多くなった。つまりこれ、セミ・トレーラーである。
運転手不足を解消し、より多くの荷物を運ぶ手段として、トレーラーの役割にはすこぶる付きといえる。生活を支えている縁の下の力持ちだ。そのトレーラーは、いつごろから日本に登場したんだろうか? その答えを求めて、品川の「物流博物館」を尋ねた。数年前「トレーラーとトラクター」という特別展示が開かれ、その時の図録を入手したのだ。わずか34ページほどの図録だが、貴重な写真が多く、目が開かれる思いがした。
そのなかの一葉の写真を見てもらいたい。
昭和9年、1934年の大和運輸が開発した「大和式トレーラー」という名のフル・トレーラーである。フル・トレーラーというのは荷台を持つトラックが別の荷台を運ぶスタイルのこと。
大和運輸というのは、現在のヤマト運輸のルーツで、創業が昭和6年頃らしい。この「大和式トレーラー」は東京・横浜間を定期便輸送していたという。フル・トレーラーが民間で実用化された最初だ。
大和運輸の創業者の小倉八三郎(のち康臣と改名)が昭和2年ドイツでトレーラーを初めて目にし、日本への導入を志したという。牽引車には「マセデスデムラー」(ダイムラー)社製の2トントラックを使い、非牽引車の方はフォードの中古車を改造したものだ。ちなみにマセデスは“メルセデス”の訛りと思われる。当時1トン車での輸送をしていたようで、このトレーラーの導入で格段に輸送量が高まったとされる。
ちなみに肝心の連結部は、自社でデザインしたという。当時はABS装置などないので急ブレーキに備え、非牽引車にはブレーキ係りのスタッフを乗せていた。よく見ると非牽引車のフロントに人が乗るスペースがあり、テント地の日よけも見える。
ところが、この大和式トレーラーは、2台作られたのだが、登坂力に難点があったのと、荷役作業時間が長くかかるとして運転手に敬遠されるなどして、数年で廃止されたという。トライ&エラーの時代でもあった。
それにしてもだ。写真をよく見ると3人の男が牽引車の荷台の荷物を確認。荷物は大部分が樽。中身は醤油、日本酒はたまた味噌だったのか? 85年前の日本のロジスティックスの一風景がこの写真には滲んでいる。
日頃よく使う、爪切り」といえば、たいていはステイプラー(というかホチキス)のようなカタチをしたシーソー型の爪切りをイメージすると思う。ところが、ネイルサロンなどでもっぱら使われるのは、「ニッパータイプ」だという。
ニッパーと聞くと、電気工事や自動車のハーネスを細工するとき活躍するハンドツールだが、意外と爪切りとしても使われる世界があるのだ。ステイプラー型の爪切りばかりを使うのは、面白くないとふと考え、東大阪にあるフジ矢ペンチを取材した折頂戴した、ニッパータイプの爪切りを使ってみることにした。これもステイホームのおかげである。フジ矢ペンチは大正12年創業の老舗ペンチメーカーで、中学生のころから重くて動きが渋いフジ矢のペンチを使っていた経験がある。
そこで、ニッパー型の爪切りである。
正直言って、利き手で使うぶんにはいいが、利き手でない手で使うと難しいのでは? 下手すると指を切るのでは? と思っていたが、まったくの杞憂だった。存外スムーズにうまく切れるのである。ステイプラー型では爪の大半を覆うので様子が分かりづらいときがあるが、ニッパータイプではよく全体が見渡せるので、どのくらい残すかなどが分かりやすい。しかも爪をアール状に切ることもできるのがいい。小回りがきく感じ。言葉を変えると、ステイプラー型はかなりズボラに使えるが、ニッパータイプの爪切りは研ぎ澄まされた職人的な感覚で使える。ただ、切った爪がひょいっと遠くに飛んでしまうことがあるので、要注意だ。
写真のニッパーは、ネットで調べたが、見当たらない。いわゆる世にいう“ノベルティグッズ”なのかもしれない。でも類似した製品は1000円ほどでカンタンに入手できる。ちなみに、写真のものは、ピボット部にFOR NAILとある。全長は110㎜の手のひらサイズ、重量は60g。コイルスプリング付きで、見方によっては愛らしい。
「日本にもそのむかし、江戸時代に石畳の立派な道路があった!」
ローマへと続くヨーロッパ各地のベルジャンロードじゃあるまいし、よくそんなウソを言う! そんなお叱りを受けそうだが、「日本にも車道があった」というのは一面まぎれもない真実なのである。
ただし、車道は車道でも、ガソリンや電気で走るクルマ(自動車)ではなく、荷物を載せた牛車が利用した「くるまみち」である。
どこにそんな「くるまみち」があったのかというと、京都・大津間の12㎞(約3里)。
「クルマイシ(車石)」と呼ばれる石が2列に並べられ、その間には砂利が敷かれていたという。京都・大津間は東海道の一部だが、じつは、この街道は北陸でとれた海産物などを、琵琶湖経由で京に運ばれた重要な古代からのルートなのである。
なお、この「車石」は、このほか京都を起点とした鳥羽街道や竹田街道にも敷設されていたという。鳥羽街道は、京都の羅城門(らじょうもん)から鳥羽をへて淀(よど:京都伏見区で宇治川の北岸)にいたる道。竹田街道は、東本願寺と伏見をつなぐ街道だ。
江戸期には、この3つの街道を牛車が米俵9俵、つまり約600㎏を積んで運んだといわれる。急な坂になると、数名の坂仲士(さかなかし)と呼ばれる助っ人があらわれ、米俵を肩に担ぎ、牛車の後押しをしたという。
といったことのすべては、品川駅から高輪口から徒歩約10分のところにある「物流博物館」でお目にかかれる。入場料はなんと200円で、ここに半日いれば昔と今の日本の物流システムを学べる。
このアメリカの金属工場での写真が、横浜にあるエンジン博物館の2階に飾られている。
ひげを生やした長身の白人4名の真ん中で堂々と背筋を伸ばし、台車に片足をかけた20代の鮎川の姿は少しも引け目など感じていない。(前回の写真だが、今回も使います)
余談だが、鮎川はアメリカ滞在中、言葉にはあまり困らなかったようだ。実は、幼少期、山口の地方新聞に勤めていた父親がカソリックに帰依し、息子たち義介も洗礼を受け日曜日ごとにミサに出ていた。そこで、フランス人神父にフランス語なまりの英語を習ったことが、義介がアメリカ修行に出かけた折に大いに役立ったのだ。
アメリカ滞在は予定していた1年半よりややや短かったものの、義介に確固たる野心とゆるぎない自信を抱かせるには十分だったようだ。
帰国後、1910年、明治43年、義介30歳のとき、大叔父井上馨の支援を受け、福岡県の遠賀(おんが)郡 戸畑に、鋳物工場を設立したのである。これが戸畑鋳物株式会社である。現在の北九州市戸畑地区。いまは、イオン戸畑店というスーパーマーケットが建っているそうだ。
ところが、わずか30歳で戸畑鋳物を発足させたものの、可鍛鋳物は日本では初モノというかほとんど使われていなかったため、注文がまったく来なかった。
一計を案じた義介は、トップセールスとばかり呉海軍工廠に出向き、大砲の演習用の砲弾づくりを請け負った。ところが、砲弾づくりの経験がゼロだった。そこで、小石川の砲兵工廠の優秀とされた技師、エンジニアですね、これをスカウトした。あにはからんや、これがうまくゆかず、困りはてた義介は、東京上野の図書館に出向き、英語の文献をあさってみた。これも得るところなしで、ふと近くにあるフランス語の文献が目に触れた。偶然にもここに砲弾づくりのノウハウが書かれた文献を見つけたという。さっそく、これを翻訳してもらい、軍向けの合格品を作り上げることができたという。なんだか、窮すれば通ず、あるいは七転び八起き、の世界だ。
先日引っ越しをしたことから、旧宅で使っていた表札を流用することになった。
ねじ径M4のスタッドボルト(ステンレス製)を壁に打ち込み、縦・横15センチ×20センチほどで、厚みが10mmもあるガラス製の表札。この表札本体をやはり10mmのステンレス製カラーで、壁から浮かせ、頭を袋ナットで留める、というものだ。いまどきのよく見かける、なんら変哲のない表札だ。
壁はサンディング材と呼ばれるもので、ドリルで簡単に穴が開いた。
下穴は、M8が入るほどにデカくして、そこへ15分で固まりカチカチになるというホームセンターで300円で手に入れた、ロックタイトの2液性パテ(正確には液体ではなく粘土状)を穴に押し込み、固める。このパテ、付属のペラペラの樹脂グローブでこねるのだが、ゆるゆるでうまくゆかない。急遽手持ちの樹脂グラブに切り換え、事なきを得た。ところが、そのパテが、壁から2~3㎜に付着し、おかげで正規のカラーが収まらない。正確に言うと、じつは収まるのだが、表札をかぶせ、最後の袋ナットがねじ込めないのだ。
う~ん、困った! カラーに替わるものはないものか?
その時ひらめいた。引っ越し作業の際に目に留めた「バルブステム・オイルシール」である。10年以上前、あるサプライヤーを取材して、サンプルでいただいてきたものだ。外径12㎜強、ステム径5㎜で手に持つととても軽い(約2g)。このゴムシール部をカッターで取り除き、収めてみると、ア~ラ不思議! なんだか、まるであつらえたようにピタリと収まったのだ。
(ここで咳ばらいを一つ)ところで、このバルブステム・オイルシールの役目は何か?
トヨタの整備士向け技術修理書によると「バルブステムとバルブガイドブッシュはエンジンオイルにより潤滑されるが、燃焼室に過度に侵入することを防ぐため、バルブガイドブッシュの上部にゴム製のバルブステム・オイルシールを取り付け適度に潤滑されるようになっている」
なじみのエンジンリビルダーに聞くと、1970年代の日本のエンジンのなかにはこのオイルシールが早期劣化してオイル下がりしてリビルダーを苦しめたという。当時のオイルシールのゴムはニトリル系だったのが、フッ素系に進化し、こうしたオイル下がりトラブルは聞かなくなったとのことだ。
・・・それにしても、バルブステム・オイルシールを表札の一部に使い、エンジンの神様のお叱りはないのだろうか?
兵庫県三木市にある工具メーカーSEKは、いまや「世の中にありそうでないものを作り上げるツールメーカー」というイメージが定着しつつある。これは「一部の製品は自社工場でつくってはいるが、大半の製品は台湾でつくることでコストとリスクを下げる」手法をとっているモノと想像される。いわゆる工場を持たないファブレス「fabless」企業に近い存在なのである。
となると比較的身軽に新製品の企画を立てられ、商品化の速度も速くなる。
今回取り上げる「スタビヘックスビット・ソケット」はまさにこうした背景で誕生した工具といえそうだ。
いまやヘックスボルトはクルマやバイク、自転車の世界で幅広く使われている。となれば、L型、ドライバー型、ソケットタイプと横展開も豊かになり、さらにロングタイプも登場して久しい。これまでショートタイプがほとんどなかったことが、いまとなれば不思議。
そこで、この工具を使い眺めてみると、意外とよくできているのである。
これまでソケットタイプのヘックスを使っていて、「もっと短いといいのに!」という思いは正直なかったが、使うとなるほど手狭なところでは便利だということは理解できる。しかも鏡面仕上げで、作りが美しい。全長が25㎜なので、機動力は高い。価格も5㎜で850円はとてもリーズナブルだ。サイズは、4,5,6,7,8,10,12㎜の7サイズ。差し込み角は3/8インチである。7個全部そろったハンガーセットで6300円だという。