みなさん!知ってますCAR?

2020年8 月15日 (土曜日)

TOP NEWS

これって イケてるブレーキキャリパー!?

新構造のキャリパー1

新構造のキャリパー2

  「クルマの3大要素の、“走る”“曲がる”の2つにはユーザーさんはお金をかけるんですが、“止まる”についてはどうもシブチンのようなんです」
  先日、埼玉の北部・羽生市にある曙ブレーキ本社を取材したところ、ベテランのブレーキ開発者から、そんな言葉が耳に入った。いわれてみれば、その通りだ。エンジンやサスペンションにはお金をかけてもブレーキには無関心という傾向にある。
  止まる要素って、たしかに考えれば地味で映える要素がない。クルマのブレーキの構成部品を思い浮かべても……ブレーキペダル、マスターバック、マスターシリンダー、ブレーキキャリパー、ブレーキローター、ブレーキドラム。皆々歌舞伎役者でいうと「その他オオゼイ」である。「ですから、今回満を持して開発した新製品で、市場を沸かせたいんです」とばかり、見せてくれたのが、「新構造のキャリパー」である。
  商品のネーミングこそ、開発者寄りで映えがなく、要再考であるが、見栄えは悪くない。
  ひところ憧れた対抗ピストンが内蔵したモノブロックタイプのキャリパーに見えなくもない。従来の鋳肌丸見えのダクタイル鋳鉄(なんて色気がないんだろう!)のキャリパーとくらべると、かなりのベッピンさんだ。「ピストンが収まる穴が見えるのが普通なんですが、これが見えない」とくだんの開発者は解説。なるほど、ピストンホールの作業穴だったんだ、あれ。
  アルミのハウジングのなかに、キャリパーの要素が全て納めており、しかもピストンは2個採用。アルミのアンカービームが追加され、サーキットなどで酷使したさいのチルト(傾き傾向)を抑制して、よりスムーズな制動を実現するという。加えて従来のキャリパーにくらべオールアルミなので、約3割がた軽い。つまりバネ下重量が軽くなり、走りにプラスするということだ。
  ハウジングは、粉体塗装仕上げなので、カラフルなカラーが選択できる。ハイウエイを走るクルマを横から見ると、美しいキャリパーがどうしても目に飛び込んでくるものだ。「かっこいい商品にはお金を使ってくれます」とくだんの開発者は自信満々だった。価格は未定だが、来年発売だというから、走り屋さんならずとも注目だ。

カーライフ大助かり知恵袋1

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第9回)

昭和10年日産工場  鮎川の意を汲んだゴーハムは、大車輪でアメリカから工作機械を買い付け、優秀なエンジニアも招きいれた。そのなかには、鍛造技術者、プレス加工のエンジニアが含まれていた。
  工作機械は、約8割が中古だったが、計850台の工作機械が据えられ、2年後の1935年4月から、ダットサンの一貫生産がスタートした。エンジン工場、熱処理工場、鍛造冶金工場、材料倉庫、ボディ組み立て工場、それに事務所などの建物が建てられた。
  具体的には、当初1933年に生産台数202台だったのが、翌年1934年には1170台となり、さらに翌年の1935年4月には、シャシーからボディまでの一貫生産が完成する。70メートルにおよぶコンベアラインが設置され、日本で初めての流れ作業による自動車の量産体制が確立したのである。この年の年間生産台数は、大阪工場を含め2800台。翌年の1936年(昭和11年)には大阪工場での車両生産が横浜工場に移管され、6163台の生産になっている。新たに加わった大型車と合わせると、8353台にものぼった。
  日産の50年史によると、草創期の自動車製造は、欧米先進国の技術をいちから10までフルコピーしたといっても過言ではないと伝える。「戸畑鋳物が本格的に自動車生産を始めようとした昭和初期、米国ではすでにベルトコンベア・システムにより年産500万台体制が出来上がっていた。日産は当初から外人技術者を招き、その指導を受けた。工場運営の第1歩である使用機械の選定から始まり、生産技術、生産管理技術など全般に及んだ。それに大量生産の裏付けとなる作業時間の把握、標準時間の設定なども学んだ」という。

カーライフ大助かり知恵袋2

ビジュアル・ディクショナリー・オブ・カーズ

絵本1

絵本2

  この本を眺めていると、絵本ほど即効性のある癒しを得るものはない、ことが理解できる。
  「絵本」というとふつう子供向けに作られた図書だが、この絵本は、手抜きのない大人向けの絵本である。というか、正確には、子供心を呼び覚ます大人向けの本だ。
  ・・・・でも、待てよ、書かれている英語を見ると、まんざら大人向けというよりも、(英語圏の)子供向けだということもうすうす気づく。というのは、やさしい英語だからだ。たしかに専門用語は使われてはいるが、文章の基本構文はシンプルで、中学英語である。
  30年ほど前にアメリカの本屋で買い求めた記憶があるが、久々に手に取るとなかなかに発見が少なくない。
  たとえば、プラグの進化が写真で分かる。1888年製のベンツのスパークプラグは、基本構造こそ現代のNGKプラグと同じだが、図体が10倍近いシロモノだし、50年ほど前にはすでに白金プラグが登場しており、それにはガラスのインシュレーターが採用されてもいる。
  ブレーキの歴史もすごい。ドラムブレーキ、ディスクブレーキの前にバンドブレーキが登場し、その前には路面に当たる面を摩擦材で押し付ける「リムブレーキ」があり、その前は地面に棒を突き刺しクルマを止める「スプラグ・ブレーキ」というものまであったことが判明(写真)。いまでは消えてしまった自動車部品「キャブレター」の歴代をカットモデルで見せてくれてもいるのは圧巻だ(恐竜図鑑のようでもある)。それにそれに、例の累計1500万台以上販売された名車フォードT型のシャシー分解写真もすごい。「これなら納屋で修理できるかも」そう思わせるほどシンプル構造であるのはわかる。
  フォーミュラカーは、1990年のルノーV10エンジンを載せたウイリアムズだ。こちらのエンジン分解写真は、残念ながらない。版元はDORLING KINDERSLEY。縦31㎝横26㎝の大判で、総ページ数は64ページ。

愛車メンテのプラスアルファ情報

これって・・・・・新境地を狙ったコンビレンチ!?

スピードコンビレンチ1

スピードコンビレンチ2

スピードコンビレンチ3

スピードコンビレンチ4

  なんとも不思議な工具を発見した。
  SEK(スエカゲツール)の「スピード・コンビネーションレンチ」(品番43SR)である。
  コンビレンチだから、当然スパナ部とメガネ部を持つ。ところが、この工具、何しろ「早回し」を信条とするので、よく見るとスパナ部もメガネ部も形状が、ふつうではない。スパナ部は、ギザギザ山が7山。4点でボルトの頭やナットを回す。とくにメガネ部は、相手サイズのボルトの頭をつかもうとするとグズグズでデカい!
  メガネ部は、楕円形で、先端部の内面はのっぺらで、手前にはやはり山が7山ある。つまりこの山にボルトの頭部を押し付け、駆動するのである。通常のメガネなら、ちくいち工具を相手のネジから外して付け替え(掛け変え)ながらの作業だが、これは、少しずらすだけで回せるという理屈。ただ、通常のメガネとは異なるので、使ううえで慣れというか、コツが必要となる。このことを承知していないと、イラっとすることがあるので要注意。
  でも、いずれにしろ本締め用ではなく、あくまでも「早回し」を得意とするユニークな工具である。
  仕上げは表面加工で、しかも薄型タイプ(12㎜で全長160㎜、重量54g)。サイズも大きめに表示しているので好感が持てる。写真は、12㎜だが、8㎜から、10,12,13,14,17,19㎜と7サイズある。価格は、12㎜が1200円。7本組みセットで9550円である。

2020年8 月 1日 (土曜日)

TOP NEWS

ちいさなブレーキ博物館 下町のモノづくりの心意気!

下町のブレーキ博物館  東京の墨田区は、江戸の昔から続く伝統工芸のほかに、明治初期には時計、革靴、革鞄、肌着、石鹸など日用品の生産地として親しまれてきた。そのスミダに、小さな「ブレーキ博物館」が誕生して約20年、すっかり下町の博物館のひとつとして馴染んでいるという。
  今回初めてうかがったのは、コロナ禍で来場者数が減ったということもあるが、うっかりすると消えてしまう恐れがあるからだ。なくなってからでは遅い。
  この博物館、中山ライニング工業というブレーキ専門メーカーが母体である。日本のモータリゼーションが始まった昭和40年ごろから、ブレーキに特化した街の工場である。“ライニング”というぐらいだから、ドラムブレーキの時代からである。いまではディスクブレーキが主流である。といっても曙ブレーキのように摩擦材からつくるのではなく、摩擦材を専門メーカーから購入し、すり減ったブレーキ素材に新しく摩擦材を張り替えるという、リビルトなどを手掛ける企業である。
  この工場の得意技のひとつは、摩擦材の張替え作業だという。トラックなどのライニングはリベットを取り外せばいいが、乗用車、それもいわゆる旧車といわれる使い込んだ車のブレーキパッドの再生は、裏金(うらがね:怪しげに聞こえるが摩擦材の裏側にある金属の意味である)と呼ばれるパッドの金属ベースを回転する砥石を使い、古い摩擦材をきれいに削り落とすことから始まる。ここに角板と呼ばれる新品の摩擦材(肉厚約10㎜程度)を樹脂系とフェノール系の2液タイプの接着剤をつかい張り付ける。この半製品を約200°Cで30分以上焼き上げ、最後に角をけずったり、厚みを整えたり、面粗度を整えて製品化する。「ブレーキ時の鳴きをなくしたい」とか「ホイールに付着するダストを少なくしたい」そんなユーザーの要望(日本のユーザーは昔からこのあたりの要求が強いとされる)に応えるため、5種類ほどの摩擦材から選択するのだという。「ワンオフですから、価格は純正より当然お高くなります、まぁ1.5倍以上ですね」(高須さん)というが、ブレーキにこだわりのあるユーザーはいつも一定数いるという。
  ところで博物館は、クルマのブレーキとは何だ? その構造はどうなっている? ということから始まり、新幹線のブレーキは? ブレーキを無視するとどうなるか? スーパーカー・フェラーリにブレーキパッドは? といった日頃のブレーキにまつわる疑問にズバリ答えてくれる、そんな場所である。ごくごく小さい博物館なので、30分も時間があればOK。錦糸町の駅から徒歩12分だ。写真は、シミュレーターマシン。ブレーキペダルを踏むとその仕組みがわかるだけでなく、べーパーロックで制動力ゼロ状態や、アンチロックブレーキ装置のABSの効き具合も体験できる。℡03-3632-6931

カーライフ大助かり知恵袋1

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第8回)

ウイリアム・ゴーハム  ところが、満州事変がキッカケで景気が良くなり、とりわけ金価格が上昇したことから、日本鉱業の業績がいちぢるしく好転し、日本産業は飛躍の機会を得た。そして創立4年後の昭和7年に、日本産業は当初からの方針の持ち株の公開と、傘下企業範囲の拡大を図り、そのために短期間のうちに旧来の三井、三菱に匹敵する日産コンツェルンを形成するのである。日産自動車は、こうした巨大企業グループの支援の下に、日本最初の本挌的な自動車産業を目指すのである。
  「満目荒涼、地に一木一草の影をとどめなかった。折からの夕陽を浴びた富嶽(ふごく:富士山のこと)は、その雄大秀麗な全景をあらわし、この不毛な原野に、何人も企画しえなかった難事業が開始される」
  いま読むと肩ぐるしいが、これは昭和8年12月22日、日産横浜工場の地鎮祭を描いた社内報の記事である。表現は大時代で苔が生えかかっているが、当時の工場建設の前風景がよく伝わる。“見渡す限り、荒れ果てて寂しい感じで、地面に目をやると草木の1つも生えていない。遠くに富士山が夕日を浴びて美しく輝き、このなにもない原野に、これまでだれも考えだにしなかった自動車産業という未知のビジネスを始める”といった感じか。
  とにかく、日本でこれまでになかったマスプロダクションの自動車工場が自分たちの手でつくり上げ、世に自動車をどんどん送り出していく、そんな意気込みが感じられる。
  工場の建設自体、未知の世界で、難事業である。新工場に据え付ける工作機械類を買い付ける役目をしたのは、アメリカ人技師のウイリアム・ゴーハムだった。鮎川義介の人脈のひとりだったゴーハムは、8歳若い1888年生まれ。サンフランシスコでエンジン製造会社を営んでいたのだが、子供の頃父に連れられ、訪ねた日本が恋しく1914年、ゴーハム36歳のときだ(写真;桂木洋二著「日本人になったアメリカ技師」より)。鮎川の面倒見の良さもあったようだが、日本人の勤勉さと優秀さ、それに日本の風土に魅せられたようだ。

カーライフ大助かり知恵袋2

図説「世界の最悪クルマ大全」という単行本の楽しみ方

最悪クルマ大全1

最悪クルマ大全2

  「ボディは2年と持たずに、難破船のごとくサビつく。南イタリアの難破船」1972-84年に販売されたイタリアのアルファロメオ・アルファスッドを一刀のもとに切り捨てる。返す刀で「駄作は駄作! 金の卵を産んだアヒルだ」とばかりに名車クライスラーのエアフロー(1934年発売)を木っ端みじん。このクルマ、じつはトヨタがクルマづくりの時点でお手本にした名車とされているのである。
  日本車にだって容赦ない。たとえば初のロータリーエンジンを載せたマツダのスポーツカー「コスモ」のことを「目をそむけたくなるほどみっともない姿。カモノハシにそっくりだ。陸に上がった巨大魚」と皮肉る。1960年~70年代のクラウンには「調和を欠く見苦しいスタイリングは道路に対して失礼なほど。王座(クラウン)からはほど遠い古き悪しきトヨタ車」と、これ以上ないほどのあしざまな批評。
  1980年代後半に登場したいすゞの「ピアッツァ・ターボ」については、「掃除をさぼるとシル(サイドシル)やドアボトムに大きな穴が開きかねない。王様になれなかったクルマ」とずいぶん手厳しい。この時代の日本車は押し並べて、錆に苦労したことが知られてはいるが、それにしてもだ・・・別の見方をすればかなり古いクルマが多い(全部で150車)なので、自動車メーカーとしては痛くもかゆくもない、のかもしれない。
  筆者のグレイグ・チータム氏は、英国の自動車雑誌AUTO EXPRESSで活躍のライター。監修は、いまは亡き自動車ジャーナリストの川上完さんだ。
  この本、クルマ好きには、ドキドキのしっぱなしだが、冷静に考えれば、本来クルマは趣味の対象であれば「アバタも笑窪」となるが、生活者から見れば、こうした厳しい批評は消費者のためになる。でも、それでも心優しい日本人には、毒が多すぎる!? 英国人の皮肉を日常のなかで、薬としている、そんな人には大いに笑え、涙を流す、そんな本である。版元は「食人全書」、「不潔の歴史」などユニーク極まる人文書を得意とする原書房。初版2010年で、価格は2400円。英語のタイトルは「THE WORLD‘S WORST CARS」である。コロナ禍のなか、毒のあるクルマ本の紹介でした。

愛車メンテのプラスアルファ情報

つかむ! のではなく、叩いて溝をつくり緩める!

なめネジを外すⅰ

なめネジを外す2

なめネジを外す3

  ねじ径が3㎜から6ミリの皿ネジやナベネジ、はたまたトラスネジと呼ばれる「小ねじ」。その頭がつぶれた! この緊急事態に普通の工具では、お手上げだ。緩めることも締めることもできない! 
  こうした状況で、近年一世を風靡したのがネジザウルスをはじめとした“特殊先端部を持つプライヤー”である。相手のネジの頭部をつかまえるべく、縦溝横溝をしつらえた特殊プライヤーで捕まえ、緩める・・・・というものだ。ところが、プロのなかには「数回使うとせっかくの特殊な溝が磨滅し、ふたたび使うのは難しい」そんな評論を下す向きもある。たしかに、微妙な溝なので、チカラを込めてつかむと磨滅するケースもあるやもしれない…‥?!
  今回取り上げる「特殊ドライバー」は・・・・果たせるかな『なめたネジを外すドライバー』(品番:SID-880D)という、その名の通りの商品名。
  なめてしまった小ねじのアタマに、このドライバーの先端部を押し当て、ハンマーで思いっきり叩いて、溝をつける。その溝を手掛かりに再び通常のドライバー(あるいはこのドライバー)で回そうというものだ。つまり、“鏨(たがね)的能力”を持つドライバーといえる。先端部をズームインすると、たしかに、鏨に似た形状をしている。
  手に持つと、ずしりと重い。測定すると130g。非貫通ドライバーより3割増しの重さ。面白いのが、全長だ。170㎜と通常の貫通ドライバー(2番)が210㎜あたりなので、2割ほど小振りにできている。これも「鏨的能力」を発揮させるための作り手側の意図が垣間見える。グリップエンド部は、「うんと叩いても変形などしないよっ」とばかりのデザインとなっている。軸自体は工具なしで抜けるので、先端部が傷んだら新品に交換することができる。
  ホームセンターにて990円で手に入れたもの。どのくらいのパフォーマンスなのか、その機会が待ち遠しい。発売元/藤原産業。


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