北欧スエーデンでは2025年からガソリン車、ディーゼル車など化石燃料をエネルギーとする新車販売を中止する。アメリカのカルフォルニアでは2035年からガソリンエンジン車の販売中止が決定。イギリスも化石燃料車の販売を5年前倒しの2030年に全面禁止、オランダとドイツも2030年からの販売中止を決めている。
数年前までハイブリッドカーで欧米よりもクルマの環境問題では一歩先を進んでいたかに見えた日本。
でも、こうした欧米の方針に当初戸惑い、おかげでいまや後れを取ってしまった様相だ。そこで、この年末には、日本政府は、「温室ガス排出をゼロにする」という宣言を出すという。
菅首相が打ち出した「2050年にはクルマから出る温室ガス排出ゼロ」を実現するため、2030年代に売られるクルマをすべて環境にやさしいEVや燃料電池車に切り替える、という流れを作ろうというのだ。クルマの寿命を20年とする計算だ。だから20年前に販売中止にすれば、化石燃料車はいなくなるという目論見だ。
ところが、よくよく聞いてみるとどうも、日本の環境負荷ゼロのクルマのなかには、ハイブリッドカーが含まれているのだ。欧米ではハイブリッドカーは、化石燃料車の範疇なのに!
ハイブリッドカーは、モーターで走る領域があるが、あくまでもエンジンでも走る。だからCO2がでます。重ねて言うが、欧米では、このハイブリッドカーは将来のゼロエミッションカーのなかには含まれていない。仲間外れされる運命のハイブリッドカーは、日本では「シェアナンバー・ワンのトヨダの屋台骨」だから、排除できないつらさがあるようだ。皮肉な見方をすれば、かつての環境優等生HVが喉につかえる小骨になってしまう!?
日本はいまのところ、EVはわずか1%。これを多数派に持っていくのは至難の業ではない。
テスラモータースのEVを考えても、なにしろEVは値段が高い。中国のように43万円のクルマ(9月の中国での販売数2万台を超え、テスラを抜いたそうだ!)が出てくれば一条の光が見える(写真)。でも、先日発売された「ホンダe」など約500万円もする。トヨタからも近々“ピュアEV”が出てくるようだが、ガソリン車並みの200万円カーとはいくまい。
これが「前門の虎」とすれば「後門の狼」もいる。
肝心の電気のミナモトをどうするかだ。かつてM社の電気自動車の試乗会に出かけた時、ガソリンを使った発電機で電気を起こし、それを新型EVに注入している楽屋裏を見てしまったことがある。そもそも、家庭用電源の4割は石油と石炭の化石燃料で作り出しているのである。だから、再生可能エネルギーの拡大も急務となる・・・‥どこまでも後ろめたさが付きまとう課題だ。
昭和20年5月の横浜空襲で横浜市の大半は焼失したが、日産の横浜工場は幸いほとんど被害を受けなかったようだ。
だが、終戦間際には、資材の不足や空襲、それに物流が途絶えるなどの影響で、生産性が激減し、昭和20年8月15日の敗戦の日までであるがトラック生産が1801台、ダットサンは2年半でわずか804台の生産だったという。
終戦後、鮎川は、戦争に協力したかどで逮捕され巣鴨プリズンに収容された。その間、監獄のなかで鮎川は敗戦後の日本の産業を立て直す基本を考えたという。そして、これからの日本復興には、中小企業の振興が欠かせないという結論にたっした。
鮎川は幸いなことに戦犯として起訴されることなく、1年半で出所した。だが、公職追放となり、表舞台には立つことができない。その後日産の相談役にはなったが、経営にとくに口出しすることがなかったようだ。1956年に日本中小企業政治連盟を設立したり、国会議員として活躍するも、次男の鮎川金次郎の運動員の選挙違反容疑に連座し、1959年に責任を取り議員辞職している。その後、病を得て、1967年2月に死去している。
その後日産は、倒産の危機に立ったり、朝鮮戦争の特需のおかげで息を吹き返したり、労働争議に巻き込まれたり、さまざまな事柄に巻き込まれながら、高度成長経済下で、トヨタとともに日本のモータリゼーションの牽引車の代表選手として、活躍した。【写真は、日産トラック戦後第1号車のオフライン 「日産自動車50年史」より】
(鮎川義介物語は、これでおしまいです。次回からは、『遅れてきたお雇い外国人ウイリアム・ゴーハム伝』をお届けします。そのなかに鮎川義介も出てきます。お楽しみに!)
「シュウ……シュウ……ボオ~ン!!」
手のひらサイズ(90×35×3㎜ほど)のリチウムイオン電池が、いきなり火を噴いた。音こそ大きくはないが、炎が40~50センチほど立ち上がっただろうか。電池は燃えながらまるで身重の妊婦のように膨れ上がった! 燃えている時間は30秒ほど。
2年半ほど愛用していた手持ちのiPhone6S。バッテリーがかなり劣化(半日で空っぽになるほど)したので、通販で2000円弱で手に入れたバッテリーを交換しようとしての思わぬ事故だった。
購入したバッテリーには工具一式(ミニドライバーやスクリーンを取り外すとき使う吸盤や樹脂製のスクレーパーなど)が付いていて、さほどの専門知識がなくても作業ができるというから挑戦したのである。街の専門店だと5000円ほどかかるようだし、ここは好奇心を梃子にDIYやろうと思い立ったわけだ。
吸盤でスクリーン(ガラス面)を浮かし、隙間をつくり付属のおむすび型の樹脂工具で徐々にその隙間を大きくし、ついにスマホをガラス面と電池+LSI部の2つに分離。これがスマホの中身の顔か?
フムフム、バッテリーがあり、バイブレーション、クルマとは違ったコネクター部などなど…・いちおうじっくり観察したのち、いよいよ古いリチウムイオン電池を取り外し作業。付属の樹脂スクレーパーを使いハウジングとの間の両面テープをシコシコはがしにかかるが、かなり頑固に密着しているため、容易にはいかない。そこで、手持ちのマイナスドライバーをハウジングと電池のあいだに差し込み、グイっと力を入れた途端、冒頭の“大火災事件”は起きたのである。
火が収まって、自然冷却したのは、5分ほどたったころだ。
火災の原因は、金属でリチウムイオンの内部を刺激したからだ。樹脂製ならこうはならなかったハズ。頓馬もいいとこだ!
“これだけの火災事故! 熱が周囲に伝わり、肝心のLSIなどのユニットにも200℃以上のストレスが加わり、パンクしているはず!”“データも消えているし、また新しく買い直すしかないか……”かなりの絶望的気分が襲い掛かってきた!
でも…‥一縷の望みもあるのでは? ここまできたら試してみるのもいいかも、ダメで元々だから。
新しい電池を組み込み、取り外したゴミぐらいの小さなネジをいくつもねじ込んだ。そして、もとのカタチにして、メインスイッチを入れてみた。
するとどうだろう? 全く問題なく作動してくれたのだ。ノー天気にもデータを保存していなかったのだが、データも無事温存されている。奇跡じゃないの、これって! 思わず、喜びでドキドキした!
それにしても・・・・炎が、上にのぼったおかげで、隣にあるLSIの部品などには、さほどの熱が伝わらなかったのか? あるいは、ユニット自体の耐熱性が高いレベルにしてあるのか? クルマにもリチウムイオン電池が使われ始めている。気にかかるところだ。
スマホの生みの親の一人スティーブ・ジョブズの伝記(講談社版:上下2巻の分厚いものだ)を読んで知りえた耐久試験のエピソードの件が記憶から少し蘇って、ジョブズの偉大さを理由(わけ)もなく再認識した気分になった。書斎はきな臭い香りが残り、ますます実験室になる!?
なくてもいいけど、あれば少し便利かな?
食料品や住居は別にして、世の中には、そうしたモノであふれている。でも、すべからくいえるのは、ある人には便利でも、別の人には、不用品となる、そんなモノで、世の中はあふれている、とも言えなくもない。
今回紹介するのは、「ボルト・ナットゲージ」である。台湾製で、ホームセンターを歩いていて578円で手に入れたものだ。
こうした類のものは、昔あった気がする。ピッチゲージだ。ネジのピッチを測定する板金製のツール。
これはそれとは違い、ネジ径とボルトのネジの長さを測定するものだ。ネジ径といっても、意外と認識している人は少ないかもしれない。普通の人は、ネジ径よりもネジの頭の6角部の2面幅に大注目するだけで、ネジの直径など気にしない人が多い(かつてのバイク仲間の仲間もそうだった)。
でも、まぁバイクやクルマで比較的よく見かける“ネジ径8㎜のネジ”は、6角頭の2面幅が12㎜である、ということぐらい覚えておいて損はない。それに街のネジ屋さんに行くとき、現物を持参し「おじさん、これと同じネジください!」と伝えるよりも、あらかじめネジのスペックを調べて置き(万が一のためサンプルのネジはポケットに入れておくこと)、「ネジ径がいくつで、頭がヘックス、ネジの長さ〇〇ミリのネジあります?」とハキハキと伝えたほうが3倍はカッコいい。
という具合に、この樹脂製のゲージは、手元のネジを片っ端から、拾い出し、ネジ径とねじの長さを測定することで、よりネジに親しめる、そんなゲージである。すると見ただけで、ネジ径などのスペックを言い当てられる!
インチとmmの換算表もあるし、ナットのサイズ(なぜかインチだけだが)も調べられる。輸入販売元は新潟県三条市の「シンワ測定株式会社」(℡0120-666-899)だ。
長引くコロナ禍で、取材こそしづらい状況が続いた。でも、原稿やデータなどはずいぶん前からリモートでのやり取りなので、外出自粛要請が出ても、さほど日常生活が激変するわけではない。そんなふうに高をくくっていた。
6月に引っ越し作業があったのだが、日常生活はノホホンとしたものだ、と自分では自覚していた。
だから、11月中頃娘が所有するかつての愛車ファンカーゴ(走行11万5000キロ;2年前5年ほど放置してあり、旧いガソリンを抜き車検を受けた曰く付きのクルマ)が車検と聞いても、のんきな気分だった。
ふと自分がいま乗るシエンタの車検がふと気にかかり、フロントガラスの例のステッカーをしげしげと眺めたところ、ナ、ナント!すでに車検が切れて3か月以上がたっていたのだ。あろうことか、車検切れ車に数か月間乗っていたのだ。
昔にくらべフロントガラスに貼り付ける車検シール(標章)が小さくなった。ちかくのディーラーからの車検がマジカになると舞い込むセールスハガキが引っ越しの不手際で届かなかった。といくつも屁理屈は並べられるが、やはりコロナ禍で頭のなかが混乱していた要素があり、複合的理由で≪車検切れ、自賠責切れでクルマを走らせている≫というヤバい状況を生み出した(一番の原因は、筆者のぼんやり! というかボケ)
さっそく、15分ほど自転車を走らせディーラーで自賠責に入ったのち、区役所の総務課庶務課の窓口で仮ナンバー(写真:正式には“自動車臨時運行許可。横浜南区役所にはなんと67の窓口があり、仮ナンバーはブービーメーカーの66だった)を750円でゲット。継続検査(車検)はどこの陸事でも受けられるが、空いていて便利な川崎の検査事務所をネットで予約したのち、24か月点検をおこない、いざ車検場に!
排ガス検査のところで、アクセルとブレーキペダルをあれこれ操作して「整備モード」にして、エンジンを常時アイドリングさせる。だが、これがうまくできず、近くの検査官に口頭で指示を受けるも、サイドスリップ検査、ヘッドライト検査、ブレーキ検査、スピードメーター検査、下回り検査などを含め、全項目マル!無事車検合格。あと2年の公道走行のお許しが出ました。
それから約10日後、次に11万5000キロを後にしたファンカーゴの車検(2000年式なのですでに10回近い車検となる)。
前回の車検では当方がハンドルを握り試験を受けたが、今回は娘が初の挑戦。横に付いて取材することにした。「車検はクルマの試験。ユーザーが試験を受けるわけではないので冷静に検査官の指示をよく聞いてやれば大丈夫」とエールを送る。
彼女、ユーザー車検窓口で「初めてです!」と告げたおかげで、検査ラインでは運輸局OBの人のよさそうなおじさんが付きっ切りで、あれこれアドバイスを受けていた。当方は、ソーシャルディスタンス越しに眺めながら「・・・・どちらかというと男の世界では・・・・女性はなんて有利なんだろう!」という実態をリアルに再確認。ファンカーゴも無事一発で車検に合格しました。
「サイドブレーキって駐車ブレーキのことなんだね、お父さん! 車検場って広すぎるし、2年に一度だと忘れちゃうね」新しい車検シールをフロントガラスに貼りながら、これが彼女のひとこと。
いまやサイドブレーキは死語なのかな? 微妙な言葉の違いでジェネレーションギャップを感じるのでした。空には秋の広い空が広がっていました。
満州での「満業」の成功のカギは、日本の資金だけではなく、アメリカの企業の技術や資金を導入することだと見極め、それらを実行に移そうとした。軍は、あくまでも日本国内での自力を頼りにして、自動車産業や重工業を起こす、というのが方針だった。鮎川はこのことはある程度理解していたつもりだが、やはり読み違えが起きていた。日本の統制経済が進み、満州での鮎川の野望は崩れていった。そして、1941年12月の日米開戦で完全に夢は砕け散った。
戦時下の日産では、すでに鮎川は社長の座を部下に譲り会長の座についている。
戦時体制下では、トヨタもそうだが、日産の軍需工場となっている。1942年には船舶、航空機、鉄鋼、石炭、軽金属の5つの分野を重点産業に指定した。日産は、軍から自動車の生産の余力で、航空機エンジンをつくるとの命を受け、練習用の航空機エンジンである直列4気筒100馬力の「ハ47」(写真)の試作を翌年6月から、横浜工場で始めている。航空機エンジンの本格生産は、横浜工場でおこなわれていたが、増産を目指して白羽の矢が立ったのは、静岡の吉原工場だ。ここは、もともと人造絹糸、つまり洋服の糸をつくる工場なので、大幅な改造を擁した。敗戦の前年1944年末になると、横浜工場に疎開命令が出され、自動車部品の製造を含め、すべて吉原工場に移された。ちなみに、航空機エンジン「ハ47」は、日産の工場では、昭和19年3月から始め、月産50~150基だったが、最盛期の昭和20年5月には月産200台を超えている。
オートバイの魅力というのは、クルマ以上に感性に左右される乗り物で、クルマ以上に個人的な乗り物なので、興味のない人に説明するのはとても難しい。でも、ふだん人々に話をとして笑いをとる商売の落語家、噺家なら、その難問をするりと解いてみせるのでは? そんな気分で、手に取った文庫本が柳家小三治の『バ・イ・ク』(講談社文庫:2006年刊)である。
柳家小三治は、1939年(昭和14年)の東京生まれ。
『バ・イ・ク』は、寝っ転がってどこからでも読み始めても面白いエッセイ集である。
筆者は、(本当は恥ずかしいのだが)正直にバイクに乗り始めたときの体験を明かしている。人馬一体、ならぬ人車一体となる前の“機械と人”の違和感。馴染みづらい関係。早い話初心者というかへたくそライダーが必ず通過する≪マシンをどうにも操作できずにふつふつとする感慨≫を実体験をまじえてこまごま描写することで、自分を見つめるのである。
そしてこういう境地に達する。ここがすごい。やはり観察力が鋭い噺家だ。表現も的確!
「だから、オートバイは危ないというけど、危なくしているのは人間であって、オートバイそのものは何にも危ない乗り物ではないんですよ。オートバイを自由にしてやる。右行け、左行けって、乗ってる人間が無理やりねじ伏せないで、砂利にゴトンとぶつかると、オートバイは、嫌だなと思ったら右行くんです。だから、右に行かしてやればいいんで、右行っちゃだめよ、左だよって、ハンドルを切るとステンといくんです。オートバイってのは、ねじ伏せようとすると人間には向かう。だから、オートバイをうまくあしらいながら、君の好きなように行っていいんだよって言いながら、ステップに乗った体重で右や左に後押しをしてやるというようなことを、だんだん砂利道を走る間に覚えるわけです。そういうことをやりながら、ああ人間も同じだなっていうことを思いました」
タイトルを「バイク」としないで一字ずつ中黒(なかぐろ)を入れた『バ・イ・ク』としたのは、こんな思いが込められていたんだなと一人合点した。そして、この本を読み終え、むかし仕事仲間で岩手のイーハトーブをともに走った漫画家のイトシンさん(著書に『イトシンのバイク整備ノート』など)を思い出しました。
考えるまでもなく、これはなんとも不思議な工具である。
近くのホームセンターで、何気なく手に入れた“メガネ部首振り兼ラチェット機構を組み込んだコンビレンチ”。12ミリのコンビレンチなのだが、メガネ部が首振り式で、しかもラチェット式というものだ。
いっけんするだに、普通の工具に見える。だが、左右の切り替えが曲者なのだ。
通常メガネブの根元に切り換えレバーが付いていたり、逆向きにして左右の切り替えをする。
ところが、これは、“ボルトにセットし、軸に書いてある矢印方向に押し付けながら、締めたい方向(左右どちらか。LかR)に回せば締め緩めの切り替えができる。最初、飲み込めずうまくゆかなかったが、割りと軽い力で押し付けたまま回せばいいだけ。押したまま回したい方向に回す、というのが、ポイントなのである。
何度もやってみるとときどきカチッという音がするので、内部で左右切り換えをしていることがわかる。(ヒンジ部にトルクスらしい小さなボルトがあるが、取り外す工具が見当たらず、宿題だ)
身体検査をしてみよう。12㎜のサイズで全長は180㎜、重量98gはごくごく標準の長さと重さだ。表面は写真で見るように鏡面加工がしてある。しかもギア数は90とかなりなものだ。
首振り角度は180度、つまり直線でも、まっ直角でもOKというものだ。価格は1080円。これまたリーズナブル。台湾製だ。販売元は(株)LIXILビバ TEL0120-97-1146