みなさん!知ってますCAR?

2021年5 月15日 (土曜日)

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イーロン・マスクの野心は中国で実を結ぶか?!

テスラと中国  アメリカには、織田信長のような野心家が、綺羅星のごとく現れる。
 イーロン・マスクもその一人だといっていい。アメリカ人の技術者の父親とカナダ生まれ南アフリカ育ちのモデルの母親との間に、生まれたイーロンは、南アで育ち、アメリカのシリコンバレーで成功した青年実業家(49歳だけど)である。宇宙開発事業のスペースXの創設者であり、電気自動車メーカーのテスラ・モーターズのCEOである。
  テスラ・モーターズが、企業価値で昨年トヨタを抜き去ったと聞いて驚いたが、あれよあれよという間に日本の自動車メーカー9社の時価総額をもすでに軽く抜き去っていたのだ! 
  そのテスラ・モーターズが、先月中国で開催された上海モーターショーで、ハプニング的な事件が勃発した。
  モーターショーのブースで、ひとりの中国女性が、いきなり展示してあるテスラのニューモデルの屋根に登り、大声で抗議したという。彼女が着るTシャツには「ブレーキがきかない!」と中国語で大書。すぐ警備員に取り押さえられたが、不具合での対処に問題があったようだ。ひとりのユーザーがこれほど怒りを爆発させたのは、よほどひどい仕打ちを受けたのか?
  電気自動車で先行している中国では、世界に先駆けEVの比率を増やす政策が進行中だ。新エネルギー車と呼ばれるEV,PHV(プラグインハイブリッド)、FCV(燃料電池車)以外を締め出す策である。トヨタが得意のHV車(ハイブリッド)が入らない。
  こうした情勢でイーロン・マスクのテスラは、一昨年に上海にEV生産工場を作り、中国市場にガンガンご自慢のEVテスラを販売している最中なのだ。昨年の中国での販売台数は約14万台で、今年はその2~3倍になる見込みだ。
  14億人が住む中国市場を席捲すれば世界の自動車市場の3割は支配できる! そんな雰囲気だ。
  ところが、テスラ・モーターズの前に、いろいろな課題が襲い掛かっている。
  さきのモーターショーでの女性ユーザーの抗議もそれだ。不具合をめぐる対応は、経験とノウハウが必要とされる。経験知の浅い自動車をはじめモノづくりメーカーにとっては死角なのだ。
  もう一つ危惧されているのは、最近中国政府や人民解放軍のあいだでテスラのクルマに乗ってはいけない、という指示が出されたという。自動運転を支えるカメラやセンサーが搭載されているテスラ車に乗ることで、中国要人の機密が外国に漏れる恐れがあるというのがその理由。ビッグデータの海外持ち出しについても懸念しているのである。
  イーロン・マスクは中国側に丁寧な説明して火消しをおこなっているようだが、バイデンの対中国政策を見ると、今後の見通しにややもやがかかった。「テスラは対中国対策の人質になる」そんな見方をする向きもあるようだ。習近平、バイデンそしてイーロン・マスク、この3人の三国志物語!?

カーライフ大助かり知恵袋1

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第10回)

クシカー  ゴーハムは活動の不自由となった櫛引のために、特別な片足でも運転できる3輪車を作ってあげたのである。
  友情から誕生した手作り3輪車。これがクシ・カー号、のちに量産されてゴルハム式自動3輪車の原型となるクルマだ。大正8年(1919年)ごろの話だ。エンジンやフロン回りは、オートバイ・ハーレーダビッドソンの部品を流用し、後ろのシートは人力車のように2人掛けができるバーハンドルタイプの3輪車だ。片足でも運転ができる仕掛けとした。
  ちなみに、大正時代に入ると、日本は政治的にも経済的にも世界の列強の一角に数えられるようになり、都市部ではハイヤーやタクシーの営業が始まり、自動車の保有台数が増え始めていた。これは欧州を舞台となる第1次世界大戦(1914~1918年)の戦争景気による。ヨーロッパ諸国が戦争に熱中する間に、日本が世界の輸出市場をどんどん奪っていった結果、日本に富が集中し始めたのだ。
「足の悪い櫛引が乗れる3輪自動車が登場し、注目を浴びる!」・・・・ということは、おそらく間違いなく、ゴーハムが手持ちの部品でつくり上げたクシ・カー号は、日本初の“初代福祉自動車、ウエルキャブ”の第1号といえる!?
  川崎の企業によるトラック生産事業は、実は途中で資金繰りが苦しくなり、あえなく頓挫してしまった。
  ところが、捨てる神あれば拾う神ありで、フレンドシップからたまたま作りあげ、横浜などを走り回っていた櫛引弓人が乗る「クシ・カー号」が、大阪の「実用自動車製造株式会社」の幹部の目に留まったのだ。
  「実用自動車」は、「久保田鉄工」(現・クボタ)が大正8年創設した会社。久保田鉄工は、農家の末っ子で広島の尾道出身の久保田権四郎(1870~1959年)が起こした企業。15歳のとき大阪に出て丁稚奉公から身を起こし、鋳物工業で天秤秤(てんびんばかり)の分銅(ぶんどう)から始まり水道管などの鋳物製造で財を作り上げ、その余力で自動車メーカーを立ち上げようとしていた。ゴーハムの3輪自動車の製造権利を手に入れただけでなく、ゴーハム自身を好待遇で技術担当者として招き入れたのである。
  のち日産でダットサンの開発の中心人物となる後藤敬義(ごとう・のりよし:1898~1967年)は、当時ゴーハムのもとで薫陶を受けていた。
  自動3輪車の試作のかたわら、工場の設備計画の指導をおこなっていたゴーハムの仕事に打ち込む姿を見て、のちにこう語っている。「アメリカから世界一流の工作機械をはじめ、自動車の資材、ボルト・ナットにいたるまで、すべてゴーハム氏の計画ならびに斡旋で輸入された。準備は周到をきわめ、少しの手落ちもなかったことに社員一同おおいに感嘆した」。
  ゴーハム氏ひとりで、この工場をまとめたといっても過言ではないのかもしれない。

カーライフ大助かり知恵袋2

僕の本棚:梅原半二著『平凡の中の非凡』(佼成出版社)

平凡のなかの非凡  筆者である“梅原半二”ときいてピンときた人は、ほとんどいないと思う。“はんじ”という名前自体、歌舞伎に出てきそうなふた昔前の人みたいだし……。
  一昨年亡くなった哲学者で日本古代史研究家・梅原猛氏(1925~2019年)の実の父親で、トヨタ自動車の技術的基礎を築き上げたエンジニアのひとりである。1903年(明治36年)に愛知県南知多町で生まれ、1989年亡くなっている。
  聖徳太子や柿本人麻呂などをめぐる野心的で独創的な推論を提供した梅原猛。それと初代トヨタ・コロナの陣頭指揮をとったエンジニア。面白い取り合わせである。
  この親子のつながりを眺めると、なかなか興味が尽きない。しかも、この息子は、幼児期に母親が結核で他界し、父親の半二も同じ病を得て長期入院をしたことで、父親の兄のもとで養育される。人生の非情さのなかで、息子と父親がそれぞれ自分のオリジナルな仕事を見つけ懸命に生き抜く…‥。
  この本には、そうした物語を直接描いてはいないが、二人の足跡に思いを馳せざるを得ない。
  仙台の東北大学で、機械工学を学んだ半二は、たまたま豊田喜一郎と同窓が担任教授だったことで、トヨタ自動車に入社する。1936年、昭和11年。卒業後、肺結核にかかり長期入院していたため、数え34歳での就職。
  イチからクルマづくりを始めたトヨタの草創期だ。たずさわったのが熱交換機であるラジエーターだ。ところが、途中で肺炎がぶり返し、ようやく病が収まり、クルマの冷却システムを確立していく。この分野はエンジン本体と比較すると地味な研究に映るかもしれないが、ウォータージャケット、ラジエーター容量、クーリングファン、ラジエーターグリルの容積とデザイン、ウォーターポンプ、サーモスタット、ファンベルトなど空冷にくらべ構成部品がやたら多いが、エンジンの騒音を抑え、そののち注目される燃焼科学や排ガス技術にもつながる分野だ。
  とにかく半二氏は、そののち品質保証担当を18年やり、トヨタ研究所長となっている人物、「コロナの初期の失敗、対米輸出の数々の失敗」とみずから告白しているが、この本、もともと技術本ではなく、エッセイを集めたものなので、筆者(広田)が知りたいこととなると、いささか隔靴掻痒(かっかそうよう)。でも、息子と父親との関係(そもそもこの本の編者は息子の猛なのである)などが伝わる。スタートこそ遅れたものの、自動車メーカーの基礎を築き上げ、晩年は豊田中央研究所の名誉所長として立派な企業人の足跡を残している。
  ところで、『平凡の中の非凡』という、なにやら判じモノめいたタイトルは、いったい何だろう? 
  半二だけに、判じ? 種明かしは本のなかにあった。半二さんの部下だった女子職員が結婚を期し退職する際に、祝福の意味で英英辞典をプレゼント。この辞書の表紙の裏に『平凡のなかの非凡』と書き込んだという。
  女性が結婚を機に家庭に入る、とか辞書を贈り物にするなどいまでは聞かなくなった昭和時代の原風景。この女性は打てば響くような素晴らしい勤務ができたという。「平凡に見える主婦の生活のなかにも、かならず非凡さが必要となる」そんな意味を込めて、書き送ったという。
  ここで、いきなり「水」を例に持ち出し半二さんは説明する。
  「水は古くから節約の対象にならなかったほど平凡だ。ところが自然界で水がもたらす役割が大きい。無色・無味・無臭・透明で常温では液体であるが、空気中に気体として常時存在し、海・川・湖・地中に蓄積され、立ち上がり雲となり霧となり、雨・雪・あられ、霜となって地上に戻る。ときには氷結したり、ツララになり、霧となる。その一つ一つが古来から詩歌の対象となっている。しかも物理的にも化学的にも非凡な特性を持つ。比熱はすべての物質のなかで最大の値を持ち、表面張力・熱伝導率・誘導率などの水銀をのぞくすべての液体のうち最大である…‥」
  なるほど科学者らしいものの見方だし、息子の哲学的観察にも通じる世界観。漱石の弟子・寺田寅彦にも連なる視点。この本も、ところどころに非凡さが隠されていて、未知の世界を発見することが少なくない。

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「多機能ホームペンチ」って使えるの!?

ホームペンチ1

ホームペンチ2

  人は自分の欠点は棚に上げ、ついつい身近な人には過大な要求を求めがちになるものだ。
  「この道一筋の職人肌をリスペクトする」その舌の根も乾かぬ間に、「作詞して謳って、踊れて演技までするマルチなタレント」にあこがれる。人間とは、そんな矛盾した存在が人なのかもしれない。
  これって「マルチ工具」を求める気持ちとどこか似ていなくもない。単能工具にひたむきさを見るか、マルチツールに見果てぬ万能感を宿すか? 
  今回取り上げる工具は、後者である。
  「多機能ホームペンチ」である。家庭内で活躍をになう(・・・・ことを目指す!)万能ペンチ。つかむ・切る・皮むき・かしめる、この4役を一つの工具でやってしまおうというのがこの工具。
  まず、じっくり眺めてもらいたい。先端部はたしかにペンチである。ところが、通常のペンチの上下のあご(ジョー)の隣には配線の端子をかしめられるようにウエーブ状に加工してある。そしてピポッド部(上下のあごが交差するところ)をよく見ると、意味ありげな小さな穴が4つか5つある。4㎜までの小さなボルトを切断することもでき、φ3㎜までの針金を切断するための穴がしつらえているのだ。
  その下のハンドル部にズームインしてみよう。
  上下のあごにスラント状に小穴の半円が向き合っている。配線の被覆を剥くとき使うワイヤーストリッパーである。径が1㎜、1.5㎜、3㎜、5㎜、そして7㎜の配線の被覆を除去する機能だ。
  そして最後に、ハンドル部の内側が円弧状になっていて、ジャムの瓶を開けるときに重宝する役割となっている。
  なるほど、これは使える感じがしてくる。一家に1丁! と言いたくなりそうだが、待てよ! このペンチ、やや重すぎないか?! 実測すると、122gもある。全長は200㎜。男性はともかく女性(主婦)が使うには、やや重い感じがする。しかも色が黒づくめ。クルマだって、自分好みのカラーがないと買いたくない女性ドライバーがいるのだから、黒づくめはいかがなものか?
  この工具、ひとつ不明な箇所があった。ハンドル根元に小さなレバーがあり、これを動かすことで、先端部のあご幅に1㎜ほどの隙間を生じさせる。針金をねじるときに、使う! とあるが、その意図がよくわからない。アゴ幅にある一定のクリアランスが必要なのだろうか? ちなみに、ホームセンター価格は1813円だった。

2021年5 月 1日 (土曜日)

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商用車のトラックだって入念にデザインされているんだ!

三菱ふそうデザイン1

三菱ふそうデザイン2

  “乗用車やオートバイの世界では、製品デザインについて、あらゆるところで認知されているよね。だけど、商用車、トラックやバスの世界では、見落とされがちだよね、デザインって! そこで質問! トラックなどの商用車のデザインのキーワードは何だ?”
  ウググ・・・・そんな素朴な疑問に即座に答えられない・・・・。そんなんじゃ「ボーっと生きてるんじゃねーよ!」といきなりチコちゃんに叱られそう。
  即答はできないけど、チコちゃんのそんな質問に答えられそうな記者向けのイベントが先日、新川崎で開かれた。
  三菱ふそうの「デザイン・エッセンシャルズ」と名付けられた催しがそれ。言い忘れたけど、当社はドイツのダイムラーの傘下だ。川崎にある本社には、20数名のデザイン担当者がいて、ダイムラー社のデザインルームとリアルタイムでVR(バーチャル・リアリティ)によるデザイン談義を展開、国境を越えてのデザイナー間でのセッションが展開されているという。ちなみに、ダイムラーグループ全体。グローバルでデザイナーは約700名もいるという。
  そんな中で一番興味がわいたのは、「モジュールトラックIRQ」(写真)という名前の近未来120%満載の丸みを帯びた未確認車両的コンセプトカーだ。IRQとはインテリジェント・レスキュー・トラックの略で、燃料電池で駆動する緊急車両である。
  現行の小型トラックキャンターから着想したというが、高床式の4WDのカッコいいスタイルを見ると、デザイナーの底知れない想像力を垣間見た気がする。
  発想した本人が、じきじきに説明してくれた。「IRQは、豪雪地帯や山岳地帯などこれまでクルマが入れなかった起伏の多い地域でもグイグイ踏み込んでいけます。そんな困難な状況下でも、救助活動ができるクルマです。ボディとシャシーの連結部分は、モジュール方式なんです。つまり、ボディ、シャシー、アクスルのメイン部位を、状況や目的に応じて換装できる。飛躍的に救助状況の幅を広げられるのです」。担当したのは、若いインド生まれのデザイナー(写真)。父親が運送業をしたことから子供の頃からトラックに強い興味を持ってきた彼は、目を輝かせて説明してくれた。
  この車両にいささか夢見がちとなったが、未来のデザインはこれだけではなかった。
  輸送用のドローン「ヘリドライド」という乗り物を着想していた。
  川崎のデザインオフィスにあるデザインセンターに籍を置くデザイナーたちは、商用車の将来像をただ路上を行き交う乗り物とだけと規定していないようだ。というのは、空を飛ぶ、つまり通常のトラックは水平方向だけの乗り物電気式ダクトファンだったが、垂直方向にも移動できる乗り物、ドローンタイプを視野に入れている。
  「たとえば、地上の車両から高層のマンションの上層までの距離を簡単にカバーすることで、都心部でのドライバーの作業負荷を軽減できる」というのだ。つまりエレベータや階段を使わず、いきなり、上空から物を届ける! 季節外れのサンタクロースか? 面白いのは、これを具現化するために、360度カメラの装着やスタビライザー役の電子式ダクトファンを4隅に付ける、さらにはホログラム映像でメッセージを送るなど近未来を豊かにするアイディアが詰め込まれていた。
  うまく言えないけど、デザインのチカラってすごいんだな……。チコちゃんもこれで少しは納得してくれるかな?

カーライフ大助かり知恵袋1

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第9回)

ゴーハムの3輪車  日本に着いたゴーハムは、当初計画した通りまず航空ショーを東京の芝浦の埋め立て地でおこなった。
  技量をアピールするためだ。もう一つは東京・大阪間の郵便飛行にも挑戦している。こうした試み、というかパフォーマンスは、あまりビジネスに結びつかなかった。この2つともどうも手ごたえがなく、空振りに終わったのだ。
  そのころ日本の航空界は、のち中島飛行機の総帥となる中島知久平が軍部と結びつき、積極果敢に航空機産業を軌道に乗せようと励んでいたからだ。いきなりアメリカからやってきたエンジニアが食い込むスキはなかった。ゴーハムの持つ“技術の駒”は、即座には受け入れられなかった。
  ところが面白いことに、SNSもなかった時代ではあったが、高い技術力を持つゴーハムのうわさは口コミで広がっていった。
  時代はちょうど第1次世界大戦が、ようやく終息したところだった。思わぬところから、ゴーハムの技術力に注目する人がいた。
  大戦による好景気で、モノを運ぶトラックの需要が日本で起き始めていた。川崎にある企業が、ゴーハムにトラックの生産を持ち掛けてきたのだ。
  好奇心旺盛なゴーハムはそのオファーに応えようとした。当時堅牢なクルマづくりで評判のパッカードに目を付けた。パッカードを一つのお手本として新たにトラックを開発しようと動き始めた。こうした研究のなかで、片手間にゴーハムが造り上げた1台のクルマがあった。
  「クシ・カー号」である。クシとは興行師の櫛引のことで、櫛引専用の3輪車だ。ハーレーダビッドソンのエンジンや部品を流用して通常の仕事の合間に作り上げたスペシャルな3輪車(写真)である。実は1901年(明治34年)ニューヨーク州バッファローで開催されたパン・アメリカン博覧会で、路面電車との事故に遭遇し、櫛引弓人は右足を失っていた。
  ゴーハムの持つ“技術の駒”は、極東の島国・日本で、思わぬ方向に動き始めたのである・・・・。

カーライフ大助かり知恵袋2

書評:ポール・フレール著『いつもクルマがいた』(二玄社)

+ポールフレール  “世界でもっとも信頼されている自動車ジャーナリスト”といわれるポール・フレール氏の自叙伝だ。
  となると、“自動車ジャーナリストの大半は、信頼するに当たらない”ということになり、背筋が寒くなる!?
  雑誌「カーグラフィック」で連載された記事をまとめて1999年に、A5版318ページの単行本化にしたものだ。
  一言でいうと、かなり内容の濃い、専門用語が多い、いいかえればリテラシー能力を要する手ごわさを感じる一冊だ。たぶんこれは、翻訳者が長年クルマ雑誌を手がけてきた小林彰太郎氏だからだと思う。「カーグラフィック」の読者なら、読み解けるかもしれないところが、そうでない読者には、難解なところが多々あるのが残念。クルマに不案内な編集者が加わっていれば、たぶん読者層を劇的に増やせた、かな!?
  でも、そうしたことを指し引いても、≪ポール・フレール氏の人生は、自動車の発展とともにあった!≫ということがよくわかる良書といっていいだろう。
  なにしろ彼は、1917年生まれというから、まさにクルマの世紀といわれる20世紀初頭に生まれている。
  物心がつく幼年期には、幸運なことに父親がフィアット501(1460㏄サイドバルブエンジン、最高速70キロ)を手に入れ、ドライブに連れて行ってもらっている(僻みに聞こえるかもしれないが・・・・ちょうど30年後に生まれた筆者は自動車を身近に感じたのは10歳のときで、それもトラックだ)。
  ポール少年は、生まれながらにして身近にクルマが存在したのだ。そのころはまだ馬車がたくさん走っていて、路上には蹄鉄で使う釘がたくさん落ちており、そのおかげで日に何度でも、ひどいときには5回もパンクとなり、その都度チューブを修理したり、交換したりする作業に追われたという。
  しかも、草創期のクルマは、少し前のPCと同じで、壊れやすかった。路面の悪さもあり、サイドメンバーやリーフスプリングがいきなり折れるのは日常茶飯。そして驚くべきことに、ポールは、ミニカーなどない時代、いきなり本物のクルマのハンドルを握ることになる。なんと10歳で! 1966年までベルギーでは運転免許証自体がなかったから、OKだったというのだ。しかも、クルマ好きのおじさんの手ほどきで、ダブルクラッチの操作を取得し、ノンシンクロのギアをチェンジしたというのだ。天才少年クルマ野郎なのだ! うらやましい。
  ブルッセルで送った大学生活も、さんざんクルマ三昧な日々を送り、社会に出てからはGMやジャガーの宣伝部やサービスマネージャーをやりながら、クルマ体験をしていく。そしてついにレーシングドライバーとして活躍するまでになるのである。ル・マンやインディとともに世界三大24時間レースのスパ24時間で3位になったことを皮切りとして、ミッレミリアをはじめ欧州の各種レース、アフリカや中南米でおこなわれた超過酷な公道GPレースなどに参加、エンツォ・フェラーリ率いるチームの一員としてレースに参戦した。このへんは、クルマがもたらす人生の楽園を満喫している。
  こうした経験を踏まえ、自動車ジャーナリストの世界に軸足を移していったのが、40代のころ。そして、50代に入ると、日本の自動社メーカーとの縁が結ばれる。海外での販売に意欲をみなぎらせていた日本のメーカーがポール・フレールの感性を求めていたのだ。辛らつだが、的確なアドバイスで、欧州や北米でのシェアを広げていったのである。なかでも、マツダやホンダなどのアドバイザーとして、おおいにポールのハンドリングに依存していたようだ。ポール曰く「1960年代の日本車といえば、エンジン、サスペンションともがさつで、実にお粗末な代物だった」と。
  通俗的な自叙伝には終わっていないところが、この本の真髄かもしれない。20数年前の本だが、少しも古さを感じさせないのもいい。

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3300円足らずで手に入れたタイヤ空気圧監視システムTPMSを試す!

TPMS1

TPMS2

TPMS3

  若いころ雑誌の編集記者をやっていたおかげで、“読者に替わって“という触れ込み(というか殺し文句?)で、怪しげな商品を実際試してみることを、こよなく愛する性癖がある。これって、安物買いの銭失い、につながりかねないのだが、反面、好奇心を満足させる絶好の行為でもある。
  とまぁ、理屈はさておき、ちかごろネット販売で多く出回っている「TPMS(タイヤ・プレッシャー・モニタリング・システム)」(タイヤ空気圧監視装置)を手に入れた。運転席からタイヤの状態を見張ることができる便利用品だ。
  そもそもこのTPMS,いまから10数年前に登場したときは、トラックやバスなどの働くクルマの専用品であった。
  お金を稼ぐクルマなら、日々タイヤの管理の負担が少なくなるのは、大歓迎だ。だから価格は、数十万ほどして、とても自分の乗用車に付けられる用品ではなかった。ところが、この垂涎だった用品がいつの間にやら、いろいろなメーカーがつくり始め、ついには中国製の格安品も登場している・・・・というのが今日この頃だ。
  今回ネットで手に入れたのも3280円とウソみたいな低価格。出始めから見れば1/10以下だ。
  この製品、手のひら2つ分ほどの小さな箱に収まっている。おもな内容物は、タイヤのバルブに取り付けるセンサー4個、液晶のモニター部(人差し指にのるほどの小ささ)、それに専用のレンチ(スパナ)と充電用のコード1本。
  電源はどこから採るのか? モニターの裏側にある小さなソーラーパネルからだ。センサーからどんな手段で情報をモニターに表示するのか? ブルートゥース通信による! 
  さっそく取り付けてみることにする。
  まず、前後左右のタイヤのバルブキャップの替わりにセンサーを取りつける。運転席から見て、反時計回りでFR,FL,RL,RRとあるので、その通り取りつける。詳しく言うと‥‥前後左右のタイヤのバルブキャップを取り外し、付属の専用ワッシャー(2面幅13㎜)を取り付け、しかる後にセンサーをねじ込み、先のワッシャーといわゆるダブルナットで緩み止めとする(写真)。このことで、本製品のトリセツには“盗難防止”と謳うのだが、ちょっと違うのでは?! ちなみに、取扱説明書は、日本語の裏側に英文バージョンがある。日本語版は、英文の自動翻訳しっぱなしの“あるまじき日本語”の羅列で、ところどころ意味不明。
  4個のセンサーを取り付けたあとは、モニター部をフロントガラスに付属の両面テープを用いて貼り付けるだけだ。モニターの取り付け方法は、フロントガラスとインパネの上でもどちらでもOK。シガーライターから電源を取る必要がないので実に簡単だ。
  作業時間は約15分。アルミホイールなら、たぶん10分かからないかも。今回は、ホイールカバー付きのクルマなので、いちいちホイールカバーをマイナスドライバーでこじって取り外さないといけない。そうでないと、専用ワッシャーを取り付けられないし、いわゆるダブルナット状態にもできないのだ! 
  取り付け後、数日使ってみた。
  その感想は、「なるほどね……価格のわりにはよくできているオモチャっていう感じ。役割の空気圧はとりあえず表示してくれているようだが、あてになるのかな、これ? という感じ。空気圧が1.8バール以下になるとブザーで教えてくれるというのが、どうだかな…という感じ」。“感じ”というのが続き、なんだか心もとない印象だが、とにかく、そんな感じの製品でした。
  いま一番気になるのが、空気圧が低下したとき、空気を充填する際、またホイールカバーを取り外し…‥という作業をやる必要がある。これが面倒だ! それと、どのくらい長く使えるか? それが問題だ。


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