みなさん!知ってますCAR?

2021年7 月15日 (木曜日)

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突然! 船舶のエンジンが気になる!

船舶エンジンのピストン抜き作業  陸海空での移動手段の主役だったエンジンがいま、悪者扱いされつつある!?
  蒸気エンジンからガソリンエンジン、ディーゼルエンジンへと進化した20世紀のパワーユニットは、21世紀の中頃で消えゆく運命にあるのか? すべて電動化されるのか? 水素エンジンなど環境負荷の小さなエンジンだけが細々残るのか? そんな疑問が頭のなかをぐるぐる回っている。
  そんな時、横浜でエンジンにまつわる展示会が開かれた。ただし、船舶のエンジンである。
  会場は、地下鉄馬車道駅から徒歩2分の「日本郵船歴史博物館」(横浜市中区海岸通3-9)。近くに赤レンガ倉庫などみなとみらい地区が広がる。どこか潮風を感じるロケーションだ。ここを延べ2日にわたり取材した。1日目は船舶の歴史、2日目は船舶のエンジンついて。
  タンカーや自動車専用船などの貨物船、それにかつて活躍した貨客船の動力は、みな2サイクルのディーゼルエンジン(DE)なのである。と聞いて、「てことは、UDトラックスの前身・日産ディーゼル(ニチデ)のユニフローエンジン?」と連想できた読者はすごい。かつてトラックの本を書いたとき、ニチデのえらい技術者から直々に教わったはずなのに。DEは4サイクル、と頑迷に頭にこびりついていたため、元機関長の明野進(あけの・すすむ)さんにインタビューしたときとっさに気付かなかった。
  たしかにニチデのユニフローとほぼほぼ同じだが、トラック用と数万トンの巨大な船舶のエンジンとは、まるで様子が違う。5階建てのビルのようなデカい8気筒や10気筒の鉄の塊が船舶用のエンジンなのだ。例えば三菱重工の流れをくむ8気筒エンジンでいうと、ボアが600㎜、ストロークが4倍の2400㎜というロングストロークタイプ。1分間に150回転という低速型エンジンなのである。乗用車のエンジンのアイドリングが650rpmぐらいだから、その25%にも満たないごくごくゆっくりゆっくりだ。でも、排気量は、2万リッターで、出力5万馬力とか9万馬力とか・・・・すさまじい。
  気になったのは、保守点検(メンテナンス)だ。
  海上で、ときにはピストン抜き作業をおこなうことがあると、洩れ聞いたからだ。「私は長い航海の間、幸運にもそこまでのヘビーなトラブルはなかったですが、航行中ピストンを交換するということはままあるんです」えっ、やはり!「機関が2機以上なら、片方のエンジンを駆動させているので、揺れは少ないんですが、エンジン1基の場合は、(まるで木の葉のように?)船が左右に揺れますから、作業は困難を極めます」。ピストン抜き作業は、機関士全員5人以上で、約10時間かかっての作業だという(写真)。
  明野さんは、当方が他人のトラブルを聞くのが大好き人間だと読んだらしく、次のような話をしてくれた。
  「進水式したばかりの船で航海するのは、大変なんですよ。実は、船舶はクルマなどにくらべ販売数が少ないので、数百時間ほどの試験しか行っていないんです。だから、そのことを覚悟して乗船するのですが……」だから、トラブルは面白いように襲いかかってくるという。クルマの場合、販売する前にありとあらゆる路面、世界中の道を走る勢いでテストしてから販売する。それでも時々不具合が起きる。大型船舶は、テストに時間もコストもかけられないので、販売してから市場で、手直しする考えらしい。意地悪な言い方をすれば、新船で処女航海する場合、船会社は実験台なのである。
  「中速用の船舶(エンジン回転が300~500rpm)に乗船していた時ですが、ロッカーアームが突然折れたという。このときは幸運にもエンジン2基の船なので、1基の動力で港に着岸し、あらかじめ注文したパーツを組み込み、航海を続けたという。「このエンジンのロッカーアームはその後次々に不具合を起こしました。完全に設計ミスだったんです。えっ! 何処のメーカーですって? メーカーは言えませんよ」
  といっても、プレジャーボートや漁船などの高速船をのぞく、低速~中速のでかい船舶機関を手掛けるメーカーは、3社だ。デンマークのB&W社を買収したドイツのマン(MAN)社、スイスノズルシャー社を買収したフィンランドのバルチラ社、それに日本の三菱重工を引き継いだジャパンエンジンコーポレーション(J-ENG)の3社しかない。
  最後に明野さんに、船の機関士をやっていて誇るべきことは何ですか? と尋ねたところいい答えが返ってきた。「自己完結型の仕事であることです。1970年代に入社したころは、ほかとのやり取りは電話とテレックスしかなかったので、洋上で難題が持ち上がると、とにかく自力で解決するしかなかった。だから、日ごろから、勉強しました」なるほど、一言でいうとサバイバル能力。いまなら、画像や動画で、エンジンメーカーとコミュニケ―ションができ、そうした自力解決能力をかなり緩和されたということらしい。

カーライフ大助かり知恵袋1

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第14回)

日産の工場内部(昭和8年)  九州の「戸畑鋳物」での仕事では、5年の歳月が流れた。その後ゴーハムとその家族は、東京に移り住んだ。大正15年のことだ。
  このころ鮎川義介は、「戸畑鋳物」を中心としたさまざまな企業のコンチェルンとして活躍していたのだ。
  鮎川が手掛けた企業のひとつ「東亜電機」で、ゴーハムはふたたびおおいに腕を振るった。この「東亜電機」はのち日立製作所のルーツの一つとなる。電動工具を開発したり、スターターやイグニッションコイルといった自動車の電装部品を開発、あるいは手動式だった電話交換機を自動式に改造したり、ドリルやグラインダーを設計製作したりした。
  昭和6年ごろになると、「戸畑鋳物」は自動車部を設立し、そこでは大正末期から昭和の初めにかけ日本に進出してきたフォード(横浜)とGM(大阪)のノックダウン工場の自動車部品のサプライヤーとして稼働している。その年、鮎川は、橋本増治郎(1875~1944年)の流れをくむ「ダット自動車製造」を傘下に収めた。さらにゴーハムがかつて所属していた久保田健四郎(1870~1959年)が持つ大阪の「実用自動車製造」も手中に収めて、着々と本格的な大量生産型の自動車製造会社の創設を計画していたのだ。ダットサンの製造権を得てのことだ。
  そして、1933年、昭和8年12月、横浜神奈川区の埋め立て地に建坪2万数千坪の東洋一の大量生産型自動車メーカーをつくるのである。この新工場の準備のために、ゴーハムは、同じ年にアメリカにおもむいた。フォードの工場があるディアボーン、GMの工場のあるデトロイトなどを回る一方、工作機械の購入とアメリカの技術者たちを雇い入れるために動き回った。
  ゴーハムが選んだ技術者は、いずれも優秀な人材10数名。その後の日産のモノづくりのベースを作り上げた。余談だが、そのなかに鍛造のエキスパートでマザーウエルという男がいて、彼は、そののちドイツのVWでも雇われ、VW(当時はKDF)の工場の鍛造設備のデザインをしている。(写真は、昭和8年、ダットサンボディの組み立て工場内部)

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:桂木洋二『日本自動車史年表』(グランプリ出版)

自動車年表1

自動車年表2

  子供の頃、およそ無味乾燥な印刷物といえば年表だった。
  たとえば日本列島の時代区分である水稲農耕での生産経済時代といわれる「弥生時代」紀元前10世紀~紀元後3世紀にわたる、とあっても肉親の一人でもそこにいたなら別だが、見たこともない世界(想像図は見たが)だから、異なる星の出来事に似て関心が薄い。
  ところが、遠きはるけき時代がググっと身近に感じるときもある。英国のヴィクトリア朝は1837年から1901年の長きにわたる英国の黄金期。若いころ香港に出かけ、2週間ほど住んでいて、近くの公園でおじさんたちに交じり太極拳のまねごとをしていたら、中国人に広東語で道を尋ねられたことがある。ずいぶん地元になじんでいる身の上を再認識して驚いたのだが、その公園こそがヴィクトリアパークだった。
  だから、ヴィクトリア朝のことが気になり、あれこれ調べた。ロンドンのハイドパークに立ったとき、ヴィクトリア女王の夫アルバートの銅像を確認した。最初の万国博覧会が1851年にハイドパークで開催され、アルバート公がその中心人物だった。ガラスのクリスタルパレス(水晶宮)はとくに有名だが、そのころ新興国であったアメリカは、銃や耕運機を出品。2丁の銃をバラシ、その場で組み付けるというパフォーマンスをおこない、ヨーロッパ人の度肝を抜いた。産業革命前後の欧州国家も、部品の互換性についての意識がなく、一度機械ものをばらすと往生した。ネジの規格がほとんどなかったからだ。いわば芋づる式の好奇心の連鎖現象。
  このように、年表という代物は、個人的体験と結びつくと俄然加速したり、肥大する。
  ある程度知識の下敷きがないと、面白くもなんともない。ただの文字の羅列に過ぎない。だから、数行のなかに「物語性」をこめられるかである。注意深く言えば「命を吹き込めるか」である。でも、あまり長くなると、冗長となり、限られた紙数のなかで、多くの事柄を網羅しきれなくなる。本をつくる(年表づくり)ということは、そのへんのさじ加減がとても大切になる。
  この本は、明治・大正(1898~1926年)、昭和・戦前期(1927~1945年)、戦後の復興期(1945~1952年)、成長と競争の始まり(1953~1959年)、黄金の60年代の攻防(1960~1965年)、マイカー時代の到来(1966~1973年)、排気規制とオイルショックの時代(1974~1979年)、性能競争と多様化の時代(1980~1988年)・・・・と2006年までを駆け足で、一項目だいたい200~300字ほどで説明する。この要約が分かりやすい。簡にして要を得ている。しかも写真も小さいながらもふんだんに載せている。
  原稿書きに疲れて、ふとこの本を開くとついつい読みふける。知らなかったことを発見したり、あの出来事と別の出来事がわずか数か月後に起きていた、なんてことに気付く。通常の専門世界の年表は、「世界の出来事」とか「日本の出来事」などをパラレルで併記するケースが多いが、必要なら汎用の年表を横目で眺めればいいだけの話。むしろないほうがすっきりして理解を得やすい。
  なんとなく、日頃モヤモヤしている頭のなかを程よくシャッフルしてくれる働きが、この年表にはあるのかもしれない。ただ、索引(INDEX)を付ける労を惜しんでいる点が、おおいに不満だ。(2006年発売、本体価格で2000円)

愛車メンテのプラスアルファ情報

1/4⇔3/8⇔1/2のソケットアダプター4個で800円弱は使えるか?

ソケットアダプター  今回も近くのホームセンターで手に入れた工具をリポートする。
  三木市の藤原産業扱いブランドSK11の「ソケットアダプターセット」である。ブリスターパックの台紙には小さくMADE IN TAIWAN(台湾製)とある。購入価格は、なんと767円。
  そもそもソケットアダプターというのは、あまり行き渡っていないことから使った経験のある人は、ごくまれだと思う。どんなとき使うのかというと、たとえば差し込み角1/4のハンドルしかなく、しかもソケットそのものが3/8インチだというケースだ。「ソケットアダプター」という工具を使うことで、1/4インチのハンドルで3/8のソケットを使うことができるようになるということだ。つまり「差し込み角の異なるソケットとハンドルを接続する」役目だ。
  これだけ聞いていると、たしかに便利だ。これなら、1/4のハンドルで、たとえば1/4インチにはない22ミリのでかいソケットを付けホイールナットを脱着できちゃう! そんな間違ったメッセージとして受け取るユーザーがいるとも限らない。
  やってみるとわかるが、たとえば1/4のハンドルでは22ミリのホイールナットを回すことはできない。無理やりやろうとするとケガをしたり、工具自体を痛めてしまう。3/8インチでもやや心もとない。やはり1/2インチのハンドルがふさわしい。逆にエンジンルーム内だとネジ径が5,6,8㎜程度なので1/4が使いやすい。
  つまりソケットツールは、差し込み角のサイズごとに守備範囲(ネジの大きさなど)が、あるのだ。「ソケットアダプター」は、緊急事態で仕方なく起用する“ピンチヒッター”みたいな工具で、メインストリームの工具ではないということだ。
  このことを承知して、使うことがとても大切。で、この4個800円弱のお財布にやさしいセット。TONE,KO-KEN,KTCあたりだとだいたい3/8→1/2が1個で1000円前後もする。使えればお買い得だ。はたして使えるか?
  実際あれこれ差し込み、使ってみたが、「心地よくは使えなかった!」というのが結論。どういうことかというと、各部の寸法精度がアバウトであるためか、組み合わせるとかなりきつい感じ。とくに1/2⇔3/8は一度つなげると、取り外しが、大変。隙間に細めのドライバーを差し込んでようやく引きはがしたほどだ。これが油が付着した状態だとお手上げだ。
  工具は、「気持ちよく使えるかどうか」が評価の上位にくる製品だ。だとすれば、ブランド品を選択したほうがクレバーだといえる。(機会があれば、全員集合して比較テストをしてみたい!)

2021年7 月 1日 (木曜日)

TOP NEWS

2040年までにガソリン車をなくすホンダ! 大丈夫か?

ホンダのロゴ  今年4月に発表したホンダの発表は衝撃だった。
  なにしろ『2020年以降、ホンダで販売する新車をすべてEVもしくはFCV(燃料電池車)に置き換え、ガソリン付きクルマ、HVもすべてやめる!』そのFCVも舌の根も乾かぬうちに今年8月で生産中止と、最近明らかになった、というのだから!
  ホンダの歴代の社長の9割はみな、俗にいうエンジン屋さんだ。8代目の八郷さんだけが車体設計だったかと思うが、他は深浅はあれど、エンジンの専門家だ。3代目久米さんはCVCCエンジンだし、4代目川本さんはたしかF1エンジンの開発者だ。
  とにかく、ホンダ車は、エンジンが自慢。高回転高出力型エンジンの急先鋒だった。
  そのホンダが、エンジン付きのクルマから手を引き、電気自動車、つまり電気モーターでクルマを走らせる。
  まさに、これこそ180度の宗旨替えである。「ホンダからエンジンを抜き取ったら、何が残るの?」というのは言い過ぎだが。
  そこで、ホンダに何が起きているのか? 調べると、ここ10年のあいだに、2輪車事業部は営業利益率10%台で、儲かってはいる。だが、4輪車事業は、利益率わずか1%前後の超低空飛行。6年前社長になった八郷さんは、大胆な構造改革をやりまくり、いつのまにか「リストラ社長」の異名をいただいた。
  まず軽トラック市場からの撤退があった。ミニバンのオデッセイや高級セダンのレジェントを年内でやめるに伴い、1964年から稼働をしていた埼玉の狭山工場を閉鎖。英国とトルコの工場も今年中に閉鎖、R&Dの研究所も、解体し、本社に組み込むなど不採算部門と見られた部門をどんどん切り捨てていく。デジャブ的感覚に襲われる。少し前の日産の光景を見るようだ。
  第3者だから言えるのだが、ホンダはここ10年15年、戦線を広げすぎたようだ。その代表例は、ハイテク技術を先取りとされた2足歩行ロボットのアシモではなかったか? フィットがトヨタのヤリスに敗北したことからわかる通り、ホンダのクルマづくりが、ユーザーマインドからかなりかけ離れた存在になっていたのではないか? 足元がおろそかになってはいなかったか? 魅力のあるクルマづくりの原点に立ち戻るべきではないか? 
  余計なお世話に聞こえるかもしれない。シビック、クイント、軽トラック・アクティ、CB500,TL125イーハトーブ、モンキー、TM200など数多くのホンダ車を愛用してきた、ひとりのユーザーとして、今後のホンダの行く末が気にかかるところ。

カーライフ大助かり知恵袋1

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第13回)

アメリカ時代の鮎川義介  ウイリアム・ゴーハムの次なる新天地は、当時青年実業家として飛ぶ鳥を落とす勢いの鮎川義介(1880~1967年)と知り合うことで開けることになる。
  ニューヨーク州バッファロー郊外の工場で、週5ドルの職工として働いた経験を持つ鮎川(写真)は、従業員が1000名を超す鋳鋼品や特殊鋼を手がける「戸畑鋳物」の経営者だった。すでに数年前に丸一日話し合い、肝胆相照らす仲となっていたため、ゴーハムの境遇を知った鮎川は、「戸畑鋳物」のある九州戸畑に呼び寄せ、技術者として招聘したのである。
  ここで、ゴーハムは、農業用や船舶用の石油発動機を開発したり、工場内の工作機械や治具などの改良から始まり、大阪にある木津川工場に出かけ技術指導などをおこなっている。このころの「戸畑鋳物」のドル箱は、鉄パイプの継ぎ手で「ひょうたん接手」(継ぎ手の表面が滑らかであってほしいとしてヒョウタン印とした)だった。こうした製品の品質管理などの指導を展開したのである。
  この時代ゴーハムから薫陶を受けたある技術者は、ゴーハムに「T字型の人間になれ!」とよく言われたという。T字型というのは、好奇心の翼を広げ、自分の仕事にかかわることは何でも知るようになれということで、そのなかで特に自分の専門とするところは十分深く究めよ、という意味だという。別の言い方をすれば、T字型人材というのは、ジェネラリストとスペシャリストのメリットを兼ね備えた人材で、横棒が「知識の広さ」、縦棒が「専門性の深さ」しめし、英語では「シングルメジャー」とも呼ばれる。
  特定の領域で専門性を持ちつつ、専門領域にとらわれない幅広い知見があるため、視野が広く、客観的かつ業界の慣習や常識にとらわれないアイディアを発想することができる。
  くだんの技術者は、昔を振り返り「ゴーハムさんは、いくつものT字を並べたような人物だった」と感想を述べている。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:NHK取材班編『フォードの野望を砕いた軍産体制』(角川文庫)

フォードの野望を砕いた軍産体制  よく知られているように、戦前のフォードは、大正14年(1925年)横浜の子安にノックダウン工場を作り、ここをアジアの生産&販売拠点として日本市場のみならず中国市場を視野に入れた世界戦略を展開し始めた。
  これは、関東大震災後、東京市が市電壊滅後の庶民の足としてフォードT型のシャシー800台を大量輸入したことがキッカケで、市場調査した結果日本市場の有望性を察知したという背景がある。そのごGMとクライスラーも同じように進出し、あっという間に日本にアメリカ車(とくにフォードとシボレー)が走り回った。トヨタも日産も企業としてはあったが、よちよち歩きのころだ。当時中国戦線で、侵攻を拡大する軍部にとって、フォード車の桁違いの性能の良さは脅威であり、恐れであった。
  昭和16年に太平洋戦争(日米戦争)が起き、その数年前にはアメリカ車は日本市場から完全撤退することになる。
  この本は、日米のあいだに隙間風が吹き始める昭和初年ごろから、“天下の悪法”(日米通商条約違反だけでなく、法の効力を公布の時点より9か月前倒しだったことも、悪法との一因とされた)といわれた昭和11年5月に制定・公布された『自動車製造事業法』の成立まで。いわば日本の自動車史のなかの知られざる“ブラック・ヒストリー”を克明に取材したドキュメント。放送自体は昭和61年だから、いまから35年も前だ。
  この『自動車製造事業法』という法律は、日本のメーカーの育成という名目で、アメリカ車(とくにフォード)を排除する法律。しかも、フォードは、この法律施行前に、いち早く子安のノックダウン工場とは別に鶴見川の河口に約15倍の広大な敷地を持つ本格的自動車工場をつくる計画を立てた。鋳造工場、機械加工工場、組み付け工場などを備え、鶴見川河口には1万トンクラスの貨物船を横付けできる設備を備えた壮大なものだった。
  新しい工場のデザインは、聖路加国際病院や東京女子大礼拝堂などを手がけ、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの弟子にあたるチェコ生まれのアントニン・レーモンド(1888~1976年)の起用を予定していた。
  …‥新工場を作り規定事実を積み重ねることで、計画は上手くゆくはず。そもそも、日本にこうした工場をつくることで多くの雇用を生み、先端の技術を日本に移植でき、日本とフォードがWINWINだとする思いが、当時の創業者ヘンリー・フォードはじめフォードの経営陣の頭にはあった。これを後押しする親米派の日本人グループもいた。欧米で教育を受けたゴルフの赤星四郎(1895~1971年)、三菱財閥4代目岩崎小弥太(1879~1945年)、浅野財閥御曹司・浅野良三(1889~1965年)、外交官の吉田茂(1878~1967年)などだ。
  ところが、日本の陸軍は、そうではなかった。フォードとGMに脅威を抱く一方、いち早く日本独自の自動車量産体制の確率を目指すことが、戦時体制の維持に欠かせない、そう考えたのだ。産業を保護し、優遇政策をとれば、優秀な自動車を量産できる工場は明日にでもできる、安直にも、そう考えたようだ。用地買収をめぐるすさまじい妨害、当時の憲兵隊や特高によるフォ-ドへの厳しい監視体制などサスペンスもどきの展開だ。
  ところが、日本陸軍の思惑通りに事は進まなかったことは、のちの我々はよく知るところ。戦時下での自動車工場は、後ろ鉢巻をした女子学生をかき集めての人海戦術で量産はできても、技術の向上は期待できなかった。逆に、粗製乱造で、粗悪品の山を築いた。技術の向上、高い品質の維持というのは、余裕がなければ実現できないことを、慢心していた旧日本陸軍は気づいていなかった。
  85年前の日米自動車戦争は、数年後の日本大敗北を喫する太平洋戦争の結果を予言するものだった。

愛車メンテのプラスアルファ情報

877円のベッセルの「パワーラチェットドライバー」は使えるか?

ベッセルPラチェットドライバーr  ホームセンターの工具売り場をうろついていると、商品にことさらMADE IN JAPANと明記しているモノに行き当たる。5年前、いや10年前まではそんな明記はなかった。
  食品も衣料品もそうだが、“MADE IN (発展途上国)”(台湾や中国がもはや発展途上国ではないかもしれないが)とあると、やはり躊躇したり買い控える客があるから!?
  MADE IN JAPANなら、とりあえず安心材料の一つとして顧客は見ているからだ。ありていに言えば、いまやMADE IN JAPANという文字自体が、“水戸の黄門さんの印籠”みたいなものなのかもしれない。極太文字のメッセージ!
  MADE IN JAPANなら、レイバーレイトが高いぶん、少しお高くなりますが、よろしいですね、みたいなエクスキューズがともなうこともある。
  でも、工具のドライバーに関しては、よほど付加価値(あるいはブランド力)がない限り、MADE IN JAPANであろうが低価格でないと売れない。ドライバーは数が多く出るのと競争が激しいので、1000円以下でないと売れないからだ。
  ということは逆に言えば、ユーザーサイドから見て、MADE IN JAPANのドライバーはお買い得ともいえる。
  今回取り上げる『パワーラチェットドライバーTD-81R』は、ベッセル製だ。
  ベッセルは、間違いなく老舗工具メーカーだが、KTCやKO-KENほどのブランド力は、認められてはいない。ベッセルは、なぜか、この2社のようなプレミアムブランドを出していないことが、大きいようだ。ベッセルは微妙な立ち位置なのだ。
  そこで、ホームセンターで勝負する場合は、価格を抑えざるを得ないということらしい。これ、なんと877円だ。スタビタイプで、しかもラチェット機構を組み込み、ハンドル部に装着するビット2個付きだ。ビットは、両頭タイプで、プラス1番とマイナス4㎜、それにプラス2番とマイナス6㎜(マイナスのmmは刃の長さを指す)。ギア数は、20ギアで多くはないが、本締めできる。左右に切り換えは、黒いリングを左右に動かすことで変えられる。重量100g。
  先端ビットは、1/4インチなので、手持ちのビットが使えるのも便利だ。で、結論は? 買って後悔しない商品といえる。


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