売上高約30兆円、営業利益約2兆5千万円の従業員数(連結)約37万人のトヨタ自動車にも、前途に多難が横たわる創業時代があった。
最初に作り上げたクルマは、「トヨタ」ではなく「トヨダ」と濁った。観音開きの「トヨダAA型」である。
トヨタ博物館に足を運んだ人はよく覚えていると思う。一階がエントランスホールになっていて、奥にあるエスカレーターを利用して2階、さらに3階の世界のクルマと対面できる。エスカレーターに足をかける瞬間が、ワクワクする瞬間でもある。
そのトバ口に黒光りした楚々とした古めかしいクルマが1台置いてある。しかもクルマの横には、微笑みをたたえた美形の女性が立っている‥‥。クルマにはそそられなくても、つい女性に声をかけたくなるものだ。でも、話題はそのクルマ。
そのクルマこそ、トヨタのアイデンティティである「トヨダAA型」なのである。エンジンはキャデラックの直6を参考にし、ボディはクライスラーのエアフロー(流線形)。
博物館設立を機に2台、設計図からゼロから造り上げた復元車の一台なのである。奇しくも日本が戦争の時代に大きく足を踏み入れた二二六事件のあった1936年(昭和11年)に完成し、わずか1404台が生産され、歴史の闇に消えたクルマである。
長いあいだ、“トヨダAA型の現車は世の中には存在しない”とされてきた。
ところが、事実は小説よりも奇なり! 数年前、ロシアのウラジオストックで現車が見つかったのだ。はじめトヨダAAとは分からなかったという。車体も室内もボロボロで、あちこち改造してあったからだ。ハンドルは右から左に変えられ、ドアは凹み、ガラスは割れ。エンジンももとはOHVなのだが、同じ6気筒のロシア製サイドバルブ(SV)エンジンに換装されていた。
意外と知られていないが、実は戦前の日本は朝鮮半島や樺太の一部も領土だった。営業の神様・神谷正太郎(1898~1980年)は、「釜山トヨタ」ばかりか「樺太トヨタ」を設立、朝鮮半島や樺太にも販売網を作り上げていたのだ。だから、日本海を渡り、あるいは陸から、ウラジオストックにトヨダAAが活躍の場を広げたのは、さほど想像に難くない。
1989年11月ベルリンの壁が破れたとき、東ドイツのクルマ(2ストローク2気筒エンジンのトラビなど)のお粗末さに東ドイツのモノ不足、部品不足にたまげたものだ。これと同じ状況が、ロシアでも展開されていた。クルマ自体が超貴重品で、クルマのユーザーは、ありとあらゆる延命策を駆使して、あり合わせの部品などに換装しながら、だましだまし使い続けられた。だから、トヨダAAが、生き残った、と言える。これが経済的に豊かな西側諸国なら、あっという間に廃車となり跡形もなく消滅していた。つまり貧乏が幸いしたのだ。
現在、このクルマは、オランダのハーグにあるトヨタ系ディーラーが営む「ローマンミュージアム」という博物館に現車のまま、つまりボロボロ状態で展示しているという。
豊田章男社長は、祖父喜一郎がつくった現車を見ようと、いち早くハーグを訪れ、対面している。
たぶん、このときトヨタのアイデンティティというべき「トヨダAA」を日本に持ち帰り、展示する決意を固めたかもしれない。
余計なお世話だが、どう展示するのかが、気になった。
そこで、まわりにいる人に聞いてみた。もとトヨタでレーシング関係の開発をしていた昭和36年入社で、シニアとなったTさんは「そりゃ、フルリストアしてピカピカの状態で、展示するよ」。永年地元愛知県でエンジンのリストアをしているCさん(70歳代)もほぼ同じ意見。「トヨタともあろう企業が、ボロボロ状態で、展示するなどありえないよ。何億円かかろうが、フルリストアすね」。でもそれでは、時空を超えて、出現したトヨダAAの物語が見えなくなる、ドラマを伝える意味でも、たとえボロボロでも現車で見せるべきだと思うよ、そう食って掛かっても取り合わない。最後に、かつて私が所属していたクルマ雑誌の元編集長に聞いてみた。「復刻車の隣に、現車のトヨダAA型を展示するのがいいと思うよ。そこからいろいろ物語が伝えられるから…」。さすが元編集長、なるほど、並べてみせるのがとりあえずの正解かも知れない。
おそらく、現在水面下で、トヨタ博物館側はあれこれ趣向を考慮中だと推測できる。どんな演出で、みせるのか? 表現することを生業とする私としては、とても気になるところだ。
13歳のとき、父親に連れられ初めて日本を訪れ、そして30歳のとき家族そろって日本に移住して23年の年月がめぐった1941年(昭和16年)5月、ゴーハム夫妻は、大きな決断をする。正式に日本に帰化することになったのだ。日本がアメリカとの戦端をひらいた真珠湾攻撃の半年前だから、ゴーハム夫妻は日本に骨をうずめる決意をしたことを意味する。
日本の暮らしにすっかり溶け込んでいたし、日本人以上に日本人という側面もあった。
4半世紀ものあいだ、東京や横浜の変わりようを見てきたゴーハムは、若い日本人に、「昔はここにこういう建物があったんだよ」と古老の日本人以上に日本のことを知る人間になっていた。四季のある日本が大好きだった。日本人の器用さ、誠実な人の多い日本人を愛し、自分の技量を高く評価してくれる日本は、ゴーハムにとってかけがえのないものだったようだ。
ゴーハムの日本名は「号波武克人(ごるはむ・かつと)」、ヘーゼル夫人は「翠(みどり)」と名乗ることになる。
ちなみに、ヘーゼル夫人の行動をたどると、戦前から戦後にかけて「生け花大観」、「陶器について」という英文の書籍を残している一方、学習院大や青山大学で英語の授業の教鞭をとり、隣人だった三笠宮妃などの英語個人教授、「東京夫人クラブ」の主要メンバーとして社会貢献をおこなっている。
日本籍を取得したその年の12月8日、日本はアメリカと戦闘状態に入る。太平洋戦争が始まった。ゴーハムの自宅と会社を往復する日々の暮らしにはほとんど変化はなかった。だが、外出はできなかったという。身長190センチもある大男のゴーハムは、遠くからでも外国人だとわかり、知らない日本人からは白い目で見られがちだった。以前のようには自由に活動できなくなった。夫人は、日本駐在の外交官などとともに軽井沢につくられた外国人コミュニティで暮らしていた。いちおう憲兵の監視付きであったが、比較的自由な暮らしを送ったようだ。いっときでも心やすまる時間が持てたのだろうか?
一時は救世主経営者、カリスマビジネスマン、朝から夕刻まで仕事をしたということからセブンイレブン・ガイとまでもてはやされた男、カルロスゴーン。なぜ、彼は電撃逮捕されなければならなかったのか? 逮捕から、1年ちょっと、一昨年の暮れ保釈中の身で海外逃亡し、いまレバノンで暮らす男。
それが「天井知らずの強欲男」「名誉欲120%ガイ」と手のひら返しのようなサイテーの評価を安直にくだしていいのか?
この本は、朝日新聞の精鋭記者10数名が、さまざまな角度からカルロスゴーンの真実を追い詰め、前代未聞のスキャンダルの全貌に迫る400ページにもおよぶドキュメント。朝日新聞といえば、羽田に降り立ったビジネス機内のゴーン逮捕劇をつぶさに取材し、スクープした媒体。以来チームを組んで世界各国での取材にまい進した。それをまとめたのが本書といえる。
全部で4部構成。第1部では東京地検特捜部VSゴーンと“ヤメ検弁護士”(元検事だった経歴を持つ弁護士)との息詰まる戦い。第2部では、「独裁の系譜」と称して、日産の創業から今日までの企業内魑魅魍魎とした世界を整理していく。そこには、組合と経営者の奇妙な癒着や、危機に瀕したときあらわれる英雄が、時間の経過で堕落し仲間に裏切られ去っていく、そんな物語がまるで現代版絵巻物のように描かれる。第3部は、フランス大統領マクロンとゴーンの確執、日産社内の知られざる事情。第4部では、レバノン逃亡劇の詳細だ。
かつてトヨタと競り合っていた日産が、なぜ新興勢力のホンダに抜かれ、巨大な負債を抱え外国資本の助けを借り、ついには外国人経営者に食い物にされてしまったのか? モノづくりの中堅の現場の古参社員(1967年入社)を取材することで、それは象徴的に判明する。「日産はモノづくりの骨格を持っていない会社」だと言い切った。「トヨタは経営者が変わっても。かんばん方式など“モノづくり”の根幹の経営手法は変わらないで受け継がれていく。それに対して日産は、権力者が変わるたびに経営のやり方がころころ変わる。しかも長いものにまかれるカルチャーで、すぐ新しい権力者になびいてしまうんです」
この本は、エンジンの音も聞こえてこないし、タイヤが地面をとらえる摩擦音も聞こえてはこない。
でも、いいクルマを作りたい希望に燃えて入社した若者が、やがて世間とはこんなものなのか? 企業とはこの程度の世界なのか? そんな絶望感で、将来を悲観した若者が何人いただろう? あるいは、逆に「この程度のモラルでイケていけるんだから、ほかの世界に飛び出せる」そう考えた若者もいたのだろうか? 日産という企業は、明らかに日本社会の一つの縮図であることには間違いない。読み通すには、過酷なビジネスの現実に息苦しさを覚える箇所もあるが、興味がある人にはスイスイ読める。(2020年5月15日発売)
ここ数年、ホームセンターの工具コーナーで見かける工具に『なめたネジを緩めて取り外します』という製品が顔を出している。ペンチもしくはプライヤー型の、いわゆる掴んで回す、というやり方の工具。もう一つは、グジャグチャになった頭部に特殊形状の鏨(たがね)をハンマーで叩きこみ、新しい溝を作り、この溝をテコにネジを回し抜き取る! この2つの手法のどちらかだ。
今回近所のホームセンターで見つけてきた道具は、後者のタイプ。ドライバーなどの工具ではどうにも回らなくなったネジの頭に、新しい溝を設けて強引に回すというやり方。
M8以上の比較的大きなネジならドリルでもんで、ネジ自体を抜き取るというかなり野蛮な(?)手法もとれるが、小さいとメスネジ(母材)を傷つける恐れがあるため、ドリルでもむというやり方は取れない。先端部を見てほしい。ドリルの先端部と似た形状にとがらせてあり、頭部に食い込むようにしてある。軸部に指を添える樹脂製の保護パッドを設けているので、比較的らくに作業がおこなえそうだ。
このセットには、最近とみに増えているうち6角ボルトのトラブル向けのビットも備わっている。
ヘキサゴンボルトは、従来の外6角ボルトにくらべ、2面幅が小さいので、たとえば斜めに工具を入れて無理やりトルクをかけようとすると、頭部が舐める恐れがある。そこで、もし不具合が起きたら、この工具が活躍するというのだ。先端部をよく見ると、同じ6角部だが、微妙にスクリュー形状というかひねり形状。ハンマーで軽く叩きこみ、付属のラチェットハンドルで回す。
このラチェットハンドル、ギア数が20度で、やや粗いのが気になるが、価格(セットで1790円)から見て贅沢は言えない。軸とのホールド部もややガタが多い感じがするが、価格的には、こんなものだろう?
ちなみに、ヘキサゴンボルトは、2,2.5,3,4mmの計ビットホルダー付きなので、4サイズに対応する。この4つのビットは、ふだんは付属のビットホルダーに管理できるので、便利だ。ただ、本体のラチェットハンドルとこのビットを一緒に管理するとなると、百円ショップかどこかで、適当な収納袋を手に入れることになる。
ともあれ、このセット、困ったときの道具としては、有効性が高い。発売元は、兵庫県三木市の藤原産業〈TEL 0794-86-8200〉だ。
7月21日付の新聞で、「トヨタ販売店の不正車検」が再び大きく取り上げられた。
今回は、スナップオン・ツールで精鋭の整備士がサービスをおこなうとされてきたレクサス店でも、「手抜き車検がまかり通っていた」というのだ。渦中の「レクサス高輪店」では、車検時間を2時間と設定し、その時間内に点検と整備をおこなうことが売りになっていた。同じトヨタでも、愛知のトヨタ系ディーラーでは、「45分車検」をセールスポイントに掲げて、なんと45分でのスピード車検を展開していた。
いずれも、時間に追われ、やるべき点検事項をやったことにしていたというのだ。新聞記事によると「時間が目的化し、トヨタ生産方式の高いコンセプトが蔑ろにされた、結果だ」という読み解きである。
表面的にはその通りなのだが、真相は実は日本の車検システムに潜む(あえていえば)“病魔”である。
いうまでもなく、日本の車検は大きく2つある。ひとつは持ち込み車検といわれる国(国交省)が直営する全国に120近くある車検場での車検。ユーザー車検や認証工場(全国で約9万軒)のスタッフが“クルマを持ち込んで”車検を受ける。もう一つは、ディーラーや、コバックなどの民間の車検場(認証工場に対して正式には指定整備工場という)である。現在指定工場は約3万軒あるという。
そもそも、指定工場が誕生したのは、昭和37年(1962年)で、クルマ自体が増加し、従来の国の検査場では検査がまかなえなくなったからだ。
でも民間車検場である指定工場になるには、認証工場にくらべ設備や人員の数など高いハードルがあるし、検査員(整備士でもある)が1人か2人常駐する。つまり、ほんらい国がおこなうべき検査を代行して仕事としている検査員が、民間車検場にいるということだ。分かりやすく言えば、これって同じ屋根の下に警察官と泥棒がいるようなものだ。検査員が整備士と同じ釜の飯を食っている。このいわば性善説システムを成り立たせるには、しっかりとした両者の間での緊張感が必要だ。
一方、昭和30年代40年代にくらべ、道路はよくなり、クルマ自体も信頼耐久性が格段に良くなった。
知恵袋である1級整備士がこんなことをいう。「手抜き整備、手抜き点検は、ありがちですよ。ユーザー車検の愛好家の広田さんもそうでしょう。走行キロ5千とか1万kmといったクルマの場合、1回目の車検で、とくに見るところがないわけじゃないですか?! 整備士ならそんなこと常識で承知していますよ」つまり、無駄と分かっていることをしたくないし、する意味がないということのようだ。「この事件は、内部告発によるものだと思います」というのだ。
今回の事件は、日本の車検制度自体が、時代にそぐわない仕組みだということを露呈したのだ。
そもそも、モータリゼーション先進地域カルフォルニアでは、排ガス試験しか義務化されていない。日本のような、スピードメーターの検査も、ヘッドライトの照射試験もない。フロントガラスが割れている、あるいはウインカーの点灯しないクルマが平気でフリーウエイを走っている。使用者責任スピリッツが見事に実践されている世界。それでも、とくに事故が多いとは聞かない。グローバル化していない日本の車検制度、ということに気付くべきだ。新聞記者も、取材対象者にヒアリングして机の上で考えるだけでなく、自分のクルマを一度ユーザー車検を体験すれば、この辺の事情が分かるハズ。
それでも、車検制度で飯を食っている人は、世界に厳しい車検で高い交通安全レベルが保たれているという。でも、その車検整備の大半は世界から見ると幻想というか壮大な無駄ということ。げんに日本でも、排気量250㏄未満のバイクは、車検はないが、とくに頻繁に事故が起きているわけではない。このことから、日本人には使用者責任の精神が欠落していると考えるのは間違いだ。全貌を知れば、良識ある日本人の大半は、車検制度の抜本的見直しを迫るはずだ。
1年ばかりで年間500台生産可能規模の自動車工場が完成し、昭和10年(1935年)4月ダットサン第1号がラインオフした。
横浜工場は、1937年4月に、鋳造、熱処理、機械加工、プレス加工、車体組み立て、溶接、塗装工程など東洋一の規模を誇る流れ作業による、本格的マスプロダクション・システムを導入している。が、こうしたモノづくり工場づくりの司令塔的存在だったゴーハムは、ライン完成の見通しが立ったところで、次の新しい仕事に着手し始めた。
ゴーハムの新しい仕事は、「戸畑鋳物」あらため「国産工業」での工作機械の制作だった。
当時の国産の工作機械は、欧米製に比べ精度が低く、耐久性も劣り、使い勝手も、デザイン性にも見劣りするものだった。精度が悪いだけでなく、動作中のギア鳴りが大きかった。よりいいものを作ることにかけては人一倍高みを目指すゴーハムは、来日時からのこうした工作機械の大改革に着手したかったという。当時の工作機械といえば、旋盤、フライス盤、ボール盤の3つだが、メインの生産は、旋盤だった。とくに旋盤の出来がすこぶるよく、高い評判を得た。
おかげで、工場も横浜工場だけでなく、川崎、習志野、大森、我孫子など複数に広がり、規模が大きくなり従業員も1万1000名を数えた。
この企業はそののち日立と合併し、日立金属になるのだが、ゴ-ハムのもとで薫陶を受けた当時のエンジニアの一人は、日ごろから聴いていたこんな言葉が耳に残っているという。
「アメリカで大学教育を受け、技術家として社会に出ていくについて最も大切なことは、油で手を汚すことだ」と言われた。「頭でっかちで理論だけになっていては創造的な仕事ができない」というのが日頃からのゴーハムの主張だった。ゴーハムに会うごとに「手を汚していますか?」と聞かれたものだという。いかにも現場主義を重んじるゴーハムらしい言葉だ。
いまや誰の口にものぼるようになったPCR。たぶん幼稚園の子供でも口にするアルファベット3文字だ。
専門用語がいつしかごく普通の人々の会話の話題にのぼったり、TVやラジオ、ネットで頻繁に使われると、本来の意味などどこかにすっ飛んでいって、みんな分かったつもりで流行するものである。
PCRとは「ポリメラーゼ連鎖反応(チェーン・リアクション)」。サイエンスの専門用語だ。
ごく簡単に言うと“ポリメラーゼと呼ばれる酵素の働きを利用して、DNAサンプルを、いわばネズミ算式に増幅させ、いろんな世界で活用できる装置”のこと。
どんなところで活躍? といえば、新型コロナなど感染症の陽性・陰性判定だけではなく、DNA分析による犯罪捜査、古代DNA分析による考古学の新たな研究など分子生物学、法医学、考古学、犯罪捜査など幅広く使われている装置である。保健所や大学病院だけでなく、幅広く研究所レベルではポピュラーな機器(しかも比較的安価)なのである。だから、昨年来PCR検査が頭打ちになったとき、大学や教育機関にあるPCR装置の活用を強く期待されたのは、こうした背景がある。
今回の面白BOOKブック紹介は、このPCRを発明しノーベル化学賞をとったキャリー・マリス博士(1944~2019年)の自伝である。翻訳は『動的平行』や『生物と無生物の間』などの著書でおなじみの分子生物学者・福岡伸一博士(1959~)。
まず表紙の写真がぐっとくる。マリス博士、実はサーファーなのである。しかも、ホンダのクルマが大好き。ガールフレンドと別荘に向かう途中、いきなりインスピレーションを得て、PCRシステムをイメージするのだが、このとき博士の手に握られていたのは、シビックのハンドルだった。1983年5月のこと。バイオのベンチャー企業の一員だったのだが、じつはベンチャーからノーベル賞をゲット(1993年)したのも、彼が初という。
OJシンプソン事件って、覚えているだろうか? アメリカン・フットボールのスター選手が妻を殺害したとして、当時のマスコミをにぎわし、大半のアメリカ国民はこの事件を扱うTVショーにくぎ付けになったものだ。このときDNAによる検証をめぐって、マリスは裁判にかかわっている。有力弁護士らの援護もあり、シンプソンは無罪となった。このとき、マリスは、サンディエゴの北の自宅から、裁判所のあるLAまでホンダ・インテグラで移動していたのだ。とにかくホンダ車ファンなのだ。
はっきり言って、この本は、クルマの話はほとんど出てこない。でも、マリス独自の科学的知見が縦横無尽に駆け巡り、読者は知らず知らずのうちに知的好奇心の海で遊泳することになる。多数派の意見などに耳を貸さない。彼に言わせると、大騒ぎしている地球温暖化ガスCO2をめぐる環境問題が銭儲け主義の似非科学者のでっち上げだというのだ。このへん、トランプに似ているが、一読の価値ありだ。
とにかく、本の原題が「DANCING NAKED IN THE MIND FIELD(心の原野を裸で踊る!)」。どんだけロックンロールしているんだか?
いまから4半世紀前になるが、イタリアのベータ、フランスのファコムから、カド部におしゃれな樹脂グリップでまとめられたL字型レンチがあり、実にまばゆい存在だった。手に持つ部分を樹脂にすることで、エルゴノミックというか、人にやさしい工具として鮮烈に登場したのだ。こうした樹脂を使った癒し系の工具は、アメリカにも日本にもなかったと思う。(ラチェットハンドル自体も樹脂グリップタイプは少数派だった)
今回ホームセンターで見つけたのは、台湾製工具である。ただ、企画して販売しているのは、大阪の商社・三共コーポレーション(℡06-6252-1712)である。樹脂グリップは、PP(ポリプロピレン:硬め)とTPR(エラストマー樹脂:柔らか目)のハイブリッド構造。ベータもファコムも、当時はソリッドの表面つるつるの樹脂だったことを思えば、進化したといえなくもない。
手に持つとたしかに、グリップフィールは意図通り硬めと柔らかめを感じる。
でも、全体としては、中指と薬指の一部が沿う形状としてはいるが、気持ちの良いピタリ感を抱けない。意外と、このへんの詰めは、人間のフィール(肌感覚)に左右されるので難しい世界。それと落下防止紐が付けられる穴が設けられている(ベータなどにもあった!)が、このおかげで、グリップが過剰にデカくなり、重さにも悪影響を及ぼしている。ちなみに重量は、106g、寸法は長手が160㎜、短手が95㎜だ。
次に軸はどうか?
ファコムやベータが、鏡面加工のピカピカだったのに比べ、こちらは細やかな梨地加工だ。このへんは好みかもしれないが、ピカピカの方がテンションが高まることは間違いない。
差し込み角度1/4インチ(6.35㎜)の、いわゆるドライブ側(オス側)の寸法精度はどうか? 手持ちのKO-KENの1/4インチソケットをつなげてみたが、ふつう程度のガタがある。大き過ぎるとガタが多くなるし、少なすぎると取り外すとき厄介となるので、まぁ、標準寸法だと思う。
驚くべきは、価格。504円+税だった。やはり台湾ツール、恐るべし、なのだ。