すでに旧聞になるが、パラリンピック選手村での自動運転車両の事故を覚えているだろうか?
8月26日のお昼頃、いわゆるオリパラの選手村で選手たち関係者の送迎を低速走行していたトヨタ製の自動運転の小型EVバス「eパレット」(写真:2019年の東京モーターショーに登場。お披露目した際に多数のメディアが集まった)が右折した直後、歩道を渡ろうとしていた視覚障害のある選手と接触した。選手は転倒して2週間のけがを負った。選手のケガ以上に、ショックだったのは、自動運転車両の開発者だったようだ。 はからずも自動運転の難しさを浮き彫りにしたからだ。
事故の詳細を振り返ると、こうだ。
バスは、右折直後、交差点内に人がいることを感知し停止した。バスに乗っていたトヨタ社員のオペレーターが、交差点の周辺を目で確認した。「横断歩道近くにいた誘導役の警備員が横断歩道を渡りかけた選手を静止しているように見えた」ので、オペレーターはクルマを発進させた。その直後、横断してきた選手を車両のセンサーが感知して、自動ブレーキが作動した。オペレーターもあわてて手動の緊急ブレーキをかけたが、バスは止まり切れず時速1キロほどの速度で選手とぶつかり、選手を転倒させてしまった、というのだ。
このクルマは自動運転のレベルでいうとレベル2だ。歩行者、誘導員、オペレーターの3者が、安全を確保する構造だ。つまり、停止すべきだと判断した機械(システム)に対して、オペレーターは横断する選手の行動を読み違えて、クルマを止めなかった。ここに落とし穴があったわけだ。
高速道路など「特定の条件下」での自動運転を許容するレベル3の車両は、すでに市販されている(あまり台数は多くないが)。レベル3では運転手がいて、すぐに自動運転をキャンセルし、手動に切り替えられる世界。ところが、運転手がいない状態で走行するレベル4(実用化は2025年とされる)やレベル5では、果たして人のかかわりをどうするのか? このへんの基本的なことが、今回の事故で浮き彫りになったといわれる。基本的なことだけではなく、交通事故の形態(天候、路面状況、車両環境など)が多岐にわたり、ひとつずつつぶしていく作業は膨大となる。
それでも、年間3000人近くの死者数と36万人以上の負傷者が発生している日本の道路で、自動運転車の普及は間違いなく交通事故ゼロへの道筋となる。
その数なんと20万台を超え、自動車として修理され復旧したのは75~80%だった。船が直接接岸でき、近くに工場があるということで、横須賀市追浜にある元海軍工廠を活用した。この業務は、約10年間にわたりおこなわれ、昭和33年には、その工場跡地に日産追浜工場がつくられ、ブルーバードなどが生産されることになる。これは昭和37年だからはるか先の話だ。近くに野島公園があり、そこからテストコースが見渡せるところだ。
ゴーハムは、この富士自動車の副社長をしながら、実は、「ゴーハム・エンジニアリング社」を設立し、さまざまなモノづくり工場のコンサルタント事業を展開している。その数なんと30社で、トヨタ自動車、キヤノン、ピストンのアート金属、バッテリーの湯浅電池、矢崎電線、理研柏崎工場などそうそうたる企業ばかり。ゴーハムの高い技術力もさることながら、欲得抜きの真摯な生き方に共鳴して一流企業の経営者が、ゴーハムのところに集った、という側面も見逃せない。
だが、別れは急に訪れた。昭和24年、10月24日腎臓を患い、亡くなるのである。61年の波乱の人生だった。その半生は、日本の自動車産業の礎を築いたといっても過言ではない。明治期の「お雇い外国人」は、2~3年、長くて5年ほどで帰国するケースが多かった。いわばパートタイムジョブだったが、ゴーハムは日本を愛し、日本人を愛し、日本人からも慕われ、愛され、日本の自動車産業の礎を築いたひとりとなり、そして日本の土になった。自動車殿堂入りしてもおかしくない存在である。(写真は、桂木洋二著『日本人になったアメリカ人技師』から)
参考文献/橋詰紳也『人生は博覧会・日本ライカイ屋列伝』(晶文社)、桂木洋二『日本人になったアメリカ人技師』(グランプリ出版)、『日本自動車史年表』(グランプリ出版)、『21世紀への道・日産自動車50年史』(日産自動車)、『国産車100年の軌跡』(三栄書房)、「日本史年表」(岩波書店)、工藤美恵子『絢爛たる醜聞 岸信介伝』(幻冬舎文庫)、広田民郎『クルマの歴史を創った27人』(山海堂)
◎次回からは、トヨタの戦前の物語を描く『トヨタがトヨダであった時代』(仮)をお届けします。
いきなりだが、イタリア経験を冷静に呼び覚まし指折り数えてみる。
90年代にベータ(BETA)というイタリアのトライアルバイクに乗っていた時期があるし、観光先のニューヨークのアルマーニ店でTシャツを手に入れた。それにイタリア在住だった須賀敦子さんのエッセイや小説にはずいぶんのめり込んだ時期もある。同業者である日刊自動車新聞社の知人のアルファロメオ164Lのオイル&オイルフィルター交換をやったこともある。
アルファロメオ164Lのオイル交換作業は、強烈に記憶している。このクルマFFのV6エンジンだが、オイルフィルターエレメントがどこにあるのか、上から覗いても、下にもぐり探したが、見当たらない。徐々に不安げな表情が濃くなるオーナーを尻目に、ときどき水中から出て息を吸うアワビ取りの海女さんのように、何度も何度もクルマの下にもぐって、30~40分たった頃ようやく見つけた。ロアアームの上のごく狭い隙間に収まっていたのだ。門型リフトならいざ知らず、フロアジャッキと馬(リジッドラック)で持ち上げたわずかな空間では自由に横を振り向けず、発見が遅れたわけだ。しかも、不思議なことにフィルター自体は手でも回せるほど初めから緩んでいた。フィルターレンチを潜り込ませられないほどロケーションが悪く、前任の整備士さんが手抜きしたに違いない。はっきり言ってヤバい状態だったのだ。
かつてのイタリア車は、しょっちゅう壊れるので、走っている時間よりも整備工場に入院している時間の方が長い、なんて悪口をいわれていたが、最近はドイツ車に迫る信頼耐久性があるという(アルファロメオの整備士コンテストを取材した際に、耳にタコができるほど聞かされた!)。
少し前のイタリア車のオーナーは、腹を抱えて大笑いするほどの奇想天外なトラブルを体験しているはずだし、ジャパニーズ・インダストリーとは異次元のイタリアン・インダストリーの醍醐味を感じているはず。
ところが、筆者山川氏はどうもメカニズムに関心が薄く、不具合を追求して言葉にする好奇心が薄いと見受けられる。そこが少し残念。それでも、活字の世界や映画に登場するイタリア車を紹介したり、独自の取材力でイタリアの、言うに言いがたい魅力に分け入ろうとする。つまりはアルファロメオ車に恋した日本人の一人の男のエッセイなのだ。(文庫版発売は1998年6月)
筆者のイタリアへの偏愛具合は、大いに興味が持てる。イタリアは、中世のヨーロッパの田舎の臭いがするし、季節でいうと秋なのである。どこか投げやりで、それでいてフレンドリーなアルファロメオの良さがぐいぐいと伝わってくる。数年前ジュリエッタのステアリングホイールを数時間握って横浜の街を走ったことがあるが、そのとき窓外の景色がイタリアンデザインに縁どられた錯覚に陥った。同時にアダージョ(緩やかに)、フォルテ(力強く)、カンタービレ(歌うように)、クレッセンド(だんだん強く)、ダカーポ(曲の最初から繰り返す)、それにフィーネ(曲の終わり)といった音楽の世界の用語が、頭のなかをかけ巡ったのだ。
コメの飯を食っている日本車オーナーも、懐(ふところ)とパーキング事情が許せば、イタリアン・フードを食べている人がつくるクルマを所有したい。
エクストラクターの機能を備えたヘキサゴンレンチ9本組みセットである。
他メーカーにはラインアップしていないハンドツールを意欲的に出している兵庫県三木市にあるスエカゲツールの製品だ。品番は、BPWS-9Sだ。
いまどきのバイクが特にそうだが、内6角ボルト、つまりヘキサゴンボルトが好んで使われるようになった。いわゆる「皿キャップボルト」と呼ばれる頭部が丸みを帯びたヘキサゴンボルトは、でっぱりが滑らかになるデザインに貢献できるため、とくにバイクのボディやカウル、フェンダー周辺で多く使われている。ヘキサゴンボルトを脱着する工具は、スパナやメガネレンチでは不可能。ヘックスレンチの出番だ。
ヘックスレンチには、L字型、ソケットタイプ、ドライバータイプ、ナイフ形などいろいろあるが、L字型が一番ポピュラーで、比較的リーズナブルな価格で手に入るため、多数派となっている。L字型は、長手方向に約200mmあるので手が入りづらい、つまり奥にあるキャブレターを脱着するときなど活躍する。(ラチェット機構が付かないので、ややもどかしい感じになるが)
このL型レンチは、6角の線材を加工するだけ。といっても切断、曲げ、先端部の加工、熱処理、表面処理などの工程があるが、ソケットをつくるうえでの圧入などがないぶん比較的容易にできる。そのためか、数多くの製品が市場に出ている。販売価格も2000~4000円と比較的手に入りやすい価格帯である。
そこで、選択の決め手は、サイズの豊富さ、ブランド、使い勝手の3つとなる。
この製品、サイズの豊富さは負けていない。下から1.5,2,2.5,3,4,5,6,8,10と計9種類。一番使用頻度の高いネジ径M8用の6mm、それにねじ径6mmに対応する5mmである。オフロードバイクの場合、転倒による破損や変形で部品の取り外し、取り付け作業が日常的となる。故にボルトの頭部の溝が舐める頻度も高い。こんなとき、このエクストラクター機能が断然有効となる。
EXTRACTORとは、抜き取り工具、のことである。ネジの頭が破損してもげた場合、鏨(たがね)のようなエクストラクターをハンマーで打ち込み強引に折れたボルトを抜き取る……そんな手法が昔からあるが、このヘキサゴンボルトのエクストラクター機能は、頭部の6角の凹みが舐めた場合、通常のレンチでは役立たない場合、断然役に立つのだ。この工具のミソは、6カ所のうちの角3つを少しえぐっている点(写真)だ。これにより舐めた穴溝でも工具がすんなり入り、トルクをかけられるという寸法だ。
凄いのは、一番小さなサイズの1.5にまで、この特殊形状を作り込んでいる点だ。なお、長軸側には、ボールポイントタイプにしていて、斜めからボルトにアクセスできるデザインである。使い勝手については、新デザインの樹脂ホルダーがよくできている。向かって左端をスライドさせることで、上蓋が持ち上げられ、必要とするサイズの工具を速やかにピックアップできるのだ。その動きもスムーズにできる。重量は約400gで、価格は3850円だ。
先日、鈴鹿サーキットでおこなわれたトヨタの社長豊田章男氏の発言が、話題を呼んでいる。
日本自動車工業会会長として、という前提で「五輪は許されても4輪と2輪は許されないことに、不公平感を抱いていて、大いに不満だ」と発言。その場にいた記者にこのフレーズを記事の見出しとして使ってほしいとまでアピールした。
言い回しの妙に座布団1枚という声もあるが、このボヤキ、わからないでもない。
コロナ禍の状況下で、オリンピック・パラリンピックを開催したのに、日本で開催予定だった国際格式のモータースポーツはことごとく中止に追い込まれたからだ。F1日本GPをはじめ、世界ラリー選手権WRC,世界耐久選手権WEC,2輪のモトGPや鈴鹿8時間耐久レース、もてぎで開催予定のトライアル世界選手権などがことごとくキャンセルとなった。しかもトヨタとしては、五輪のメガスポンサーの一つとしておおいに協力したのにナゼだ! という思いが章男氏の強い言葉の裏にある。
当局は、モータースポーツのアスリートをアスリートとして見ていないのか? そんな発言も章男氏の口から出た。
この差別には根深いものがある。そもそも、日本人の大半はモータースポーツを100m走やマラソンといった駆けっこ、水泳競技と同じようには見ていない。運動場やプールの数ほどには、サーキット場がないからだ。自動車やバイクは生活のなかに溶け込んではいるが、それを使っての競技となると、遠い存在だからだ。エンジンのチカラで走るのだから、それを操る人間はオペレーターであって、アスリートではないんじゃないの? というのが大半の日本人の発想だ。
これってやはり日本が自動車とバイクの生産大国であっても、自動車やバイクをめぐっての文化が、ほとんど根付いていないということなのだ。
象徴的なのが、科学博物館だ。ヨーロッパ、たとえば第1次世界大戦まで欧州の中心地だったウイーンの科学博物館には、自動車の初期のころの電気装置が展示していたり、若き日のフェルディナンド・ポルシェがつくったホイールインモーターのEV(写真)が展示されている。加えて20世紀初めのころの自動車レースの膨大な動画が保存され、だれでも見ることができる。敗戦後、経済を立て直した自動車そのものの展示は、日本の科学博物館にはほとんどない。
自動車の扱い方についても、ほとんど議論されないことも、日本に自動車文化が根付いていない証拠だといえる。たとえば、高齢者ドライバーがブレーキペダルとアクセルペダルの踏み間違える事故が最近話題になっている。これなど「左足ブレーキ」を身につければ、まず、暴走事故は激減するはず。ところが、日本の自動車学校でも、「左足ブレーキはむしろ危ない」として、議論しようとしない。著名な自動車ジャーナリストであるポール・フレール(1917~2008年)も「左足ブレーキ」を推奨しているのである。
じつは、トヨタも1970年代のオイルショック以後、モータースポーツをほぼ封印していた時期が長くあった。当時のトヨタマンの口から、「レースはいわゆる金食い虫」というフレーズを聞いた。レースに足を染めている豊田章男氏の代は大丈夫だが、次の代でもし不景気にでもなれば、企業は態度を180度転換するものだ。
自動車文化の創造は長いスパンで考えるべきだ。そこで章男氏に提案したいのは、次世代を担う子供たちが楽しめるモビリティのワンダーランドの創設だ。「こども庁」の発想もあることだし、ここは、鈴鹿サーキットやもてぎをさらに進化させた子供ファーストのモータースポーツランドを国内に5,6個といわず10個ほど作ってみてはどうか。
1945年8月15日、ようやく長い戦争が終結した。
東京、横浜は、爆撃で大半のところは焼け野原となった。とくに軍需工場の被害はすさまじかった。ところが、日産の横浜工場は軍用機のエンジンを製作していたにもかかわらず、ほとんど被害を被ることはなかった。あとでわかったことだが、戦後アメリカ軍が接収して、敷地だけでなく、設備一式を活用しようと考えていたからだ。
だから、この年の10月から日産は、トラックの生産を再開することができた。もちろん日本の復興のためのトラックである。ゴーハムは、このとき取締役技術長として、大車輪の活躍をした。機械設備の再編成、資材の調達など寝る間を惜しんで働き続けた。このころのゴーハムは、部下たちからひそかに“ブルドーザー”というニックネームを頂戴している。
日産の復興にめどがついた時点で、ゴーハムは次の仕事に取り掛かった。
日本および東南アジア各地に戦争で放置された車両を回収し、修理できるものは修理、部品取りするものは部品、スクラップになるものはスクラップという分別業務を展開する会社「富士自動車」という新会社を立ち上げ、元日産の社長・山本惣治(1888~1962年)とともにおこなうのである。
日本国内の車両修理業務は、日産同様トヨタもおこぼれにあずかり、朝鮮戦争(1950年)で、特需景気が起きるまでのつなぎの業務として、事業永続のカギを握った。南洋諸島や東南アジアにある車両は、戦車陸揚げ船(LST:タンク・ランディング・シップ)や上陸用舟艇(ランディング・クラフト)で運ばれてきた。富士自動車が1958年までに再生した米軍の車両は、のべ23万台ほどだったという。
ちなみに1955年、独自開発した超小型3輪自動車フジキャビン。これは富谷龍一(1908~1997年)のデザインで、FRP(強化プラスチック)ボディの斬新なものだったが、量産性も悪くけっきょく試作85台ほどで終わっている。富士自動車という企業は、いまから見ると不思議な会社だった。
(写真は、日産トラック480型などに載せられた当時のサイドバルブ直列6気筒エンジン。アメリカのグラハムページ社の技術でつくられたエンジン。排気量3670㏄、圧縮比6.8、最高出力95HP)
世界的な自動車ジャーナリストにしてルマンなどで活躍したレーシングドライバー、ベルギー人ポール・フレール(1917~2008年)の硬派なドライビング・テクニック教則本である。
文は人なり、とはよく言ったもので、良くも悪くもポール・フレールさんの生真面目さが前面に出た教則本だ。活字を通して彼のロードインプレッションなどをいくつも目を通してきたが、ベルギーの裕福な家族のもとで育ったおかげで、実にまじめで真摯に対象をとらえ、仕事に打ち込んだ人物だということがわかる。
だから、この本は、ドライビングポジションの決め方からスタートし、ギアチェンジ、ブレーキングとすすむのだが、クルマをあやつる、つまりカードライビングは、クルマのメカニズムを知ること、さらにはクルマのメンテナンス(ブレーキフルードの劣化など)まで話が及ぶ。こうした運転の各動作を深堀することで、クルマを深く理解し、理想的な運転テクニックに結び付けていく。
しょうじき告白すると筆者(広田)は、こうした教則本が苦手。ところどころにあらわれる数式に面食らうし、そもそもバイクもそうだが、運転というのは失敗してなんぼの世界だと信じているフシがあるからだ。ともあれ、翻訳はカーグラフィックの元編集長が監修しているので、まず間違いないと思われる。
この本の魅力は、運転免許を取った初心者から、サーキットで競技を楽しむレーシングドライバーまでを対象にしている点のようだ。サーキット走行を安全におこなうまでのスキルや知識がとりあえず述べられている。とりあえずと言ったのは、この本はいまらか50年以上前に書かれた本(翻訳は1993年12月)だから、現在の状況とはかけ離れたことがあるからだ。でも、基本はあまり変わってはいない。
数年前、ホンダがもてぎのショートコースで展開しているサンデードライバー向けのレーシングテクニックの初歩の初歩講座を取材したことがある。自分のクルマで、普段できないフルブレーキなどが楽しめるところが魅力だ、こうした講習会は、「ふだんの自分の運転を見直すきっかけになる!」として意外と人気である。こうした意識高い系ドライバーは、この本でまず“畳の上の水練”をおこない、もてぎや鈴鹿サーキットで実践をおこなうのがいいのではなかろうか。
ラチェットドライバーほど、使い勝手のいいものはない。でも実際、もろ手をあげて合格点をあげられるのは、あまり世の中には存在しない。……ということは十分承知していながら、先日スマホをいじっていて、たまたま発見したのが、この商品。
MADE IN CHINAではあるが、DURATECH(耐久性のあるテクノロジーの意味合いか?)という何やら質実剛健そうな感じのブランド名。それと、グリップ内に両頭ビットを仕込んでいて、しかも、その数が6本、つまり合計12のネジに対応する! 渥美清演じるトラさんの「啖呵売(たんかばい)」の世界と同じで、人はときに怪しげなものに惹かれるもの。ついクリックしてしまい、購入してしまった。なんと価格は1880円(税込)! という廉価だったこともあります!
いわばお化け屋敷に足を踏み込んだ感じ(オーバーですね)だが、読者を代表して購入した甲斐は十分あったといえる。
ズバリ言えば、予想した通りガタがやや多い。これは厳しい言い方をすれば、手にじかに握るドライバーとしては、致命的な欠点だ。ラチェットのギアは、24と多くもなく少なくもないが、山を越えるときの作動力が軽すぎて、まるで昔の安っぽいラチェットドライバーを思い起こさせた。そこまで吟味して商品化していない証拠だ。
でも、美点はそれなりに発見した。
全長90㎜の両頭ビットがうまくグリップに収まっており、指で押すことで出し入れするシンプル構造。コンコンと叩いただけで飛び出すか、やってみたが、適度な摩擦抵抗があり、その心配はない。いわゆるチャックに両頭ビットを装着するには、ただ押し込めばいいだけ。取り外すときは、黒色のスライドカラーを手前に少しずらすだけ。この作動力が軽いのは、うれしい。
このラチェットドライバーの美点は、なんといっても豊富なネジに対応できる点だ。プラス1番、2番、3番、それにマイナス4㎜、5㎜、トルクスの10,15,20,25、それにスクエア(SQ)1,2,3……合計12のネジに対応だ。スクエアというのは真四角の凹みのあるネジに対応するもので、家具などに使われているネジだ。ヘックスボルト向けのビットがないのは、不思議な感じがするが、手持ちの1/4インチ(6.35㎜)のビットが流用できるので、とりあえず良しとしよう。
ちなみに、全長は215㎜で通常のドライバーとほぼ同じ。重量はビットの数が多い分242gと、手持ちのPBが208gにくらべて2割増しで重い。グリップの形状は、親指が収まる凹みがあり、悪くない感じだ。価格のわりには、よくできた製品と言えそうだ。