みなさん!知ってますCAR?

2022年2 月 1日 (火曜日)

TOP NEWS

道路運送車両法のルーツは、“自動車取締令”だった!

円太郎バス

  クルマを日本の道路で合法的に走らせるオキテ(法律)は、いうまでもなく「道路運送車両法」である。
  ヘッドライトの明るさはどうのだとか、ブレーキはどうのこうのとか、車体に尖った部分がないとか(尖っていてもある一定の柔らかさであればいいとか)、そんなモロモロの取り決めである「保安基準」もそのなかにある。2年に一度の車検というのは、この取り決めを犯していないかをチェックすること。(詳細は拙著「新クルマの改造〇と×」〈山海堂〉を参照)
  「う~ん・・・・そんな退屈で面白くないこと、なぜいま持ち出すの?」と言われるかもしれない。
  ひとことで言えばルース・ギンズバーグ(1933~2020年)を描いた映画「ビリーブ」がキッカケ。性差別の撤廃で活躍し、27年にわたりアメリカの連邦最高裁判事をつとめた、この女性はハーバード・ロースクルール(HLS)の出身。1817年創立だから200年以上の歴史を持つ法科大学院がアメリカという国家の大きな重石となっているに違いない。このことに直感した。
  そこから芋づる式で、HLSそのものを詳細に解説した田中英夫氏の著書「ハーヴァード・ロー・スクール」、HLSを舞台にした青春映画「ペーパーチェイス」、HIS教授アラン・ダーショウィッツの自己啓発書「ロイヤーメンタリング」、HLS出身のサスペンス小説家が描く法廷小説、さらには日本が近代化を推し進めるうえで明治期に急速に法整備をした背景を克明に描いた「法学の誕生」。この労作を通して渋沢栄一の長女・歌子の夫穂積陳重(ほずみ・しげのぶ)が貢献していることが分かった。例の小室圭騒動でアメリカのロースクールへの関心がいや増す事態になった。
  ジュリストの世界から見るとまるで宇宙人だったのが、“にわか法律オタク”(むろんナンチャッテという枕詞が付くが)になった気分。そこで、ふと我に返り、日本の道路運送車両法は、欧米の法律を参考にしたんだろうか? だとしたら、ドイツか? アメリカの法律か? 戦後6年目にできたのだから当時アメリカの支配下にあった日本(昭和27年、サンフランシスコ平和条約が発効し、占領政策が終了した)は、アメリカの影響が大きかった。
 事実は小説よりも奇なり! 道路運送車両法のルーツそのものは、明治36年(1903年)の「自動車取締令」だった。
  なにがキッカケでできたというと、同年の第5回目の内国勧業博覧会。これは上野で3回、京都、大阪で各1回開かれ、なかでも大阪での延べ153日間になんと530万人という人出。当時日本の総人口4500万人だから、10人にひとりが博覧会に出かけたという計算だ。
  このとき“乗合自動車”を最寄りの駅(梅田)から会場(天王寺)まで走らせている。おそらく蒸気自動車だったらしい。このとき、主催者側から「カクカクしかじかのクルマを走らせます」という申請を主催者側の政府に申請した。この申請を受け、急遽作られたのが、「自動車取締令」というわけだ。愛知県令、長野県令、京都府令など1905年にかけて合計20の府県において、名称はいろいろだが「自動車取締令」が出された。
  その内容は、タイヤ、ブレーキ、警笛、屋根、泥除け、前照灯、後尾灯が付いているかどうかの確認、といういたってシンプルなもの。原動機(エンジン)は、営業開始日までに県庁の指定する日時場所で検査を受けること、それ以降は毎年1月と7月に検査を受ける…‥とある。どんな検査なのかが気になるが、たぶんエンジンがかかり、異音がなければOKだったのではなかろうか? そのころは馬車が10万台、牛車3万台弱、荷車135万台、人力車18万5000台で、エンジン付きのクルマはごく数えるほどののどかな時代。
  でも昭和8年、1933年になると、クルマの保有台数が7000台となり、内務省令の「自動車取締令」が少し充実してくる。ブレーキにおいては時速50㎞で、22m以内で止まれること。前照灯については、50m前方の障害物を認識できる光度を要する、といった具合。自動車にまつわる法律は、アメリカの商務省からの圧力で規制緩和するなどの事例はあるものの、どうやら日本オリジナルが基本だった、といえそうだ。
  (写真は、関東大震災後に走り始めたフォードTTベースの11人乗り「円太郎バス」。庶民が自動車の存在を強く意識し始めた先駆けとなった)

カーライフ大助かり知恵袋1

『トヨタがトヨダであった時代』(第7回)

スミダバス

  豊田喜一郎たちがエンジンの研究を続けているあいだに、政府主導で新しい自動車をめぐる動きが起きていた。
  政府とは具体的には、管轄の商工省(現在の経済産業省の前身)である。商工業の奨励と統制をおこなうことができる国家機関である。
  大正初めから始まったアメリカ車の流入によって、壊滅的打撃を受けた日本の自動車メーカー。これを立て直すため、この組織がいわば司令塔になり、自動車の国産化の道筋を作ろうとしたのだ。
  そこには軍事上の自動車の必要性もあった。当初はフォードとGMの進出を歓迎していたのだが、両社の本格的な組み立て工場が稼働し始めると、輸入が急増し国際収支が悪化し始めたことで、輸入車を締め出す策に転じたのだ。もう一つは、ひそかに仮想敵国と定めた米国から戦力となる自動車を購入する矛盾に気付いたのである。
  昭和6年5月、商工省内に、「国産自動車工業確立調査委員会」を置き、具体的な方策をスタートさせている。委員会のメンバーは、陸軍省、商工省、鉄道省のほか、民間から石川島自動車製作所、東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造の国産3社。この年の9月、標準型式自動車の設計をおこない、自動車の要素を10個ほどに分けて、試作に入った。石川島がエンジン、東京瓦斯電気がフロントアクスル、リアアクスル、ブレーキ、ダットがトランスミッション、クラッチ、プロペラシャフト、鉄道省がフレームとステアリング、スプリングなどを担当した。
  この委員会の臨時委員のなかに、喜一郎が大学時代論文を一緒にまとめた隈部一雄(1897~1971年:東大教授、のちトヨタの副社長を歴任)、小林秀雄、坂薫、高校・大学を共に過ごした伊藤省吾がいた。彼らから喜一郎は、さまざまな情報を知り、またクルマをめぐるモノづくりのアドバイスを受けたという。
  商工省が音頭取りした「標準型自動車」は、昭和7年3月に試作が完成した。これはフォードとシボレーなどのクルマとの競合を避け、それより一回り大きい1.5~2トン積みのトラックとバスで、年間1000台の量産を計画した。しかも、3つの自動車会社は、量産効果を高め、コストを下げるために合併している。こうして生まれたのが、「いすゞ」であり、「ちよだ」「スミダ」である。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:デービッド・ハルバースタム著『覇者の驕り』(新潮文庫:翻訳/高橋伯夫)

覇者の驕り

  アメリカのフォードと日本の日産、この2つの自動車メーカーをテーマにした自動車をめぐる男たちの一大叙事詩というべき超ロング・ノンフィクション作品。文庫本で上下2冊、トータル1250ページの大河ドラマだ。正直、読むのに10日間ほどかかった。
  筆者デービッド・ハルバースタム(1934~2007年)は、ニューヨークタイムズの元記者で、ベトナム戦争の報道でピューリッツア賞に輝いたジャーナリスト。アメリカの巨大メディアの歴史に迫った『メディアの権力』(原題:POWERS THAT BE/朝日文庫で全4巻)など硬質な傑作が多い。
  単純に作品の長さだけを比べると、わが邦の日本にも足掛け30年にわたり新聞で連載した長編小説がないわけではない。中里介山(1885~1944年)の『大菩薩峠』は全41巻。でも、これはあくまでも想像力で書き継いだ物語。いっぽうハルバースタムの作品は、5年の歳月をかけあらゆる手を尽くして関係者にインタビューを展開。鍵となる人物が故人の場合は、その周辺人物を探し出し、知られざる行動や言動、その人の好みや癖みたいな事柄を探り出し、造形していく。日本人だけでもざっと70名、欧米人を含めると300名にくだらない人物(有名人、無名人を含めだ)から直接話を聞き出している。
  だから既知の事柄はなるべく排除され、“美は細部にやどる”という言葉通り、物語はチカラ強く立ち上がり、リアルに読む人の胸に迫ってくる。
  たとえば、ヘンリー・フォード(1863~1947年)の晩年の真実は衝撃だ。若いころの“進取の精神”があとかたもなく消え去り、嫌悪すべき老害をまき散らしながら、まわりを巻き込んでいく。そのことがやがて息子のエドセルを苦しめ、短い一生を終えさせたことを読者は知ることになり、愕然とする。
  半世紀ほど前ホンダが資金調達に苦しんでいた。フォードの子会社になるという提案が持ちあがった。金融・証券企業のゴールドマン・サックスの投資部門のシドニーワインバーグ(1891~1969年:のちゴールドマン・サックスの父と呼ばれる人物)が、その提案者。本田宗一郎は、ヘンリー・フォードを崇拝していたので、心が動いたようだが、フォードの財務部が東洋の吹けば飛ぶような2輪メーカーに歯牙にもかけなかった。もしこのM&Aが成り立っていたら、シビックもないし、ホンダジェットもアメリカの空を飛んでいない。
  米国防長官ロバート・マクナマラ(1916~2009年)を覚えているだろうか? ハーバード・ビジネススクールで学んだのち、わずか20代で、統計学を活用して対日戦線の指揮系統に参画。3月10日の東京大空襲や広島・長崎への原爆投下にかかわった。その人物が、戦後ウイズ・キッド(WHIZ KIDS:若手の天才集団)のひとりとしてフォードに乗り込み、事業を立て直し社長に登り詰める。そして国防長官への足掛かりとしていく・・・・。
  つまり、フォードは半世紀たたないうちに、モノづくりなどちっとも知らない計算に強い人材が自動車メーカーの主役に躍り出る事態となった。
  同じように、日本の日産も、初めはモノづくりにも習熟した鮎川義介(1880~1967年)は、例のお雇い外国人ウイリアム・ゴーハム(1888~1949年)の力を借り、日産の基礎を構築。ところが、戦後になると銀行マンの川又克二(1905~1986年)が実権を握り、そこへ労働貴族の異名をとる塩路一郎(1927~2013年)が絡んでくる。この油の匂いなどまるでしない二人は、モノづくりの世界からは、遠いところで、日産を牛耳っていく。ネクタイ組は、あくまでも数字の世界でクルマをとらえようとする。
  でも、ハルバースタムは、出世から外れた、いわばネクタイが身につかない“傍流”の人物もしっかり視野に入れている。日産ではミスターKこと片山豊(1909~2015年)。フォードではムスタングのアイディアを生み出したドン・フライ(1923~2010年)。二人とも、どちらかといえば「自分でクルマの不具合を直したい!」と考える人だし、「機械にはどこか神聖さが宿っている!」と心の隅で信じている人物。
  原書のタイトル「THE RECKONING」はもともと「計算、生産」という意味。となると、マクナマラや川又などを代表する計算に長けた人物をイメージしたタイトルだと思いがち。ところが、RECKONINGにはもう一つの意味があった。「報い、罰」という意味。計算高い男どもはことごとく、自動車の神様に罰せられる!? 作者のハルバースタムは、どうやら後者の含みで、日本人には分かりづらい、このタイトルを選択したと思われる。(1990年9月刊)

愛車メンテのプラスアルファ情報

身近に手に入るスイスのPBドライバー

Pbドライバー

  憧れのドライバーにスイスのPBがある。創業者のポウル・ボウマンの頭文字をルーツにするドライバー専門メーカー。もともと第2次世界大戦中にスイスの軍隊からの依頼があり、たしかな熱処理と緻密なモノづくりで、世界的なブランドを築き上げた。近年、魅力的なラチェットドライバーをリリースするなど、140年の歴史に胡坐をかかずに工具業界に新風を吹き込んでいる。
  日本では、大阪の商社が専門で扱っていたころはプロ仕様ということで、エンドユーザーにはなかなか入手しづらいブランドだった。ところが、ネット販売が広がるにつれ、比較的低価格な輸入工具は、ポピュラーな存在になりつつある。先日、ふらりと入ったホームセンターにも、数こそ少ないがドライバーが展示してあった。
  10年ほど前に、登場したいわゆる「スイスグリップ」と呼ばれる樹脂製の手にやさしく握れる品番8190というドライバー。グリップエンド部に大きくわかりやすくサイズ表示(Ph2×100/6とある)で、ユーザーオリエンテイティド・デザインだ。小振りのグリップは日本人の手にもなじむ。
  全長が204mm、重量72gと同種(つまり非貫通タイプのプラス2番)のなかでは、最軽量だ。あまり軽いと頼りなく感じる向きもあるかもしれないが、グリップの密着感が高いせいか、実際使ってみるとそうした心配は霧消する。試しに意地悪テストとして洗剤を付着した手でグリップを握り使ってみたところ、ほかのブランドにくらべグイグイと回せた。これはかなりのアドバンテージだ。
  ホームセンターでの購入価格は、1690円だったが、購入後あらためてAmazonで調べたら、なんと1182円(送料込み)とあった。結果的には500円ほど高い値段で購入したことになる。でも、やはり売り場でじっさい手に取り確認できるので、店売りの方がなかば安心して購入できるともいえる。(お店で確認し、ネットで手に入れるというドライな方法もあるが)


▲ページの先頭に戻る

Copyright © 2006-2010 showa-metal .co.,Ltd All Rights Reserved.