みなさん!知ってますCAR?

2022年2 月15日 (火曜日)

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エンジンマウントの交換は不文律のメンテナンス!?

エンジンマウント

  森羅万象の事象が掲載されている百科辞書のなかにも、意外と知らない言葉や出来事が見落とされている。それと同じで、完璧と思われる“自動車の整備書”のなかにもスポっと抜け落ちた項目がある。
  さしずめ、エンジンマウントの交換は、その代表例だといえる。
  先日、若い読者Y君からのメールで、「ぼくの19年目を迎えたマークⅡ。走行12万3000kmなんですが、思い切ってエンジンマウント2個とT/Mマウント1個を交換しました」と伝えてきた。「おかげで始動時のブルッという震えが消え、アイドリング時にステアリングに伝わる振動がずいぶん軽減されました。加速時のざらついた振動もほぼなくなり、直列6気筒のスムーズ感が回復した印象です」とそれなりの効果を得られたとのこと。使用済みの部品を目視点検したところ、大きく剥離こそしていないものの、細かな亀裂が入っていたという。
  モノの本によると、人間が騒音と振動を感じる周波数は、20~100Hzなので、これがエンジンマウントの交換で減衰したと読み解ける。ただ、「左右のエンジンマウントが液封タイプのため単価が1万3000円(T/Mマウントは6000円)と高価で、工賃を入れると4万6000円と馬鹿にできない費用になった」とY君はもろ手を上げて喜んではいない。早い話、費用対効果、つまり“コスパ”が大きな課題というのだ。
それを聞いて昔の体験がよみがえった。KP47スターレット(エンジンはOHV1200㏄)のエンジンマウントを走行8万キロあたりで交換した。騒音計で測定したところ、たしか4デシベルほど車内騒音が低下して、びっくりしたことがある。当時、部品代も気にするレベルではなかった。
  この経験があり、90年代にエンジンマウントの開発担当者数名に寿命を聞いたことがある。「たしかに80年代あたりまでは亀裂が入って迷惑をおかけしたこともありましたがいまは一生ものと思ってください」と太鼓判を押された。
  そこで今回、あらためて知恵袋のトヨタディーラーの1級整備士Kさんに聞いてみた。
  「エンジンマウントの交換作業依頼は、数は少ないです。整備士歴30年のあいだに10件ぐらいかな。むかしのFR車は交換作業が楽でしたが、いまどきのクルマとくにFF車(イラスト)とか、縦置きエンジン車でもV6だと横の出っ張りがあるので、車体を持ち上げた状態でエンジン本体だけを浮かすことが難儀なクルマが少なくない。なかにはフロントサスの一部を取り外すとかしないと、作業スペースがとれないケースもあります。だからクルマにもよりますが、作業時間が4~5時間に及ぶことも…‥」となると、部品代込みで10万円近くになる計算。
  ところが、このエンジンマウントは定期交換部品には入っていない。トヨタの整備士向け技術テキスト(イラスト:少し古いが1995年版)には、「エンジンマウントは、振動騒音の伝達系の重要部位なので、アライメントは正しく保つ必要がある」そこで「エンジンマウントのスグリの隙間をチェックする」あるいは「同系他車との比較をする」とあるだけ。
  「自分たちのエンジンが市場でどうなっているのかをときには自動車解体屋さんで中古エンジンを購入して研究することもあるんです」とざっくばらんに楽屋裏を吐露してくれたダイハツのエンジン開発部長がいた。その彼から「クルマの耐久性を突き詰めていくと、ゴムにいきつくんです。一定以上の耐久性を持たせようとすると、量産車の領域を超え、宇宙開発技術の世界に踏み込む……」という意味の部品についての踏み込んだエピソードが耳に残る。
  いずれにしろ10万キロとか15万キロを後にしたゴム製品は、劣化が進んでいるとみて間違いない。・・・・でも、これってエンジンレスのEV時代になると、まったく意味をなさなくなる!?

カーライフ大助かり知恵袋1

『トヨタがトヨダであった時代』(第8回)

アツタ号

  開発スタッフの大半は、エンジンの知識がほとんどなかった。
  そこで、クルマのエンジンをじかに触れさせる目的で1933年製のGMシボレーの6気筒ガソリンエンジンを分解調査しはじめる。分解し、部品をスケッチし、その材質を調べたりしながら、自動車の基本を徐々に学んでいった。
  この当時、外部からもスタッフを招聘している。いわゆる“中京デトロイト化計画”で、「アツタ号」のエンジンを設計した菅隆俊(1886~1961年:のち拳母工場の建設、豊田工機の設立に活躍)や、「オートモ号」の設計を手がけた池永羆(いけなが・ひぐま)。それに3輪自動車の経験を持つ伊藤省吾や、自動車部品製造業界に詳しい元白揚社の大野修司などである。
  ちなみに、中京デトロイト化計画は後世のマスコミがいささか気負った表現だとおもう。当時の大同メタル工業の社長川越庸一(1893~1983年)が中心となった壮大なプランだったことは確かだ。川越は、福岡の修猷館を経て熊本工業高校機械工学科(現熊本大学理工学部)を卒業後、1922年にアメリカにわたりハドソンやダッチの工場を見聞、働きながら自動車の研究をした人物。帰国後1929年にGMの代理店の昭和自動車㈱のサービス部長をするなかで、中京地区で自動車づくりの機運を盛り上げようとした。
  川越は、名古屋商工会議所の主要メンバーで愛知時計電機の青木鎌太郎(1874~1932年)に声をかけ、さらに名古屋市長や愛知県知事に協力を依頼、さらには豊田自動織機や大隅鉄工所、日本車両といった名古屋の地元有力企業5社が、中京地区をアメリカのデトロイトのようなクルマ生産拠点を目指した。資本金1000万円を軸にした企業体での試みで、約2年がかりで「アツタ号」を完成させた。AA型乗用車が世に出る4年前の1932年(昭和7年)のことだ。
  これは、アメリカのナッシュをお手本に数台作り上げられた。もちろん量産にはほど遠い、手づくり乗用車だ。
  当時難所とされていた神戸の六甲ドライブもこなすほどの性能だったという。このエンジンを流用した乗り合いバス「キソコーチ号」も数台作られ、名古屋市バスとして走らせている。水冷8気筒、排気量3.94リッター、85馬力の大型エンジン搭載の高級車にちかい。
  「アツタ号」は価格6500円で売り出された。昭和7年ごろ米1俵(60kg)が8円20銭だったので、現在米1俵が約1万5000円とすると6500円は、いまの貨幣価値でいえば約1200万円。スーパーカーの値段だ。ちなみにフォードなら3000円(現在の貨幣価値で約500万円)で手に入った時代。2倍以上の価格ではとてもじゃないが売れない。よほどの富裕層でないと買えない。とてもじゃないが、庶民にはクルマを持つこと自体が、夢のまた夢というか、高根の花。
  しかも「アツタ号」はコスト自体が実は1台あたり9200円もかかったという。完全なコスト割れ。作れば作るほど損をする! くわえて、そこへ不況(昭和4年アメリカから始まった世界恐慌)が襲ったことで、デトロイト化計画はあえなく頓挫した。振り返ると中京デトロイト化計画は、絵に描いた餅でしかなかった。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:神林長平著『魂の駆動体』(ハヤカワ文庫)

魂の駆動体

  赤い二人乗りのクルマが、空を飛んでいる。よく見るとハンドルから、シート、タイヤ、エンジン、サスペンションなどありとあらゆる部品がボディから外れバラバラになりかけている。人は誰も乗っていない。でも、そのうえにはなぜか猫が一匹飛び出している……そんなシュールで絵本のような表紙の文庫本。しかも本のタイトルが意味ありげ、逆に意味不明とも言えなくもない『魂の駆動体』である。表紙からして、まさにSF小説だ。
  目次を眺めると、過去、未来、現在の3部構成。トータル500ページ近い大作。
  読み始めて、いきなり場違いなところに連れていかれた気分となる。「過去編」の世界は、実は近未来なのだ。読者の頭のなかの時系列が大混乱! でも読み進めると、止まらない不思議さが!? さすがSF界の大御所だ。
  ところで、「過去」とは、たぶん2040年あたり? その時代、人間はデジタル社会が進み、“人格をデータ化し、仮想空間で管理。肉体は処分する”そんな時代に突入していた。これってディストピアの世界。
  平成に青春を送っていたとおぼしき主人公の2人のジイさん。社会的には、まったく無力。正面から社会変革こそできない。せいぜい隣の果樹園からリンゴをちょろまかすぐらいが関の山。でも“最後のあがき”とばかりある情熱に熱中する。自動車はそのころすべて自動運転化されている。ゆりかもめの電車とかエレベーターのような≪無人運転車両≫になっている。ジイさん二人の情熱とは、自分の手でハンドルを握る乗り物「クルマ」を自分たちの手で作るということ。チカラおよばず、実物のクルマこそできなかった。それでも、二人の魂が生み出した設計図が完成する…‥。
  それから何世代のち、というからたぶん100年後…‥人類はすでに地球上から忽然と消えていた。原因はどうやら、大多数の人間が人格だけを仮想空間に管理することを選択し、肉体を放棄したからだ。でも、その選択をしなかった人間が、亜種を生んだ。翼人(よくじん)だ。背中に翼を備え、空高く飛び立ち自由に移動することができる空飛ぶ新人類。
  その翼人のなかに滅び去った人間を研究する青年がいた。2つ目の「未来編」の主人公キリアだ。キリアは、研究のため、あえて翼をなくし、人間の身体に変身した。人間研究のためにつくられた人造人間アンドロギアと暮らすうちに、かつて自転車という移動手段があったことを知り、職人集団の翼人たちが営む工場で自転車を製作してもらう。滅んだ人間たちが残した遺跡から発掘した設計図をヒントに作り出した自転車で人間世界を見直し始める。そしてキリアとアンドロギアは、自転車だけには満足できず、次に「クルマ」の企画に乗り出す。人造人間アンドロギアのデータのなかに、「過去編」で登場したジイさんのデータ(記憶)が残されていたのだ。
  自転車づくりではキャスター角のうんちくが縷々述べられ、メカに興味のある読者の心をおおいに揺さぶる。自動車づくりの場面では、その100倍ほどテクニカルタームが登場し、モノづくり、クルマづくりの場面が出てくる。物語のなかで、読者はクルマづくりのプロセスをたっぷり味わうことができる。このへんが、長岡高専卒の筆者神林長平の真骨頂。ちなみに、高専とは中学から、5年間学べる工業系の専門学校で、1962年にスタートしている。ちなみに筆者(広田)の中学からも8人ほど受験し、わずか合格者1人! 不肖広田は不合格者の仲間でした! せっかく合格した彼はそこを振り地元の進学校にいき京大に進んだようです。
  …‥クルマづくりのなかで、なぜ人間が破滅したかの理由がおぼろげながらわかってくる。人間の身体を獲得したキリアは、ようやく完成したクルマを前に工場長の翼人に、ドライビングシューズを作ってほしいと要求。すると翼人の工場長は「裸足ではだめなのか? 人間というのは生まれたままの身体では何もできないんだから」と呆れられ、「ひとつのモノを作ると、それに倍する付属物がどんどん必要になる。だから人間が大量にものを作らざるを得なくなったわけだ」と。どうやら大量にモノを作ることで、地球温暖化が進み、人類が死滅した! そんな暗示が読み取れる。
  でも、一方でキリアは、できたばかりのクルマのハンドルを握り、エンジンをかけるとクルマの魅力に取り付かれる。「アクセルペダルを踏み込むと、エンジンは生き物のように吠える。その息吹きを駆動輪に伝えるべくクラッチをつなぐと、まるでエンジンは“あなたに従う”といった感じで、少し回転を落として唸り、乱暴にクラッチをつなぐと“嫌だ”とばかり止まってしまう。機嫌をとるようにうまくやると、クルマはずいと前に進む。人間が出せる力とは比べ物にならないほどの巨大なパワーを秘めた物体が動く。これを操っているのは自分だ。この瞬間、人間は身体のイメージが拡大し、大きな快感を得る」
  こうした二律背反の近代社会。ディストピアの世界に陥らざるをえなくなった人間の過去を振り返る…‥。人間と機械、意識と言語、現実と非現実をえがく神林長平(1953~)の世界は、こんなところにあるようだ。門外漢には刺激的な1冊。(2000年3月発売)

愛車メンテのプラスアルファ情報

100ギアのメガネ部をもつコンビレンチ

メカレンチ1

メカレンチ2

  “ついに登場! ギア数100で超スムーズなフィールを味わえるコンビレンチ! これでキミの整備力はぐ~んとアップ!”
  あえてショーワの臭いのするキャッチ―な宣伝コピーを添えるとなると、こんな感じだろうか。
今回取り上げるのは、首振りメガネを持つコンビネーションレンチ(略してコンビレンチ)。製品名「メカレンチ」。ここ数年、メガネ部にこのスタイルを選択する製品がかなり増えてきている。単なるメガネとスパナを両端に配するオーソドックスなコンビレンチは、なんだか20世紀の遺物として隅の方に追いやられた気分。
  付加価値を付けると、工具に求められる「軽量でいてほしい!」という切なる願いが、置いてきぼりを食らう。そこで、さっそく重量を測定してみた。サイズ12mmで95g。重量はたとえばKTCネプロスなどにくらべ20g重い。割りあいでいえば約25%増し。まぁ、許容範囲といえる。全長は172mm。ライバルに比べとくに長くもなく、ごく標準タイプ。このあたりの長さがちょうど使い勝手がいいといえる。
  メガネ部のギア数100についての評価はどうか?
  たしかに使うとチチチッというラチェット音が、心地よく、この面ではライバルをはるかにしのぐ。新境地といっていい。でも使用するうえでどうか? と言われると、振り角が小さくなるぶん悪いハズはない。が、それよりもメガネ部の幅27.4mmが気になる。通常のタイプより1割増しだからだ。これをそぎ落とすには、相当の技が必要だ。
  とはいえ、この製品には美点が少なくない。スパナ部に、ボルトの角を舐めないように滑り止めが施されている。スナップオンのフランクドライブとほぼ同じ感じだ。たぶん特許が切れて自由に使えるようになったのか? もう一つは、サイズの表示が両面に大きく、計4か所も施されている。これはとてもありがたい。それと細やかな梨地の表面処理は個人的には悪くないと思う。メガネ部のジョイント部は、ボルトで締め付けられるタイプなので、調整ができるので、クタクタになる心配はない。
  気になる価格は、ホームセンター購入で2290円。台湾製にしては、かなり高めといえる。

2022年2 月 1日 (火曜日)

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道路運送車両法のルーツは、“自動車取締令”だった!

円太郎バス

  クルマを日本の道路で合法的に走らせるオキテ(法律)は、いうまでもなく「道路運送車両法」である。
  ヘッドライトの明るさはどうのだとか、ブレーキはどうのこうのとか、車体に尖った部分がないとか(尖っていてもある一定の柔らかさであればいいとか)、そんなモロモロの取り決めである「保安基準」もそのなかにある。2年に一度の車検というのは、この取り決めを犯していないかをチェックすること。(詳細は拙著「新クルマの改造〇と×」〈山海堂〉を参照)
  「う~ん・・・・そんな退屈で面白くないこと、なぜいま持ち出すの?」と言われるかもしれない。
  ひとことで言えばルース・ギンズバーグ(1933~2020年)を描いた映画「ビリーブ」がキッカケ。性差別の撤廃で活躍し、27年にわたりアメリカの連邦最高裁判事をつとめた、この女性はハーバード・ロースクルール(HLS)の出身。1817年創立だから200年以上の歴史を持つ法科大学院がアメリカという国家の大きな重石となっているに違いない。このことに直感した。
  そこから芋づる式で、HLSそのものを詳細に解説した田中英夫氏の著書「ハーヴァード・ロー・スクール」、HLSを舞台にした青春映画「ペーパーチェイス」、HIS教授アラン・ダーショウィッツの自己啓発書「ロイヤーメンタリング」、HLS出身のサスペンス小説家が描く法廷小説、さらには日本が近代化を推し進めるうえで明治期に急速に法整備をした背景を克明に描いた「法学の誕生」。この労作を通して渋沢栄一の長女・歌子の夫穂積陳重(ほずみ・しげのぶ)が貢献していることが分かった。例の小室圭騒動でアメリカのロースクールへの関心がいや増す事態になった。
  ジュリストの世界から見るとまるで宇宙人だったのが、“にわか法律オタク”(むろんナンチャッテという枕詞が付くが)になった気分。そこで、ふと我に返り、日本の道路運送車両法は、欧米の法律を参考にしたんだろうか? だとしたら、ドイツか? アメリカの法律か? 戦後6年目にできたのだから当時アメリカの支配下にあった日本(昭和27年、サンフランシスコ平和条約が発効し、占領政策が終了した)は、アメリカの影響が大きかった。
 事実は小説よりも奇なり! 道路運送車両法のルーツそのものは、明治36年(1903年)の「自動車取締令」だった。
  なにがキッカケでできたというと、同年の第5回目の内国勧業博覧会。これは上野で3回、京都、大阪で各1回開かれ、なかでも大阪での延べ153日間になんと530万人という人出。当時日本の総人口4500万人だから、10人にひとりが博覧会に出かけたという計算だ。
  このとき“乗合自動車”を最寄りの駅(梅田)から会場(天王寺)まで走らせている。おそらく蒸気自動車だったらしい。このとき、主催者側から「カクカクしかじかのクルマを走らせます」という申請を主催者側の政府に申請した。この申請を受け、急遽作られたのが、「自動車取締令」というわけだ。愛知県令、長野県令、京都府令など1905年にかけて合計20の府県において、名称はいろいろだが「自動車取締令」が出された。
  その内容は、タイヤ、ブレーキ、警笛、屋根、泥除け、前照灯、後尾灯が付いているかどうかの確認、といういたってシンプルなもの。原動機(エンジン)は、営業開始日までに県庁の指定する日時場所で検査を受けること、それ以降は毎年1月と7月に検査を受ける…‥とある。どんな検査なのかが気になるが、たぶんエンジンがかかり、異音がなければOKだったのではなかろうか? そのころは馬車が10万台、牛車3万台弱、荷車135万台、人力車18万5000台で、エンジン付きのクルマはごく数えるほどののどかな時代。
  でも昭和8年、1933年になると、クルマの保有台数が7000台となり、内務省令の「自動車取締令」が少し充実してくる。ブレーキにおいては時速50㎞で、22m以内で止まれること。前照灯については、50m前方の障害物を認識できる光度を要する、といった具合。自動車にまつわる法律は、アメリカの商務省からの圧力で規制緩和するなどの事例はあるものの、どうやら日本オリジナルが基本だった、といえそうだ。
  (写真は、関東大震災後に走り始めたフォードTTベースの11人乗り「円太郎バス」。庶民が自動車の存在を強く意識し始めた先駆けとなった)

カーライフ大助かり知恵袋1

『トヨタがトヨダであった時代』(第7回)

スミダバス

  豊田喜一郎たちがエンジンの研究を続けているあいだに、政府主導で新しい自動車をめぐる動きが起きていた。
  政府とは具体的には、管轄の商工省(現在の経済産業省の前身)である。商工業の奨励と統制をおこなうことができる国家機関である。
  大正初めから始まったアメリカ車の流入によって、壊滅的打撃を受けた日本の自動車メーカー。これを立て直すため、この組織がいわば司令塔になり、自動車の国産化の道筋を作ろうとしたのだ。
  そこには軍事上の自動車の必要性もあった。当初はフォードとGMの進出を歓迎していたのだが、両社の本格的な組み立て工場が稼働し始めると、輸入が急増し国際収支が悪化し始めたことで、輸入車を締め出す策に転じたのだ。もう一つは、ひそかに仮想敵国と定めた米国から戦力となる自動車を購入する矛盾に気付いたのである。
  昭和6年5月、商工省内に、「国産自動車工業確立調査委員会」を置き、具体的な方策をスタートさせている。委員会のメンバーは、陸軍省、商工省、鉄道省のほか、民間から石川島自動車製作所、東京瓦斯電気工業、ダット自動車製造の国産3社。この年の9月、標準型式自動車の設計をおこない、自動車の要素を10個ほどに分けて、試作に入った。石川島がエンジン、東京瓦斯電気がフロントアクスル、リアアクスル、ブレーキ、ダットがトランスミッション、クラッチ、プロペラシャフト、鉄道省がフレームとステアリング、スプリングなどを担当した。
  この委員会の臨時委員のなかに、喜一郎が大学時代論文を一緒にまとめた隈部一雄(1897~1971年:東大教授、のちトヨタの副社長を歴任)、小林秀雄、坂薫、高校・大学を共に過ごした伊藤省吾がいた。彼らから喜一郎は、さまざまな情報を知り、またクルマをめぐるモノづくりのアドバイスを受けたという。
  商工省が音頭取りした「標準型自動車」は、昭和7年3月に試作が完成した。これはフォードとシボレーなどのクルマとの競合を避け、それより一回り大きい1.5~2トン積みのトラックとバスで、年間1000台の量産を計画した。しかも、3つの自動車会社は、量産効果を高め、コストを下げるために合併している。こうして生まれたのが、「いすゞ」であり、「ちよだ」「スミダ」である。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:デービッド・ハルバースタム著『覇者の驕り』(新潮文庫:翻訳/高橋伯夫)

覇者の驕り

  アメリカのフォードと日本の日産、この2つの自動車メーカーをテーマにした自動車をめぐる男たちの一大叙事詩というべき超ロング・ノンフィクション作品。文庫本で上下2冊、トータル1250ページの大河ドラマだ。正直、読むのに10日間ほどかかった。
  筆者デービッド・ハルバースタム(1934~2007年)は、ニューヨークタイムズの元記者で、ベトナム戦争の報道でピューリッツア賞に輝いたジャーナリスト。アメリカの巨大メディアの歴史に迫った『メディアの権力』(原題:POWERS THAT BE/朝日文庫で全4巻)など硬質な傑作が多い。
  単純に作品の長さだけを比べると、わが邦の日本にも足掛け30年にわたり新聞で連載した長編小説がないわけではない。中里介山(1885~1944年)の『大菩薩峠』は全41巻。でも、これはあくまでも想像力で書き継いだ物語。いっぽうハルバースタムの作品は、5年の歳月をかけあらゆる手を尽くして関係者にインタビューを展開。鍵となる人物が故人の場合は、その周辺人物を探し出し、知られざる行動や言動、その人の好みや癖みたいな事柄を探り出し、造形していく。日本人だけでもざっと70名、欧米人を含めると300名にくだらない人物(有名人、無名人を含めだ)から直接話を聞き出している。
  だから既知の事柄はなるべく排除され、“美は細部にやどる”という言葉通り、物語はチカラ強く立ち上がり、リアルに読む人の胸に迫ってくる。
  たとえば、ヘンリー・フォード(1863~1947年)の晩年の真実は衝撃だ。若いころの“進取の精神”があとかたもなく消え去り、嫌悪すべき老害をまき散らしながら、まわりを巻き込んでいく。そのことがやがて息子のエドセルを苦しめ、短い一生を終えさせたことを読者は知ることになり、愕然とする。
  半世紀ほど前ホンダが資金調達に苦しんでいた。フォードの子会社になるという提案が持ちあがった。金融・証券企業のゴールドマン・サックスの投資部門のシドニーワインバーグ(1891~1969年:のちゴールドマン・サックスの父と呼ばれる人物)が、その提案者。本田宗一郎は、ヘンリー・フォードを崇拝していたので、心が動いたようだが、フォードの財務部が東洋の吹けば飛ぶような2輪メーカーに歯牙にもかけなかった。もしこのM&Aが成り立っていたら、シビックもないし、ホンダジェットもアメリカの空を飛んでいない。
  米国防長官ロバート・マクナマラ(1916~2009年)を覚えているだろうか? ハーバード・ビジネススクールで学んだのち、わずか20代で、統計学を活用して対日戦線の指揮系統に参画。3月10日の東京大空襲や広島・長崎への原爆投下にかかわった。その人物が、戦後ウイズ・キッド(WHIZ KIDS:若手の天才集団)のひとりとしてフォードに乗り込み、事業を立て直し社長に登り詰める。そして国防長官への足掛かりとしていく・・・・。
  つまり、フォードは半世紀たたないうちに、モノづくりなどちっとも知らない計算に強い人材が自動車メーカーの主役に躍り出る事態となった。
  同じように、日本の日産も、初めはモノづくりにも習熟した鮎川義介(1880~1967年)は、例のお雇い外国人ウイリアム・ゴーハム(1888~1949年)の力を借り、日産の基礎を構築。ところが、戦後になると銀行マンの川又克二(1905~1986年)が実権を握り、そこへ労働貴族の異名をとる塩路一郎(1927~2013年)が絡んでくる。この油の匂いなどまるでしない二人は、モノづくりの世界からは、遠いところで、日産を牛耳っていく。ネクタイ組は、あくまでも数字の世界でクルマをとらえようとする。
  でも、ハルバースタムは、出世から外れた、いわばネクタイが身につかない“傍流”の人物もしっかり視野に入れている。日産ではミスターKこと片山豊(1909~2015年)。フォードではムスタングのアイディアを生み出したドン・フライ(1923~2010年)。二人とも、どちらかといえば「自分でクルマの不具合を直したい!」と考える人だし、「機械にはどこか神聖さが宿っている!」と心の隅で信じている人物。
  原書のタイトル「THE RECKONING」はもともと「計算、生産」という意味。となると、マクナマラや川又などを代表する計算に長けた人物をイメージしたタイトルだと思いがち。ところが、RECKONINGにはもう一つの意味があった。「報い、罰」という意味。計算高い男どもはことごとく、自動車の神様に罰せられる!? 作者のハルバースタムは、どうやら後者の含みで、日本人には分かりづらい、このタイトルを選択したと思われる。(1990年9月刊)

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身近に手に入るスイスのPBドライバー

Pbドライバー

  憧れのドライバーにスイスのPBがある。創業者のポウル・ボウマンの頭文字をルーツにするドライバー専門メーカー。もともと第2次世界大戦中にスイスの軍隊からの依頼があり、たしかな熱処理と緻密なモノづくりで、世界的なブランドを築き上げた。近年、魅力的なラチェットドライバーをリリースするなど、140年の歴史に胡坐をかかずに工具業界に新風を吹き込んでいる。
  日本では、大阪の商社が専門で扱っていたころはプロ仕様ということで、エンドユーザーにはなかなか入手しづらいブランドだった。ところが、ネット販売が広がるにつれ、比較的低価格な輸入工具は、ポピュラーな存在になりつつある。先日、ふらりと入ったホームセンターにも、数こそ少ないがドライバーが展示してあった。
  10年ほど前に、登場したいわゆる「スイスグリップ」と呼ばれる樹脂製の手にやさしく握れる品番8190というドライバー。グリップエンド部に大きくわかりやすくサイズ表示(Ph2×100/6とある)で、ユーザーオリエンテイティド・デザインだ。小振りのグリップは日本人の手にもなじむ。
  全長が204mm、重量72gと同種(つまり非貫通タイプのプラス2番)のなかでは、最軽量だ。あまり軽いと頼りなく感じる向きもあるかもしれないが、グリップの密着感が高いせいか、実際使ってみるとそうした心配は霧消する。試しに意地悪テストとして洗剤を付着した手でグリップを握り使ってみたところ、ほかのブランドにくらべグイグイと回せた。これはかなりのアドバンテージだ。
  ホームセンターでの購入価格は、1690円だったが、購入後あらためてAmazonで調べたら、なんと1182円(送料込み)とあった。結果的には500円ほど高い値段で購入したことになる。でも、やはり売り場でじっさい手に取り確認できるので、店売りの方がなかば安心して購入できるともいえる。(お店で確認し、ネットで手に入れるというドライな方法もあるが)


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