都市部には何とも不思議な施設があるものだが、我が家の近くにもそれがある。「横浜南水素ステーション」である。横浜駅から南に約7㎞、交通量の少なくはない鎌倉街道沿いにある。
ほとんど客が来ない水素ステーションである。6~7年ほど前につくられた設備だが、その前を通るたびに気にかけて観察している。ざっと100回近くは前を通っている。ところが、これまで実際FCVが水素を充填している現場を2~3回ほどしか見たことがない。いつも人影らしきものがないので、不気味と言えば不気味である。開店休業のオーラが充満している感じ。
調べると、横浜市のFCV保有台数は、多く見積もってもせいぜい500~700台程度。横浜市には計6カ所の水素ステーションがあり、官庁やトヨタの販売店社長あたりが所有するFCV(FCVを個人で所有する人はごくまれだと推理する)のための水素ステーションなのである。
さらに調べてみると、次世代の環境車として2014年に登場したFCVは、昨年の販売台数が約5600台しかない。現在手に入れられるFCVは、トヨタのMIRAI(ミライ)しかない。累計で1万7000台ほど。ホンダのFCVは昨年いつの間にか生産中止となっている。ちなみに、バッテリーEVは昨年だけで2万2000台売れているので、次世代乗用車はEVに軍配が上がると誰しもが考える。
FCVはEVと違い燃料(エネルギー)の充填速度が化石燃料並みに素早くできるのが魅力。だが、数多く売れないと量産効果が上がらず、車両価格が高止まりのまま。EVの約1/10。水素ステーションの設置個所もあまり増えていない。全国で現在166カ所。神奈川16カ所、東京21カ所、栃木や山梨は1軒しかない。これじゃとてもじゃないが、FCVでドライブにでかけようと気分にはなれない。だから、だれも買わない。ちなみにEV用の急速充電設備は全国に約7700カ所ある。
ところが、面白いことにそれでも政府は一度振り上げたFCV推進の環境“旗”は降ろすに降ろせない・・・・。3年後の2025年には、全国に水素ステーションを320カ所までに増やそうとしているのだ。そのため、来年度は今年度より40億円多い150億円を投入するという。FCV普及のために、税金を使って、いわば先行投資している。
ただ、乗用車の世界は駄目でも、トラック・バスの世界ではFCVは将来有望ではないか、という見方もある。トラック・バスは、たいていいつも決まったところを走ることが多い。だから、水素ステーションの利用頻度が高く、その設置についてもコスパに見合うということらしい。でもFCVトラック・バスが普及するかも、ひとつの賭けだ。
道路行政に限らないが、世の中やはり複眼でモノを見る必要がある。だが、明らかに無駄と分かった場合は、さっと引き上げる勇気も必要。このへんは民間企業とお役所仕事の違い!? 税金の無駄遣いにならないように今後も注視すべきだ。
(写真の「横浜南水素ステーション」は月~金が9:15~18:45、土曜9:15~16:45。日祝は休み。のぼり旗ははためくものの客の姿はない)
1930年代のトヨタは、とりあえず、ボディ外板の質の良い薄板鋼板はアメリカから輸入した。鍛造部品などの鉄素材である特殊鋼は兵器用の素材となっていたが、社内開発と決めそのための「製鋼部」を設立している。この部署が20年後に愛知製鋼として独立しクランクシャフトやギアなどの生産を担うことになるが、いまは話を深めないことにする。(ちなみに、愛知製鋼には東海市の社内敷地に「鍛造技術の館」という博物館をもっており、一般公開している。筆者もここに足を運び、取材したことがある。)
本来は、日本人の手でゼロからクルマを開発するのが理想ではあるが、現実問題としては、当時の日本の技術力は、欧米のそれとは比較にならないほど低かった。そのことに向き合うことからスタートした。具体的には、研究開発部門、いまの言葉でいえばR&Dから始めた。そして、たとえばエンジンなら、お手本とするエンジンを見定め、それを愚直にそっくりそのままコピーするところから始めた。文字通り、“学ぶことは、真似ること”を意味した。
昭和8年8月には、前年の秋以来取り組んでいた2気筒4馬力のバイクモーターの試作10台が完成している。これに相前後して、大島理三郎と鈴木利蔵をアメリカに派遣し、工作機械の買い付けをおこなっている。
そこでシボレーの6気筒3389ccOHVエンジンをお手本にすることになった。
シボレーのエンジンに白羽の矢を立てた理由は、フォードよりも燃費が良く、量産エンジンとして比較的ポピュラーで、エンジンの各部品の調達ができるという理由からだ。このシボレーは、日本人にはとくに因縁のあるクルマだ。太平洋戦争での激戦地の一つとされる硫黄島で、日本軍の最高司令官・栗林忠道中将(1891~1945年)。かれが駐米武官時代アメリカ大陸を自らハンドルを握りクルマを運転しているのだが、そのクルマがシボレーなのである。息子の太郎君宛てに絵手紙を書いているが、ほのぼのとした文面とともにシボレーがリアルに描かれている。
(写真は、渡邉春吉さん所有のシボレーと直列6気筒エンジンが収まるエンジンルーム。まだ現役で走っている!)
独自の視点で展開する日本自動車産業史である。
交通の歴史を振り返ると、明治期から日本は鉄道網をゆきわたらせた。おかげで便利で比較的安価な公共交通ネットワークが世界的にも例を見ないほどに整えられた。にもかかわらず、日本は年間2000万台以上のクルマを作り続けるトップレベルの自動車大国となっている。いわれてみれば腑に落ちる、この素朴な疑問。これを梃子に京大卒の技術史家は鋭く江戸末期から我が国の科学する人たちをウォッチする。
日本でモータリゼーションが始まるのは、いわゆるマイカー元年といわれる1966年(昭和41年)。飛行機野郎長谷川瀧雄が主査をした初代カローラが発売された年とされる。ふつうの庶民がクルマを所有できる気持ちになった。それまではクルマを持つことは夢であった。
そのカローラデビューからほぼ60年前、日本初の自動車第一号が走っている。岡山の山羽虎夫がつくった山羽式蒸気エンジンを搭載した屋根なし10人乗りバス。そののち日本初のガソリンエンジン車を作った内山駒之助、オートモ号を作った白揚社の豊川順彌、ダット号の橋本増治郎、オオタ車の太田祐雄(すけお)、それに豊田章男氏の祖父である豊田喜一郎などなど。
こうした先人たちはオシャカ(不良品)を山のように重ね、あたら財産をすり減らし、なかには橋本のように子供の預貯金まで手を伸ばした。なんとしてでも、わが手で自動車を作ろうとした。振り返ると死屍累々! なぜそこまで、情熱を持ち続けられたのか? 経済合理性を考えたら、つまりコスパからみれば大冒険。なぜそんな・・・・よく言えば愚直、悪く言えば無謀極まる挑戦をしなくてはいけなかったのか?
当時の富裕層の大半は、自動車産業を極東の島国につくることなど、初めからあきらめていた人が多数派だった。三井、三菱、住友といった財閥は、リスクが大きすぎるとして手を出さなかったし、ヤナセの初代柳瀬長太郎は「(日本ですそ野の広い産業構造を必要とする)量産自動車産業などできるわけがないから、欧米から輸入するのがいちばんの得策だ」ときわめて常識人らしい主張をしていた。
山羽式蒸気バスはタイヤの供給不良でバス運行が数日で頓挫している。その幻の蒸気バスの轍(わだち)が消えてから、100年たたずして日本の自動車産業は世界トップの座に駆け上った。もし時空を超えて、現代の様子を見たら虎夫さんは、驚いて顎が外れるか涙をながすハズ。・・・・なぜ極東の島国で実現できたのか? 20世紀日本の最大の謎!(最大ではないかも)
この本は、その謎の正体を産業史のなかに丹念に分け入り、見つけ出そうとする。
答えは意外なものだ。「乗用車を持つことは日本人の夢だったから!」と筆者は言う「それは文明のモデルとして日本人の目に自動車が写ったから。明治期には、蒸気船や鉄が日本人の文明のシンボルだった。それが関東大震災以後、初めて自動車を見た日本人は自動車こそが文明のシンボル(と思い定めた!?)」。振り返ると死屍累々だが、目には見えない夢の数々が自動車づくりの熱として結実した?! これって“ものづくりサムライの挑戦”?
江戸末期の「蒸気船」の設計図をもとに模型で蒸気船を作り上げた日本人から始まり、博覧会などで西洋の新しい技術に触れることで、インスパイアされた日本人が、自動車を走らせる夢を追いかける、そんなロマンをふくんだ技術史を分かりやすく追いかける。大学の先生ではあるが、数年間モノづくりの現場で働いた経験のある筆者は、象牙の塔にとどまらないリアリティあふれる筆致で日本人とモノづくりの関係を読み解く。
(初出は1995年の「朝日百科」、1999年単行本)
このところ一部には物価高の気配がないわけではないが、ユニクロの衣料品ですっかり飼いならされているわが身としては、ときどきモノの価値が分からなくなってきた。
今回台湾製の工具であるアストロ(ASTRO)のコンビネーションレンチを手に入れて、あれこれ調べてみると、なぜこれが440円(サイズは12mm)で手に入れられるのか? その素朴な疑問にぶち当たる。
写真で見るように、普通のコンビレンチである。
どこか、弱点というか死角はないものかとノギスやスケール、重量計を総動員し“身体測定”を行った。これまでテストした同じサイズのコンビレンチ約30ブランドの測定データが手元にある。その履歴と照らし合わせてもみた。全長が175mm、重量77g、スパナ部の外側幅25.7mm、メガネ部の外側幅19.0mm、軸の幅11.6mm、スパナ部の厚み6.5mm、メガネ部の厚み8.6mm、軸の厚み4.5mmなどなど。スナップオンやスタビレー、ハゼットなどの欧米の製品は、やや長く、にもかかわらず意外と軽い傾向にあり、日本製のコンビレンチはおおむね全長170~175mmで、重量が欧米並みというなかにあるといえる。
アストロのコンビレンチは、こうしたデータを知り尽くしているがごとく、見事にジャパニーズツールの範疇に収まりながら、軸を欧米並みにやや細くすることでデザイン性を高めている。しかも、軸自体は中央がごくごく太くなったエンタシス形状。手に持った時のフィールを計算に入れているようだ。表面は、スナップオンを模した鏡面研磨仕上げで、サイズ表示もすぐ分かるように大きな文字だ。
机上のテストでは死角が見えないばかりか、一条の魅力さえ放っている。これがワンコインでおつりがくるのだから、金銭感覚の磁場が狂うはずだ。
「渋滞はむしろ車内での会話を盛り上げる特効薬となることも!」 かつてそんなマイナス現象をプラスと見なす考え方があることにたまげたものだ。そうした車内をリビングと取り違えているドライバーは別にして、渋滞はやはり交通の自己矛盾だ。経済活動のマイナスにもなっている。燃費悪化でSDGS(持続可能な開発目標)にも背を向けることになる。
タイム・イズ・マネーでいち早く目的地に着きたいのに、交通渋滞で無駄な時間が覆いかぶさってきて、その日の計画が台無しということもある。渋滞の解消は、見果てぬ夢なのか?
そこでコロナ禍で渋滞具合はどう変化したのか? TOMTOM(トムトム)というオランダ・アムステルダムに本社を置くロケーションIT企業の昨年2021年度版の渋滞調査が公表された。世界58か国404都市における緻密なデータだけにかなり信頼がおける。
それによると、世界の主要都市の渋滞具合は、コロナ禍とそれ以前で意外と大きな変化がある場合と、逆にさほど大きな変化が起きていないところの濃淡が比較的顕著に表れた。
たとえば、世界で一番の渋滞する都市イスタンブール(トルコ)などは、コロナ禍前の2019年は渋滞率55%だったのが、昨年2021年では62%と7%もアップしている。ちなみに、“渋滞率”というのは、年間を通じてドライバーが余分な運転時間を費やした時間。たとえば、空いていれば30分で着けるところ50%の渋滞率なら45分もかかるということだ。同じくランキング第2位のモスクワは59%から61%とわずか2%の増加。
東京は、渋滞世界ランキング第17位だが、42%→43%、大阪は34位だが、36%→36%と2年前と同じ。パリはコロナ禍前から4%アップした35%。ロンドンは2%アップの33%。LAは6%アップの33%。日本の主要都市を含め先進国は、コロナ禍よりは渋滞率が高くはなっているが、小幅に落ち着いている。
これはたぶん、多くの人が公共交通機関の利用を控えマイカーでの移動を優先した分渋滞が増加したものの、渋滞緩和要素があったから。渋滞緩和要素としては、リモートワークの時間が増加し、自宅時間が増加した点。それに日本のように都市間距離が短い場合、自転車やオートバイ、スクーターでの出勤に切り替えたサラリーマンが増えたことも、渋滞緩和に貢献。ちなみにLAでは移動距離が長いので、自転車やバイクは使いづらい。
発展途上国では、例外こそあるが移動の選択肢が狭いこととリモートでの業務移行があまりなされなかったことで、渋滞が顕著に増えたのではないかと類推できる。
例外というのは、ムンバイやベンガルールなど渋滞ワースト10に入るインドの2都市は、2年前より渋滞率が10%以上ダウンしている都市もある。この背景は過酷なコロナ禍で、長きにわたり都市機能の停止を余儀なくされたからだ。
いずれにしろ、パンデミックが未曽有の都市交通に暗くて大きな影を及ぼしていることは確かだ。
(写真はフォードT型がアメリカを席巻した1920年のマンハッタン。世界初の渋滞風景?)
喜一郎は、こうした「アツタ号」の動向を横目で冷静に観察し、頭をフル回転させながら成功の道筋を描いていたに違いない。アツタ号デビューから1年後、喜一郎は、技術面でのめどが一応立ったとして、妹の婿である社長の豊田利三郎を説得し1933年(昭和8年)9月に「豊田自動織機製作所」のなかに「自動車部」を設置した。
壮大な成功を目指し、そのための下準備のはじめの一歩を踏み出したのだ。当面は、外国車の長所を学び、日本の国情にあったクルマづくりの開発をスタートさせたのである。
翌1934年(昭和9年)、刈谷に試作工場と材料試験室(写真)をつくった。材料試験室は、鉄の引っ張り、曲げ、圧縮といった物理的特性を試験する試験室、分析室、写真現像、図書室などを備えた830㎡。そこで、鉄鋼材をはじめ、クルマを構成する各種材料の試験、研究がおこなわれ、外国車の自動車用材料についても分析がおこなわれた。
いっけん回り道に思える基礎研究をなぜおこなったのか? 喜一郎のDNAには、佐吉譲りのものごとを突き詰めて考えるという深い好奇心もあるが、当時自動車づくりに適した高品質な鋼材を安定して提供する企業が国内になかったからだ。そのため、自前の研究所をつくるしかなかった。欧米の技術を丸呑みしながら、モノづくりをおこなおうという鮎川義介(1880~1967年)の日産との大きな違いである。
じつは、こうした基礎研究や、自動車づくりの基本を大切にしている、格好の“証拠物件”ともいうべき資料を筆者は、ひそかに所有している。
1970~1980年代に編集され、主だった社員に配布した様々な技術資料である。トヨタが創業以来約半世紀にわたり蓄積した知見やノウハウ、技術などを分野別に文字として残している。期せずしてこれらは、後輩への伝達事項となっている。たとえば「材料の知識」とか「自動車の知識」「自動車用語辞典」「生産用語辞典」「生産の知識」「自動車と情報処理」「エレクトロニクス用語辞典」「メカトロニクスの知識」などだ。もちろんこれらは非売品。部署ごとの専門技術者が、執筆しまとめた平均600ページにおよぶ大部で、やさしい文章で書かれている。「技術を共有化しなくてはいいクルマはつくれない!」そんなメッセージをくみ取れる、冷静かつ熱い気持ちで書かれた技術書である。欧米の自動車メーカーのことは知らないが、少なくともこうした高い品質の基礎技術書を自社でつくり上げているのは、トヨタ自動車以外知らない。
じつは、この本、長いあいだ恥ずかしながら“積ん読”状態の一冊だった。
この本を避けてきた気分を分析すると、おもに2つの理由が。そもそも和製フォークソングのような受け狙いのタイトルが気に入らない。それにもまして“車を磨く”という表現が生理的に受け付けられない。車との接し方にはいろいろなタイプがあることはわかるが、車を磨くことを無上の喜びとする気が知れない。しかも、それもわざわざ“雨の日”という限定している点が、わざとらしくて気に食わない。
第6話にこんな箇所がある。「ぼくの唯一の生きがいは、夜中に自分の気に入った車を走らせ・・・・」。ここまでは大いに賛同できるが、そのあと「帰ってきて車庫でその車を磨くことだった」となると、グっと引いてしまう。さらに「BMW2000CSは、エンジンルームの中まで銀の食器みたいに輝いていた」となると、何をか云わん。
物語は、9個のショートストーリーで構成される。シムカ1000から始まりアルファロメオ・ジュリエッタ、ボルボ122S、BMW2000CS、シトロエン2CV、ジャガーXJ6、ベンツ300SEL6.3、ポルシェ911S、そしてサーブ90Sの9台と9名の魅力的な女性が登場。主人公、クルマ、そして女性、このいわば3角関係でそれぞれの物語に彩(いろどり)が添えられる。
1970年代、学園闘争が一段落し、世の中が平穏に戻りつつあった。主人公は、作詞家、放送作家、CMソングライターの3つを掛け持ちする青年。となれば、若いころの五木寛之氏の自画像。流行作家になる前の駆け出し時代と重ね合わせられる。
当時の“日の丸”乗用車はまだまだ発展途上。欧州車のあとを追いかけていた時代。輸入車は、舶来品と崇められていた時代。そのガイシャを次々に乗り換えている主人公は、当時の若者から見れば羨望の的。
かくゆう不肖広田は、当時横浜の外れの公団住宅に住み、ようやっと5万円で手に入れた中古のホンダZ(リアビューが水中メガネ)と格闘していた。エンジン不調に陥り、路上でディストリビューター内のコンタクトポイントをばらしてしまい、途方に暮れていた、そんな時代。
すでにそのころ五木寛之氏は、サイン会を開けば長蛇の列を形成する流行作家の地位を確立していて、雲上人(うんじょうびと)の文化人。・・・・となると、車を磨くことへの嫌悪とは別にして、この洒落たタイトルの小説を長い期間敬遠していたのは、嫉妬心のなせる業だったかも。反省。
「これほど楽しみながら書いた小説はない…」と五木さんみずから、あとがきで告白している。「だから読者は作者よりもっと楽しんで読んでもらえる……」。
通読してみると、この手の小説にあるバグを見いだしづらい。当時の都会の空気をとらえた、実によくできた高得点のエンタテイメント小説。クルマ好きの読者にも満足を与えられるし、とくにクルマに興味のない読者でも、十分に楽しむ工夫を凝らしている。自信と不安をのぞかせる主人公の微妙な心理描写の匙加減は見事。
小説の主人公との距離感でいうと、小説は2つに分けられる。読者がべったり主人公に重ね合わせられるタイプの小説と、主人公との距離感をある一定の距離で保つタイプの小説。この本は、後者に違いない。主人公の心情は、矛盾を抱えながらもどこか冷めていてクール。だからなのか、五木さんの出自からくる根無し草、デラシネの思想がこの物語全体に薄膜のように覆っている。この陰影を溶かし込んだところに、この小説が時代を越えて長く読み継がれている秘密がありそうだ。五木さんの長編小説「青春の門」の主人公伊吹信介の別人生の物語としても読めなくはない。(初出は1988年の単行本)
通称“ねじ回し“とも呼ばれるスクリュードライバーは、世の中に星の数ほどある。
大きく分けて、非貫通ドライバー、貫通ドライバー、それに小ねじ専門の精密ドライバーの3つのジャンルがある。
このなかで、日本人が比較的好むのが、貫通ドライバーだ。なにしろ軸とグリップエンドまでが一直線に貫通しているので、固く締まった相手のビスにハンマーで衝撃を与え、緩めて回すことができる。そんなポテンシャルを秘めているので、非貫通と比べ3~4割がた重くはなる。でも日本人は昔から貫通ドライバーを選択する人が多いのである。ちなみに欧米人はドライバーへのこうした期待値(つまり叩いても大丈夫という)を抱かない。鏨を使うからだ。だから欧米のドライバーメーカーは長いあいだ貫通タイプのドライバーがカタログに載らなかった。
これを踏まえ、あらためて今回取り上げるドライバーを眺める。台湾製ではあるが、なかなか秀逸な貫通ドライバーと言えそうだ。
どこが感心したかというと、まずグリップだ。硬め(黄色部分)とやや柔らかめ(黒い部分)のハイブリッドの樹脂製グリップだが、断面が3角形。ドライバーをあれこれテストするとき、わざと石鹸をつけスムーズに回せるか、そんな意地悪テストをしてみる。いうまでもなく油の付着した手でも使えるかを見るのだ。大半のドライバーは空転する。これまですごいと思ったのが、ベッセルのウッド製のドライバーで、意外とよく踏ん張った。
今回のストレートの2番プラスドライバーはどうか?
結論をいえば、ベッセルに迫るグリップ感を見せた。やはり3角断面と、表面の細かな凸凹(よく見るとアルファベットのMの文字が浮き出ている!)で、俄然グリップ力を発揮するのだ。グリップ太さが35mmというのも効いている感じだ。しかもグリップの長さも112mmとこれまでテストしたなかでも比較的長い。
これたぶんマイナス要素なのかもしれないが、重量が164gとこれまでテストした貫通ドライバー(プラスの2番)のなかで断トツに重い。たとえばANEXのウッドに比べ51gも重いのだ。割合にして1.45倍!
重い理由は、もう一つある。座金が一回りデカいのだ。通常φ18mmが標準でなかにはφ16mmというのもあるが、ストレートのこれはφ22mm。そのぶん指を詰める心配が少ない!? 購入価格は、570円。