ふと耳を澄ませると、女性にまつわる独特な響きを持つ言葉が流通している。
山をこよなく愛する女子を称して「山(やま)ガール」、広島カープの女性ファンを称して「カープ女子」、バイク好きの女性を「バイク女子」、あるいは白衣をまとった理系の女史を称して「リケジョ」。
“これまで男性100%と思われてきた世界に飛び込んだ勇気ある女性”を指す言葉。当事者の女性たちが自らを称して、そう名乗るわけではない。周囲の男どもが羨望と冷やかしの気分が混じって、そう呼んでいるだけ。長く続いてきた“家父長社会のしっぽ”を断ち切れない日本男子の自嘲の思いがにじむ言葉、と言えなくもない!?
とはいえ、言葉はいつも挑発的。新しい概念を伝えるには、新しい風をまとう必要がある。
今回取材した静岡にあるネジをつくる専門メーカーには、「ねじガール」が活躍していた。「ねじガール」とは、簡単に言えば男性だけだったネジの製造ラインに女子、それも若い女性が進出し、ある意味旋風を巻き起こしている。
静岡県清水区興津(おきつ)にある従業員数80名ほどの日本でも有数のねじメーカー「興津螺旋(おきつ・らせん)株式会社」だ。JR東海道線の興津駅から歩いて約15分、国道52号線沿いにある。
国道52号線といえば、戦国末期から続く甲斐・山梨と駿河(静岡中部)を結ぶ身延道(みのぶどう)がそのルーツである。太平洋の大海原を背景に富士山が雄大にそびえ、景勝地日本平からも遠くない、まさに日本の原風景が広がるのどかな場所に、そのねじメーカーがある。そこで9名ほどの「ねじガール」が奮闘中なのである。
最近の合理化された工場の例にもれず、一日になんと200万個~300万個という莫大なネジ生産量に比べ工場のスタッフはわずか30名。そのうちの9名、つまり3割が女子なのだ。
「ねじガール」が誕生したのは、10年前の2012年のこと。はじめは男の世界バリバリのなかで、内心舌打ちし、違和感を伝える古参スタッフもいた。男子に比べ質問の量が多い女子に対し、うまく言葉にできない男子スタッフもいて、職場内に不協和音。でもそれは杞憂だった。やがて女性従業員の仕事に対する熱意が徐々に部内に伝わり、「ねじガール」が文字通り螺旋階段を着実に登るように、社内に新風を吹き込んでいったという。
これまで気づかなかった感性や着眼点の異なる女性が増えるに従い、オトコ同士のコミュニケーションも活発。「女性には無理」という、これまで訳もなく思い込んでいた思いが単なる思い込みに過ぎなかった。「工場で機械を触るのは男の仕事」という長く続いた固定概念も霧消。「機械に強い人は女性にもいるし、機械に弱い人は男性にもいる」この当たり前の常識が社内に定着した。国公大の工学部出身の女性も、入社してきた。
そして女性が働きやすい職場は、ひとえに男性にも働きやすい職場と同義語であることに気付いたという。これって難しく聞こえるかもしれないが、ジェンダーフリー。21世紀が目指す社会のひな型!?
(次回から数回にわたり、“ねじガール”のいる最新の「ねじメーカー」の面白情報をお届けします)
トヨタ初の乗用車となる「トヨダAA型」のプロトタイプA1型の開発は、じつはトラックの開発も兼ねていた。
同じエンジン(A型エンジン)をはじめとする主要コンポーネントを使い、シャシーは1934年式のフォードのトラックをお手本にしてトラックも同時並行して開発されていた。「G1型トラック」がそれで、もともとは軍からの要請だった。でも実情は、少し違った。当時は、トラックの方の需要の方がはるかに大きく、ビジネス的にはトラックを優先すべしという声もなくはなかった。つまり、乗用車専用で開発するにはリスクが大きすぎたのだ。
そこで、1935年9月、A1型試作乗用車とG1型トラックのテストが行われた。
当時は、いまのような専用のテストコースがあるわけではないので、一般公道での走行試験である。コースは、愛知県の刈谷をスタートし、東海道を東へ進み、箱根を越え東京。東京から北に向かい熊谷、高崎を経て伊香保温泉。伊香保から西に向かい碓氷峠を越え、上田を経由して松本。そして松本から山梨の甲府に出て、甲府から静岡県の御殿場、さらに熱海に着き、熱海からふたたび東海道を西に向かいゴールの刈谷まで…‥そんなルートでA1型が5日間で1433km、G1型トラックはそれより1日長い6日間で1260kmを走破したという。
改良のためのデータ集めだったが、実際は走行中次々にトラブルや故障に見舞われた。リアアクスル・ハウジングのフランジ取り付け溶接部が折損、プロペラシャフトが折れたり、ステアリングが効かなくなったり、トランスミッションが破損したり…‥現在の感覚でいえば、「危なくて乗っていられないクルマ!?」だった。
部品一式を積んだサービスカーが伴走していたからいいものの、単独走行ならその場でアウト。重大トラブルが起きたら万事休止だ。もちろんマイナーなトラブルは両の手指の数を越えた。
でも、その都度修理しながら、何とか予定の行程を走り終えてはいるが、前途多難な船出だった。明治維新からわずか70年しかたっていない極東の国が単独でクルマを作るということとはこういうことだった。愚直にならざるを得なかった。
フェラーリは、もちろんイタリアのスーパーカーだ。そのフェラーリに日本の練馬ナンバーを付けて、日本の道路を走る! これを聞いて「別にいいんじゃない!」というか「そうね、冷静に考えればフェラーリに日本の土着的匂いのする練馬ナンバーを付けるってダサいかも?」と思う人もいる。
そう考えると、この一見ふざけたタイトルも、深い意味を感じ取れてくる。
ふだんラーメンをすすりながらお金をためてスーパーカーのオーナーになるエンスー(エンスージアスト:趣味人)がいるとは聞いていたが、それに近い人なのかと思いきや、1962年生まれの著者は比較的恵まれたメディア関係者である。
「週刊プレイボーイ」のクルマ担当編集記者になったことから、この本の筆者はフェラーリのハンドルを握る。怒涛の咆哮の排気音がまとわりつく! その時いきなりクルマの神様が降臨し、フェラーリのオーナーへの道を決意。4年後諸経費込みで1163万円強の費用で1990年式フェラーリ348tb(V型8気筒3400cc)を手に入れる。ある意味人生はマンガチックなのかも!?
これで彼のカーライフは、極楽浄土、天国の楽園! と思いきや、いざオーナーになって冷静にフェラーリを味わってみると、誇るべき点とそうでない面を味わうことに。
フェラーリを持つことがゲージツそのものなのだ! と至福の思いに浸るも、冷静に弱点にも目を向ける(向けざるを得ない?)。まっすぐ走ってくれないし、少し気合を入れてコーナリングすると横に飛びそうになるし、ブレーキも動力性にそぐわず、なんだか甘い。早い話、クルマの3大基本性能である≪走る・曲がる・止まる≫、これがあんまりよくないのだ。
それだけではない! 金食い虫の高級車(あるいは当時のイタ車)は難儀だ。タイミングベルトを2年または走行2万キロで交換というオキテがあった。ふつうのクルマなら10万キロまでOKなのだが‥‥。手抜きすると、最悪ベルトが切れてエンジンがオシャカになり、目の玉が飛び出るほど大出費必至と脅かされ、泣く泣くベルト交換。ところが、エンジンが運転席の後ろに付いている、いわゆるミドシップ。だからふつうなら数万円で済むところ、エンジンを降ろしての作業がともない、けっきょくベルト交換だけで17万円!!
それだけではなかった。2年ほどで、エンジンからのオイル漏れ、高速でハンドルがふらふらするとか、フル制動でハンドルがガクガクするなど……の不具合の兆候が出て、けっきょくホイールアライメントの調整、ダンパーとスプリングの交換、スタビライザーのブッシュ交換などなど、総額71万円の大出費。
ここまで保守点検したにもかかわらず、スーパーカーは、油断できない! 遠出した時、いきなりエンジン不調に見舞われる。8気筒のうち4気筒が死んだ感じで、こうなるとスーパーカーもただの鉄の塊。
ディーラーのアドバイスでECU(エンジンコンピューター)のヒューズの差替えをしたところ、ウソみたいに直ったという。排気温度上昇で、ECUが自動停止したことが原因か?! 日本の夏はイタリアの夏より暑くて湿気が多いことが原因か? そんなフェラーリ都市伝説が付きまとう輸入車特有の悩みがボコボコ現れる。スーパーカーを所有することなど端(はな)から考えたこともない、普通の読者は、ここで大きく留飲を下げる。そして、丈夫で長持ちする日本車オーナーの自分を慰める!?
フェラーリオーナーの無尽蔵のトラブル体験と嘆き節がどこまでも続くと思いきや、このエッセイ本、途中から大きくスライス! フェラーリの母国イタリア旅行のドタバタや路線バスや鉄道輸送の超まじめな考察、市販車での草レースの自慢話などが展開される。内田百閒先生をホーフツしないでもない、いわば優雅なモータージャーナリストの“安房列車”といったところ。お気楽な気分になれる90年代のエッセイ集だ。
(1996年7月4日発行)
新潟にあるドライバー専門メーカーANEX(会社名/兼古製作所)は、このところ意欲的に新製品を世に送り出している。たぶん背景にはDIYブームがあるからかもしれない。
そのANEXのドライバーで一番のお気に入りは、ビスブレーカーというアイテムだ。
その名の通り、頭がつぶれたネジを回せるという「元祖お助けドライバー」である。ふつうの貫通ドライバーだけではない。先端部に注目(写真:右が従来型で、左がワニドラ)。先端部もクロス形状にすることで、舐めたネジの頭にハンマーで叩き、新たなクロス溝をつくる。これで舐めたネジを回せるというわけだ。
しかも新しいネジにも使えるので、普段使いにもとても重宝するドライバーでもある。
このドライバーのいいところは、かつておこなった“意地悪テスト”で一番いい成績をあげたことからも分かってもらえる。
どんな意地悪テストかというと、意図的に油が着いた手という想定で、食器洗い洗剤を手のひらに付着させ、ネジを回せるかどうか? というものだ。5段階レベルで、5点が満点として、大多数は3~4だった。なかには、ウッドのグリップなどは文字通りツルツルしてまったくチカラが伝わらず、使い物にならず評価1というものもあった。
ANEXのビスブレーカーのグリップ力の秘密はややユニーク。グリップ自体が合成ゴム系(TPE:熱可塑性エラストマー)でつくられ、断面が楕円形状のうえリブが付いている。これが劇的にグリップ力を高めてくれる感じ。握ったとき親指を置くディンプル(溝)が軸の根元にあり、これで使い勝手を高めている。このグリップのことをメーカーでは「クロコダイルハンドル」と命名している。“ワニドラ”という商品名は、ここからきているようだ。
ともあれ、この洗剤手のひらの意地悪テストでの評価は、5点満点でライバルを圧倒してしまった。
今回、品番も3980で、従来の3960から進化している。重量が、実測で133gから115gと18g軽くなっている。見えないところで、軽量化している。
この点をANEX本社に問いただしてみると「とくに軽量している意図はないです。個体差ではないでしょうか? ただ、刃先の形状を見直し、よりネジに食いつきやすく、結果として自社テストですが、従来比1/5の力でネジを回し外せます。素材も少し手にやさしく柔らかくしています。それと刃先をクロムメッキ+黒染めからパーカー処理に変更しています」とのこと。
このドライバー、使ううえで要注意なのは、熱処理した硬い素材のネジ(HRC硬度が40以上)には、残念ながら歯が立たない点。この場合は、ドリルでもんで、古いネジを取り外すなり別の手法をとることになる。
ホームセンターでの購入価格は、712円。海外ブランドに十分太刀打ちできるコストパフォーマンスだといえる。
「ホームプラネットである地球という美しい故郷を、次世代に引き継いでいくことを目指して作りました!」
こんなイマドキ美辞麗句を並べ立てて、登場したトヨタのBEV(100%電動自動車の意味)。
今年中ごろから日本、北米、中国、欧州で販売される“bZ4X(ビージーフォーエックス)”だ。この車名、はやりの欧文と数字だけなので、いくら眺めていても頭に入ってこない。
そこで、昭和人間は、ついつい連想してしまう・・・・ビージーフォーといえば、正式にはスペシャルが付くが・・・・あのグッチ裕三やモト冬樹が参加した不思議と本格的名演奏で一世を風靡した80年代のものまねコミックバンド。脇道にそれました!
まじめな話、このトヨタ車、日本では定額制、つまりサブスクリプションでの販売(トヨタのKINTO)となるが、スバルでは通常通り「ソルテラ(SOLTERRA)」という車名で店頭販売(600万円前後)。
トヨタのサブスクKINTO(キント)はカローラクロスやRAV4,ノア/ヴォクシーなどで既に展開。車両代はむろんのこと自動車保険、税金、保守点検費などの費用を月額で支払うため、ユーザーは駐車代と充電費のみ負担。
10万円から手に入るランクルより高価なbZ4Xだからこそ、KINTOで初期費用の負担増を減少して、ユーザーの負担感を軽減する作戦らしい。もう一つの狙いは、EV独自の課題である電池の回収リサイクルがある。
7~8年前だったか・・・・「LAの修理工場には、劣化したプリウスの電池が山のように廃棄されている」という生々しい情報を現地に住む友人を通して耳にした。「すわっ! 日本でも同じ問題が!」と思いきや日本では走行キロ数が短いのとリサイクルのループが構築されているため、そうした問題が起きていない。
でも世界的にみると、じつはBEVには、劣化したバッテリーの廃棄問題が横たわっている。サブスクのKINTOを導入することで、確実に使用済みバッテリーがメーカーのもとに戻り、高価な素材が回収できる。この電池リサイクルを確実なものにすれば、BEVのコストダウンにつなげられ、中古車価格の暴落も防げる。ひいてはユーザーにもプラスになるという青写真。少し前に起きた日産リーフの悲惨な中古車暴落を横目で見ているだけに、トヨタの深謀遠慮がこの売り方に見える。
bZ4Xには、もうひとつ注目点がある。一部車種にステア・バイワイヤーを導入したことによる異形ステアリングの登場だ(写真)。ステア・バイワイヤーとはリンクなどによる従来から続いた機械式のハンドル構造ではなく、エレキ仕掛けでステア(ハンドルを切る)できる夢のハイテクメカニズム。四角いかたちのハンドルを約+-150度クイッと動かすだけでUターンでき、峠道を意のままに走行できる。丸いハンドルで、手を持ち替えクルクルと回す労働からドライバーを開放。これなら箱根の旧道を走っても疲れない。
オプションで付けられるルーフソーラーパネルにも注目だ。従来型プリウスにも同じような装備があったが、せいぜい夏場の車内の熱気を外に排出するためのファンを動かすほどでしかなかった。今回のルーフソーラーは、がぜん性能アップし、年間で走行キロ数1800kmに相当する発電量を稼ぎ出すという。頼もしいソーラーパネルだ。
とまぁ、このクルマ、総額700万円近い高級車だ。日本では、スバルあわせ年間約7000台売るという。
庶民には、とてもじゃないが手が届かない。次ぎ、もしくはその次に出るBEVが手に届く車両になるに違いない。でも、bZ4Xをつくづく眺めていると、地球のことをホームプラネットというだけに、ハイテクがてんこ盛り! そこへオールデイズの楽曲が流れる……これって“駆け抜けるプチ・モーターショー的クルマ”ではないかと思えてくる。
トヨダAA型のボディについては、喜一郎は特段のこだわりを持っていたようだ。
当時のボディは、「木骨ボディ構造」と呼ばれるもので、木材を主体にしたボディが当たり前だった。が、これをシトロエンやクライスラーがいち早く先取りした「オールスチールボディ構造」に変革しているが、これをいち早く取り入れた。
それだけでなく、10年はデザインが旧くならないとされた最新鋭のデソート・エアフローのクライスラーをコピーすることにした。これは流線型のモダンなエクステリアで、ドイツ系移民のエンジニアであるカール・ブリア(Carl Breer1883~1970年/写真)の手によるもので、風洞を使ったエアロダイナミックス・デザイン。
数年前LAにある自動車博物館を取材したとき、たまたまクライスラー社の基礎を作ったひとりカール・ブリアの特別展を開いていた。ドイツから新大陸アメリカにやってきたブレアの父親はLAで鍛冶屋を営み、馬の蹄鉄などをつくっていた。スタンフォード大学で学んだ息子カールの輝かしい業績をパネルなどで紹介されていた。しかもそのクルマのデザインの背景にはもうひとつ知られざる事実を見つけた。初飛行を成功させたライト兄弟による飛行機をデザインしたデザイナーを仲間に引き入れていたのだ。空力を特徴づけた斬新なデザインを作り上げたのは、こうした時代の背景があった。
そのデソート・エアフローのクライスラーは、デザインがあまりに斬新だったせいか、営業的にはあまり振るわなかった。でも、クルマの歴史のなかではエポックを作り上げたクルマとして、いまでも高い評価を得ている。ちなみに、デソートとは、15世紀のスぺイン人探検家・エルナルド・デ・ソト(1496~1543年)のことで、ミシシッピー川を白人として初めて発見した、とされる人物でもある。
トヨタ初の試作乗用車「A1型」と呼ばれたプロトタイプは、1934年に完成する。ボディのパネルはいまのように薄板鋼板を素材に金型にプレスで成形するという手法ではなく、すべて職人の手による手叩き製法だった。木の金づち、金床、定盤、それにゲージという実にシンプルな道具を使いながら成形していった。シャコ万と呼ばれるC型クランプで隣り合うパネルを仮り組み、しかるのちに溶接をおこなう、そんな手法である。
“失敗は成功のもと!” 失敗すれば、その原因を反省し、かえってその後の成功につながる。いまや、この素朴なことが信じられない時代になった、といえそう。資本主義社会が成熟し、モノがあふれているから、あるいは現代人はせっかちになり過ぎて回り道ができなくなったからかもしれない。
とはいえ、この300ページ足らずの文庫本は、一行もそんなことが書いてはいない。
分かりやすい文章と愛のあるイラストで、バイクの修理はこんなにやさしく、楽しくできるよ!! とすべてのページで謳い上げている! イトシンさん(伊東信/1940~2010年)の人柄がにじみ出た懇切丁寧、無駄な言葉を用いず、面白くてためになる実用書のお手本のようだ。
壊れたら修理して長くバイクを楽しむことこそが、環境にやさしくカーボンニュートラルにつながる行為。そういうふうにはイトシンさんは正義を大上段に振りかざさない。意識すらしていなかった。単にその方が楽しいから。よりバイクとユーザーとの距離が近くなる。
しつこいようだが、この本が出て20年過ぎて素直に読むと・・・・SDGsという言葉が飛び交う、いまの時代の欺瞞性に警鐘を鳴らしていると読めなくもない。
ここで広田の個人的体験を。バイクに本格的に付き合いだしたのは、中古で手に入れたホンダCB250からだ。このバイクを通していろいろなことを教わった。
フロントフォークのクッションオイルを交換するためネジ径M6ほどの小さな+ネジを緩めようとして、頭がもげたトラブル。完全にお手上げとなる。当時ホンダにはホンダSF(サービス・ファクトリー)という自前の整備工場を全国に持っており、そこに駆け込んだ。
そこの整備士は冷酷に、こう云った。「お客さん、これはフロントフォークを交換するしかないです。修理代は4~5万円はかかります」。10万円で手に入れたバイクの修理費が購入費の半分! そのときの気分は、まるで死刑を宣告されたような気になった。そこで、なんとか頭のもげたボルトを取り外すべく、いろいろと聞いて回った。そしてポンチとハンマーで根気よく緩む方向に力を加え、緩め、2日がかりで取り去ることができた。そのときの喜びは一生忘れない。
すり減ったリアタイヤの交換作業も、印象強く残っている。当時はチューブ入りタイヤ。タイヤレバーを使い古タイヤをリムから取り外し……新しいタイヤを装着する……。この作業は、ボルトを緩め取り外す、といった工程ではない、数々のスキルが要求される作業。なかのチューブをタイヤレバーで傷つけないとか、リムとタイヤの耳を均一に密着させるため、石鹸水を塗布するとか……。言葉だけでは通じない、言うにいわれない技が必要なのだ。これはどこか楽器の演奏に似ていて、ある程度訓練しないとうまくゆかない。つまり1回2回失敗しないとゴールまでたどり着けない、そんな世界。
じっさいには上手な人の作業をじっと観察し、その模倣をする。もちろんそれでも数回失敗するのだが、その失敗の上に成功が見えてくる、そんな世界。むかしは、そんな作業を見事にやってのける、頼もしいお兄さんが回りにいた。なんだか、そうしたお兄さんの手際いい作業を見ると、まるでマジックを見せられている気分だった。
イトシンさんは、じつは、筆者(広田)にとって頼もしい先輩のひとりだった。バイクや整備の楽しみや深みを教えてくれたのも、イトシンさん。むかしの工具をめぐる話をしてくれたのも彼だった。
『ヤングマシン』というバイク雑誌の編集部員のときは、企画でツーリングに出かけたものだ。なかでも2日間の岩手で展開されたイーハトーブ・トライアルではずいぶんお世話になった。モノにこだわらない、生き方も示してくれたように思える。彼ほど読者を大切にしたライター兼イラストレーターもいなかった。編集者時代に「ヤング・ジンマシン」(蕁麻疹をもじった自嘲気味なタイトル)というイトシンさんのファンクラブに、一度も参加できずに終わったことが残念。イトシンさんの話は、実は彼が書いた記事の3倍ぐらい面白かった。いま思うと、その面白い話を浴びるほど聞いていた。“イトシン語録”としてまとめればよかった、と悔やまれる。(2011年12月20日発行)
イトシンさんの本のレビューのところでも触れたが、30代の中頃、バイク雑誌の編集記者だった。そのころ、こんな面白いというか貴重な体験をしたことがある。
イーハトーブという宮沢賢治の言うところの理想郷を表す造語を、そのまま車名にした125ccのトライアルバイクがあった。これを新車で手に入れ、2~3か月後の岩手の、それこそ同名のイーハトーブ・トライアル2日間大会に取材を兼ねて出場した。ワンボックスにバイクを載せ、1日がかりで現地に到着、さっそくバイクを降ろし、試運転したところ、しばらく走って突然エンジンがストール。そんな馬鹿な! 東京のSF(整備工場)で整備したばかりで止まるなんて……。
その場にいたベテランライダーに見てもらったところ、とんでもないことが判明した。SFの整備士がACジェネレーターを点検したとき(点検項目にはなかったが、なぜか好奇心が働き覗いたらしい)、取り外したボルト数本を間違って入れたままカバーをしてしまった。だから、なかのボルトが躍って内部のコイルを断線させ、エンジンが二度とかからなくなったのだ。
きめられたパーツ・トレイに取り外したボルトは入れ、管理すべきところ。魔がさしたのか、ホンダの整備士はあり得ない致命的な失敗をしでかしたのだ。(推測だが、取り外したカバーをパーツ・トレイ代わりにして、外したボルト複数本をカバーに入れた。取り付け段階でなぜか1本を紛失。しばらく探したが見つからない。ふつうなら必死で探すところ、職場の工場には同じサイズのボルトが腐るほどある。安直に部品棚から同サイズのボルトを探し、解決。ところが、カバーに無くなったと思った元のボルトが紛れ込み、ボルトを中に入れて作業を終えてしまった・・・・)
こんなことなら点検など出さなければよかった。でもいまさら悔やんでも遅い。
このままでは、記者として走れないから取材ができない。いち選手ならそこで、「はい残念でした! また来年」となるのだが、主催者側がこの事態に気付いた。報道してくれる媒体がひとつなくなるのは、つらい。そこで、詳細は忘れたがとにかく手を尽くし、ありがたいことに当時の岩手ホンダが動いてくれた。展示車両からACジェネレーターをそっくりそのまま取り外し、おいらのバイクに移植して、翌日軽やかにスタートできた。
けれどコースさえ満足に走れない腕での成績はさんざんだった。土のうえで転びまくり、流れる川の中にもんどりうって倒れたり・・・・リザルトは、不名誉にも150人の選手中後ろから5番目ぐらい。2日間山を越え、川を渡り、極端な路面を300km以上走ったバイクもおいらもヘトヘトでくたびれ果てた。挙句に、ライバルのバイク雑誌に悪い見本として、無様な転倒写真を数限りなく掲載されたっけ!
このときほど、パーツ・トレイの大切さを身に染みて考えたことはない。
前振りが長くなったが、今回アストロプロダクツで手に入れた「プラスチック・マグネットボール・スモール」は、直径110㎜のお椀型のパーツ・トレイ。重量が190gで意外と軽い。価格も420円とこれまたバカ安。
底にマグネットが付いているので、ツールボックスの側面でもぺたりとくっ付く。お椀形状なので、垂直に取り付けても、なかのボルトやワッシャーはこぼれ落ちる心配はない。しかも、フック穴があるので、フックもしくは紐に通して、ぶら下げておくこともできる。
色が黒というのが少し気になったが、なかに入れるボルトやワッシャー、ナット類は銀色系が多いので、問題ないか。内壁を波状の形状にして小さなボルトやナットが転がりにくくもしている。しかも、よくよく見るとマグネットを仕込んだ丸い底の外周に1/4ほどガイドをつけて、パーツ・トレイ自体が、不用意に転がるのを防いでいる。こう観察すると、価格から推定する・・・・≪安かろう悪かろう≫でもない、むしろ出色の製品であることがわかった。